プリーズ・キス・ミー 愛機が仕舞ってある納屋で、内番着の豊前江が片恋相手を待っている。豊前はそわそわとしながら、外を通る足音が聞こえる度に外をちらりと見てしまう。
松井江には、どうやら意中の者が居るらしい。他の刀剣男士の談笑で小耳に挟んだ情報に、豊前の心が掻き乱されている。自分を慕う松井の眼差しや言葉が、自分以外の誰かに向けられるのは我慢ならない。豊前は、そう思ってしまう自分の狭量さにも嫌気が差していた。
今の気持ちのままでは、きっと松井の恋を応援できない。では、どうすれば心から松井のことを応援できるようになるだろうか。それをずっと考えていた豊前は、己の中でようやく答えを出した。
ふと、豊前の耳が、一人分の足音を聞き取った。聞こえた方を向いた瞬間、豊前の胸が一瞬だけ張り詰めて、そして高鳴りはじめる。
納屋へと近づいてくる足音。豊前の緊張が頂点に達したところで、
「豊前」
内番着の松井が納屋の入口に立って、笑顔を見せた。
「待たせてしまったね」
「ん、全然」
あまり人が通りかからないこの場所で、二人は落ち合う約束をしていた。豊前は納屋の奥へ入り、松井もそれに着いていく。
「……何か、大切な話か?」
「ん、大切っていうか、あんま他の奴に見られたり聞かれたりしたくねーことっていうか……」
意を決して、豊前は松井を正面から見据えた。豊前の朱の瞳が、松井の顔を映す。
「……まつ。今『きす』してもいいか?」
「えっ?」
目を丸くして豊前の顔を見る松井。
「……『きす』というのは、接吻のことでいいのか?」
「ん」
豊前は小さく頷いた。
「えっと、それは、ちなみに……どこに?」
「ここに」
豊前の指先が、桜色の薄い唇をそっと撫でた。くすぐったい感覚が、松井の白い頬に血を上らせる。少し照れるような躊躇うような仕草を見せたあと、松井は首を縦に振った。
「……うん……構わないよ、豊前になら」
松井の言葉を聞いて、豊前の胸に砂利を踏んだような良心の呵責が走った。自分の頼みなら松井は断らない可能性もあるという一縷の望みに近い打算が見事に通ってしまい、未だ知らぬ松井の想い人への申し訳無さが少しだけこみ上げてくる。それでも豊前は、何か自分だけが知っている松井の情報を持っておきたかった。そこで豊前が選んだものは、接吻を知らない松井の唇であった。豊前が松井の唇を奪ってしまえば、接吻を知らない唇は豊前しか知らないことになる。それは、積もりたての真っ白でふわふわした雪を己の足で最初に踏み荒らしたいという感情に似た独占欲であった。
誰にも見られないよう、納屋の奥に向かう二人。立て掛けてある掃除具の隣で、豊前は松井の両肩を抱く。豊前の吐息が顔にかかったのを感じて、松井は軽く目を閉じた。
柔和な下がり眉。切れ長の目を縁取る艷やかな睫毛。白磁の肌に、唇の桜色がよく映えている。涼やかで端麗な松井の顔に、豊前は少しの間見惚れてしまっていた。
そして、豊前が松井の体を引き寄せると、
「っ、」
二人の唇が、優しく重なった。
唇を通して、松井の体温が伝わってくる。温かく甘い感触の奥に、松井が飲んだであろう甘みを加えていない珈琲のほろ苦い香りが嗅ぎ取れた。豊前はもうすぐ別の誰かのものになってしまう唇を余さず記憶に残すために、位置を少しだけ変えて味わうように何度も口づけていく。
ふと、口許に鉄の味を感じて、豊前がすっと顔を離した。
「うおっ」
松井の鼻腔からは血が溢れて、唇まで垂れている。豊前はすぐにちり紙を取り出して、鼻のあたりを優しく拭う。この役割も、きっと松井の想い人のものになってしまうのだろう。そう考えると、胸の奥に微かな痛みが走る。その痛みを忘れるために、豊前はいつもより丁寧に松井の鼻の周辺を拭いていた。
「……そんなに出血していたか? すまない」
血を拭った跡が、少し赤くなっている。豊前は血のついたちり紙をくしゃりと丸めてポケットの中に突っ込んで、改めて松井の顔をじっと見た。
「まつ、あのさ」
「うん」
「……好きな奴、いるって……本当か?」
目を丸くして豊前を見つめ返す松井。その視線から一瞬だけ顔を背けそうになってしまったが、豊前は唇をきゅっと結んでそのまま松井の瞳を見つめる。
「えっ……それは……その……」
「『りいだあ』として、知っておきてーんだ。それに、まつが何かされたら……そいつ、ぶん殴ってやりてーし」
「いや……えっと……」
目を伏せる松井。頰を朱に染めて、もじもじとする様子が豊前の目に愛しく映る。
「……でも、言いたくなかったら……無理に言わなくてもいい。俺が知りたいだけだから、」
「……ぶ、ぜん」
「ん?」
頬どころか首筋まで赤くして、松井は何かを伝えようとしている。
「ぼ……僕の、好きな……相手は……」
「うん」
「豊前………君、なんだ」
「うん?」
ぱちくりと瞬く吊り目。一瞬の静けさが二人の間を横切る。松井は羞恥のあまり、手で顔を覆ってしまった。隠れきれない耳も、真っ赤に染まっている。
「えっ?」
自分を指差して、小首を傾げてみせる豊前。その仕草を見た松井がゆっくりと頷く。松井の言葉がにわかには信じられず、豊前は思わず問いかけを返してしまう。
「そ……それは、同じ江の仲間として好き……とかでは、なく?」
「うん……」
「『そういう意味』で?」
コクリと頷く松井。松井の長い睫毛が微かに震えている。松井が冗談でこのようなことを言う性格ではないことを、豊前は誰よりも知っていた。
朱に染まる豊前の頬。二人は、気温が少し上がったような錯覚を覚える。豊前は力が抜けて、近くに置いてある自分の愛機にもたれかかってしまう。豊前の中では両想いだとわかったことへの歓喜より、悩みが全部取り越し苦労と判明したことに対する脱力感が勝っていた。
(俺の一大決心、何だったんだ……)
少し前の自分が滑稽に思えて、豊前は羞恥のあまりそのまま地面にへたり込みになってしまう。そこへ、松井が心配そうに顔を覗き込んできた。
「豊前、鼻血か?」
「ん、平気だよ。……安心したら、なんか気ぃ抜けただけで」
「安心、って……?」
小首を傾げる松井。豊前は、美しい海の色をした瞳をじっと見つめ、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「俺はさ……まつのこと、誰にも渡したくなかったからさ……好きな奴が居るって聞いて、すげー焦って」
「あっ、だから……接吻を?」
「うん……せめて『きす』だけは俺が一番先にしたくて……」
言っているうちに己の所業が更に恥ずかしくなってきて、豊前は松井の顔から目を逸らしてしまう。
「……豊前」
松井の手が、豊前の輪郭をさらりと撫でる。その感触に驚いて、豊前があま松井の方に顔を向けた瞬間、
「ん、」
松井は豊前の顎を指で微かに持ち上げて、触れるだけの接吻をした。想いが通じ合った後の口づけは甘美な感触で、唇から伝わる互いの温もりで、二人の心は蕩けそうになってしまう。豊前も無意識のうちにうっとりと目を瞑っていた。
唇が離れた瞬間、二人はゆっくりと瞼を上げる。少しだけ顔を離した松井が、豊前に軽く囁いた。
「手……繋いでも、いいかな?」
「おう!」
豊前が握手するように松井の手を繋ぐと、ひんやりとした感触が掌全体に伝わってきた。しかし、松井は首を横に振って、その手を軽く解く。
「そうじゃなくて……こう」
今度は松井の方から、指と指とを絡ませながら手を繋いできた。細く綺麗な指の感触と、密着する掌の感触が艶かしく感じられて、豊前は顔を紅潮させる。その様がとても愛らしく映って、松井は穏やかに微笑んだ。