Sugar-rich DESIRE 自室で通信端末の画面を見つめながら、松井江は首を捻っていた。まさか、噂で聞いた催眠アプリなるものが実在していようとは。松井は少し調べてみたが、セキュリティ的に問題があるような情報は見当たらなかった。かなりの胡散臭さを感じつつも、興味のほうが先行してしまって、松井はそのアプリを端末にダウンロードしてしまっていた。
アプリをインストールしている間、松井は懸想している相手の顔を思い浮かべていた。松井の脳裏に浮かぶのは、燃えるような紅の瞳と、笑ったときに覗く白い歯。それらを想起しただけでも、胸の奥が甘く締めつけられる。
そうしてアプリを起動すると、端末の画面に操作方法の説明が表示された。操作は至って簡易なもので、起動してから画面に表示されているボタンに触れて、その画面を相手に見せると催眠にかけられるようだ。解除するにはアプリを終了させるか、端末の電源を再起動すれば良い、とも記されている。
(……いやいや、催眠術って、そんな簡単なものではないだろう)
脳裏に浮かんでいたやましい感情を振り払って、小さく溜め息をつく松井。松井は、そのまま端末を自分の横に置いた。
松井は気持ちを切り替えるために、部屋の文机に置いてある本に手を伸ばした。そして本を取ったところで、
「まつ!」
豊前江が、唐突に部屋に顔を出してきた。朱く、らんとしたその瞳は、空を燃やす朝陽を思わせる。懸想している相手の顔が突然視界に入ってきて、松井は思わず本を取り落としてしまう。
「おお、でーじょぶか?」
豊前はさっと部屋に入ってきて、流れるような所作で本を拾い、松井に手渡した。松井はその快活な表情に見惚れながら「あ、ありがとう」と小さく礼を言う。気にするなよ、と言いながら笑ってみせる豊前の口元には、整った歯列が覗いている。それを見た瞬間に、松井の瞳と心が火照るような熱を帯びた。
「あーそうだ、あのさ、」
豊前が、頬を少し赤らめている松井の顔を覗き込んできた。
「ど、どうしたの」
「端末借りてもいいか?」
「端末?」
「俺のどっかやっちゃったからさ、ちょっと鳴らしてーんだ」
困ったように下がる眉が、松井の目には愛しく映る。松井がコクリと首を縦に振ると、「あんがとな!」と再び快活な笑顔に戻った。
松井は自分の横にある端末を取って、豊前に手渡した。豊前は笑顔でそれを受け取ると、画面に指で触れようとする。
──あれ、あのアプリ、どうしたっけ……?
その瞬間、松井は先程まで起動していたアプリを、そのままで放置していたことを思い出す。その一瞬、周囲の時間の流れが遅くなって見えた。
「あ、豊前! ちょっと待っ、」
しかし、松井が止めようとするより先に、豊前の指先は端末の画面に触れていた。
「お? なんだこの画面……」
見慣れない画面をじっと眺める豊前。豊前はそのまま動かなくなって、ぺたんと床に座り込んでしまった。
「豊前……豊前っ!」
松井は豊前の傍に寄り、両肩を掴んで体を軽く揺さぶった。豊前の顔からは、先程までの快活な笑顔はすっかり消え去ってしまっている。硝子玉の如く虚ろな瞳は、ただぼんやりと眼の前の松井を映している。生気のない表情の豊前は、端正すぎる顔立ちも相まって、精巧な人形のようであった。
「ま、つ……?」
瞬きをして、松井の目を見つめ返す豊前。意識があることを確認して、松井はひとまず安堵した。松井の唇からは、小さく溜め息が漏れる。
(しかし、これは……豊前はいま、催眠状態になっている……ということか?)
先程振り払ったやましい考えが、再び胸の奥に忍び寄ってくる。松井はさっと部屋の戸を施錠しに行って、豊前の前に改めて座った。
「……豊前」
がらんどうな瞳をじっと見つめる松井。胸の鼓動が、激しくなっていく。震える唇を一旦きゅっと噛みしめてから、松井は言葉を発した。
「君の欲望を、僕に余さずぶつけてくれ」
「欲、望……?」
この空間に二人しかいないという事実が、松井を少し大胆にした。松井は豊前に顔を近づけて、豊前の鼻に己の鼻先を掠めるように触れさせる。そして、蒼い瞳を蠱惑的に震わせて、吐息混じりの声でそっと囁いた。
「君のやりたいことを、僕に全部やっていいんだよ」
少しの間、松井の顔を見つめる豊前。やがて、何かに突き動かされるように、豊前は松井の体をがばっと抱き寄せた。豊前の香りと高い体温に体を包まれて、松井の胸が甘やかな予感にときめいた。
***
「いねぇな、豊前」
「……れっすん、とやらではないのか」
「や、さっき桑名が畑にいたし、違うんじゃねえか?」
三池の二振が、並んで廊下を歩いている。ソハヤノツルキの手には、馬小屋に出る勝手口に落ちていた豊前の端末があった。二人は先刻この端末を拾って、落とし主である豊前を探している。
「とりあえず、江の奴らの部屋、片っ端から行ってみるかぁ」
ん、と大典太光世が頷く。
「えーっと、桑名は畑にいたから除外するとして……こっから近いのは松井の部屋だな」
そして、二人がその近くに差し掛かったところで、松井の部屋の戸が開いているのが確認できた。
「……何か、いるな」
そこから何かが這いずりながら出てくるのを見て、二人は思わず息を呑む。その何かが、ソハヤと大典太の方を向いた。
「た……助けてくれっ……」
声の主は、松井江であった。ソハヤと大典太は互いを見て頷き、床を這いずっている松井のもとへ駆け出していく。
「おい! 大丈夫か!」
血で汚れている松井の顔。内番服にも少しだけ血が付着してるのを見て、ソハヤと大典太は再度息を呑んだ。誰の仕業でこうなってしまったのだろう、主を呼ぶべきだろうか、などと考えているうちに、部屋の奥から誰かがやってくる足音が聞こえてきた。
「おっ、典さんにハヤさん。どした?」
それはまさに、三池の二振が探していた相手、豊前江であった。ソハヤは豊前と床に転がる松井を見比べて、この状況の異様さに当惑している。
「……豊前。松井は大丈夫なのか?」
「そうそう。まつ、腰抜かしちまって。可哀想に」
豊前は軽く笑いながら、松井の体を横抱きにして持ち上げる。豊前はそのまま松井の白い頬に口づけてから、優しく頬ずりをした。
「おお、鼻血も出てんなぁ」
そう言って、豊前は松井の鼻の下に顔を近づける。そのまま舌を這わせると、松井の顔に残る鼻血の痕を舐め取った。
ソハヤはちらりと大典太の方を見るが、大典太も何が起こっているのかわかっていないようだった。
「えーっと……取り込み中なら、俺たちはこれで失礼するわ」
そう言って去ろうとするソハヤに向けて、松井が首を横に振ってみせる。松井が助けを求めているというのはわかるが、なぜ松井が助けを求めているのかがわからない。松井を抱えたまま部屋に戻ろうとする豊前の背中に、ソハヤが声をかけた。
「豊前。その……俺たちも、お邪魔していいか?」
「ん、いいけど」
いいのか……、と口の中で呟く大典太。豊前に続いて、二人も松井の部屋へと入っていく。
部屋の中では、豊前が松井を膝の上に座らせて、ひたすらに頭や髪を撫でていた。時折甘い言葉を松井の耳元で囁く度に、松井が顔を覆って、びくびくと体を震わせる。
「よしよし、まつ……可愛いな、まつは本っ当に可愛い」
「あ、あぅ……」
「ずっとずーっとこうやって、いつまでも可愛がってやりてえよ。まつのこと」
「は、鼻血が……出る…………」
「いいよ。俺が全部綺麗にしてやるから」
そう囁かれた松井の鼻から、一筋の血が流れていく。その様子を、何とも言えない顔で眺めているソハヤと大典太。端末を返そうにも、これほどまでに仲睦まじい様子を前にすると、口を挟めそうにない。
この状況を破ろうと動いたのは、豊前に蕩かされている最中の松井であった。
「あっ……あの、全部……説明、するから……」
三池の二振は顔を上げて、松井の方を見た。
「その……豊前が、こうやって、僕を甘やかすのは……催眠に、かかっているせい……なんだ」
「催眠?」
「ちょ、ちょっと興味本位で……催眠アプリというものを……使って、しまって」
松井の説明に、首を傾げるソハヤと大典太。
(……豊前が松井を甘やかすのは、催眠してもしなくても同じではないか?)
(うんまあ、俺も思ったけど。それはひとまず置いとこうぜ、兄弟)
ひそひそ話を早々に切り上げて、二人は松井の話に耳を傾けた。
「とっ、とりあえず……僕の端末を、再起動……してみて、ほしい」
松井が話している間も、松井を甘やかす豊前の手は止まらない。さらさらした松井の髪を梳くように撫でながら、豊前は松井のこめかみに唇を落とした。
「ハヤさん達だけじゃなくて、俺の方も見てくれよ。まつ」
「ふああ、」
「まつの、綺麗な顔……一生見てたいよ、俺は」
豊前に甘やかされすぎたせいで、松井の体からは、すっかり力が抜けてしまっていた。
豊前が松井に睦言を囁いている間に、大典太が部屋の隅に落ちている松井の端末を見つけた。すぐにソハヤがその画面を覗き込む。二人は松井の端末を操作しようとしたが、
「あれ、これ……」
ソハヤが再度、松井に呼びかける。
「……松井、これ端末の電池切れてねぇか? 電源入らねえけど」
「えっ、だって、豊前が…………」
豊前からの甘やかしは依然止まる気配がない。本当に端末の電池が切れているのなら、豊前が我に返って行為を止めるはず。そう考えていた松井は、ソハヤの言葉を信じようとしなかった。
「……そのことだが、」
ソハヤの後ろから、静かに言葉を紡ぐ大典太。
「豊前はもう我に返っていて、我に返ったうえで、松井を甘やかしているのではないか?」
「えっ、それは、どういう……?」
目を丸くして、大典太の方を見る松井。
「つまり……豊前は今、催眠にかかったフリをしている……ということだ」
「な、なんで……? なんで、豊前が、そんなことを……?」
混乱する松井の顔を、大典太がじっと見つめた。
「さあ……そればっかりは、本人に聞くのが一番だろう」
大典太が豊前の方をちらりと見やる。ソハヤも豊前の顔を覗き込んで、大典太が言ったことが真実かどうか問いただしていく。
「なあ、どうなんだ豊前。兄弟はああ言ってるが」
ソハヤに問われて、豊前の手がぴたりと止まる。その顔は見る見るうちに赤くなっていき、やがて首や耳すら朱に染まっていく。そのまま体をぷるぷる震わせながら、豊前は顔を伏せてしまう。
「……うん、典さんの……言う通りちゃ……」
「えらいあっさり白状したな、おい」
消え入りそうな豊前の声。松井は今にも燃え上がりそうなほどに赤くなっている豊前の顔を見て、目をぱちくりさせている。
豊前が言うには、松井に端末を借りたところで記憶が飛んでしまっていて、気がついたらソハヤと大典太の前で松井のことを撫でくりまわしていたようだ。松井の髪を撫でている最中に「豊前は催眠状態である」という旨のことを松井が言っていたため、それなら解除されるまで催眠にかかったのを装って、松井のことをとろとろに甘やかしてやろう、とこっそり考えたのだった。
企みを全て打ち明けたところで、豊前は松井をそっと膝から下ろす。しかし松井は、なぜ豊前が催眠にかかったように振る舞っていたのかが理解できていないようで、まだ目をぱちくりさせて豊前の顔を見つめていた。
「豊前……どうして、催眠にかかったフリなんかしたんだ?」
松井に問われて、もごもごと口ごもる豊前。その様子を見て、ソハヤはつい小さく笑ってしまう。
「松井、案外鈍いのな」
「え……ソハヤノツルキには、わかるのか?」
「……俺にも、何となくはわかるぞ」
松井が驚いた顔で大典太の方を見た。
「な、なんで、僕にはわからないんだろう」
本気で困惑している松井を見て、ソハヤがスッと立ち上がる。
「そういうのは、本人の口から説明すんのが一番わかりやすいだろ。な、豊前!」
「は、ハヤさん……」
豊前の肩を力強く叩くソハヤ。それによって退路を絶たれて、豊前は否が応でも松井に自分の気持ちを打ち明けなければならなくなった。
小首を傾げてこちらを見つめる松井を直視できず、豊前はしばらく何も言えずにいた。松井は蒼い瞳をきらめかせて、豊前の言葉を待っている。その様子を何度かちらちら見てから、豊前はようやく口を開いた。
「……まつ、あの……俺が、その、催眠にかかったフリしてたのはさ、」
「うん」
「まつのこと、甘やかしてさ……たくさん、触れたかった、から……なんだ」
目を丸くする松井。
「どうして、そんなに僕に触れたいって思ったんだ?」
「あ…………その、それは…………」
羞恥のあまり、豊前が口ごもってしまう。先程まで流れるように睦言を紡いでいた豊前の口は、もごもごと動くばかりであった。
「それは、その……あれ、あれだよ……」
「あれ、とは?」
「…………すき、だから…………まつの……ことが…………」
ふんふん、と聞いている松井。そこから二秒ほど置いてから、松井は豊前に告白されたことに気がついた。
「えっ、いま、『好き』って……」
顔全体を赤くしたまま、コクンと頷く豊前。その仕草を見た瞬間、松井の白い頬や耳が、赤く染まっていく。
すっかり首まで朱に染めた二人を見て、ソハヤと大典太がその場でスッと立ち上がる。立ち上がる前に、ソハヤは豊前の端末をそっと畳の上に置いていた。
「そんじゃ、あとはご両人でゆっくりやってくれ」
端末はここに置いておくから、と言って三池の二振りが松井の部屋を後にする。残された二人は、ひたすらに顔を赤くしながら互いに俯いていた。熱を帯びた沈黙が、部屋の中にしばらく居座る。
その沈黙を破ったのは、豊前だった。
「……あのさ、まつ」
松井は何も言わず、ちらりと豊前の顔を見た。
「まつは、その……なんで、俺に催眠術かけようと思ったんだ?」
少し時間が経ってから、松井がその問いに答える。
「あの……なんというか、『既成事実』を、作ってしまおうと……思って……」
「……な、なんで……?」
自分がされたのと同じように、豊前も松井に掘り下げて問うていく。
「……僕もその、豊前のことが……あの、好き、で……」
「そ、そっか……」
「だから、その……外堀から、埋めようかなって……」
松井はもじもじとしているが、言っている内容はかなり大胆であった。その落差に、うっかり豊前は胸をときめかせてしまう。
互いの想いに触れあって、二人の胸には、莫大な照れが押し寄せていた。そのせいで部屋の温度と湿度が上がったような気がして、豊前と松井の頬を、玉のような汗が伝っていく。