転生要素あり現パロ忘羨(未完) ──またか。
藍忘機は目の前の光景に途方に暮れたような溜息を吐いた。またこの夢か、と。
十五を迎えたあたりからだっただろうか。頻繁に同じ夢を見るようになったのは。
はじめは音のない世界だった。月も星もない、暗いばかりの夜空のような天井が広がる空間、そこにひとりの男の背が見える。長身だが、痩身の輪郭。黒と赤の道服のような衣を纏い、腰まで届きそうな黒髪を頭の高い位置でひとつに束ね、漆黒の横笛を口許に構えている。しかし、その笛の音は藍忘機の元までは届かない。
藍忘機はいつも彼の背中を見つめていることしかできなかった。足は根でも生えたかのように地面と一体化し、腕は重りでも吊るしたかのようにぴくりとも動かない。声さえあげることもできず、ただ瞬きを繰り返し、網膜に焼き付けるかのごとく黒い背中をひたすらじっと見つめる。藍忘機に許された動きはそれだけだった。
いったいあの男は何者なんだ。なぜ、己は繰り返し同じ夢を見る?
夢から覚めて幾度も考えたが、答えはいまだ見出せてはいない。
そんな夢にある時、変化が起きた。
無音ばかりが蔓延る世界に、細く、今にも千切れそうな音が藍忘機の鼓膜を揺さぶったのだ。
藍忘機は耳を澄ませ音に集中した。
それは笛の音だった。
はじめは遠くから届くようなか細いものだったそれは、日に日に音の輪郭が克明となり、今では一音一音はっきりとその旋律を耳にすることができる。目の前の、黒背の彼が奏でる笛の音を。
美しく伸びやかであり、しかしどこか胸を締め付ける寂しげな音色。
隣に琴の音が足りないからだ。
藍忘機は唐突にそう感じた。それはひらめきにも近い確信だった。
毎晩のように夢の中で彼の笛に耳を傾けた。姿は相変わらず背中しか見えない。時折ふわりと揺れる黒髪。隙間から覗く赤い髪紐。彼がどんな表情でこの調べを掻き鳴らしているのか藍忘機には分からなかった。
分からないはずなのに、何故か彼の頬が涙で濡れているような気がして、途端に胃の腑が底冷えするような不安に襲われた。
嗚呼、顔も名前も知らないあなたよ、どうか泣かないで。
しかし声が出せない藍忘機にはそう言って慰めることもできない。
せめてこの腕であの痩身を抱き締めることができれば。
いつの頃からか思いはじめた願い。その願いが、今まで彫刻のようにびくりとも動かなかった藍忘機の足を初めて動かした。鉛のように重かった腕も今は自在に動かせる。
己の足が動く。彼にこの手が届く。
藍忘機は己の手足の自由を確かめると、思い切って一歩踏み出してみた。足の裏にはしっかりと硬い大地の感触。一歩、また一歩。
刹那、足先にこつりと何かがぶつかった。
なんだ? と藍忘機は足許を見下ろし、次の瞬間息を呑んだ。
骨だ。
藍忘機は反射的にたじろいだ。
いつの間にやら骨が辺り一面を埋め尽くしていた。腕、脚、胴、そして人間の頭蓋までもが伽藍堂の眼孔を闇の虚空に向けながら転がっている。乳白の残骸が足の踏み場もないほど横たわり、藍忘機と彼までの道を阻む。
早く、早く彼の傍に寄り添いたいのに。
この世の不気味を寄せ集めて煮詰めた光景に尻込みしていた藍忘機は、意を決して屍の群れを掻き分けはじめた。どいてくれ、と行く手を遮る骨を手で横に押しやる。カラカラと軽い音をたてて崩れていく骨に素肌がゾッと粟立つ。まるで白骨の海を渡っているようだ。
いくつもの骨を脇に退け、足の踏み場を確保する。
目指す彼は骨海の中心にいた。いくつもの骸が笛の音に誘われて引き寄せられ、縋るように彼の黒い衣の裾を掴んでいる。
やめろ。彼を連れて行くな。
藍忘機は声が出せない代わりに心の中で叫んだ。
ここにいてはいけない。
彼を捕まえて、隠して、閉じ込めなければ。
今度こそ離れることのないように。
自然とそんな思考が脳内を占める。
藍忘機は必死に腕を伸ばし、いつまでも寂しげな音色を掻き鳴らす笛を構える腕を後ろから掴んだ。
目覚めはいつも唐突だ。
藍忘機は見慣れた寝室の白い天井を目に映した。まだぼんやりと薄暗い。明け方前だろうか。起きるには早いが、もう一眠りという気分にもなれない。特に例の夢を見た後では。
横になりながら目の前に左手をかざす。夢の話なのに不思議と彼の腕を掴んだ感触がまだそこに生々しく残っている。男の腕にしては華奢で、だからと言って折れるほど弱々しくもない。ほのかに温かい肌は藍忘機の手によく馴染んだ。
あれはいったい誰なのだろう。
夢だと分かっているのに、どうして己はあんなに必死になって彼を求めるのだろう。
気安く他人には触れない己が自ら腕を伸ばしたことにも驚いたが、それ以上に彼を抱き締めたいと思うなんて。
彼は己にとっていったいどんな存在なのだろう。
考えれば考えるほど、藍忘機は逃げ場のない袋小路に追い込まれたような気分を味わった。
いつまでもこうしていても仕方ない。目はすっかり冴えてしまっている。少し早いが今朝はもう起きてしまおう。
藍忘機は小さな溜息と共にベッドから抜け出て、洗顔からはじまり一通りの身なりを整える。冬の名残りを思わす春先の空気はひやりと冷たく、緩やかに体の熱を奪われていくようだった。
今日は土曜日で仕事は休みだったが、午後から兄に付き添って外出の予定があった。それに合わせて濃紺のスリーピーススーツに着替える。ネクタイは兄からもらった藍色のものを合わせる。休日だが結局いつもと変わらない格好になった。藍忘機にとって着慣れたスーツ姿の方が落ち着くので不満はない。
まっすぐに伸びた黒髪に櫛をいれ、耳の上あたりから掬った髪を後頭部で団子に結ったところで、壁にかけてある時計に視線を流した。朝食の時間まではまだまだ余裕がある。しばし何事か考えた藍忘機の足は東の離れへと向いた。
藍家は国内でも屈指の財閥のひとつ。金融業からはじまりホテル経営、医薬品、学問、貿易など広い分野に進出、融資を行なっている。藍忘機の兄、藍曦臣が会長に就任してからは特に福祉分野への貢献に力を注いでいて、社会的弱者への支援に多くの手を差し伸べてきた。そのことはテレビのニュースでも報道されるほどで、藍兄弟の人柄と立派な功績から、兄の藍曦臣は「沢蕪君」、弟の藍忘機は「含光君」などと呼ばれ世間から大いに敬われていた。
藍家の屋敷は広い敷地に母屋と二つの離れがある。基本的に生活の中心は母屋となっていて、二つある離れのうち、南の離れは客間として使われていた。
東の離れは今は亡き二人の母親が使っていた部屋で、調度品などは当時のものを今もそのまま部屋に飾っている。
藍忘機は部屋の隅に立て掛けていた琴を引っ張り出してきた。
これに触れるのも随分久しぶりだ。家人がたびたび手入れをしてくれているので見たところ傷みはない。
ぴんと張った絃を軽く爪弾き、柱を動かして音程を調節する。琴の扱いはすべて母親から習ったものだ。母親が生きていた頃は屋敷によく琴の音が響いていたが、彼女が儚くなってしまってからはその死を悼むように静けさが屋敷を包んだ。そうしているうちに琴の音がない日々が当たり前となり、いつのまにか藍忘機もこの部屋の敷居を跨ぐ日が減っていった。
藍忘機は呼吸を整えると、絃と絃を渡り歩くように指を躍らせていく。譜面はない。頭に浮かぶ旋律をただそのまま音にする。頭の中では彼の笛が鳴っている。その音色に寄り添うように無心で音を貪る。二つの異なる紐が糸車に絡め取られて一本に編み上げられていくように、二人が奏でる音がひとつに溶けていく。
「久しぶりだね。忘機が母上の琴を弾くのも」
音もなく開いた唐紙から兄の藍曦臣が姿を見せた。灰色のスリーピーススーツに、淡い青のネクタイを合わせている。
「おはよう、忘機」
藍忘機は奏でていた指を休め、右斜め向かいに腰を据えた兄に向けて軽く頭を下げた。
「おはようございます、兄上。すみません。起こしてしまいましたか」
「そんなことはないよ。私の方こそ演奏の邪魔をしてしまったかな。すまなかったね」
「いえ、決してそんなことは……」
「さっきのは何という曲だい?」
藍忘機は何と答えたものかと口を閉ざした。あの曲には名前があるのだろうか。知らない。分からない。
「もしや、きみが頻繁に見ると言っていた例の夢と関係があるのかな」
この兄は昔から藍忘機の少ない表情から答えを導き出すのが得意だった。藍忘機は、はいと頷いたきり口を噤んでしまう。夢のことは鮮明に覚えているのに、いざそれを言葉にして説明しようとすると途端にうまく話すことができない。まるで水の中で泳げずにもがいているみたいに苦しくて、助けを求めようにも口から吐き出されるのは意味をなさない泡ばかり。
弟が思考のど壺にはまりだしたのを見かねた藍曦臣がすかさず助け舟を出す。
「そろそろ朝食の支度もできた頃だろう。行こうか、忘機」
「はい」
水の中から救い上げてもらえた安心感半分、何も答えられない己の不甲斐なさに落胆半分。そんな気分で藍忘機は目の前の白い絃の表面を名残惜しそうに指先でそっとなぞった。
「もう何年になるのかな」
家人が淹れてくれた食後のコーヒーに口をつけながら藍曦臣は言った。
「忘機が例の夢を見るようになってから」
「十五年です」
「もうそんなになるのか」
藍曦臣は驚きに目を丸くさせた。
弟の藍忘機から夢の相談をされたのが十年前。それまで藍忘機は五年もの間ひとりで夢と対峙し、考えあぐね、そしてついにどうにもならなくなり胸の内に抱えた悩みの種を兄に打ち明けたのだ。
同じ夢を頻繁に見る。真面目くさった顔をして話す弟を、はじめは面白いと思って見ていた。しかし次第に何かを懺悔するように語る弟の口調に、藍曦臣もいよいよ慌てて本腰を入れ相談にのったのがはじまりだ。
「夢はあれから何か変化があった?」
藍忘機は頷き、目の前のコーヒーカップに視線を落とした。黒い水面に映る唇を一文字に引き結んだ己と目が合う。顔立ちは兄と似ていると周囲の者からも良く言われるが、己には兄のように周囲を和ます雰囲気はない。表情もそれほど豊かではないという自覚はある。それなのに情報の少ないこの顔から兄はいつも正確に己の考えを読み取ってくれる。だから藍忘機が素直に己の内面を打ち明けられるのは今のところこの兄だけだ。
「初めて彼に触れました」
机の下で彼の腕を掴んだ左手を庇うように右手で覆う。手のひらに意識を向ければそこにはまだ彼の温もりの残滓が感じられるような気がした。
「忘機から彼に触れたのかい?」
「はい」
弟が自ら他人に触れるとは。
藍曦臣は表情にこそ出しはしなかったが、内心では天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。