ただいま同棲中です 案外と、揉めないものだなあ。
台所で夕食に使った食器を洗う真波をみながら宮原は思った。
紆余曲折の末、結婚を前提にお付き合いしましょうということになって数年、お互いに仕事にも慣れて一人暮らしのペースがつかめたタイミングで一緒に住みましょう。ということになったのが三ヶ月前のこと。
なんだかんだ物心ついたときには幼なじみで、相手のいいところも悪いところもお互いによくわかっているものだから、宮原は家の中のことはすべて自分がするんだろうなあと漠然と思っていたのだ。
それで構わないと、少しでも真波が真波らしく自転車に乗っていられるようサポートできればいい。そんなつもりで一緒に住むことを了承したのに。
ストレスが、まるでなかった。
レースや合宿やなにかで家にいないときはともかく、家に帰ってきたら存外マメに家事をしたがる。手伝うじゃなく、オレがやるよと率先して宮原がやるつもりの作業のいくつかを請け負ってくれるのだ。
「どうしたの、すずちゃん? オレの顔になんかついてるー?」
機嫌良さそうな笑顔が宮原を見遣る。
すずちゃん。
委員長でなくなってもしばらくその呼び名を変えなかった真波は、お付き合いをはじめた途端宮原のことをそう呼ぶようになっていた。
それはふたりが、というよりも宮原が、男女の差異や幼い同輩のからかいによる羞恥に負けて、名前で呼ばないでと彼に告げるまでの呼び方だった。
宮原自身すっかり委員長と呼ばれることになれてしまったので、その呼び方が復活すると思ってもいなかったけれど。
「それとも、夜のお誘い? やー。照れちゃうなあ」
「っ、な、なに言ってんのよ! そうじゃなくって、結構マメに家事やってくれるなって思ってたの!」
「えー、別に普通だと思うけど。ここ、オレたち二人の家なのにやらない理由なくない?」
洗いきった食器を水切りかごに置ききった真波は、手を拭いて宮原の座るソファのとなりに腰掛けた。
「すずちゃんだってご飯作ってくれるし、部屋の掃除ほとんどやってくれるし」
「だってそれは、私の方が先に帰ってきてるし、家にいる時間も長いし」
「まあ、オレがやりたいだけっていうのもあるけど。……そんなに意外?」
わざと身をかがめて顔を覗き込んできているあたり、この男は本当にあざとい。同時に、なにかよからぬものを感じるのは気のせいだろうか。
ソファの背もたれに真波の腕が伸びてきて大きなてのひらが宮原の肩をそっと包んで引き寄せる。
鼻先に吐息がかかったと気づいたときにはもう、宮原の口唇は真波のそれに塞がれていた。
「…………いま、そういう雰囲気だったかしら?」
「オレが率先して家事してるの、どうしてだと思う?」
問いに問いで返すんじゃないの。
常なら出る言葉が出せなかったのは多分、真波の瞳が甘くとろけて夜を思わせたから。
二人の家だからと言ったのは嘘だったのかと睨んでみせれば、目を細めて微笑む真波が理由が一個だけとは限らないじゃない? と、うそぶく。
「って、ちょ、さんがくっ」
「ご飯食べたしお風呂も入ったし片付けも終わったら時間あくじゃない。その時間でいちゃいちゃしたり出来るなあって。ね?」
「っ、いちゃいちゃって……」
いつの間にか宮原の視界は笑顔の真波と天井がほぼほぼ埋め尽くされていて、背中にはソファの座面の感触。
「って、ちょ、なにを」
「んー、オレ明日から家空けるし、いまのうちにすずちゃんと仲良くしておこうと思って。昔さ、高校生の頃か。たくさんオレの話聞いてくれてたじゃない? オレ、すずちゃんと話をするのすげー好きっぽくて、他愛のない話とかするだけで考えが整理出来るみたいなんだよね」
真波の前髪が額をくすぐる。
なにか返事をと思うのに、ついばむようなキスが降ってくるばかりで言葉が一切紡げない。
「っ、もう!」
「あいて」
思わず両手を真波の顔に張り手のようにぶつければ、どうにかキスの雨はやむ。
「そんなされたら、話なんて出来ないじゃない」
宮原としては、至極まっとうなことを言ったつもりだったのに、真波は笑みを深くすると宮原の手首を捕まえて指先をぱくりと口に含んだ。
「こういうのも、一種の会話だって思わない?」
ねえ、だめ?
そうねだる真波に対して宮原は圧倒的に無力だ。
明日から真波が不在になるさみしさを、宮原自身感じていないわけでもないのだ。
素直に言葉にするには憚られるし、引き留めたいわけでもないから決して口には出さないつもりだけれど。
「すずちゃんは委員長だった頃から……その前もかな、結構色んなコトやせ我慢して教えてくれないけど、こうやって触れてると色んなことがわかるような気がするし、好きな女の子がオレに全部委ねて受け入れてくれてるって思うと、やばいよね」
「…………台無しよ」
とろっとろにとろけた顔でなにを言うんだと睨んでも、真波はどこ吹く風だ。
「えー。そう?」
「でも、まあ、いつも自転車ばっかのさんがくが、私だけに集中してくれるのは、その、悪い気分じゃないわ」
普段なら絶対言わないけど、さすがに気恥ずかしくて目線を逸らして言えば、返ってくるのは無言ばかり。
「……さんがく?」
不思議に思って目線を戻せば、真顔の彼が宮原を凝視していて思わず身体をこわばらせた。
あ、これは、よくない。かも?
「うん、大正解!」
まるでこちらの思考を読んだように声を上げた真波は素早く身を翻すとソファから降りると、まるでぬいぐるみでも抱えるような重さもなにも感じさせないそぶりで宮原を持ち上げた。
「大事なレースの終盤の大歓声の中だって、いつだって、声を聞き分けられるくらいには夢中なつもりだけど、今日はどこが可愛くてどこがたまらなくてってところ全部、声に出しながらするね」
「えっ、ちょ」
「ちょっといちゃいちゃ出来ればいいやと思ってたけど、そんな風に言われたらオレ頑張っちゃいたくなるなあ」
「いい! いい! 普通で!」
咄嗟にそう返すものの真波はさっさか歩いてベッドルームへ向かっていく。
「えー、普通ってー?」
決してやめて欲しいわけではない宮原には気づいてるんだろう、どこか楽しげな問いかけに顔を隠してしまいたくなりながら、
「あ、明日に、響かないていどに、なんか、えっと」
「それは大丈夫、オレ、こういうことした次の日めっちゃ調子いいから」
繰り返すと決してやめて欲しいわけではないし、もちろん真波もそれをわかっている。ただ、何度繰り返しても恥ずかしいだけ。照れてテンパる宮原に胸をくすぐられる真波の内心なんてもちろんしらない彼女は、恋人の想像よりも更にいい反応をしていることに気がついていない。
「あー、本当、すずちゃんはいつもかわいいね」
抱き上げたままの宮原に額に口づけをひとつ落とした真波の満足げな笑顔に、ひたすら真っ赤になった宮原は、顔を見られないよう真波の肩口に押しつけた。
「そういうさんがくは、なんか、とても甘くなったわ」
幼少期や学生時代を経た現恋人は、どういうわけだか宮原に対する愛情表現を惜しまない。
不安になる要素皆無なそれは嬉しいけれど、無理をさせているのではと思ってしまうこともある。
「えー、心外だよ。だってオレ、ずっと昔から好きなものには一途だったじゃない」
過去の自分には自転車だけだった。そこにいま、宮原が加えられただけ。
あっけらかんと答えた言葉が妙に腑に落ちてしまった宮原はうっかり身体から力を抜いてしまった。
「ね? だからさ、いいよね?」
ぽすりと優しくベッドの上に落とされて尋ねられれば、もう宮原は頷くことしか出来なかった。
そうして、糖度が割りました夜は更けていくのだ。
おしまい