夏の日 仙台平野の稜線が白くかすむ夏の日である。
影山家の菩提寺は、なだらかな丘陵のひとつに建っていた。盆の入りで、空気は線香の香りを含んでいる。
「美羽と飛雄が楽しくバレーボールを続けられますように。二人が思うまま人生を歩めますように」
幼い影山は、祖父の声を聞き漏らすまいと爪先立ちになって祖父の手に掴まっていた。繋いだ手をゆらゆらと揺らされて影山は祖父の顔をまぶしそうに見た。
「さぁ、次は飛雄の番だ。ご先祖様にお願いをするんだよ、できる?」
「うん! できる!」
影山は祖父がしていたように目を閉じると、両手を勢いよくぱんとあわせた。絶対に願いを叶えて欲しくて「ごせんぞさま」によく聞こえるようにと、体をくの字にして腹の底から大声を出した。
「バレーボールがたくさんできますように! 今日のお昼はカレーがいい!」
幼い影山の声は、ヒヨドリのように甲高くあたりに跳ね返った。
「ご先祖さまは、きっと願いを叶えてくれるよ」
祖父は、墓参りにくるたび、幼い影山にそう諭した。影山も、黒々と光る御影石からは底知れぬパワーが溢れているような気がした。ずっとバレーができると信じたし、願えば、カレーが食べられると心から思っていた。
はてさて、実際にその日の昼は温玉のせカレーだった。
以来、影山のご先祖様は、影山の願いを裏切ったことがない。
それから数年が経って願いを叶えてくれる大きくて黒い石、と思っていたものは『影山家』の墓石であり、年に数度の墓参りで願う事が「バレーとカレー」であるのはよろしくない、と分別がつくのは、影山が高校一年生になったからだ。
八月十三日の今日、花を供える母の横で、影山は神妙な面もちで線香をあげ、墓誌に刻まれた祖父の名に触れた。在りし日に握ってくれた手と同じように、祖父の名は温い感触がした。夏の日差しがそうさせたのだろう。
「春高宮城県代表決定戦一次予選、勝ちました。十月の代表決定戦も、どうか勝たせてください」
あとの願いは、両親の前だったから言葉にできなかった。
(あの人に………及川さんに勝てますように。)
影山の脳裏に及川の整った顔が浮かぶ。及川はべーっと舌を出して、すごいサーブを打った。
―――ライバル。祖父との会話が脳裏に浮かぶ。
(ライバルに勝ちたい。負けたくない。)
(及川さんを越えられますように。)
(…………及川さんとずっと、バレーがしたい。)
御影石は、朝の陽光に気持ちよさそうに光っている。
「一与さん、おねがいします」
影山の父が促した。
「じゃあそろそろ行こうか。父さんまたくるよ」
「一与さん、美羽が来られなくてごめんなさいね。とても忙しいんですって。年末には帰ってくるのかしら」
盆休みに家族で墓参りをするのは、祖父が亡くなってから影山家の数少ない恒例行事になった。今日は影山の午前練習に間に合うように、朝早く家を出発したのだった。
「飛雄は乗っていかないのよね?」
母が残念そうに口を開いた。ふたりは車で戻るが、影山は学校まで走っていく。
「ごめん、走ってくからここで」
寺の脇にある駐車場で両親と別れると、影山は歩きながらゆっくりとストレッチの動作を繰り返した。
寺は滑らかな傾斜のついた坂道のうえにあって、高低差がやや厳しいが階段がなく、烏野までは約一時間半とうってつけのコースだった。青葉の茂る道は木漏れ日が涼しくて、気温のあがるまえの空気が気持ちよかった。軽快に走り出して、五分ほど経った頃だ。濃い緑のなかにとけ込むように人影が見えた。黒い人影はぐんぐんと近づいてくる。
水色のシャツを着ている。背が高い。ペースが速い。
「…………あっ!」
十メートルほど近づいた刹那、影山はその人影が誰だか気がついた。その数秒後、相手も影山に気がついた。
動揺するように、相手の足もとがぐにゃりと蛇行した。
だが、すぐにまっすぐ進路を修正して同じ速度を保った。
そうこうするうちに、二人の距離は縮まって―――。
「及川さん!」
彼は疾風のように影山の横をスッと通りすぎた。あっと思う間もなかった。
影山なぞ見えていない素振りで、及川は影山をまるで道ばたに落ちている石のように無視をした。
一瞬の交差。影山はとっさに後ろを振り返った。
夏の空気のなかを茶色い髪が流れるようになびいている。左右均等に力がはいった無駄のない背中に一定のリズムで繰り出される両脚。よく観察したいのに、及川のスライドは大きいうえに速く、距離はすぐに開いてしまった。遠ざかっていく及川の背中を影山は本能で追いかけた。
「なにしてるんすか!」
追いついた及川のスピードは、想像よりも速かった。
(及川さんいつもこんな速く。くそ、俺も明日から。)
急にダッシュをした影山の心臓は、長距離を走ったときのように早鐘を打っている。
「及川さん!」影山は大声で怒鳴った。
及川はこんなところでかつての後輩、それも影山についてこられて面食らったような顔をしたが、忌々しそうにちらりと影山を睨むと、ふん、と顎をあげた。
「ついてくんな。おまえ頭おかしいんじゃない」
きつい言葉を投げつけられて、影山はひるんで押し黙った。だが、影山は及川と併走するのをやめなかった。
ご先祖様はいつも影山の望むようにしてくれた。
今日だってそうに違いないのだ。
及川に追いつくチャンスなのかもしれない。
少しでも強くなるヒントが欲しかった。
影山は及川の隣を走り続けた。十分は経過しただろうか。
とうとう及川が折れた。
「………なんでこんなとこにいんの? まさか俺のあと家からつけてきたの。ストーカーじゃん。犯罪」
及川の息はまったくあがってなかった。影山は慌てて息の合間から言い募った。
「一与さ、いえ、あの、墓参りで、あそこの寺」
影山がしどろもどろになると、及川はようやくいつも通りの声で「ああ」と合点がいったように頷いた。
「及川さんはなんで」
「なんでって、ここ、青城の近くだもん。俺ってみんなの及川さんだからさ。学校のまわり走ってるとキャーキャー言われちゃうんだよね。そういうのって面倒じゃない? 俺の云ってる意味、わかる?」
「みんなの及川さん」というのは、どういうことだろうか。理解はできなかったが、青城で練習試合をしたとき、及川への声援がすごかったのは覚えている。
「モテるってことっすか?」
影山の答えに満足したのか、どうなのか、及川は小さく舌打ちをするとそれ以上苛々した表情は見せなかった。
このまま及川について行くと午前練習に間に合わないかもしれない。いや、電車とバスを使えば間に合うか。
突き上げるような焦燥感が大量の汗となって流れる。
どうしよう。影山は幾度も腕で首の汗を拭った。
及川を盗み見ると、及川もうなじのあたりが汗で光っている。水色のシャツも色が変わってきた。
(………及川さん、いつも何周してるんだろう。)
及川のスピードはついていけないほどではないが、いかんせん坂道だ。じわじわと脚にきた。
(さすが及川さんだ。いいコースを走ってる。)
民家もなく、車も通らない。道幅は広く、両脇の古木の葉陰で日差しは遮られている。なにより静かだ。
みんみん、みーんという蝉が忙しなく啼く音や、ピピピと高い声で鳴く鳥に意識が向いた。
あとは、ふたりの足音だけがする。
タッタッタッ。
及川と影山の足音は同調している。
タッタッタッタ。
このまま及川とずっと走っていたい。
タッタッタッ。
額から汗が流れてくる。影山は腕でもう一度拭う。
腕の隙間から、及川の横顔を覗き見ると、茶色の瞳は明るい光を反射して、少年のようにきらっと潤っていた。
走りに集中している及川の表情だ。
夏特有の清々しい空気に包まれて、影山は高揚した。
(ランナーズハイってやつか? もっと走れそう。)
このまま及川についていきたい。
(だけど、時間がやばいな………。)
タッタッタ―――。
影山の逡巡を汲み取ったように、及川が急に走るのをやめた。坂道を下りきると、及川はゆっくりと歩き出す。
影山は、はぁはぁ、と息を弾ませて後を追った。
この道を直進すると国道に出て、バスを乗り継げば烏野だ。離脱するなら、ここしかない。
ついて行くか行くまいか分かれ道で迷う影山を横目に、及川は十字路の手前にある赤い自動販売機のまえで立ち止まった。長い指がジャージのポケットから二枚の硬貨を出して緑色のボタンを押した。がこっと音がしてペットボトルが落下する。及川は屈んでペットボトルを掴むと、自販機の横にある青色のベンチに座った。
「座ったら?」
及川が影山を見上げた。影山はおずおずと及川の隣に腰を下ろした。及川はペットボトルを傾けて、スポーツドリンクを喉に流し込んでいる。影山もよく飲むやつだ。
「あちいなぁ。ぷはー! おいしい」
影山は何を話していいものか所在なげに、及川の横顔を見るほかなかった。
「残り、飲めば」
急に及川とばちっと視線があって、はへっ、と変な息が漏れる。及川が、「なにそれ」と笑う。ほら、と手渡されたペットボトルはきれいに半分残っていた。
「全部飲みなよ」及川は、面倒そうに肩をすくめた。
「ありがとう、ございます」
手渡されたペットボトルはひんやりとしていて、持っているだけでも気持ちがよかった。口をつけて、一口飲む。ごくっと喉が鳴った。
(う、うまい………!)
練習中のスポドリがうまいのは当たり前だ。だが、及川と半分こにしたスポドリは極上の味だと思った。
「あーあー、俺ってば何してるんだろう」
及川がおもしろくなさそうにシューズの先で足もとの草を蹴った。血迷ったとしか思えないよ、及川が呟く。
「これ、敵に塩を送るようなもんじゃん」
朝露を浮かべていた夏草が青く匂う。
木漏れ日の隙間から風が強く吹いた。
「及川さんごちそうさまです」
影山はゆっくりと香りを吸い込んだ。息は整った。
「これきりにしろよ。二度と来るな」
及川は、心のうちに押さえているムカつきをなだめるように手で胸をさすってみせた。影山はこまっしゃくれた調子で顔を背ける。
「それは、わかりません。うちの墓あそこなんで」
「ほんと、飛雄ってクソ生意気」
仇を見るような憎々しい目をして及川も立ち上がった。
「青城と烏野。俺と飛雄の道は違えたんだ。じゃ、バイバイ」
及川は影山に背を向けると、さっと走り出した。
タッタッタ。タッタッタ。タッタッタッ―――。
及川の足音が聞こえなくなるまえに、影山も走り出した。
影山の、ある夏の日の思い出である。
影山が年齢を重ねるごとに「願い」は「報告」になった。
だが、「報告」に含まれるかすかな望みを、影山のご先祖様は―――とりわけ一与は、過たずに叶えてくれた。
「五輪にでて、メダルをとって、三十才まで全日本で、大きな怪我もなかった。けど、三年後、いまの契約が終わったら、現役を引退します。それまでどうか、膝がもちますように」
この四、五年は、将来を考えることが怖かった。
バレーボールのことも、及川とのことも、両方。
影山の一番の「望み」が叶わなくなってしまうから―――。
「それから、今シーズン、及川さんに勝てますように」
「………ハァ? 俺がいるところでいい度胸してる」
影山の隣で、熱心な様子で手をあわせていた及川が憮然とした表情で目をあけた。黒いスーツにネクタイ。正装だ。
「そのまえにあるだろ。いま、言うべきことが!」
影山は首を傾げた。ああ、そうだ。
「一与さん、及川さんが今シーズンはVリーグでプレイします。ベストセッターはぜったい譲らないです」
「そうじゃない、そうじゃないって!」
及川がもくもくとした線香の向こうで、腕を組んだ。
「バレーボールの話じゃない」
きりっとした眉と眸がカッコいい。茶髪がふわっとしている。今日も手触りが良さそうだと影山は口元を緩めた。
「そうでした。すみません」
影山は素直に謝って、目の前の御影石を見つめた。
「みんなの及川さんが、俺の及川さんになってくれました」
「ちょっと! そうじゃ……なくもないけど!」
俺が言うからと、大きな手が影山の手を引き寄せた。
「及川さんの手、汗がすごいですね」
大きくて熱い指先が影山の手を包んだ。
「飛雄くんと人生を歩みます。許してください」
影山は口をつぐんだ。繋いだのは手なのに、なぜだか胸が熱い。次第に目の端もじんと熱くなってくる。
「僕が彼を支えて、彼に僕を支えてもらいます。許してください」
前をむいたままの及川に、影山は鼻声で言った。
「一与さんが俺の願いを叶えてくれたのに、許すもなにもない。引退したら、社会人チームだって、ママさんバレーでだって対戦してやるって及川さんは約束してくれました。俺は及川さんと一緒にいられるただ一人の人間なんだから」
―――ライバルで伴侶。最高の答えだ。
祖父は、あの夏の日の一番の願いを叶えてくれた。
「及川さんと一生バレーボール、します」