Come home.リビングのソファーに寝転がって雑誌を捲り、ふと時計を見ると短針は7、長針は40を指してした。トムは雑誌を閉じて息を吐いた。
「もうこんな時間かぁ」
(シャワー浴びてこようかな)
トムは雑誌をテーブルの上に置いて、ソファーから立ち上がり浴室へ行こうと足を進めようとしたがぴたりと止め、そして再び時計を見た。
(今頃盛り上がってるんだろうなー)
時計を見つめながら、トムは職場の飲み会に参加しているディックに思いを馳せた。
数ヶ月間にも及んだプロジェクト が成功したとのことで、何でもその打ち上げらしい。その中でもディックは責任の重い仕事を任されていたから、喜びもひとしおだっただだろう。その当日の帰宅に、トムにそれを伝えた時には既に歓喜に満ち溢れていたのを思い出す。
まだ終わりそうにはないのだろうなと大して進んでいない針に口を尖らせ息を吐き、止めた足を前に進めた。
シャワーを済ませ、トムは髪をタオルで拭きながら寝室へと歩いていく。ドアノブを回しドアを開け、その傍らにあるスイッチを押して電気をつけた。
セミダブルのベッドへと摺り足で歩き、身体をくるりと向きを変えベッドに腰を下ろした。反動で上下に弾むマットレスに揺られながら、ほぅ、と息を吐く。
ポケットからスマートフォンを取り出し画面を見ると、時刻は20:10と表示されている。トムは天井を仰ぎ見て、ここにいないディックに思いを馳せた。
(まだ終わらないよなぁ)
時間からして盛り上がりもピークになっている頃だろう。特にディックは周りに揉みくちゃにされていそうだと想像する。プロジェクトのこともあるだろうが、整った容姿と人当たりが良く、その上気配りが出来るとなれば周りが尚のこと放っておく筈が無い。
ちくり
胸に針が刺さったような痛みが走り、手の平でそっと押さえる。
腕を下ろし、トムはスマートフォンの画面に表示されている電話のアイコンをタッチした。履歴の一覧からディックの名前を見つけ出し、右人差し指をゆっくりと近付けていく。あと少しで指先が画面に触れる。だが、直前にぴたりと動きを止めた。
指を画面から遠ざけ、また近付けるを暫く繰り返し、遂には身体を大の字にして仰向けに倒れた。
(何やってんだ俺…)
もしこの名前をタッチしたとしても、その後に聞こえてくるのは只管鳴り響くベルの音の他無いと容易に想像出来る筈。それ以前に、盛り上がりの最高潮であろうそんなな時に邪魔をする己の行為に、トムは呆れ画面に額を付ける。スマートフォンをベッドに放り、ローチェストの上に置いてあるスイッチを押して電気を消す。このまま何もせずにいれば、何時しか眠くなってくるだろうと瞼を閉じた。
瞼を開ける。中々寝付けずトムは暗い空間の中で右手をまさぐり、スマートフォンを手に取り電源ボタンを押した。時刻は20:30と表示されている。ほんの数十分しか経っていないことに溜息を付き、そのまま画面を見つめた。そうしている内に、頭の中にディックが過ぎってきた。
(会いたい…)
しんと静まり返っている寝室。本来なら隣にいる筈の恋人がいないだけでこんなにも落ち着かなくなるのかと改めて感じ、電話のアイコンをタッチする。数十分前と同じように指先を近付けては遠ざけたりを繰り返し、やはり止めようかと考えたが、今度は自分の気持ちの方が勝りディックの名前をタッチした。
トムはスマートフォンを耳に当て、間もなく聴こえてくるであろうベルの音を待った。
プルルル
鳴り始めたベルの音に、僅かに心臓の音が早くなる。
折角盛り上がっているところを邪魔をしてしまうのは分かっている。
それでも-
(声が聞きたい)
ほんの一言だけでもいい。怒られるのは百も承知だ。
(気付いて)
プルルル、プルルル
プルルル
ガチャ
数回のベルの音の後に耳に入った着信を取る音。トムは一瞬硬直し、スピーカーから発せられる声を待った。
だが、それは期待していたものとは違うものだった。
『只今電話に出ることが出来ません』
『ピーという発信音のあとにお名前とご要件をお伝えください』
聞こえてきたのは、無機質なアナウンスの声だった。ショックというより、やっぱり駄目かというある程度予想されたもので軽く溜息を付いた。
ピーと発信音が鳴り、トムはゆっくりと薄い唇を開いた。
「ディック…」
名前を声にして、その後に言葉を紡いでいくつもりだったのに出てこない。そうしている間にも時間は過ぎていく。メッセージが終わる直前に漸く言葉を発した。
「…会いたい」
直後に、プツッという音が鳴りスピーカーからはプー、プーという音が聞こえてくるだけだった。
こんなことをしても突然目の前に現れたりするわけでもないのに。
それでも、段々と寂しさと愛しさが募っていく。トムはスマートフォンを傍らに置いてシーツを身体に被せ、目を閉じて背中を丸め、今度こそ眠りに付こうと努めた。
瞼を開ける。これで2度目か、と息を吐くと、身体に違和感があった。何かに包まれている。シーツではない、もっと暖かいもの-
段々と意識がはっきりしてきて、目の前に何か、否誰かに抱き締められているのが分かった。トムはそっと顔を上げると、そこには此方の頭上を見下ろすように穏やかな眼差しで見つめるディックがいた。
「ディック…?」
「うん、僕だよ」
大きな手が頬に触れ、優しく撫でられる。手の平から温かさが伝わっていき、とても心地良い。
「ごめん、起こしちゃったね」
「ううん、それは大丈夫…や、それよりも、打ち上げは?」
そうだ。ディックは打ち上げに参加していてしばらくは帰ってこない筈だ。それなのに、今、目の前にいる。トムを抱き締めて。
「抜け出してきた」
「え!?何でっ」
さらっと口から出た言葉にトムは驚愕し目を見開いた。今日のディックは言わば主役の1人といっても過言ではない筈。それなのにどうして-
「留守電を聞いたんだ。気付くのに遅れちゃったけど」
ディックは罰が悪そうに苦笑を浮かべて言った。
そういえばそうだった。ほんの一言だけのメッセージ。だけど聞いたとしてもまさか抜け出してくるとは思わなかったのだ。
「ふふっ。信じられないって顔してるね」
穏やかな眼差しはそのままに、まるで悪戯に成功したような笑みを向け、囁くようにこう言った。
「あんなに恋しそうに会いたいって言われたら、帰ってこないわけにはいかないだろ?」
蕩けそうな甘い声が耳の中に流れ込み、身体の中を駆け巡るような感覚に陥りそうになると同時に、全身を包み込むような温かで安心する声。
トムは腕を伸ばし、ディックの首の後ろに回して抱き着き、更に身体を密着させていく。ディックはそれに応えるように、トムの頭を抱き寄せて額に口付けた。
打ち上げから抜け出させたことに罪悪感はある。トムは申し訳ないと思いつつ、自分を優先してくれたことに優越感を抱きながらゆっくりと目を閉じた。