ホットミルク目を開けると、最初に見えたのは暗闇だった。正確には真夜中のカーテンを閉め切った寝室で、トムは瞼をぱちぱちと開け閉めをして目を軽く擦った。
上半身を起こし、身体の上に掛かっているシーツがずれる。ふと隣を見ると、身体を此方の方に向けて眠るディックの姿があった。
起こした身体をそのままに、ディックの規則正しい静かな寝息をじっと聞いていると、鼻の奥がむずむずしてきて口からくしゃみが出た。
「くしゅっ」
咄嗟に手の甲で覆い、鼻をすする。外気が少し冷たく感じ、ぶるりと身体を震わせた。
季節は秋。11月の半ばであり、もうすぐ冬が来る。それならシーツから出た途端寒くなるのも無理はない。
トムはそっとベッドから下りて、スリッパを履き、壁掛けのフックに掛かっているチェスターコートを手に取りハンガーから外した。コートを腕に掛けて、ちらりとベッドへ視線を向ける。ディックが起きる気配は無く、ほぅ、と息を吐いて足音を立てないようにそっとドアノブを回し、寝室から出た。
トムが向かった先はリビングだった。寝室と同じく暗い部屋に入り、ソファーに持ってきたコートを置くと、テーブルの上に置いてあるサイドランプを手に取り今度は台所へと向かっていった。
台所へと入り、冷蔵庫を開けて牛乳パックと、棚からマグカップを取り出してIHコンロの傍に置いた。次に、壁に貼ってあるマグネットフックに掛けてあるミルクパンを取り、コンロの上に置く。そして一旦テーブルに置いた牛乳パックを取り、ミルクパンに注いでいった。程良い量になるとコンロのスイッチを入れ、上にランプで照らし立ったまま見下ろす。
数分程そのままでいると、牛乳から小さな泡がぽこぽこと沸いてきて、トムは明かりで見えるそれを待ち侘びたかのように微笑んでもう少しだけ待った。泡が少し大きくなっていき、ミルクパンの取っ手を手に持ちコンロから離して傍に置いておいたマグカップにゆっくりと注いだ。空になったミルクパンをコンロの上に置いて、屈んでキャビネットを開けて蜂の絵が描かれたプラスチック製の容器を取り出す。キャップを開けて、注がれた湯気の立っている牛乳に蜂蜜を大さじ1杯分入れていく。スプーンでかき混ぜ、完全に溶け合ったのを見計らうと心の中で出来上がりと呟いてスプーンを牛乳から上げた。スプーンの先に牛乳の雫が溜まり、ぽとりと真下へ落ちた。
まだ湯気が立っているマグカップとランプを持ち、もう一度リビングへ足を進めた。
テーブルに一旦2つを置いて、ソファーの上に置いたコートを取り、肩に掛ける。そしてマグカップを両手で持ち、唇を突き出して熱を冷ますように息を吹き掛け、一口入れた。
(おいし…)
ホットミルクを舌で味わい、ごくりと飲み込むとほぅ、と満足気に息を吐いて目に弧を描いた。
こうした事は、今日が初めてではない。月初めの寒くなり始めた頃に同じように深夜に起きて、それだけならまたシーツに包まって眠ればいい話。だがその時に妙な空腹感が襲ってきて、目を瞑って待っていても眠気どころか益々空腹に意識が向き出してしまい、結局起きる羽目になり何か小腹を満たすものでもと台所を漁ることにした。
腹を満たし過ぎず、適量なものはどんなものがいいだろうと考えながら今度は冷蔵庫を開けると、牛乳パックが目に入ってこれなら-と思い付いたのがきっかけである。
それから数日後、また夜中に起きてしまい-もれなく空腹付きで-今度は最初の時より気温が下がっていた。そこでふと目にしたのが、今肩に掛けているディックのコートだ。自分のものより大きく身体をすっぽりと包んでくれるというのもあるが、何より恋人に後ろから抱き締められているようで擽ったいような、そんな温かな気持ちになり表情を綻ばせていく。
もう一口飲もうとマグカップの縁を唇で喰むと、足音が聞こえてきた。トムは目を見開いて出入り口の方へ首を横に振る。するとそこには、寝室で眠っていた筈のディックがいた。
「トム…?」
まだ寝起きだからか、目を擦り眠たそうな声でトムの名前を呟く。当のトムは悪戯がばれた子供のようにマグカップの縁を咥えたままディックを注視していた。ディックは此方を真っ直ぐに見つめ、トムの方へと歩いてきた。
「それ何飲んでるの?…ホットミルク?」
「あ、うん。ちょっと小腹が空いちゃってさ」
ディックはトムが持っているマグカップの中身を見下ろしている。トムは身体をずらし隣を空け、座るかと促すようにぽんぽんと座面を軽く叩くとそっと座りトムを、正確にはトムが羽織っているコートを指差して言った。
「僕のコート…」
「ごめん、勝手に借りてたっ!今脱ぐ」
そう言って、トムは慌てて羽織っていたコートを脱ぎディックに手渡した。ディックは受け取ったコートを一瞥してすぐ傍らに置き、自らの腿を先程のトムがしたことを真似るかようにぽんぽんと軽く叩いた。その仕草にトムは首を傾げたが、すぐに理解したらしく頬を仄かに赤く染めた。だがそれでも腿を叩くのを止めないディックに根負けして腰を浮かせ横移動し、腿の上に座った。すると、後ろから腕が伸びてきてトムを包むように抱き込んできた。
密着したトムより大きな身体から体温が伝わり、大きくなる心臓の音を誤魔化すかようにマグカップをディックに向けこう言った。
「ディ、ディックも飲む?これ」
突然差し出されたマグカップにディックは眉を顰め、まだ微かに湯気が立っているホットミルクを見つめた。湯気から立ち込める仄かな甘い香りが鼻を擽る。ディックはマグカップを持つ両手に触れ、自らの口に引き寄せホットミルクを一口入れ、味わった。
「何か入れてる?」
「うん、蜂蜜混ぜた」
普段飲む牛乳よりも甘く感じ、だが何か安心する適度な甘さと温かさ。
その時、トムが首を傾げて聞いてきた。
「どう?」
「うん、美味しい」
「良かったー。…ディックの分も作ろうか?」
トムはほっとしたように苦笑を浮かべた後、また首を傾げ顔色を伺うかのように聞いてきた。
「飲む」
「ん、じゃあ今から作ってく」
「大丈夫、ここにあるから」
る、まで言い切る前に大きな手が頬に触れ引き寄せられる。状況を把握する頃には、トムの唇はディックの唇と重なり合っていた。
ほんの数秒程そうした後、肉厚の舌が咥内を侵入しべろりと舐め回していく。鼻に掛かったような甘い声を聞きながら名残り惜しくも唇を離すと、半開きになった薄く色付いた唇を舐め取った。
「ご馳走様」
顔を離し、更に頬を紅潮させ息を整えるトムを見つめながら自らの唇を舐める。
しばらく熱で呆けていたが、はっと我に返り顔を逸らした。
「…馬鹿」
頬を膨らませて拗ねるトムだが、熟れたトマトのように真っ赤に染まった耳にディックは柔らかく微笑み小さな身体を更に抱き寄せ、頬を擦り寄せた。
※
「今度は僕も誘ってね」
すっかり湯気がなくなった、けれどまだ温かさが残っているホットミルクを一口飲み、トムはディックを見て首を傾げた。
「それならこれに頼らずに済むだろ?」
そう言って、傍に置いていたコートをぽんぽんと叩いているのを見て合点がいった。あぁ、と声を出し眉を八の字にしてこう言った。
「いやぁ、折角寝てるのを邪魔するわけにはいかないし…」
「隣にいなくて結局起きたし、同じことだろ。それとも…あっちの方がいいの?」
ディックは言いながら目だけをコートに向けて抱き締める力を強くして、トムの肩に顎を乗せて頬を膨らませた。声も何処か拗ねたような感じで、これは、と察してトムは吹き出すのを堪えて言った。
「ん、分かった。今度からは起こすよ」
「…分かればいいけど」
自分ではなくコートに頼ったことに嫉妬したディックは、トムの返事に満足したのかそれ以上言うことは無く、再びホットミルクを飲み始めたトムを抱き締める腕をそのままに頭上から見下ろしじっと見つめていた。