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    niwa

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    niwa

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    2部20章のエヴァ様と坊やがよすぎて本を書きました。本文の7割ぐらいのサンプルです。
    2023/8/20発行52P500円
    通販https://ecs.toranoana.jp/joshi/ec/item/040031088969/#

    #エヴァ様
    ladyEva.
    #mhyk
    #ブラッドリー・ベイン
    bradleyBain

    魔女エヴァと坊やたち(サンプル)Lady Eva and the young boys
    魔女エヴァと坊やたち


    黒い谷の娘

    北の国の希望の平原、ねんがらねんじゅう猛吹雪が吹き付けるその大地の少し東、ひとつ山を越えた先にもやっぱりねんがらねんじゅう雪が降っております。そこに一羽の鷹が飛んでいました。猛禽類の広い視界も、ひっきりなしに降り続く雪と、大地を覆う雪、それらの冷たい死神めいた白で埋め尽くされているのですが、よおく目を凝らすと、わずかに雪で覆われていない黒い部分が見えます。雪に覆われていないなんて、そんなことがあるでしょうか。鷹はふしぎに思いました。そしてぐるぐると旋回してよおく観察してみると、それは大地の裂け目なのでした。
    鷹は胸を躍らせました。谷です。うまいこと風が入り込まず、雪が埋め尽くされていない谷には、獣や実のつく植物、あるいはひとが隠れ住んでいることがあります、今日の獲物にありつけるかもしれません。鷹は旋回をやめ、一直線に谷へ急降下していきました。
    鷹の予想は当たりました。谷の中は日がささずに暗く、雪風からは守られてあたたかく(地上に比べればという意味です)、じめじめしており、そして斜面にへばりつくように、人間の家がぶかっこうに数軒立ち並んでいました。赤子でもいないかしら、と鷹は首を回します。やわらかな肌の人間の赤子の味を北の鷹たちは知っていました。いいえこの際大人でも構いません。大人は弓矢を持っているからやっかいですが、この鷹も北で生き抜いてきた自負があります。老人やこどもなら、服をひっかけて巣穴まで運ぶことができる強い翼も持っています。
    おや、いちばん谷底のあたり、とりわけ不格好な家の屋根に、女の子が座っています。年のころは十五にはまだ届かぬでしょうか。粗末な服の上に大きすぎる毛皮の外套を着こみ、ぼさぼさの巻き毛はこの谷のようにくらやみの色をしています。鷹はひとつ鋭く羽を鳴らしました。
    しかし次の瞬間、鷹の羽は見えない手でむしられました。喉が勝手に締まり、小さな心臓がひきしぼられます。女の子はいつの間にかこちらを見ています。まだ明けきらない夜の名残のような紫の瞳が、じっと鷹にそそがれています。それですっかり鷹はことの次第が呑み込めました。
    魔女です。ああ、なんということでしょう。運が悪い。しかし強者は弱者の命をどうにでもできるのが北の国のならい。鷹は運命を受け入れ、こときれました。
    ――女の子はこときれたばかりの鷹を魔法で引き寄せ、首をつかむと、ほっと溜息をつきました。今日の糧が手に入ったことへの安堵が、小さな顔にうっすらと浮かんでいます。女の子は一家で、いいえ、この谷でたったひとりの魔法使いでした。
    誰にも魔法を習ったことはないので難しい魔法は使えません。それどころか、この世にどんな魔法があるか、魔法ではどんなことができるのかも知りません。
    こんな谷の村でも全く外界との交流がないわけではなく、物好きな行商人や旅人が稀に訪れ、土産話をすることもありました。それで魔法オズや双子、おそろしいフィガロなんかの名前だけは聞くのですが、ほんとうにいるひとたちなのかしら、とひそかに思っていました。そんな彼女でも、誰にも教わることもなく箒で空を飛ぶすべを知っていましたし、小さな獣でしたらこうしてふしぎの力で狩りをすることもできました。
    「こら、あんた、なにしてるの。早く狩りに行ってらっしゃい」
    家の窓が開いて、屋根に腰掛ける女の子の足を見つけた母親が怒鳴ります。女の子は足を引っ込めて膝をかかえると、小さな声で言い返しました。
    「鷹をとったよ」
    「ふん、一羽じゃ足りないよ。兄さんがおなかをすかせたらどうするんだい。さっさと行くんだよ」
    母親はぴしゃりと冷たく言い放ちました。
    女の子はこの谷たったひとりの魔法使いで、みんなが彼女を頼りにしていましたが、大事にしているとはとても言えませんでした。女の子には双子の兄さんがおりました。兄さんは人間で、気がやさしいのですが、母親は兄さんばかりを贔屓していました。男の子だからです。北の国では、強いものが勝ち、弱いものは蹂躙されます。力の強い男の子を、力の弱い女のよりひいきするのはあたりまえの慣習でした。女の子が生まれたら余計な食い扶持として殺してしまうことさえあるのです。お前はきちんと育てられたのだから感謝して、兄さんに尽くさなくちゃいけないよと女の子は大人たちに言って聞かせられて育ちました。お前は兄さんのせいぜいあばら骨一本ぐらいのめかたなんだからね。それは女の子が魔女だとわかってからも、変わりませんでした。
    この谷の誰も魔法使いがほんとうにどんなものなのか、知らなかったのです。
    女の子はため息をつくと、かたわらに置いていた、ぼろぼろの、柄が折れかけで先もあっちこっちに跳ねている箒を握りました。宙に浮かせたそれにまたがって、ふわりと上昇します。貧しい村ではわずかな蔓植物が生えるばかりで、そのほかは外で狩猟をするか、旅人から奪うしか、糧を得る方法はありません。ここを出ていけばもしかすると、もう少しいい暮らしがあるのかもしれませんが、そんな保証はどこにもありません。そういうわけでみんな谷の斜面にへばりつくようにして、日々の食料を探し、こどもをつくり、短い一生を終えていくのです。きっと私もそうなるのだろう、と女の子は漠然と思っていました。兄へ尽くしながら……。
    兄さんのセトのことは嫌いではありません。おなかの中からいっしょの双子ですし、兄さんは彼女にやさしくしてくれました。ですが最近、夜になるとやけに体に触られるようになったのを思い出すと、憂うつになります。両親も見て見ぬふりをしますし、「兄さんの役に立つんだよ」と言われます。それがどういう意味を持つのか、深く考えることはなぜだかできません。彼女はうまれつき頭が回る方ではなかったので……。ただわけもわからず日々重くなる心を抱えたまま、女の子は、空に見える裂け目めがけて飛んでいきました。
    谷の外に出ると、雪や氷を含んだ強い風が、小さな体に襲い掛かりました。視界はまっしろで、何も見えません。せめて鷹や、うさぎや、そういった獣を見つけられないかしら。と彼女は目をこらしました。それもなければどうにか、獣が食べ残した木の実なんかを見つけないといけません。しかし今日はどうもさきほどの鷹で運を使い果たしたのか、木の実ひとつ、兎の足跡ひとつ、見つけることはできませんでした。手ぶらではとても家に帰れないので、何時間も、雪原をさまよいました。家は決して安息の地ではないのですが、それでも幼い、無力な魔女に、ほかに行くところなどないのですから。
    人間ならばとうに凍え死ぬほどの長さをさまよい、すっかり体力が尽きた彼女は、とぼとぼと黒い谷の裂け目があるところへ戻っていきました。
    するとそこに、見たことがない人間が立って、裂け目を覗き込んでいることに気づきました。いいえ、人間なはずはありません。派手な刺繍の入った外套を羽織っていますがボタンは閉めておらず、靴だって長靴ではありません。耳には金属の耳飾りをぶらさげています。凍傷で耳が取れるのも恐れずこんな風体で北の歩いているのは、もちろん、魔法使いに他なりません。しかもきっと、強い魔法使いです。
    「こんにちは、お嬢さん。この谷は私の定点観測ポイントの目印なのだけど、もしかして君のすみかでもある?」
    女の子は眉をよせました。聞きなれない訛りですし、意味もよくわかりません。
    魔法使いは美しい男の姿をしていました。紫の髪は肩につくほどの長さで、目は近くの洞窟に住み着く魔物のような緑。それがきらきらと強く輝いて、女の子を突き刺しました。それが好奇心とか知性とか、そういう名前のつく光だと、彼女が知ったのはもっとずっと後のことです。
    「観測って、なに?」
    「はかることだよ。日にちや場所をさだめて、繰り返し同じものを見て、記録する。そのうつりかわりを調べて、研究する。ここは北極星がよく見える。北極星をあちこちから定点観測して、見比べて、星の位置を導き出すんだ。この世で一番楽しいしごとさ。金も時間もかかるけどね」
    「……」
    女の子は黙り込みました。ひとつも意味が分かりません。訛をさしひいても、こんなふうな言葉遣いをするひとを初めて見たのです。この件について彼女の無知や周囲の無教養を責めるのは、公平とはいえないでしょう。北の地に文明がないというより、天文学という学問が始まったのがつい最近というのがほんとのところです。それを始めたのがこの魔法使いの青年なのです。
    「私はムル・ハート。西の国の学者ですよ、お嬢さん」
    青年は道化めいて優雅に一礼すると、彼女をぶしつけに上から下まで眺めました。
    「君は北の魔女なのに、粗末ななりをしているんだね」
    「兄さんのおさがりなの」
    「兄さんは人間? 魔法使い?」
    女の子は警戒して答えませんでしたが、青年はどうしてか答えを得たようでした。
    「これは単に好奇心で話すのだけど。私が知る限り、北の国では、魔法使いが一番えらいとされている。魔法使いが人間を虐げて暮らしているんだ。双子やオズ、フィガロにチレッタ。人間は魔法使いの機嫌をとって生きている。そうでないと気まぐれに殺されたり、それよりましでもぜんぶ奪われてしまうから。機嫌をとっても、だめなときはだめみたいだけど。一方、君は兄さんのおさがりを着ている。兄さんから奪ったものでも貢がれたものでもなく」
    女の子はびっくりして、鈍重なしぐさでわけもわからず首を振りました。そんなふうに暮らしている魔法使いがいるなんて、想像もしたことがありませんでした。
    「強い魔法使いは、自由で傲慢だ。君が暮らしている谷は、オズが何かにすごく苛立って、杖を振ったら大地が割れてできたって話だよ。私が見たところ、君の魔力もなかなかたいしたもののようだけど」
    少女はますます驚き、疑いました。自分が住んでいるあの谷が、あの魔王オズが作ったものだなんて。それに、ひとりの魔法使いが大地にあんな深い亀裂を入れることなんて、できるものでしょうか。
    「オズって、ほんとうにいるの?」
    そう聞くと、青年は大きく目を見開いて、それから心底おかしそうに笑いました。馬鹿にしたようにも見えます。ひとしきり声を立てて笑うと、めじりに浮かんだ涙をぬぐい、憮然とした少女に向かって笑いかけます。そして指を鳴らしました。
    「エアニュー・ランブル」
    何もないところから、鎖が現れました。それを指にひっかけて彼女に差し出し、魔法使いの青年は、うたうように囁きます。
    「これはいにしえの鎖。知恵のある者から渡されると、知恵を得る。らしいよ。私ももらったものだから、ほんものかどうかは分からない。私はもとから賢いからね、本物でも偽物でも証明のしようがないんだ。これを君にあげる」
    「何故」
    「好奇心さ。知恵を得た君がどうなるかを知りたい。君の清純さや家族への献身は損なわれないか? 損なわれるとしてそれを担保していたのは無知だけなのか? 気になるとしかたないんだ。いずれ検証させてほしいな。さあどうぞ。受け取って」
    青年は手袋もしていない手を差し出しました。蛇のように細くてつややかな、手仕事を知らない美しい指先……。香水でしょうか、甘い果実のような香りがする。痩せっぽちの無知で不幸な幼い魔女は、導かれるようにその手を取ってしまいました。鎖が魔法使いから魔女に譲り渡されます。鎖は恐ろしく冷たく、彼女は悲鳴をあげかけ、こらえました。
    そのとき強い風が吹いて、少女の巻き毛をなびかせました。氷を含んだ冷たい北の風。それが彼女の心臓と頭に冷たい奇妙な熱をもたらしました。体中に力がみなぎります。ふしぎの力の使い方の一端を、誰にも教わらずに理解しました。誰にも教わらずとも箒に乗れたように。
    そう、彼女は魔女なのです。生まれながらに強く気高い、孤独な北の魔法使い。どうして今までそれに気づかなかったのか。知恵の鎖はまるでほんとうに生きた蛇のように彼女の手首におのずと巻き付きました。呪いめいて、強く、きつく。
    美しい青年はいつの間にか立ち去ってしまい、そこにはたった今魔女としてほんとうに生まれた少女が立っていました
    彼女は箒にまたがり、速度をあげ、谷に突っ込んでいきます。
    谷底の家の前には母親が待ち構えていました。窓の向こうには兄のセトがいます。父は飲んでくれて寝台で寝ています。さきほどの哀れな鷹は吊るされ血抜きをされ、食べられるのを待っています。それを家に入らなくても手に取るように見ることができました。痩せた巻き毛の少女はそれを紫の瞳で睥睨して、目に焼き付けると、その家にあったわずかな食料を魔法でかきあつめ、そのまま上昇しました。
    「エヴァ、エヴァ、あんた、どこに行くの!」
    母親がわめいています。兄は青ざめた顔で窓から顔を出し、彼女を見上げていました。少女は降りてきた時と同じように一気に谷から抜けると魔法を唱え、風を操り雪を集めて、その谷をすっかりぜんぶ埋めてしまいました。瞬く間のできごとでした。
    雪の下で家族は息絶えたでしょう。あるいはこのまま、じわじわと死ぬに違いありません。
    身軽になった少女は村を捨て、遠く、太陽の昇る方へ飛んでいきます。兄の青ざめた顔が脳裏に焼き付いていました。兄さんを愛していた。片割れだった。だから殺さなくてはならない、と知恵が彼女に告げていました。
    愛していなければ捨て去るだけで済みました。路傍の石をわざわざ砕いて回ることもありません。ですがわずかにでも情があるならばーーそれが殺意をわずかにでも弱めているのであればーー殺さねばならない。誇り高い、北の魔女として。愛も情に足をとられることこそが、最も恥ずべきことなのですから。
    かつてないほど明晰な思考の中で、少女は、ずっといやだったのだ、ということをかみしめていました。何かに従属するのが、魂の芯からいやだった。耐えられなかった。まっぴらだったのだ。それがようやくわかって、心の底からせいせいしていました。彼女は笑ったつもりでしたが、そうではなかったかもしれません。
    北風が強く吹いていました。しがらみも、悲嘆も、情もすべて吹き飛ばし、冷たい雪の中に包み込んでしまう、凶暴な、北の、死の風……。それを肺いっぱいに吸い込むと、体中がしんしんと冷え込み、少女の心を軽くするようでした。
    黒い谷の娘はこうして、魔女エヴァになったのでした。彼女があの学者に出会ったのはあとにもさきにも、これきりのことです。







    ベインの末っ子


    「よくお聞き、ベイン一家の坊や」
    「ブラッドリーだ!」
    高い高い山脈の上空を箒で振り回されながら、男の子は叫びました。エヴァはにやりと笑います。この生意気な小僧に、教育をしてやらなければ。


    エヴァの箒が粉雪を舞い上げふわりと風に乗った時、地べたの方から悲鳴が聞こえました。盗賊一家ベイン一家の何番目かの娘がエヴァの方を指さしています。
    「こら! 馬鹿者! 降りなさい!」
    殺す。エヴァは反射的にその娘に魔力を向けようとしました。しかしよく見ると娘はエヴァではなくエヴァの箒の穂先を見ているようです。おや、と振り向くと、宝石があしらわれた箒の先っちょに、小さな男の子がしがみついています。ベインの末の息子です。名前はなんと言ったでしょう。ベインの頭領にさんざん(うるさいので殺してしまおうと何度か思った程度には)自慢されたので、待望の魔法使いだということだけは、確かなのですが。
    エヴァはベインの頭領があまり好きではありませんでした。いえ、悪いやつではないのです。彼の盗賊団は北の人間の集落や魔法使いからものを奪い、蹂躙していましたが、その物品(たとえば食料やマナ石や儀式の材料なんかを)を通貨としてほかの魔法使いと取引を行うこともなりわいとしており、エヴァは顧客のひとりでした。こんなふうな商売をしている盗賊団は、エヴァに知る限りベイン一家だけです。北では集団や組織が長く続かず、せいぜい十年やそこらで瓦解してしまうのですが、今のところベインは百年近くうまくやっていました。そのひみつは家族経営だったからでしょう。血の絆は希望の平原の万年雪より深いことを、その厄介さを、エヴァもよくよく知っています。エヴァはだからそれを捨てました。美しく、気高く、猪のような魔女エヴァは、誰のことも愛さない。その心は万年雪よりも冷たく、オーロラよりも燃え盛る。そんなふうに言うものもありました。
    エヴァがベインの頭領をあまり好きではない理由はその、子沢山という点にあります。「子供が多いな」と呟いたときに、息子(人間で、今生きている中で一番年嵩)が、「魔法使いの子が生まれるまで種まき続けてるんですよ。だからおれたちみんな出てきた腹が違うんです」とからりと笑ったからでした。人間に魔女、美しいものからそうでもないの、中年から子供、ありとあらゆる女に手をつけて、魔法使いの跡継ぎを生み出そうとしているのだそうです。エヴァを口説かないのはひとえに、エヴァの方が圧倒的に強い魔女だからでしょう。女を子供を産むための袋か、せいぜい男のあばら骨程度のめかたとしてしか見てない所業のように思えます。その姿は、遠い昔に谷底に置いてきた故郷を思い出させ、たびたび、冷たい怒りで胸の中を満たしました。
    とはいえベインは手を付けた女たち、生まれた人間のこどもたちを家族の一員として遇しており、それがエヴァをもってして彼を石にするに至らせませんでした。人間の息子たち娘たちもまた、そのような繰り返しでようやく生まれた魔法使いのこどもを、腹の底からかわいがっているようで、それがに毒気を抜かれてしまったというのもあります。
    さて、その待望の子供。選ばれし魔法使い。ベイン家の末の弟は、エヴァの箒にしがみついています。まだ小さな手で穂の先をしっかりつかんで、エヴァを睨みつけています。星が入り込みそうなほど大きな目。頬にはやんちゃそうな小さな傷があり、姉たちに羽織らされたのでしょう、毛皮を二枚着こんでもこもこに着ぶくれておりました。
    初めて会ったときはまだ赤子だったように思います。ベインが自慢げに掲げて、どうだおれの跡継ぎだと言いました。その次はもう少し大きくなって、楓の木の幹から取れる貴重な蜜をひたひたに浸したパンを、兄たちに食べさせられていました。大きな目が興味深そうにじっとエヴァを見ていましたが、エヴァは相手にしませんでした。今日も、末の弟を無視して姉や兄たちと物々交換をしたところです。エヴァからはマナ石を、ベインからは西の隊商から奪ったという貴重なワインを。北の国にも名の響くベネットのワインが手に入ってエヴァは上機嫌で、うろちょろする子供どころではなかったのです。
    「なあ、俺に魔法教えろ!」
    と箒にしがみついた子供は生意気そうな光を目にたたえて、エヴァに要求しました。殺そうか、と瞬間的に彼女は思いました。命令されることがほんとうに大嫌いだったのです。ですが侮辱ととらえるには子供はあまりに幼いと思いなおし、やがて怒りは笑いに変わりました。幼さと無知が少年の命を救ったのです。
    「父親に習いなさい」
    「おやじはだめだ。そんなに強くないから。頭は回るんだけどさ」
    「それはそうだ」
    「あんたは強い」
    「そうだ」
    エヴァは昂然と頷きました。生まれながらに強い魔力を持ち、戦いの中で自らの技術を磨き、倒した敵のマナ石を貪り、エヴァを大魔女と呼ぶひともおりました。まだ千年を生きておらず、北の名だたる大魔法使い、双子やオズ、フィガロ、チレッタなどよりはずいぶん若いのですが……。目の前の生まれたてのようなこどもに比べれば、もちろんとても長生きの魔女といえます。少年は箒の上の方にずりあってくると、エヴァのドレスの短い袖から晒された雪のように白い腕をつかみました。
    「強くなりたいんだ。おやじよりも、ミスラやオズよりも。だから、俺に魔法を教えろよ」
    エヴァは威嚇するように唇を吊り上げました。口の利き方がまったくなっていません。この子には教育が必要のようでした。
    しつけをしてやろう。父親のように舐めた真似をする前に。エヴァは箒のスピードをぐんと上げ、斜め上に向かってどんどん上昇していきます。地べたから金切り声が聞こえました。エヴァ様、エヴァ様、お許しください。どうかその子を……。箒で飛ぶこともできない哀れな姉が、神に祈るように懇願しています。その声がどんどん遠ざかっていきます。
    降り続く雪の中を、エヴァは飛んでいきました。遠くに見える山脈に近づくにつれ空気は冷たく、雪のいきおいはいや増します。ほとんど石つぶてのような雹を受けても魔女の素肌は傷一つつきません。肌を晒すことは魔女の強さの証でした。厚く何重にも着こんでいたぼろの毛皮を脱ぎ捨て、腕を晒すこと。薄着は強い魔法使いの特権だ。人間や弱い魔法使いであれば一瞬で命を失う冷気の中、白い肌を晒し、黒髪をなびかせ、空を飛ぶこと。それは強い生命にのみ許された行いなのです。
    後ろの毛皮で着ぶくれした子供は振り落とされず、片手で箒を、もう片手で魔女の腰をひっつかんで、じっと耐えているようです。もちろん彼女もひそかに、こどもに死なない程度の防寒の魔法をかけてやっております。そうでなければとっくの昔に石になっていることでしょう。
    山脈の上空、雲よりもはるかに上で停止いたします。こどもを振り向くと、雹が彼の額に当たり、ぱっくりと割れて血を流していました。エヴァはわずかに慌てましたが、こどもは目に入る血をものともせず、大きな目を見開いてエヴァを見つめています。その眼には率直な恐怖と、興奮と、尊敬がございます。
    「坊や、おまえに魔法を教えるつもりはない。私も誰にも教わっていない。一人で強くなったから。お前も父親から教わることが尽きたら、そうするといい。魔法使いを石にして、石を食べていけば強くなる」
    「それはそうだけど」
    「口答えはおよし」
    「だって、石を食べれば強くなるってみんな知ってる」
    口の減らないこどもです。ベインの頭領もそうなので、遺伝なのかもしれません。であれば、やはりしつけが必要でしょう。エヴァははるか高みを見下ろして息をのんでいる子供に、
    「しっかりと掴まれ」
    と言うやいなや、先ほどの倍ほどの速さで山脈に向かって急降下しました。じっと耐えていた子供がとうとう悲鳴を上げます。
    「よくお聞き、ベイン一家の坊や」
    「ブラッドリーだ!」
    そんな名前だったか。
    高い高い山脈の上空を箒で振り回されながら、男の子は叫びました。エヴァはにやりと笑います。この生意気な小僧に、教育をしてやらなければ。この子供には、父親のようにはなってもらってはいやなのです。
    「魔女の敬い方を教えてやろう」
    そうしてスピードをゆるめずに山肌に衝突するどぎりぎりまで近づいて、直前で方向を切り替えます。また上昇し、急降下をします。それを何度か繰り返すと、箒で振り回された子供は、気を失いました。目じりから涙がこぼれています。それでもしっかりとエヴァにしがみついているものですから、エヴァはこらえきれず笑ってしまいました。額の血はとうに止まっていました。そしてすっかりこの子を気に入ってしまいましたが、そのことに気づくのにはもう少しの年月がかかりました。北の魔法使いは総じて、そんな感じで、短気なくせにゆっくりしているのです。

    山脈の尾根に腰かけて、エヴァは木の実を頬張っています。熊の巣穴を襲って、ためこんでいたたくわえをたっぷり横取りしたのです。隣で毛皮に包まれて昏倒していた子供が目を覚まして、
    「腹が減った」
    と言いました。そして、少ししてから、
    「分けてほしい、です」
    と付け加えました。賢い子です。エヴァはしつけが功を奏した達成感で笑いながら、「敬語はいい」と言ってやり、とりわけみずみずしい実をひとつ分けてやりました。雪は束の間やんでいて、二人は尾根から北の国をずっと先まで見渡すことができました。雪に包まれた美しい国。厳しいけれど、魔法使いが支配する、誇り高い大地が広がっています。
    かたわらの小さな男の子は、鼻の頭を赤くさせ、木の実を口いっぱいに頬張っておりました。待望の魔法使いの男の子。盗賊団の跡継ぎ。わらわらといる姉や兄を、やがては彼がしょってたつのです。そして人間の家族がみんな死んだ後も、彼は生きていかねばなりません。その前に石にならなければ、の話ですが。
    「よくお聞き、ベイン一家の坊や」
    「ブラッドリーだ。そろそろ覚えろよ、エヴァ。俺の名を覚えて、損はさせないぜ」
    「ふふ、生意気な子……。いいだろう。よくお聞き、ブラッドリー」
    エヴァは初めて子供の名前を呼びました。この時には彼の生意気さをかわいいと思うようになっていました。子供は、やっぱり魔法を教えてくれるのかと期待するような上目遣いをしています。ですがエヴァが教えるのは、魔法そのものではありませんでした。いえ、やはり魔法を教えたのかもしれません。魔法は心で使うものですから。
    「私たちは北の魔法使い。強靭で自由な魂を持つ者。強く自由に生きるためには……無くてはならないものを、持ってはならない」
    「無くてはならないもの?」
    「そうだ」
    「魔道具もか?」
    子供は毛皮の下に背負った猟銃を取り出しました。父親とそろいの銃は、ピカピカに手入れされています。
    「そうだ。おのれの体の一部のように愛しながら、常に捨てられる覚悟をおし。私も、おまえも、孤高の王。どれほど、心動かされるものに出会っても。己以外に魂を奪われ、虜囚になるな」
    「虜囚? かけがえないものがこの世にあるだけで、囚人同然か?」
    「この北の地で、命と同価値のものを手に入れれば、それはわれらを繋ぐ鎖となる」
    エヴァはそう言ってきかせました。やがて孤独になる男の子への忠告でした。甘やかされて愛に囲まれて育った末っ子が、愛や恋といったみえみえの罠にひっかかって、身を滅ぼさないように。子供は分かったような分からないようなあいまいな顔つきをしていましたが、やがて頷きました。賢い子。エヴァは自分のことばで、ひとつ思い出すものごとがありました。
    「アウラレギウス」
    小さく呪文を唱えると、風が巻き起こり、彼女の手の中にふるびた鎖が現れます。「私がほんの小さな小娘だったころに手に入れた、いにしえの鎖だ。知恵あるものから渡されれば知恵が身につくという。私はあの学者のように学があるわけではないけど。おまえを見ていて思い出した」
    この鎖は彼女にとっては自由と孤独の証でした。大事に宝箱に閉まっていましたが、自由と孤独をすっかり手に入れてしまった彼女には、もう無用のものなのでした。
    「どうせ鎖をするなら、これにおし」
    エヴァは坊やの首にそれを巻いてやりました。坊やはきょとんとしていました。もとから賢い子ですし効果がないのかもしれません。そもそも本物かどうかも怪しいものです。北で知恵など、意味があるのかどうかもわかりません。なにせ力がすべてですので。持っていればかえって不幸なのかもしれません。厳しい土地に生きるちっぽけな人生の理不尽に、気づいてしまえば、抗うか諦めるかしかないのですから。なのでこれはただの、年嵩の魔女から年若い魔法使いへの、祝福と、祈りでしかありませんでした。
    ですが坊やはうれしそうに笑って、「強い魔女の贈り物だ。大事にする」と言いました。とはいえ本物でも偽物でも価値のありそうなものです。売り飛ばされるかもと思いましたが、それでも特に頓着しませんでした。それでその鎖のことは忘れてしまいました。







    ネロ

    ベイン家が歯抜けのように減っていくのと同じころ、ブラッドリーはネロを連れてエヴァのすみかに遊びに来ました。この時ブラッドリーは五十にはなっていなかったように思います。
    「よお、エヴァ。こいつは手下のネロ。賢いからな、いろいろ見せてんだ。ほらネロ挨拶しろ」
    ネロを紹介された時、おやま、ずいぶんきれいな子だこと、とエヴァは思いました。ブラッドリーの坊やは面食いらしい。チレッタほどではないにしても。年上の奔放な大魔女は、あきれたことに、弟子を顔で決めたらしいのです。本人から聞いたので間違いありません。ブラッドリーはネロの坊やの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でました。年は十二、三でしょうか。どこもかしこもほそっこく、骨ばかりが目立っている子供でした。北の束の間の青空を反射した雪のような髪が、すっかり大きくなった男の手の平の下でかきまぜられて絡まっています。長い前髪の隙間から金色の目が魔女を見上げていました。静かに観察するような目つきです。エヴァと目が合うとさっと目を伏せて、
    「こんにちは。お会いできて光栄です」
    と言いました。エヴァは軽く顎を引き挨拶を受け取ると、坊やたちに椅子を進めてやり、茶を入れました。あ、おれ、いれますよ、とさっと動こうとする年下の坊やを制して、年上の坊やが「ご相伴にあずかろうぜ。エヴァの茶はうまいんだ」と言います。そして先にどっかりと椅子に座ると、少年の細いばかりの手首をひっつかんで引き寄せ、膝に座らせました。エヴァは呆れました。まるきりブラッドリーの父親や、兄たちが彼にしたことと同じだったからです。なるほどブラッドリーの坊やはこの年若くて気づかい屋の坊やを愛玩用の獣の子のようにかわいがっているようでした。それで、彼の今は石になった父がそうしたように、自慢しに連れ歩いているのです。
    「ブラッドリーの坊や。北で宝を見せびらかすのはよした方がいい」
    「相手は選んでるぜエヴァ。あんただからだ」
    そう率直に信頼を好意をぶつけられれば、エヴァもしかめつらしい顔をしてばかりもいられません。膝の上ではがいじめにされ少年はじたばたとしていましたが、彼の頭領が少年の空色の頭を肘置きにして紅茶を飲み始めたので、とうとう耐え切れず、
    「ボス! おろしてください!」
    と咎めました。
    「へえへえ。まあお前も飲めよ」
    「自分で飲めます!」
    「じゃあ俺に飲ませてくれ」
    「ばかじゃないですか」
    なんだこのじゃれあいは。ネロに叱られるたびにブラッドリーがうれしそうにしているのも、エヴァをますます呆れさせました。そして暴れたせいではだけた少年の首元から、あの、エヴァがブラッドリーによこしてやった鎖がちらりとのぞいて、呆れは頂点に達しました。ブラッドリーは鎖を売り飛ばさず持っていて、それを手下の子度にくれてやったのです。
    どうやら甘ったれの末っ子であるブラッドリーの坊やは、子供を気まぐれにかわいがることで、魔法使いの長い一生の孤独をまぎわらそうとしている、と魔女は推理しました。このころにはブラッドリーの魔力は、石を食べることで日々増すそのさなかにおり、強いとは言えないまでも、弱い魔法使いとはいえなくなっておりました。このまま百年二百年と生き延びれば、ひとかどの魔法使いになるかもしれません。そういった強い魔法使いは、弱い魔法使いや人間を玩具のように扱い、蹂躙する権利があります。ですのでこの子供を気まぐれにかわいがり、使い倒し、やがて石になれば口にほうりこむのも、ブラッドリーの勝手というものです。エヴァは心の中でそう断じながら、二人の姿を眺めました。エヴァの視線の先で、ネロはようやくひとくち紅茶を飲み干し、それから目を瞬かせて、「おいしい」と呟きました。こどもらしい顔つきと声でした。
    ブラッドリーはそれからいくたびも、ネロをともなってエヴァを訪れました。ネロの手足はすくすくと伸び、細いばかりの体には実用的な筋肉がつき、ブラッドリーの背丈より少し低いところまで伸びました。ブラッドリーはそのたび飽きもせずにネロを自慢し、ネロは遠慮がちにその後ろに控えながらも、エヴァの紅茶を飲むと小さな子供の時と同じように目を瞬かせるのでした。






    悪党にまつわる吟遊詩


    さあみなさまお待ちかね。お話には必ず悪役が必要です。
    今からお話ししますのは北の大盗賊団。
    北の宝という宝を盗むだけでは飽き足らず、
    東の城から上等の細工品を、西の名高い美女を、
    中央に集まる東西南北の交易品のことごとく、奪うはやさは疾風のよう。
    南の海風も彼らの凍てつく心を溶かすことは叶わない。
    悪逆非道の限りを尽くす彼らこそ
    泣く子も黙る死の盗賊団、
    首領は名高きブラッドリー・ベイン、
    その名を聴いたら震えて眠れと申します……

    スカーラバの市へ行くのかい
    パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
    そこに住む人によろしく言ってくれ
    かつて愛した人なんだ

    これは中央の国におすまいの賢者様のふるさとの歌です。
    古い民謡だそうですよ。美しく悲しいしらべでしょう。みなさんも一度は耳にしたことがあるのでは? あっというまに流行りましたからね。特に西の国では演奏するたびに大喝采、老いも若きもそらんじているという噂。この歌は遠い北の国まで伝わって、死の盗賊団、その恐ろしい頭目、その片腕、熊の生き胆や赤子の血が好物という、悪名高き血の料理人、ネロ・ターナー。その血まみれの唇にも、このうつくしいしらべは乗ったのです。
    その様子を少しばかり語ってみましょう。

    ネロは、盗賊団のアジトのキッチンで、なにやら料理をしています。宇宙鶏でしょうか。哀れな鶏たちが息絶え、血を抜かれた姿で、財宝のように山積みになっております。彼らはこうして私たちの胃袋も満たしてくれているのですから、日々の糧に感謝しなければいけませんがね。料理人の空色の髪の毛は後ろで一つにくくられ、持ち主が動くたびに、右に左にひょこひょこ跳ねていました。
    その日首領は他の手下たちを率いてでかけており、ネロは留守番を仰せつかっていました。
    処女の生き血でも吸った後なのでしょうか、ネロはどこか物憂げに歌っております。そう、さきほどの賢者様のふるさとの歌です。すばらしい楽曲は、凍てついた盗賊の心にも届くのかもしれません。

    昼下がりです。遠い昔に打ち捨てられた村の、いっとう立派なお屋敷がその時のアジトでした。お屋敷と言っても、ぐるりと雪で囲まれていて、花のひとつもありません。キッチンは一階の南側。小さな窓があり、雪を反射した光がほんのわずかに差し込んでおります。北では貴重な火種がかまどにともされ、フライパンになみなみと注がれた油をゆっくりと温めています。ねんがらねんじゅう日の刺さない北の国の魔法使いらしい白い指先には包丁がしっかりと握られています。まな板に置かれているのは処女のはらわたでもヒグマの肝でもなく、ハーブのようです。どうやら彼がこの歌を口ずさんでいるのは、ロマンティックな理由でも、音楽が凍てついた心を溶かしたわけでもなく、もっと単純で即物的な連想のためのようでした。やはり北の盗賊、血の料理人に詩を解せる優しく繊細な心があるはずもありませんものね。
    ネロはただ、ハーブを切り刻んでいるから、心のままに、ハーブの歌を歌っているだけなのです。

    上着を縫ってくれと伝えておくれ
    パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
    縫い目も針の跡もない上着を
    そうすればあなたは私の恋人

    とんとん、とんとん。ネロは細かく細かく、親の仇にでもするようにハーブを刻みます。おっと、どちらかというと彼こそ、たくさんの人間や魔法使いから親の仇として憎まれている側でしょうけど。
    パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。ちょうど歌詞のハーブがひとそろい。刻みおえたらそれらと、銀河麦のこまかく挽いたやつを、山盛りの宇宙鶏にまぶして、よおくなじませていきます。一晩なじませた方がずっと味が染みておいしく仕上がるでしょうに、フライパンで熱されている油を見ると、どうもそうはならないようです。彼には急がなければいけない理由があるようでした。
    そう、あの恐ろしいブラッドリー・ベイン、死の盗賊団の首領が、一仕事終えて、今にもねぐらに戻ってこようとしているのです。ブラッドリーは、小さな子供のようにわがままで、血の滴るような肉しか口にしないのだそうですよ。聴き手のみなさまのおうちのぼっちゃん嬢ちゃんなら𠮟りつければすむことですが、悪逆非道の盗賊団の首領を叱るひとなど、魔王や双子以外におりましょうか。手下たちも何も言えずに、震えて肉を差し出すことしかできないに決まっています。まあ、実は、そうとも限らないのですけど……その話はまたあとで。そんなわけで、ネロはそのしらせを受けて、慌てて鶏肉を揚げようとしているのでした。
    キッチンに備え付けられた小さな窓を開けると、こごえるような風が雪を巻き込んで吹き込んでいます。弱い子供や老いた人間なほんの束の間で肺まで凍り付き死に絶えてしまうような、北の風……。ですがネロは魔法使いです。少し首をすくめましたが、臆せずに窓の外に手を突き出し、桟に積る雪のなかほど、きれいなひとかけをつかみました。すばやく窓を閉め、そのひとかけを器に盛ると、挽いた銀河麦を溶かして、くるくると混ぜます。そうして麦の溶けた雪水をひとしずく、油に落として、温度を確かめます。じゅ……っと、生まれたての小鳥の鳴き声ほどの小さな音がいたします。それに耳をすませ、満足したように頷くと、ネロは鶏を一羽ずつ、油に滑り込ませていきます。その手つきは急いでいますが、乙女の針仕事のように丁寧でした。
    やがて鶏と油の混じった、おなかのすくようなたまらない匂いが、フライパンから漂ってきます。ネロは汗をぬぐいながら、揚がっていく鶏を見つめています。空の青に麦畑がうつりこんだような瞳は、真剣勝負に挑むようです。いつしか歌もやんでおりました。彼がひとつまばたきをした、その時です。玄関の方から荒々しい物音と、おおきな声が響きました。

    ……おおい、今帰ったぞ。ボスのお帰りだ。みんな、お迎えしろ。

    屋敷じゅうの手下たち、屋敷の外の村中の手下たちが、わっと集まる気配がいたします。恐ろしい彼らの首領を、我先に迎え、称え、ねぎらうためです。わたしのような流れの吟遊詩人には分かりませんが、組織の中では上に取り入り、気に入られることが生き抜くすべと申します。あるいは抜け目なく分け前をもらう算段もあるでしょう。ですがネロはフライパンから離れません。大事な首領の帰還に見向きもせず、深いためいきをついて、鶏を揚げ続けています。こんがりと南の国の狐の色に揚がったら皿に取り出し、また一羽揚がったらさらに取り出し、そうして、二羽、三羽と、山のように積みあげていきます。
    その鶏を、彼の背後からつまみあげる、不埒な指先がございました。
    「こら、つまみ食いすんな」
    「いいじゃねえか、俺のためのもんだろ」
    堂々と開き直る男こそ、ブラッドリー。死の盗賊団の首領でございます。ネロは答えず、唇を尖らせると、最後の一羽を皿に積み上げ、呪文で火を消しました。
    「うん、うまい! 一仕事のあとはこれに限るぜ」
    ブラッドリーは傷の走る顔を少年のように無邪気な笑顔でいっぱいにしてそう言いますが、ネロは背を向けたままです。ブラッドリーは少し困った顔をして、首に無造作にかけていた宝飾品を外し、ネロの顔を覗き込むと、その薄い胸にぐいと押し付けます。赤子のこぶしほどもあるエメラルドのはめ込まれた、見事な金細工の首飾りです。しかしネロは「高く売れそうだな」と、静かに言ったきりで、おおげさに喜んだり驚いたりはしませんでした。おや、どうやら、この場においては、相手の機嫌を取っているのは部下ではなく上司の方のようですね。広い世の中そういうこともあります。ええ、特に、非常に親密な二人の間では。
    やがてネロが根負けしたように、ぽつりと静かに呟きました。
    「怪我は」
    ブラッドリーは笑って肩をすくめました。くすねた鶏をもう一羽口に放り込みながら、行儀悪く喋ります。坊ちゃん嬢ちゃんは真似しちゃけませんよ。
    「ねえよ。簡単な仕事だった。俺様を誰だと思ってんだよ」
    「……俺も一緒に行きたかった」
    「ここに移り住んだばっかりだから、留守を頼むって言っただろ」
    「そうだけどさ……」
    ネロはぐずる赤子のように納得しきれない声を出しましたが、ブラッドリーが彼の肩を来やすい仕草で抱き、
    「お前の指輪のおかげで、今回もうまくいった」
    と言うと、口をつぐみ、蕾がほころぶように、静かにほほ笑みました。そして調理台のふきんで手をぬぐうと、彼の首領の右手を取り、人差し指にはまっている、石のついた指輪をそっと抜き取りました。
    「また次も嵌めてくれよ」
    とブラッドリーが言い、
    「次は連れて行けよ」
    とネロは答えました。
    ブラッドリーは山盛りの鶏を皿ごと奪うと、機嫌よく去っていきます。足取りは軽く、ダンスのステップのようです。ネロはキッチンに戻り、腹をすかせた手下たちの胃袋に詰め込むたべものを作る作業にとりかかります。
    彼の唇からはまた歌が流れました。物憂げな気配はさきほどよりは取り除かれております。口ずさむのはさきほどと同じ、どこか遠い世界の歌です。決してかなわぬ無理難題を願う、冷たくむなしい、恋の歌。彼の服の下で、ふるびた鎖がちゃらりと音を鳴らします。知恵ある魔法使いから魔女へ、魔女から盗賊団の頭領へ、頭領から片腕に伝えられた、いにしえの鎖というものです。北の国で知恵があることは、幸せなのでしょうか。それは一介の吟遊詩人にはあずかり知らぬこと……。



    1エーカーの土地を探しておくれ
    パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
    海と波打ち際の間の土地を
    そうすればあなたは私の恋人……




    魔女エヴァは、若い男の子たちにきつく言ってきかせました。小さなころのブラッドリーの坊やに言って聞かせてやったことの、繰り返しです。
    「賢い坊やたち、よくお聞き。この世で自分自身以外を恃むことなど、してはならぬ。もしそれを破れば、お前たちに恐ろしい罰がくだるだろう」
    けれども男の子というものは、古今東西南北中央、聞き分けがないものです。
    それで結局、みなさんがご存じの通り、ぜんぶが滅茶苦茶になりました。



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    Replies from the creator

    niwa

    DONE盗賊団時代のブラネロ。他にも付け足してインテの本になります。
    悪党にまつわる吟遊詩さあみなさまお待ちかね。お話には必ず悪役が必要です。
    今からお話ししますのは北の大盗賊団。
    北の宝という宝を盗むだけでは飽き足らず、
    東の城から上等の細工品を、西の名高い美女を、
    中央に集まる東西南北の交易品のことごとく、奪うはやさは疾風のよう。
    南の海風も彼らの凍てつく心を溶かすことは叶わない。
    悪逆非道の限りを尽くす彼らこそ
    泣く子も黙る死の盗賊団、
    首領は名高きブラッドリー・ベイン、
    その名を聴いたら震えて眠れと申します……

    スカーラバの市へ行くのかい
    パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
    そこに住む人によろしく言ってくれ
    かつて愛した人なんだ

    これは中央の国におすまいの賢者様のふるさとの歌です。
    古い民謡だそうですよ。美しく悲しいしらべでしょう。みなさんも一度は耳にしたことがあるのでは? あっというまに流行りましたからね。特に西の国では演奏するたびに大喝采、老いも若きもそらんじているという噂。この歌は遠い北の国まで伝わって、死の盗賊団、その恐ろしい頭目、その片腕、熊の生き胆や赤子の血が好物という、悪名高き血の料理人、ネロ・ターナー。その血まみれの唇にも、このうつくしいしらべは乗ったのです。
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