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    shimotukeno

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    ワードパレット 春告鳥フーイル

    quercia石畳の上を、小さな影が滑っていく。空を見上げると燕尾服を纏った春の洒落者だった。パッショーネ本部へ向かっていったので、ひょっとすると今年の入居者になるのかもしれない、とフーゴは思った。
     つばめに続くように、フーゴも早足で歩く。通りにはリストランテやブティックが並び、観光スポットではないものの、買い物客が行き来している。その通りにあるカフェがパッショーネ本部の裏口の一つだ。
     そのカフェの入り口から、おなじみのおさげ頭がひょっこり出てきて、よく響く中低音(バリトン)で笑った。
    「そろそろ来ると思ってたぜ~」
    「なんでここに……」フーゴはぼやく。
    「なんでって、カフェの客としてきたんだが」
    「本当かなあ」
     確かに表向きはただのカフェで、しっかり営業をしている。本部の建物もだって一見すると六階建てのホテルか何かだ。ともかく、イルーゾォと出くわしたからには今はこの入り口を使わない方がいいだろう。フーゴはため息をついて、踵を返した。
    「おい、どこに……あ、ごちそうさまー!」
     イルーゾォは慌てて店から飛び出す。すっかり成長して歩幅も広くなったので追いつくのは容易だった。
    「なんで帰っちゃうかなあ、冷たくない?」イルーゾォは子供っぽく頬を膨らませる。
    「このタイミングで入ったら目立ちすぎるでしょ。君こそ、ただお茶しにあのお店に来たわけじゃなさそうだけど?」
    「フーゴの顔が見たくなった」
    「一昨日見たばっかりでしょ。それに、展示中はほとんど毎日顔出してたし……!」
    「あれ嬉しかったなあ、おやじは恐れ入ってたけど」イルーゾォはカラカラと笑った。イルーゾォの初個展、彼の在廊中はほとんど毎日フーゴが顔を出していたのである。当然、イルーゾォと店主のおやじへの差し入れを携えて。
    「――でも、本当は毎日見たいんだぜ。目と脳、耳と鼻に焼き付けて、二度と忘れられないようにな」
    「イルーゾォ……」
     どこかしんみりとしたイルーゾォの横顔に、フーゴも静かに目を伏せる。幼い頃に亡くした母の記憶は、どうしても薄れてしまうのだろう。写真があったとしても。死者は思い出の中で美しくなっていく、とは言うが、鮮やかに美しくはならないのだ。霧が景色を美しくするように、かすむことで美しくなっていくのである。随一の記憶力を持つフーゴでさえ、大切な恩人の声色を思い出せなくなることがある。
    「ま、てなわけで、今日も会えてうれしかったぜ、フーゴ! またすぐ会おうな! チャオ!」
     何事もなかったかのようにけろっとのんきな顔になったイルーゾォは、フーゴの頬にふれるだけのキスをすると、足音を弾ませて去っていく。
    「もー、一体何なんだ……」フーゴは呆れと困惑の入り交じった表情でその背中を見ていた。
     いくらなんでも自由すぎる。――だが、それでいい。フーゴの顔には自然と笑顔が浮かんでいた。あの子はそれくらい自由でいいのだ。自分は疲れたときに羽を休める止まり木であればいい。身を隠す枝葉であればいい。落ち着ける秘密のねぐらであればいい。あの愛おしい小鳥の安心できる居場所の一つでありさえすればいい。
    「また、いつでもおいで、イルーゾォ」
     フーゴは小さくなっていく背中に、そっと呼びかけた。
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