それでも呪ってくれるか1.
その日五条悟は、生まれて初めて呪術高専を訪ねていた。六歳の春だ。
五条の家の者は五条を管理したがる。口に入れるものも身につけるものも訪れる場所も、五条はすべて選びぬかれていた。そして五条はそれらすべてが大嫌いだった。
だからその日、家の者に連れられてやってきた高専で、わざと迷子になってやったのだ。迷子になったというか、連れを全部撒いた。腹立たしいが、連中がこれを迷子と表現するだろうことは察している。
ほんの数刻姿を消して、相手がてんやわんやし疲れ切ったころにしれっと姿を見せてやろう。五条にとってのいたずらであり、反抗期だった。自分を飼う大人たちを苛々させてやりたかった。そしてそれ以上に、初めてやってきた広い学校に興味も抱いていた。
(ほんとに全部ハリボテ)
といっても五条にとっては、映画の舞台セットを眺めるようなものだ。天与の碧眼をもってすれば本物とそうでないものはすべて見分けることができた。これだけ質のいいハリボテを作れるなんて、天元はまあ確かに大したやつのようだなんて上から思いながら。
(……さむ)
まだ桜にも早い早春。上着なしに出てきたのは失敗したかと思う。連中をとにかく完璧に躱すために、タイミングを完全に見計らった。結果として室内で過ごす格好そのままなのは少々計算ミスだ。
細い風が白い襟足を撫でる。小さな手で腕をさすり、そろそろ戻るか、いやまだ悔しい、などと考えていたとき。
「……?」
五条の目に不思議なものが止まった。
それは連なる鳥居だ。いわゆる千本鳥居の如く、道をトンネルのように鳥居が覆っている。しかし何かがおかしい。
(……あ、全部裏だこれ)
見上げた鳥居は、すべて背中を五条側に向けていた。
本来鳥居とは結界であり、不浄なものを入れないための措置のひとつだ。それが連なるようになった事情には人間の欲とか呪いとかがぎっしり詰まっているが、少なくとも高専で見かける鳥居は、きちんとそれら元来の意味をはらんでいた。
そして目の前のこれらも、六眼で透かしてみれば、ハリボテではない。
ということはこの裏向きの鳥居の先には。どうしても遠ざけたい不浄なものが存在するのでは?
五条悟は一秒だって自分の好奇心に逆らわず、鳥居の道へ歩き出した。
鳥居の小径はゆるやかな坂を描いていた。五条がそろそろ飽きたころ、ふと視界が開け、そこにあったのは社殿だ。
後ろはすぐ山になっており、梢の群れが社殿を包み込むようでもあった。
分厚い屋根は重層構造、分かりやすく拝殿が開けているが賽銭箱はない。
その拝殿に、誰かが座っている。
(……人間……か……?)
白い和服の人を珍しいことに判別できず、五条は首を傾げた。これは五条にまだ経験値が少なかったせいだ。
その人は拝殿の屋根の下を縁側のように使い、ぶらぶらと足を投げ出して座りながら、何か俯いて作業しているようだった。
桜色の短髪。
ひとまず若い青年に見える顔立ちと姿。両目の下、目尻に沿うように走る対の傷がやや目立つ。
(こんなやついたのか……)
高専には今のところ赤の他人しかいないが、こんなふうに、市井でふらふらしてそうな気さくな雰囲気の人間は初めて見た。なんで気さくに感じたって、青年は鼻歌を歌っていたからだ。
「え?」
この声は五条ではない。
次の瞬間、目の前の青年が顔を上げた。五条は遠巻きに、しかし隠れることなどせずそれを見ていたのだから、ばっちりと目が合う。
時が止まった数秒。
相手はまじまじと五条を見ていたし、五条もまじまじと相手を見た。距離は少し合ったが、二人にとって特別支障のない距離だった(お互い預かり知らぬことだが)。
先に動いたのは桜髪の青年のほうだ。
「こんなとこでどうした?」
ここが呪術高専であっても、社殿であっても、風の冷たい早春であっても、どれにも不釣り合いな朗らかな声だった。
まるで庭先にしゃんしゃんと桜を降らせるように、軽やかに青年は立ち上がり、五条に歩み寄ってきた。青年が踏む石畳すら明るく見えた。
五条はついそれを眺めてしまう。もしかしたらこの人が歩いた足跡は光るんじゃないか、そんなありえない期待を抱いてしまうような雰囲気だった。呪術界には物珍しい挙動だ。
(何歳だ)
五条悟は近づいてくるじっと相手を見上げ、見つめた。相手の呪力が不思議な色をしていたからだ。
赤と黒。マーブルのように入り混じっているのに、溶け合うことなく、それでも複雑に模様を描いている。
じっと見つめていると、相手はなにか思い違いしたらしい。表情が苦笑いになる。。
着流しに襟巻き。気軽な和服を着慣れているようだが、五条は首を傾げる。
(なんで女物?)
そうこうしているうちに、相手は五条の目の前まで来ていた。
五条の前で膝を折る。仕立ての良さそうな生地でためらいなく地面に膝をつき、五条の顔を覗き込んだ。相手が低くなったことで、ようやく六歳の五条と視線がほぼ同じになる。
「迷子? 母ちゃんは?」
ブチッ、と、五条の頭で何かが切れた。
「子供扱いすんな!」
「おわっと」
五条家の者は五条悟を蝶よ花よと持て囃す。五条はそのすべてを馬鹿だ阿呆だ道化だと思っていた。だから幼く見られたのは、他人から幼児として扱われたのは、五条にとってこれ以上ない侮辱だった。
相手を突き飛ばすのに合わせてほぼ無意識に術式も放つ。相手を軽く弾き飛ばすくらいのイメージだった。
五条の想像通り、相手の腕がぱちんと後方に弾かれる。しかし次の瞬間、五条の手首がものすごい力で掴まれていた。掴んだのはもちろん目の前の男だ。
「!?」
無下限は身体に纏っている。だがまだ未発達の呪力を、上回る圧倒的な呪力で抑え込まれたのだ。
こんな威圧もこんな無礼も初めてだ。五条がつい言葉を失って呆然としていると、目の前の男の雰囲気がガラリと変わった。
「調子に乗るなよ。小僧」
血液のようにどす黒い呪力。
その顔に、腕に、滲み出たような文様。爪が黒く伸び、頬の切れ目から一対の目が除く。
獲物を睥睨する真紅の目。
ぞわりと五条の本能が震えた。
これは呪霊なんてレベルじゃない。鬼神だ。
自分には【まだ】勝てない。
生まれて初めて、己より強いものを痛感した。
――しかしまた次の瞬間、相手の雰囲気が切り替わる。
「“すくな”、子供いじめんなって!」
目の前の男は突然中空に向かって叫ぶと、慌てた様子で五条を見た。手首を解放したかと思えば、今度は両手で包むように撫でてくる。
「ごめんな、びっくりしたろ」
その手が信じられないほど温かくて、五条はびっくりしながら相手をまじまじと見上げた。
まろく下がった目尻、それに見合った桜色の優しい呪力。顔も腕も黒い文様は消えている。
相手はおひさまのように――くだらない比喩だと思っていた。なのに自然にそう感じた――微笑み、五条の頭を撫でる。それは侮辱行為のはずなのに、五条はまるで毛布に包まれたような心地を得た。
「危ないからもう来るなよ」
神様のようだと思った。
さらに言えば、女神様のようだと思った。
自分の手首をいたわる大きな手、その手に五条は両手で触る。そっと包むように握り込む。大きさの違いはまさしく大人と子供だ。
生まれて初めて、己より強く己より優しいものに触れた。
――五条が六眼を有しているのは幸いだった。呪力の流れを見極めることで、初対面でありながら五条は『黒い呪力』の彼と『桜色の呪力』の彼がまったく別物であると理解できた。
五条は迷いなく桜色の彼の手を掴み、うやうやしく力を込める。
「結婚して」
「はい?」
六歳の春。五条悟の歴史に刻まれる一日だった。
ちなみにこの数秒後、また黒い方の彼が現れて「調子に乗るな」と鳥居から五条を叩き出した。
五条はのちに黒い彼を『両面宿儺』、桜色の彼を『虎杖悠仁』だと知る。
虎杖悠仁への懸想、それすなわち両面宿儺との終わらない小競り合いの始まりだったことを、まだこの頃の五条は知らない。