嗚呼、愛しき工房の日々 幕間2「ダンテぇ〜? 良かったじゃな〜い?」
新規開拓した取引先との打ち合わせ帰り、うりうりと小突かれ顔をあげた。
<うん? うん、そうだね。難度も低いし、割のいい案件だと思うよ>
外勤者育成にも安心して使える良い仕事だ。さっそく資料の準備をと書きつけるために開かれたノートはニヤニヤと笑うロージャの指先によって閉じられてしまう。
「違うわよ〜! ムルソーとのこと」
彼女と、そしてグレゴールにだけは本当のことを話していた。上司である恩人と特に親しい友人を欺き続けることは現実的に不可能で、また心苦しくもあったからだ。
「『工房での無用な誤解を避けるため』って言ってたけど……上手いことやったじゃない」
<うん。まさか私もムルソーがいいって言ってくれるとは思わなかったよ……>
誤解も表向きには真実としてしまえば誤解ではなくなる。自分はともかくとして、ムルソーもまたどうしてかすんなりと首を縦に振ったのだ。
「いいのよ。形から入るのだって立派な手段。そこから本物にしちゃえばあなたの勝ちなんだから!」
<え>
幻影の時計頭に付属している秒針が一度停止し、10秒で一周する勢いで回転を始めるのが音でわかった。内心の動揺すら忠実に反映してしまうのはこの阻害機の欠点だ。
<ロージャ、どうして……>
「あら〜? バレてないと思った?」
ロージャにも、グレゴールにも、そしてムルソーにさえ。
一つだけ、意図的に伏せていたことがある。
「好きになっちゃったんでしょ」
確証がなかったから。
初めての、感情だったから。
取り繕われた好意。毒を孕んだ厚意。
そんなものにばかり囲まれて生きてきたから、お伽話の類なんだと思っていた気持ち。
あの日ロージャが手を差し伸べてくれなければ、現実に温かみのある心を知らなければ。『もしかしたら』と思うことすらなかっただろう。
この陽の光を反射して輝く硝子みたいなキラキラとしたものが、そうだ、なんて。
何度自問自答しても断定できなかったそれは、彼女の声でようやく確信に変わる。
<……………………うん>
「応援するわよ〜。ダンテとくっついたらムルソーのことも安心だし、良い事しかないじゃない」
わからないなりに、自分の中で大事にするだけのつもりだった。
手の中で光を振りまくそれを宝物みたいに抱きしめて、ただこのひと時を私だけこっそり楽しめたならそれだけでいいと、言い聞かせていたのに。
ちゃんとしてるのにほっとけない。あの静かな笑顔をもっと見たい。
あんなに冷たく感じたはずの仕事中の横顔が、今は結構格好よく見えたりなんかして。
落ち窪んだ頬も、ぺったんこのお腹も、私のこの手で埋めてしまいたい。
<私、そういうのって知識なくてさ>
その先はだめだと無意識に引いていた線に爪先が乗る。
やってみてもいいのかと、恐る恐る手を伸ばす。
<ロージャ、駆け引き得意でしょ。教えてくれる?>
「いいわよ〜。ま、見るからににぶちんだし、しばらく押せ押せでいいと思うけど……ね」
本当に彼女はいつだって、私を新しい世界に引っ張っていってくれる。
⭐︎⭐︎⭐︎
「ムルソー、終わりだとさ。行こうぜ」
口元の布をぐいと下げ、血と脂ですっかり鈍くなったチェーンソーを空ぶかししながらグレゴールは不自然に立ち止まったままの男に声をかける。
以前はこんな時大抵ぼうっとしているか、酷ければ立ったまま寝ているかのどちらかだったが、短く返ってくる返事をみるに今は意識があるらしい。
「少し待ってもらえますか」
「別に構わないけど……何だ、面白いもんでもあったか?」
屈みこんだ視線を追えばケーキ屋の看板。巣に近いとはいえこの区画でこんなに遅い時間までやっているのも珍しい。
中へ入るのについていくと、バーカウンターの横にケーキのショーケースがあり、マスターらしき人にティラミスを注文したばかりのムルソーは次に詰まっているようだった。
「………………」
残業のお供か? それとも。まあ、答えは見ればわかるとはいえ。
どちらで揶揄おうかとしばし逡巡の後、結局グレゴールが出すことにしたのは助け舟だった。
「あー、そういえばダンテさん、この間プリン食べたいって言ってたなあ? 仕事に疲れた日の夜に紅茶飲みながら食べるのはシフォンケーキがいい、とも言ってたけど」
せいぜい悩め。二択にしてやったのは、側から見ていてあまりにも焦ったい、自覚のできない男へのちょっとした意地悪だ。
グレゴールの大きな独り言にハッとしたムルソーは、結局そのどちらともを指差した。全く甘いものだと鼻で笑えば、白い箱がひとつずいと目の前に差し出される。
「あんやぁ、くれるのか? いいのかよ」
「……情報料です。あなたもコーヒーを好むから、ティラミスは嫌いではないでしょう」
感謝する、と。男の顔は幾分か柔らかく、とてもそのきっかけとなった相手との関係が仮初のようには思えない。
店の外に出れば冷え始めた夜風が体を撫でる。
ダンテの声を聞けるのが心底嬉しいのだろう。一言断って電話をかけながら少し遅れてついてくる今の男の顔を、仕事中の仏頂面に全く見せてやりたいものだった。
「ダンテ、寝ていましたか? いえ……ええ、ちょうど今しがた終わりまして。それでその、……ケーキが、あるのですが。もし良ければ、これから……」
電話越しに軽快な笑い声が聞こえる。
いつの間にやら立ち止まっていたムルソーの袖を引っ張ってやれば、遠くを見ていた緑の視線がグレゴールへと戻りはっとして表情で頷いた。
「はい、……はい。伝えます。では、また後で」
電話を切り幸せそうに息をついたムルソーはもういつもの無表情に戻っていたが、一度伏せられるまでその目元に穏やかな余韻が残っているように見えた。
「グレゴール、あなたも夜食を食べていかないか、と」
「嬉しいけど遠慮しとくよ。夜のうちにもう一件片付けたいんだ。お邪魔したら最後、旦那のうまい飯をたらふく食わされて眠くなっちまうからな」
「ふ……ああ、全くもってその通りだ」
細められた目に、今この場にはいないダンテをロージャと二人で小突きまわしたくてたまらなくなる。この男にこんな顔をさせる身でありながら、一方通行の心を心配するのか。
ムルソーもムルソーで、あまりにも己の変化に対し無頓着が過ぎる。
「頑張れよ?」
工房への分かれ道、生身の腕で背中を叩いてやれば緑の星が二つ瞬いた。
<待って、グレゴール!>
声のした方を見上げれば、手を振りながら時計頭の炎が揺らいでいる。
目の前におろされたカゴの中には、ラップと紙で綺麗に包まれたチーズと野菜たっぷりのサンドイッチに缶コーヒー。
<寄らないって聞いたからさ。これ仕事の合間にでも食べてよ>
全くとんだお人よしだ。似たもの同士だとは思っていたが、これは案外違うのかもしれないとグレゴールは顔をくしゃくしゃにして笑う。
大体、想い人が夜にケーキを持って訪ねてくるようなうってつけのチャンスに他の客を招くだなんて。
「ありがたくもらうよ旦那。さて、じゃあ……邪魔者はここらで、な?」
見下ろすダンテにだけ見えるよう片目をつぶってみせれば、定刻でもないのに慌てた様子の時報が鳴った。
「旦那、夜中にその音は近所迷惑だぞー」
<なん……っ、君が変なこと言うから!>
あとはせいぜい上手くやれよ?
ゆっくりと歩き出し、小さな笑い声もすぐ風にさらわれ掻き消える。
今の話を共犯者に伝えたくてたまらない。こんな時間だ、彼女ももうとうに帰っていて叶わないだろうけれど。
「…………おっ」
腕からこぼれ落ちそうなほどいっぱいに食べ物を抱えたグレゴールの向かう先、誰もいないはずの工房には、一部屋分だけ灯りがついていた。