嗚呼、愛しき工房の日々66.
歩く廊下の先、工房の入り口から飛び交う朝の挨拶。
皆が声をかけあうのは良いことだ。鼻歌でも歌いだしたいくらい気分が良かったけれど、隣を歩くムルソーが首を傾げそうな気がして思いとどまる。そんな軽い足取りを転かすように黄色い旋風が駆け抜けていく。
<うわっと!>
「おはようございまする管理人殿ー!! と、ムルソー君!」
<おはようドンキホーテ、そんなに走らなくても間に合うよ>
「おはようございます。今は……朝礼の10分前ですね」
そういえば彼女は本来いつも時間ギリギリに来る。電車を降りてから事務所までの道を急ぐのが習慣になっているのかもしれない。元気の良い挨拶と共に急ブレーキをかけたドンキホーテは向き直り、いつもの5割増しで光を蓄えた瞳を輝かせる。
「ん? 二人が一緒に出勤……? ということは……。お、おぉ……! やはり、やはりそうであったのだな!?」
<えっと、何がかな?>
私は何も予定がなければ大抵このくらいの時間に工房へ来ている。いつもと違う、といえばムルソーの方か。
彼は交通機関の関係もあっていくらか早く出勤し、朝礼までの時間も何かしらの作業をして過ごしていることが多い。私の家に泊まるときは急ぎの案件がない限り時間を私にあわせてくれていて、ゆったりと朝食とコーヒーを楽しんでから二人で連れ立って来る。
「隠さずともよい、管理人殿とムルソー君は、おつきあいの間柄だったのだろう!」
<えぇ!?>
はつらつとした口からの予想だにしない誤解に思わず素っ頓狂な声が飛び出した。
「倒れてしまったムルソー君に管理人殿が口付けてからというもの、日に日に顔色は良くなり、髪もつやつやしてきたではないか。共に昼食をとり、仮眠室で手を握りあって眠り、皆もしかするとと噂していたのだ。さらに私は昨日二人が夕食の相談をし、今日揃って出勤したのを見た! これはもう、もう……!!」
<待って待って待って他はともかく何で仮眠室のこと知ってるの、私全部にカーテンつけてたよね!?>
私も眠っていたときなのだろう、間違えてめくった誰かに見られていたらしい。
「本当に恋人であったとは何と素晴らしいことだろうか! こんなめでたいことはすぐに知らせねばなるまい…!」
<本当に待ってってば!?>
「おーい皆の者ー!!」
引き止めようとした指の先が布をとらえるも、速度に耐えきれずつんのめった隙にひらりと抜けていく。静止も虚しく、しばらくして工房の開け放たれた扉から聞こえてきた賑やかなどよめきに頭を抱えた。
<あー……>
餌付け、夕食、一緒の出勤、一つのベッドでの仮眠、そしてつきっきりの看病といううってつけのきっかけ。羅列された事柄を客観的に見れば、確かに状況証拠としてはあまりにも十分すぎている。
<えっと…………>
事実、私自身思うところはあれど。
彼にとってはそうではない。
首を嫌な汗が伝う。今この瞬間だけは私の頭が本当に時計だったらと思わずにはいられない。
<…………ムルソー、キスは誤解だ>
「はい。記憶は定かではありませんが、施された治療行為がそのように見えたのですね」
<うん……>
気まずい。いや、ムルソーの顔を見れば表情ひとつ変えていないのだから、私だけがそう感じているのかもしれないけれど。
私の気持ちは最悪どうだっていい。だが、せっかく受け入れてもらった彼への支援に今後支障が出るのだけは避けなければならない。
周りから見てもおかしくなくって、サポートを続けても自然で、そして、ムルソーに向かう誤解を無くせる方法。
<ううん……>
チチチチチ、と実体のない細かな針が思考をよりいっそう急きたて焦らせる。
<……………………。私たち、いっそ本当に付き合ってることにしようか>
小気味良い音が鳴ったばかりの時計の形をした幻想に隠れた額へと軽い音が鳴るほどの勢いで手を戻す。
どうにかこうにか考えついた唯一がこれ、だなんて。
誤解も表向きの真実にすれば誤解ではなくなる。確かに誤解ではなくなる、けれども。
普通に考えて、嫌だろう、こんなの。
私にしか利がないし。
「そうしましょう。あなたがそれで良いのなら」
<うん、だよね…………って、ええ!?>
耳に届いたのは、彼がよくする聞き慣れた返事。
「解決しましたね、ダンテ。では行きましょう……そろそろ朝礼の時間です」
数歩先から振り返ったムルソーは、しばしこちらを見つめてからまた踵を返して歩き出す。
<はぇ…………え、えぇ……?>
今もなおその場に残されたような錯覚をさせる、静かな重みを持った緑の視線が私をその場に縫い留める。戻ってきた彼が手を引いてくれるまで、その余韻は続いていた。