建物と建物の間の路地、喧嘩するにはうってつけのような場所に壁に寄りかかって座り込んでいる。周囲はここで誰かが暴れましたよと言わんばかりの散らかりようで、逃げて行ったやつらの痕跡といえば勝ったもののちょっと立てそうにない自分と、血の付いた刃物だけになっている。
無意識に手で押さえている脇腹が熱い。ガキの喧嘩で刃物なんか出してくるんじゃねえっつんだよ。
別に調子が悪いわけではなかった。いやうそだ、少しぼーっとはしていた。気温とか空気感とか色々とあまりにもあの日と似通っていて、望んでもいないのに壊れたビデオテープのように何度も彼の顔を繰り返し思い出していた。
注意力が散漫になっていたのだろう、ぶつかったぶつかってないのありがちな諍いは、ヒートアップする前に相手の数人のうちの一人から上がった「お前水戸だろ」の声を発端にあっさり殴り合いに切り替わった。どこで買ったか覚えていない恨み――というよりただの逆恨みから始まった小競り合いは結果としてどいつも大した事はなかったが、粘着そうな雰囲気をした一人が刃物を持ち出したことにより空気が一変した。
壁伝いにずるずると上半身を倒して完全に寝転がる。見上げた先に浮かぶ切り取られた狭い空は、春特有のぼんやりとした青空でまた記憶がよみがえる。
あの日は卒業式だった。自分のではなく彼――三井さんの。
俺を呼び出した三井さんは意を決したような顔でただ「好きだ」と言ってくれた。当時の俺たちといえば親友とバスケを介してだんだん距離が縮まり、普通の友人のように接していけるようになっていった。二人きりで会話することも増えた頃にはもう殴り合いをしたような関係にはとても見えないほどで、それを自覚するたびに一人でこっそり笑いを浮かべてしまっていたのを覚えている。
そこから秋、冬と季節が移り替わっていくにつれ、彼の瞳の熱量が増していってることに気付いていて気づかないふりをしていた。多分、三井さんも気づいていたんだろう。彼の瞳に映る俺の目にも同じ熱が灯っていて、だけど無理矢理暴こうとしなかったのは彼にも同性という葛藤があったからだと思う。
危うい均衡を保ったまま迎えた卒業式、勇気を振り絞って伝えてくれた想いに俺はNOを返した。
傷ついた表情と、泣き出すのを堪えてながら笑ってくれた顔をいまでもはっきりと覚えている。
煙草吸いてぇなと思ったけれど起き上がるのは億劫で血のついていないほうの手を彷徨わせる。手探りでポケットから出したそれは外装は少しひしゃげていたけれど中身は折れていなかった。一緒に取りだしたライターで火をつけて空へ向かって煙を吐き出した。ソフトフォーカスがかかったような青に煙の白が溶けていく。
―あの世でも煙草って吸えんのかなぁ吸えたらいいなぁ。
別に死ぬような怪我じゃない。多分。切っ先が向かってきた時、咄嗟に重心をずらして脇腹を掠めただけに止まったけれど、当たり前のように流れ出した血に相手がびびって腰が抜けていたところを蹴り飛ばせるくらいには深い傷にはならなかったのだから、自己陶酔もいいところだ。
自己陶酔、欺瞞、後悔、独りよがり、懺悔、自嘲、未練。くだらねえ。
夜だったら良かった。夜なら己の罪を反芻するように思い返したりしなかったかもしれないし、仮に同じことになっていたとしてもこんな路地なら誰にも見つけて貰えずひっそり死ねたかもしれないのに。
かさぶたに爪を立てては、治りきらないそこから血が滲むのを眺めているような行為を繰り返して、そのうち本当に身を滅ぼすのかもしれない。
短くなった煙草をアスファルトに押し付ける。
これからどうしよう。まだ起き上がるにはあちこち痛くて、でもこのままこうしているわけにもいかない。だんだん考えることを放棄した頭が霞んでいく。なんだか眠い。
元々ろくに開いてなかった瞼が落ちかけた時、遠くでジャリっと小さく靴音が鳴った。おそらく路地の入口から伸びてきたのであろう影が顔にかかって、でも首を動かす元気も無いのでそっちを向くこともしないまま目を閉じる。
「――…?」
聞きたくてたまらなかったあの人の声で俺の名前を呼ぶ幻聴が耳に届いた気がした。
(BGM:晴れすぎた空)