燻っていた火種が燃え上がり、街に広がるのは一瞬のことだった。
それから数日。私は、どうすればこうならずに済んだのだろうかと、そればかり考えている。
その日、マイクが指定した"約束の場所"は、人通りのほとんどない裏路地の一角だった。
街は、日が高い時間にもかかわらず静まり返っている。
頬を撫でる乾いた空気に、私の目元を覆う黒く薄い布の裾が僅かにはためく。
ここに辿り着くまでに人に会うことはなかった。正面の大通りも、そこに続く小道も、この辺り一帯が限りなく静かだった。もしかしたら昨日を最後に皆が私を置いてこの街を出たのではないかと、そんなことを考えてしまうくらいには。
しかし私は知っている。皆、静かに今日という日の終わりを待っているのだ。今日という天秤が自分にとって良い方に傾くことを願いながら、息を潜めているのだ。
その天秤の片側に掛けられているのは、私だ。
そして今、私の向かいには、想像していたよりも年若く小柄な男が一人。薄汚れたレンガ造りの壁を背に座っている。
「君がDuck?」
私は言う。すると目深に被られた黒いキャップの下で、男の目が私を見た。
「ああ。そう言うお前はTigerか」
そう言って立ち上がった男の背は、私より頭一つ分は低い。
その背格好は、この辺りじゃそう珍しくもない青年といった風である。少なくとも噂に聞いていた「この街の半分を仕切る冷酷無比なDom」というものとは、程遠いように思われた。
だがそれは私も同じようなものなのだろう。望んだ結果ではないにせよ、もう半分を仕切る立場にいた私が、あちらで何と噂されていたかは分からない。
そしてそれらが事実であろうとなかろうと、今日、私と彼は決着を付けなければならない。
「そうだよ」
私がそう言って身構えると、ほとんど同じタイミングで彼も身構えた。
僅かに姿勢を低くして胸の前に腕を構えるのはボクシングのスタイルだろうか。そんなことを思いながら彼の懐目掛けて踏み込み、拳を打ち込んでみる。
男は噂に違わず喧嘩慣れしているようだった。私の拳をするりとかわして、何でもないような顔をしている。こんな風に人と殴り合うだなんて正直なところ全く気が進んでいなかった私は、当然のようにそれが防がれると無責任にも安心した。
そうはいっても、私たちはもう戻れないところまで来てしまっている。
私はすぐに身を屈めると足払いを仕掛けた。男が軽い身のこなしでそれをかわすのを見て、空かさずもう一度拳を打ち込む。するとそれを受け流した男がこちらに拳を返してくる。
今の私を祖父が見たら何と言うだろう。私は男の拳を避けながら場違いな郷愁に浸る。生前あの人が私に戦う術を授けてくれたのは私が私自身の身を守るためで、こんな喧嘩をするためではないのだ。
――魔性のSub。最初に私をそう呼んだのは誰だったか。どうにも私の目には不思議な力があるようで、しかもこの目は人を――取り分けDomを惹き付け、惑わすものらしい。だから私は思春期を境にこうして布で目を隠し、護身のためにとずいぶん鍛えられることになってしまった。田舎にある産まれ故郷の小さな村では、どちらかといえばガーデニングをしたり、マフィンを焼いたり、羊を撫でたり、星を眺めたりする方が好きだったのだけれど。
「考え事か? 流石だな」
男が言う。
本来この街にあるはずの喧騒を失ったここに今あるのは、私たちが互いの拳をぶつけ合う音、靴底が砂煙を巻き上げて硬い地面を蹴る音くらいだ。
私はそれに、かつて祖父に武術の稽古を付けてもらっていたときのことを思い出す。
祖父は厳しく、強く、優しい人だった。
「そんなことはないさ」
男の拳は重く、受け止めた腕が痛む。私たちはどちらかが優位に立つこともなく互いに消耗していく。私が回し蹴りを繰り出すと、それを受けた男が僅かに眉を寄せるのが見えた。
早くに両親を亡くした私は、祖父母に育てられた。そして親同然の彼らを老いで亡くし、この街にやってきた。村で居場所をなくした私の目が、この街の景色を視たからだ。
この街で私は、私と同じように行き場のない若者たちと居場所を作った。集まった人々は私を中心に手に手を取り合い支え合った。私たちはやっと手に入れたささやかな居場所で満足していたはずだった。しかし人が人を呼び、群れが手に負えないほど大きくなるのはあっという間のことだった。
私はその中で、祖父の言い付けに背いて一度だけ他人にこの目を見せてしまったことがある。今になって思えば、こうなってしまったのは私が犯した罪の報いなのかもしれない。
そして時を同じくして街に姿を現したこの男の存在もあって、街の若者は瞬く間に二極化し、末端で小競り合いを起こすようになる。不安定な状態が長く続き、ついには街全体を巻き込む大きな抗争にまで発展した。これがほんの数日前のことだ。
不意に顎を狙った鋭い拳が飛んでくる。私がかわすと、それは空を切る音と共にこめかみを掠めた。
しまった。そう思ったときには既に遅く、私の目元を覆っていた布が宙に舞う。
Domには、その視線にSubを服従させる力を宿すことができる。Glareと呼ばれるそれを直接浴びたら私はひとたまりもないだろう。
私は、気付けば男に殴り掛かっていた。
それまでほんの僅かな変化しかみせなかった男の顔の上で、緑色の目が見開かれていた。
男の右頬に私の拳が真っ直ぐに入る。その身体が地面に転がる。
拳に僅かな痛みと生々しい感触だけが残る。心臓の音がやけに耳に付いて、うるさかった。
男からは、Glareは感じ取れない。
「どうして」
心配を上回って疑問が口をつく。
私は地に膝をつくと男を眺め下ろした。
今日、こうして私たちが殴り合いに身を投じているのは、この抗争に決着を付けるためであった。
ルールは至ってシンプルだ。一対一で戦い、最後に立っていた方が勝者となる。そして勝者は、二つに分かれてしまったこの街の若者を率いていくことになる。
男は、すぐには何も言わなかった。地べたに身体を転がしたまま空を見上げて、しばらくは荒い呼吸を落ち着けるように深く呼吸を繰り返していた。
そしてようやくそれが落ち着くと「何の話だ」と小さく言った。
「君はDomだろう? どうしてGlareを使わないんだ」
そうしていたらこの戦いの結果は違うものになっていたかもしれない。
疑問の理由はそれだけではなかった。私は、私の目を見ておきながら私を支配しようとしないDomに会うのは初めてのことだった。
「必要がないからだ」
「必要がない?」
「確かに今のこの街にはリーダーが必要だ。だがそれが俺である必要はない。それに……」
男の目が私を見る。
「俺もお前も、これ以上ダイナミクスに振り回されて生きるのは御免だろ」
男はそう言って上体を起こすと両手を叩いて砂埃を払った。そして相変わらず地べたに座ったまますぐそばに投げ出されていた私の目布を手に取ると、そこに付いた砂埃を払いながら「すまん、汚したな。生憎代わりになりそうなものは持っていないんだが帰れそうか?」と続けて、私にそれを差し出した。
「君、私のDomになってくれないか」
私の言葉に、男の顔に今日一番の驚きが差す。
自分でも何を言っているのだろうと思った。だが、この人ならば大丈夫なのではないかと、そんな予感があった。
「……頭は殴らないようにしたつもりだが」
「私は正気だよ。ああでも困ったな。君みたいな素敵な人にパートナーがいないわけがないか」
肩を落としてみせる。すると男は怪訝な顔をしながらも「相手はいない」と言う。決まりだ。
「本当かい? 素敵な偶然だ。じゃあまずは、お互い自己紹介をしよう。私はイライ。イライ・クラーク。君は?」
「……ナワーブ・サベダーだ」
「ナワーブ。いい名前だね」
私はそう言ってナワーブの手から布を受け取ると立ち上がった。
急いで帰ってマイクに報告をして、これからどうしていくか相談をしなければ。ああでも、できればその前に、私はこの人に怪我の手当てをしてやりたい。