コタツ渋滞は二十キロだとラジオの交通情報が告げる。
二人で全力のため息を吐き、もうぬるくなってしまった缶コーヒー、かたや寒いと怒りながら飲むのはいつも冷えたベプシである荒北がペットボトルのキャップを捻る。
次のパーキングエリアまであとどれくらいかかるか目算が立たない。
この三連休に車を借りて出かけたのは南房総を鶏の形に例えたとしたら頭部をぐるりと百キロ走るレース。
幸い天候に恵まれ、平坦の長く続くコースを思いっきり走ることができ「また来年出よう」とフニッシュしてすぐ二人で話したくらい気持ちがよかった。
泊まった民宿は海のすぐそばにあった。民宿の主人が船を操舵し、釣り客を乗せ海釣りに出るいわゆる釣宿で、宿泊者はいつもほとんどが釣り客なので10代の自分たちが自転車を持ち込んで宿泊したことは民宿を経営する夫妻には珍しかったらしい。
部屋に案内しながら奥さんが
「こんなこと聞くのはアレなんだけど、なんでうちに泊まることにしたの?」と聞く。
なぜここに決めたのかと言えば、ホームページに載っていた魚料理だ。
二人でパソコンを覗き込みながら揃って「ここ」と指差したのがこの民宿だった。
荒北が「刺し身が美味そうだったんで」と真剣な表情で言うと奥さんは笑った。
問い合わせたとき、広いので玄関に自転車を置いても構わないと言われたことも理由のひとつだった。
奥さんは荒北をしげしげと見て「息子とちょっと似てる」と言う。体型と髪型かなあ?と自分で確認するように首を捻る。案内された部屋は「二人だとちょっと広いかも。まあ広い分にはいいかなって」
そう言いながらドアを開けると、大きなガラス窓の向こうに海がよく見えた。
奥さんは明るく気取りのない人で夕飯のころ、荒北はもう以前から知ってる人のように話すようになっていた。俺も荒北もどこかで暫く顔を見ていない母のことを思い出していたように思う。
レースが終わり帰り支度をして会計を済ませ「また来年の冬きます」と挨拶すると「お待ちしてます。あっ、でも夏もいいところよ。一応営業」と海を指差して笑った。
そして「たまには実家に電話とかしなさいよ」と背中から声を掛け、俺たちを送り出した。
二人とも妙に殊勝な心もちになって道の駅から鯵を干物にしたものなどを選んで実家に送った。なにかメモを入れようかと思ったけれどなんだか気恥ずかしくてやめた。
昼にはたくさんの具材が乗った海鮮丼を食べて「漫喫したな」とか「残りは来年にしようぜ」と話し出発することにした。
そこまではよかった。
連休の最終日だから多少の混雑は予想していた。
食べるものも飲むものもある程度用意してあったし、好きな曲なんかもそれぞれ準備していた。
だが渋滞はお互いの想像を越えていた。
ノロノロと車列は進む。
「歩くか自転車のほうがよっぽど速い」荒北がうんざりしてひとりごちる。
次のパーキングエリアで運転変わろう、と話したが次のパーキングエリアまでどのくらいかかるかわからない。
「寝てていいぞ」
「そろそろそれ言うんじゃねえかなァって思ってた」
荒北は後部座席から冷凍みかんを取り出した。
「なんで今、それなんだ」
「みかん食いてえからにきまってんだろ」
日差しはそれなりにあるが外は初冬の空気で、窓を開けると冷たい風があっという間に車内に満ちるくらいだというのに冷凍のみかん。
今朝さァ、とみかんを剥きながら荒北が言う。
「帰ったらコタツ出そうって話したじゃん」
そうだった。
民宿の部屋にはコタツがあった。
「夜はまだそんなに冷えたりしないと思うけど一応ね」と奥さんがコンセントの場所を説明しながら言った。
荒北はなんだか嬉しそうに見えて「うちもそろそろコタツ出そうと思う」と言ったのだ。
「オレあんまコタツって使ったことなくてさ」
「そうなのか」
「高校ンときは東堂の部屋にあった。レース前の打ち合わせとかそういうのは部室かレクリエーションルームだったからさァ、東堂の部屋行くことって殆どなかったし」
そう話しながらみかんを剥いている。
薄い氷が溶けて手のひらを伝い荒北のジーンズに水滴が落ちた。それが目の端に映る。
荒北は丁寧に剥いたみかんのひと房を俺の口に押し込んだ。その次のひと房は自分が口にする。
それを何度か繰り返した。
「冷たいけど美味いな」
そう言うと荒北は「思ったより甘かったわ」と言ってニィと笑った。
「金城の実家はコタツある家?」
「うちはあった」
「オレ、高校ンときあんま実家帰ってねえなァ」そう言って少し黙った。
渋滞のせいで代わり映えのしない景色のせいで余計なことを考えてしまうのはよくある。
「その分これから帰ってもいいんじゃないか」
うん、と荒北は頷く。
「巻島の家は」
「は?」
「全室床暖房だった」
「巻チャンちすげえな」
「凄いんだ」
「田所は巻島の家の冷蔵庫から勝手にハムやなんかを持ってきて食べてた」
「田所イメージ通りすぎんだろ」と笑う。
「田所はああ見えて真面目なんだがな」
「今泉の家は家の中で迷いそうになると小野田が言っていた」
「小野田チャンはいろいろ大丈夫なのかヨ」と荒北は笑った。
いろいろな家の形があるようにいろいろな家族がいた。
荒北は箱根の冬はたぶん千葉よりも少し早くくるのだと俺に教えた。
新開が部屋をノックするときはだいたいコンビニ行こうという誘いだったこと。
「箱学の寮の坂を下ったところにコンビニがあってさ。寮の奴のママチャリ借りて二人乗りで坂下りるンだけど新開、ママチャリでも自転車乗ったら箱根の鬼だから。すっげえ速い。でも上りはダメでさ、自転車引いて帰った」
荒北の高校時代の楽しかった記憶。毎日練習漬けだった自分たちのほんの小さな日常。
けれどその時間を共有したのが自分ではないことが棘のある塊を飲み込んだように胸の奥に小さな痛みを起こす。
過去に嫉妬しても勝てるわけがない。わかっている。
自分は矮小な人間だなとハンドルを握る手に力を込めたとき
「今年はお前とコタツでみかん食う」
荒北が前を向いたままボソッと言った。
「なんつーかちょっと楽しみなんだヨ」
そんでみかんをザルみたいなやつあんじゃん?あれに入れて置いといてさァ。
「カゴか」
「あ、それ」
「ザルはないだろ」
「ウッセ!似たようなもンじゃねえか」
笑いを堪えたつもりだったが勝手に顔が綻ぶ。
それはザルとカゴの間違いだけのせいではなかった。
俺たちに共通の冬の記憶はない。
でもこれから初めて一緒に過ごす冬がくる。
いつまで笑ってンだヨ!と荒北が冷凍みかんを俺に投げつけたあたりでパーキングエリアが見えてきた。
カップ式の自動販売機から漂ってくるコーヒーの香りに二人でフラフラと引き寄せられる。苦味の強いコーヒーを飲んで大きく伸びをした。
フェリーで帰るという選択肢もあったが陸回りを選んだのは荒北がこのパーキングエリアに立ち寄ったことがないと聞いたから。せっかく近くまで来たんだし寄っていこう、と海の上にあるパーキングエリアに立ち寄った。
隣ですっげえと声を上げた荒北にとって、少しだけ特別な記憶になったらいいと思う自分に少しうんざりする。荒北のことになると自分の感情が上手く制御できないそんなどうしようもない自分を持て余しながら富士山を眺めた。
パーキングエリア内は人が多かったが海に突き出した展望デッキからの眺めは壮観だった。空気が澄んでいなければなにも見えないかもなと昨日金城は言ってたけど、千葉のビル群から東京、横浜、そして富士山までよく見えた。
問題集と首っ引きだった一年前の自分からすれば、車を運転してレースに向かうことも、こんな海の真ん中で今は地元となった富士山を眺めているのも不思議だった。隣にいるのが金城であることなど不思議を通り越してるじゃん。
なんか小難しい顔してンなァ。またなんか難しいこと考えてるんだろう。
坊主頭が海風に吹かれて寒そうだ。生日のプレゼントは帽子にすっかなとぼんやり思う。
春に再会してから今まで金城が傍らにいた。
二人とも言葉が足りないところがあって揉めることがある。金城は根気よく話す。言葉が足りないことを自覚していると言う。
オレは口が悪い。だからある意味お互い様みたいなもん。上手く伝わらないことは同じじゃん。
金城には自分の言いたいことを誤魔化さずに、なるべくだけどネ。話すようにはしてる。それでも上手くいかないことはもちろんある。
「なに小難しい顔してんだヨ」
その横顔に問う。
「あ、いや。コタツのコードどこにしまったかなって」
本当のことばかり言うわけじゃない。言えないことも言わないこともある。
自転車に乗るのに夢中になったのは、自分の空洞に気づいたころ福チャンが 突然見たこともないピースを投げたことから始まった。
どうやって扱ったらいいのかよくわからないピースを投げたり転がしたりしているうちに夢中になって空洞が塞がれていく。
今度はそのピースを中心にして毎日が回り出し、もう自分には空洞は塞がったんだって思っていた。
寂しいとか悲しいとかいつか終わる。
野球のときも勝てないレースもそうだ。すべてが上手くいかないような気がするときも。
終わらせようとしたならきっと終わるってそう信じてきた。
そうやってここまできたんだ。
インターハイが終わってひと区切りついた。ビアンキとたくさんの記憶。やるだけやった。できることは全部。
だからなんか新しいことを。また新しい場所で始めようと思って静岡にきた。
そう思ってたのに大学生活は目新しいことがたくさんありすぎて、なんだか面倒くさくなってしまった。
そりゃそうだ。場所が変わったからってオレはオレのままだし、もうずっとビアンキと自分の心拍数と数え切れない自問自答で暮らしてきたんだからさ。
なんか浮ついてたのかもしれないって。足元がよく見えないときは元の場所に帰ろうって自転車部のドアを開けたら金城がいた。
面倒臭いと言うオレを連れ出した金城はオレの中の無自覚な空洞をひとつずつ埋めていった。
横浜方面へ向かう車列の流れはだいぶよくなった。
運転を交代して助手席に座った金城はスマホを手に「交通情報をチェックする」とカッコよく言ってから喋らない。
予想してたことだけど、チラッと助手席を見ると金城は寝てた。
こいつは本当によく寝る。意外とどこででも寝る。
寝てるときは少しだけ幼く見える。ほんの少し。あと睫毛が長い。
まぁ、目を覚ましたとき、コタツのコードをどこにしまったか思い出してくれればいいヨ。
東名高速道路の路肩に静岡の文字が見えるころ金城は目を覚ました。
「富士山見るとなんだか安心するようになったな」
眼鏡を拭きながら金城が言う。
そりゃそうだ。オレたちのホームはここだから。
「お前、よく寝てたなァ」
「その件については本当にすまなかった」
「別にいいヨ。オレ運転すんの好きだし」
金城の家に寄って荷物を下ろし、オレは車を返しにいく。
その帰りにいつも行くスーパーで唐揚げと焼きそば、それと『静岡のみかん』と書いた札が立っていたみかんを買った。
帰り道、なんとなく足早になる。
金城の部屋に入るとコタツが出してあった。
コードあったぞ、と金城が得意気に言うから可笑しくなった。
オレがぶら下げていたスーパーの袋を見て、金城は少し困ったように「カゴないぞ」と言い「とりあえずこれで」とキッチンからラーメン丼を持ってきた。
妙に改まって二人でコタツに足を入れるとぶつかって、避けてもまたぶつかって「すまん」とか「ゴメン」とか言い合った。
ツッコミどころはたくさんあった。ラーメン丼ってどうなんだヨとか。
でもなんかもうどうでもよくなって。
コタツでみかん食ってくだらない話して笑って。何度も足がぶつかって笑って。そんな他愛もないことでさ。
「荒北はよく日向で寝てるがコタツで寝るなよ」
「そのオーダーは無茶すぎンだろ」
「風邪を引くだろ」
「っていうかさァ。どっちかって言ったらお前のほうじゃん」
「そんなことない」
金城はみかんを大雑把に剥く。
コタツで寝たら商店街の先にある洋菓子店にしかない『なめらかとろ〜りクリームプリン』買ってくるっていう賭けをして、自信満々に「結果が楽しみだな」と言っていた金城は夕飯のあとあっという間に寝た。
金城は本当によく寝るんだぜ。他に知ってるヤツはたぶんいないけど。