溺れるもの、浮かぶもの(前編) 晶は酒を飲まない。
飲めないわけではないが、とにかく弱くてすぐに酔いが回ってしまうから、なるべく飲まないようにしているらしい。
常日頃からそう公言しているから周囲が無理強いすることはないが、酒場や酒宴の雰囲気自体は好きらしく、魔法舎のバーに顔を出すこともあるし、時には他の魔法使いに連れられてベネットの酒場にやってくることもある。
そんな時、シャイロックは腕によりをかけて作ったノンアルコールカクテルで賢者をもてなし、周囲の盛り上がりにつられて陽気になっていく彼をそっと見守っているのが常だった。
魔法舎に臨時出店しているシャイロックのバーは不定期営業だから、常に賑わっているわけではないが、今日は西の魔法使いが勢揃いしており、いつもに増して場が華やかだ。カウンターにもちらほらと客がいて、思い思いの夜を楽しんでいる。晶もその中の一人で、カウンター席の真ん中に陣取って、穏やかな瞳で魔法使い達の会話に耳を傾けていた。
不意にカラン、と軽やかなベルの音がして、新たな客が現れる。
「よお。今日も繁盛してるな」
ひょいと顔を出したネロに、グラスを磨いていたシャイロックは優雅に一礼してみせた。
「いらっしゃいませ、ネロ。こんな時間まで仕込みですか?」
「いや、食料庫の整理をしてたら、気づいたらこんな時間でさ」
すっかり厨房の主と化しているネロは、調理以外にも食材の調達・管理まで一手に引き受けている。大所帯の切り盛りは大変なはずだが、ネロ曰く人数が決まっている分、飯屋の運営よりは気が楽らしい。
「片付けてたら、この間あんたが話してた薬草酒を見つけたんだ。こいつで合ってるよな」
差し出しされた酒瓶を見て、シャイロックは目を輝かせた。
「ええ、間違いありません。これは嬉しいですね」
それはかつて東の国で作られていた薬草酒だった。かなり癖のある味をしているが、それを生かしたカクテルがあると話したのを覚えてくれていたのだろう。
「これで作る美味いカクテルってやつ、飲ませてくれよ」
「ええ。腕によりをかけてお作りしましょう」
そう請け負って、必要な材料を手際よく並べていく。ネロの持ってきてくれた薬草酒をベースに、紅茶のリキュールと生クリーム、それに――。
「いけない、このカクテルにはカラメルが必要なんでした」
「カラメルか、厨房にあった気がするけど」
取ってくるか、と席を立とうとしたネロを押しとどめて、ふわりと笑う。
「今のネロはお客様ですよ。それは私の仕事です。いい子で待っていてくださいね」
シャイロックにかかれば、ネロですら子供扱いだ。実際、年齢もそうだが人生経験でも足下にも及ばないと分かっているので、ネロは両手を挙げて降参のポーズを取った。
「悪い悪い。つい、な。ちゃんとお行儀良く待ってるよ」
「はい。ムル、少しだけ席を外します。賢者様のお相手をして差し上げてくださいね」
「はーい!」
バーテンダーの真似事をして遊んでいたムルが、元気よく手を挙げて答える。オレンジジュースを飲んでいた晶も「行ってらっしゃい」と手を振った。
「なんだ賢者さん、まだ寝てなかったのか」
つい夜更かしの子供を咎めるような口調になってしまったが、晶は歴とした成人だ。しかし彼は子供扱いに不服を申し立てることもなく、えへへと頭を掻く。
「それが、昼間に凄い魔法を見てしまったせいか、目が冴えてしまって」
「あー、あれか」
今日はミチル&リケ対ブラッドリー、という珍しい対戦カードで実戦訓練が行われていた。調子に乗ったブラッドリーが派手な魔法を連発して訓練所が半壊しかけ、オズとフィガロが制止に入ってどうにか事なきを得たが、あのまま続けさせていたら大変なことになっていただろう。
「あいつ、手加減ってもんを知らねえからなあ……」
「ミチルとリケにとってはいい勉強になったみたいですよ。俺も見ていてドキドキワクワクしました。ブラッドリーの戦い方って、他の魔法使い達に比べて変則的っていうか、攻撃一辺倒かと思えば補助魔法をうまく混ぜて使ったりして、一筋縄では行かない感じがしますよね」
興奮冷めやらぬ様子で語る晶に、へえと呟く。
「賢者さん、あんたちゃんと見てるんだなあ」
「いえ、実はフィガロが横で解説してくれていたんです。おかげでなんというか、訓練を見学しているというより、格闘技の試合をかぶりつきで見ている気分でしたね」
一気に喋って喉が渇いたのか、残っていたジュースを一気に飲み干す晶。次の一杯を注文しようにも、まだシャイロックは戻ってきていない。代わりにカウンターへ入っているムルはと言えば、カウンターに並べた様々な材料を思うがままに混ぜ合わせては、何種類ものオリジナルカクテルを生み出していた。
「おいおい、後でシャイロックに怒られるんじゃないか」
呆れ顔のネロに、ムルは手際よくシェイカーを振りながらにんまりと笑う。
「だいじょーぶ。シャイロックが大切にしているお酒には手を出してないからね。賢者様、飲んでみる?」
「えっと……お酒が入っていないものなら喜んで頂きますけど」
「一番右のは入ってないよ!」
「これですね。ありがとうございます。いただきます」
どんな味がするんだろう、と子供のように瞳を輝かせて、グラスを傾けた次の瞬間――まるで魔法にかけられたかのように、晶の顔が真っ赤に染まった。
「うお、賢者さん大丈夫か!?」
「あれぇ?」
「ムル!」
シャイロックの声が響き渡り、バーが一瞬しん、と静まりかえる。
大慌てで晶に駆け寄ったシャイロックは、その手からカクテルグラスを取り上げると、カウンターで首を傾げているムルへと批難の目を向けた。
「ムル、賢者様にお酒を出してはダメだと言ってあったでしょう!」
「おかしいなあ。あ、そうか。賢者様から見たら左だった!」
悪びれもせずに答えるムルに溜息をついたシャイロックは、すぐに気を取り直して晶へと向き直った。
「賢者様、申し訳ありません。すぐにお水をお持ちします」
「はあい、ありがとうございますシャイロック」
いつもに増してふわふわとした口調で答える晶。顔は赤いが、気分が悪いわけではなさそうだ。
「えへへ、何だか暑くなってきましたー」
いきなり上着を脱ぎだしたかと思えば、急に何か思い出したように笑い出し。
「ムル、美味しいカクテルをありがとうございますー」
満面の笑顔でムルの頭をわしゃわしゃ撫でたかと思えば、お返しにくすぐられて笑い転げたりと、何だか楽しそうだ。
「……こういうのも笑い上戸っていうのかね?」
「どうでしょうね。こういう酔い方なら楽しめそうですけど」
いつもに増して力の抜けた笑顔で、集まってきた魔法使い達と雑談に興じる晶。普段から朗らかな彼だが、酒の力で三割増しになっているようだ。今はクロエが先日作った猫ローブの衣装を褒めちぎっていて、クロエの方が顔を赤くしている。
「酒の魔力、ってやつだねえ」
「溺れなければ楽しめますからね」
シャイロックがそう評した途端、不意に晶の目が据わった。猫ローブから猫の話題に移り変わっていたようだが、一体何が彼の琴線に触れたのか。
「あのですね。これだけは言っておきたいんですが! 俺は猫が好きですけど、でも猫に何かしてほしい訳じゃないんですよ!」
拳を握りしめて力説しはじめた晶に、魔法使い達が「おおー」と歓声を上げた。
「すごい、賢者様が愛を語ってる」
「実に壮大な愛ですね」
「おいおい。酔っ払いのいうことに耳を貸すな、あんた達」
思わずツッコミを入れるネロだったが、誰の耳にも届いていないようだ。
「そう、猫は――ただそこに存在するだけで尊いんです!」
「分かる~!」
雑な相槌を打つムルをたしなめようとしたシャイロックだったが、その双眸に英智の輝きを感じ取って、おやと目を細めた。
「見返りを求めるなんて野暮さ。そこに存在するだけで、俺はただ幸せなんだ」
ムルが見つめる先には、輝く月。手を伸ばしても届かない、非情で残酷で、だからこそ美しい<大いなる厄災>。
「俺は月に、賢者様は猫に恋してる! 俺達、似た者同士かもね」
「はい!」
えへへと笑い合う二人に、シャイロックはやれやれ、と水の入ったグラスをカウンターに置いた。
「あまりムルに似て欲しくはないんですけどね。向かう先は地獄ですよ」
「……あんたも苦労してるんだな」
自分ではない、しかも手の届きようがないものに執心する者を、そのそばで見守り続けるなど、苦行以外の何物でもないはずなのに。
「まあ、賢者さんの猫好きは今に始まったことじゃないが……あれを恋っていうのかね」
「さあ、どうでしょう。恋も愛も、好きも嫌いも、浮かび上がる感情に適当なラベルを貼っているだけで、実は大差ないのかも知れませんよ」
ねえ? と話を振った先には、赤毛の魔法使いが静かにグラスを傾けていた。
「げっ、ミスラいたのか」
「さっきからいましたよ」
気怠げな声で答えたミスラは、空になったグラスをもてあそびながら、ムルと『尊さ』について語り合っている賢者の方を見つめ――いや、明らかに睨みつけていた。その顔にははっきりと『不機嫌』と書かれており、静かな怒りの気配が全身から漏れ出ている。
「なにを苛ついてるんだよ……」
「はあ? 苛ついてなんかいませんけど」
その声がすでに刺々しい。もっとも、彼は常日頃から寝不足で不機嫌なのだが、これはまた種類が違うような気がする。
不穏な気配を感じ取ったのだろうシャイロックが、何気ない顔で切り出した。
「ミスラ。賢者様もそろそろお疲れのようですから、お部屋まで送って差し上げてくださいな」
見れば、ムルとの噛み合わない会話に興じている晶は、幼子のように目を擦っている。慣れない酒を飲んだのだ、無理もないだろう。
「はあ……面倒な人だな」
溜息をついて立ち上がり、晶の体をひょいと小脇に抱えるミスラ。
「ほら、行きますよ。もう眠れるでしょう」
「ええー、まだ眠くないですよう」
酒のせいか、それとも眠気のせいか、口調まで幼くなっている晶に、しかしミスラは取り合おうとはせずに、そのままスタスタと歩き出す。
「お代はつけておいてください」
律儀にそう言い残して去って行く背中を見送って、ネロはどっと息を吐いた。
「はー……。何だったんだあれは」
ネロの呟きに、ムルが散らかしたカウンターを片付けていたシャイロックがふふ、と笑って、先ほどの酒瓶をひょい、と掲げてみせる。
「言わぬが花、です」
「は?」
「今からお作りするカクテルの名前です。甘くて、少し苦くて。後味がツンとして。まるで誰かの秘めたる思いを覗き見てしまったような背徳感――ああ本当に。言わぬが花、ですね」
「悪い。あんたの詩的な表現は、難解すぎて俺には読み解けない」
苦笑交じりに頬を掻いて、ネロはどっかりとカウンター席に腰を下ろした。
「でもまあ、あいつの苛立ちの理由は、何となく想像がつくよ」
「ふふ、大人ですねネロは。彼はご自分でも分かっていらっしゃらない様子ですが」
自分の心は、自分で解き明かさないといけませんからね、と悪戯っぽく笑って、それではとシェイカーを振るシャイロック。
「せめて、このカクテルで乾杯いたしましょう」
「何に乾杯するんだ?」
「そうですね、安らかな夜に、でしょうか」
そいつはいいや、と微笑んで、差し出されたグラスを受け取る。
「安らかな夜に、乾杯」