ヤスリ「所長さん、お手」
何をする為に有るのか分からない、大小様々な機器に埋め尽くされたVRCの所長室、その一角でパソコンモニターを眺めていたヨモツザカに、サテツは声をかけた。
声のかけ方を盛大に間違えた。
「…はぁあ!?」
大型タイヤのように分厚い手を差し出したサテツが、あれ?と固まる。
「あ!間違えました!すいません、違うんです…。あの…手…、手を貸して下さい…!」
「何をどう間違えば、大天才である俺様に!お手などと!」
歯茎が見えるほど口を歪めたヨモツザカは、仮面下を見せずとも、圧倒的不愉快な感情を表明していた。
「本当に…なんか…色々混ざっちゃって…すいません」
色々混ざっちゃった主な原因として、卓上のモニターに映し出された動画がある。数少ないヨモツザカの癒し、犬動画だ。
今日は、大型犬のボルゾイがドッグランを走り回っている映像だった。それを見たサテツは気付いたのだ。
(所長さんって、ボルゾイに似てるな)
細くて薄くて長くてデカイボルゾイが、お利口さんにお手をする動画を見ながら口を開いた結果が、冒頭の暴言だった。
以前、ヨモツザカはサテツの事を犬に似ていると言ったが、犬仮面なんて奇矯な物を被っている時点で、一般人よりも自分の方が犬に近しい事を自覚すべきである。
「あの…えっと……手を…」
「えぇい、何だしつこい。見て分かるだろう。俺様は今からドーナツを食べるんだ。…そもそも、サテツ君が食べろと買って来たものだろう」
そう、今日のサテツには目的が有った。その目的を達成する為に、ドーナツを差し入れたのだ。
「はい。ええと……、所長さんの…爪を切りたいんです。ドーナツは、片手で食べられるでしょう?…空いてる方の手の爪、ドーナツ食べてる間に切ればいいんじゃ無いかなって」
「は?何の話だ」
事は二十日程前に遡る。ヨモツザカが割れた爪を瞬間接着剤で直していたアレだ。あの惨状を見たサテツは決意した。必ず、このボロボロの壁みたいな爪を切らねばならぬと。
その為に爪用ヤスリも用意した。色んな種類が有ったが、金属製やガラス製の硬い素材だと、ヨモツザカの爪が砕け散ってしまう様な気がして、柔らかいクッション性の有るものを用意した。粗目中目細目と種類も揃えた。それらを休憩用机に並べる。
「所長さんのボロボロの爪を、何とかしようと思って」
「あー、要らん。不要だ。必要無い。ドーナツ置いたならもう帰れ」
面倒臭そうにシッシッとひらめかせたヨモツザカの手を、サテツがワシッと握る
「は?」
「……失礼します」
捕まえた左手の爪を、一本ずつ確認しようとするサテツと、何とか逃げようとするヨモツザカ。勝敗は書く迄も無いだろう。
そうして、ヨモツザカは爪を切られる事になった。
切ると言うが、削るである。
貧弱で乾燥した爪を爪切りで切ってしまうと、ひび割れが酷くなり、最悪また割れてしまう事をサテツは調査済みだった。弱い爪はヤスリで削り落とすらしい。
粗目で大まかに削り、中目で整え、細目で仕上げる。自分の爪を使って練習をして来たサテツは、粗目のヤスリを手に取った。
大きさ自体は二人ともそれ程変わらないのに、体積は倍以上違う手だ。爪の厚みも、サテツが想像していたものと随分違う。
(なるべく力は入れないでおこう)
そう誓って、ヒビが入った爪先にヤスリを滑らせた。
……ショリッ
「ひいっ」
ヨモツザカでは無い、サテツの悲鳴が上がる。
「……おい」
「だっ…大丈夫です!……想定より、爪が薄くて……いっぱい削れて…」
「やっぱりやめろ!指ごと削られては堪らん!」
手を取り戻そうと足掻いてみるが、1ミリも動かない。本当に、たったの1ミリも動かない。
「いや、それは絶対大丈夫なんで、大丈夫です」
「これ程信頼に値しない言葉は稀だぞ!」
「行けます!痛かったら言ってください!」
「発言に整合性を持たせろ!」
粗目のヤスリを中目に持ち替えて、深呼吸をしたサテツが、再び爪を撫でる。
…ショリッ……ショリッ……ショリッ……
「あぁ、良かった!削れますよ。いい感じです!」
「……ふんっ」
暫く、息を詰めて自分の爪の出来を観察していたヨモツザカだったが、人さし指中指のヤスリがけが終わり、薬指に入る頃には、視線をモニターに戻していた。空いた方の手でドーナツを食べ始める。
所長室には、低く唸りを上げている機器のモーター音、スピーカーから聞こえる犬の鳴き声、そして爪をヤスリがけする小さく乾いた音。たまに、サテツが長く吐く呼吸音が静かに流れる。
指先に響く振動がほのかにくすぐったい。
昔、コロが手にじゃれ付いて来た時の感覚を思い出す。
大天才の脳に霞がかかる。
そう言えば、前回眠ったのはいつだったろうか………
「………………………すぅ……」
穏やかな室内の音に、ヨモツザカの寝息が加わる頃、左手の爪が出来上がった。