金魚過ぐ クラスで飼っていた金魚が、こぞって死んだ。
熱中症かなあ仲良いね、だなんて気まずい沈黙をぶち破ろうとでもしたのか目を泳がせながらKYなことをのたまうお調子者と、かわいそう……と生前まったく世話をしなかったくせに目尻に涙を浮かべる偽善者と、金魚の死体たちに怯えて立ち尽くす臆病者。俺は漏れなく臆病者だった。ふつうに怖いに決まってるじゃないか。白目剥いて腹を天に向けて水面にぷかぷか浮いている死体が水槽まるっと、五、六匹だぞ。小学生がそんなの目の当たりにしたら、一生もののトラウマに昇華するに決まってるだろう。うん、漏れなくトラウマだ。腐敗していないだけ、まだマシだった。
死んでいるまでは、まあいい。まったくもって良くないけれど。
問題は、埋葬だった。
金魚には人間みたいに葬儀屋がいるわけじゃないから、誰かがその真似事をしなければならなかった。金魚の死を偲ぶんでいたクラスメイトたちは、てっきりその話になったら自ら手を挙げて志願するのかと思っていたんだけど。想像とは裏腹にまるで生贄を選出するみたいな、死んだ金魚が浮いている緑がかった水面と同じくらいどんよりとした空気が教室いっぱいに漂っていた。クソだな、と思った。俺は自分の席に座って、猫背のままじっとしていた。どうせさあ。どうせ、観音坂くんがいいと思いますなんて誰かが言うよ。誰も言わなきゃ、教壇から教室中に視線を走らせている先生が、申し訳なさそうに言う。独歩くん、お願いできるかな? って。まあそんなもんだよ。俺なんてクソボッチだしクソ根暗だし、運良くいじめられなかったけど誰がなんと言おうとクソがつくほどのボッチで根暗だし。自覚してるし。そんな損な役回りが回ってくるのは当たり前だよ。うん。もう俺がやるって言うほうがはやいんじゃないかな。そのほうが、きっといい。早いとこ土に埋めてもらうことで、天に召された金魚も浮かばれることでしょう。周りで神妙な顔をしているクラスメイトを、見下した。心の中で。偽善に身を呈すなら、せめてもっと金魚に構ってやればよかったのに。もう遅いけど。
気づかれないように嘆息して、すっと手を挙げた。各関節はふにゃりとさせたままだ。目を細めながら教壇の先生を見た。心底安堵したようすだった。
「ありがとう、独歩くん」ふう、と肺から息を吐いた。「……と、一二三くん」
息を吐いたまま、止まった。え? ばっと顔を上げて後ろを振り返った。窓際の後ろから三番目の席に座っている男子が、手をぴんと天に伸ばしていた。
「……。どっち、持つ」
「んー? 俺っちが水槽持ってくに決まってんじゃん!」
「え? そこなんで決まってんの。……あ、いや、べつに持ってくれるのはありがたいけど」
「独歩が水槽持ったら独歩が死にそうじゃん! デロデロ〜って!」
いきなり呼び捨てかよ。
はじめて会話をしたそのクラスメイト(正直に言ってほかの連中ともまともに会話をした覚えはないけど)は伊弉冉一二三という名前の、やけに目立つやつだった。俺とは完全に真逆のタイプ。陽にあたるとこがねに輝く金髪と、そういう宝石を思わせる琥珀の瞳と、陶器のようにつるりとした白い肌と、何よりフランス人形のように整った顔立ちが目にまぶしい。言動も溌剌としていて、絵に描いたようなクラスの人気者だ。正直に言って、そんなやつが金魚の埋葬を申し出るとは思わなかった。
だって、金魚には悪いけど、薄暗い作業、だし。
スコップと、一本の線香と、マッチを持った俺は、鼻歌まじりに水槽を抱えて歩く一二三を横目にそわそわとしながら廊下を歩いていた。
「なんで鼻歌……」
「金魚っちたちがー、楽しいかなーと思ってー」
「金魚っちねえ……」
こいつ、よくわからん。
ふふふんと鼻歌をうたい続ける一二三。気が向いたから耳を傾けてみた。かなりむかしにリリースされた、往年のヒット曲だった。
「古くさ……」
てっきり人気アイドルグループの最新シングルとかを歌ってるのかと思ったから、答えが予想外で驚いてしまって、思わずそう呟いていた。
「えっ、ひどぉい」
ぎょっとして一二三を見た。地獄耳? それとも、となりにいるから聞こえるのは当たり前?
「ごめん……」
反射的に謝った。
「えー? なんでー? 独歩は自分の意見言っただけじゃん? 謝る必要なくね? なんで?」
「いや、なんでって、」気分を害させたかと思ったから。
それもまた気分を害させるかと思って、そのまま口を閉じてしまった。
「ねー、なんで? なんでー?」
「……。うるさいよ」
しつこい一二三に対して少し声を荒げると、一二三は「ハハハ! メンゴリーヌ!」と笑いとばしてまた鼻歌をうたいはじめた。何事もなかったかのように。俺はため息を吐いた。疲れたよ。
「独歩ってさぁー」
今度はなに? へらへらと笑う一二三をまた横目で見た。
「面白いのなー。マジ、ファニーって感じ! ウケる!」
果たして今の会話のどこに、ファニーな要素があったのだろうか。ひょっとして、俺がファニー・フェイスってこと? そりゃあお前に比べたらさぞかしファニーだと思うけど。クマあるし。
一二三は何事もなかったかのように鼻歌の続きをうたっていた。
外は暑くて、汗を掻いた。きっと涼しいから、と中庭の木陰に穴を掘って埋めることにした。緑色の葉っぱが生い茂っている樹の下でざっくざっくと穴を掘るのは俺の仕事。一二三は水槽を脇に置いて、俺が黙々と作業する様子をニコニコと笑って見ていた。
「なに笑ってんの」
「んー? 理由はねー、ない!」
ハハハ、と笑う一二三。俺は首に汗を滴らせながら眉間にしわを寄せた。奇々怪界、という言葉を思い出した。
敢えて気にせず、掘り続けた。あつまるとほぼ黒に見える焦げ茶色い土がひと山できたところで、一二三が「そのくらいでいっかなー」と言った。
俺ははい、と呟いて、落ちてくる汗を拭った。
「どーやって埋める?」
「んー? どーやってって!? なにが!?」
「いや、その、こいつらの、こと」
金魚、と名指しにも満たない名指しをするのはなんとなく気が引けて、言い澱みながら水槽を指さした。
すると一二三は心底不思議そうな顔で「え?」と首を傾げる。
「金魚っちたちを掘った穴に移してあげてー、土被せてあげるだけじゃね!?」
「いや、だから、そうなんだけどな、」
「んじゃ、はやく埋めてあげよーよ!」
なにゆえこいつは人の話を聞かん。一二三の物言いに文句を言おうとして口をひらいて、……そのままあんぐりと呆けてしまった。
一二三は白目を剥いた金魚の死体を素手で掴んでいた。
潰さないようにしているのかその手つきはいっとう優しげに見えて、木陰から漏れるひかりが水濡れたつるつるとした白い手をキラキラと輝かせている。あ、こいつ手が綺麗なんだ。勝ち組じゃん。いや、そうじゃなくて。
「なに、してんの」
震える声で俺は言った。死体だぞ、死体。気持ち悪くないのかよ、お前。金魚に悪くて、うまく言えなかった。
一二三は俺の言葉が聞こえていないのか聞こえていないふりをしているだけなのか、死体を手で掬っては穴にそっと置きを繰り返す。俺はまだ目を疑ったまま、顔面蒼白で立ちすくんでいた。
みるみるうちに、六匹の死体が折り重なった。「独歩ォ」と一二三が言葉を発した。なんだかひさしぶりのような気がして、俺はびくりと身体を震わせた。
「埋めてやってよ」
一二三がしゃがんだまま穴を眺めながら言った。目が真剣そのもので、なぜかゾッとした。外は暑いから当たり前なんだが、背中につうと汗を掻いた。いや、これは、……冷や汗?
なんでだろう、と思いながら一二三に言われるがままにこんもりと盛った土を少しずつ死体にかけた。パラパラと粉塵が散った。金魚は焦げ茶に埋まって隠れて、やがてまったく見えなくなった。
「……線香」
すべて終わった時には身体は汗でびしょびしょで、シャツが肌にはりついて気持ち悪かった。線香に、火を点けなきゃ、と思った。
一二三が傍らに纏めていた線香とマッチを手に取ろうとした。
「あ、待って」
「んー?」制止すると、素直に動きをぴたりと止める一二三。
「汚いから、」ここまで言って、焦った。「……水で」緑色に染まった水槽の水を指したつもりだった。
「あ、そっかァ。どーしよ?」
一二三はパッと手を上げた。手はまだ乾く兆しがなく、木漏れ日に当たってきらきらしている。
「……。俺がマッチ擦るから、お前は線香構えてて」
「え? マジ? だいじょぶ? 逆に独歩が燃えちゃわない? ボワーッて」
「さっきから、俺をなんだと思ってるんだよ。お前のほうが引火しそうだろ。雰囲気的に」
「俺っちのほうがどんなイメージ? ひどくね?」
俺は線香を拾って一二三に手渡した。一二三はあんがとー、と言って線香をつまむ。指先に藻のカスが付着しているのが目に入った。
「お前のがひどいよ」
マッチ棒を一本手に取って、擦った。火が点かない。
「えー。どこがよ?」
もう一度、角度を変えて擦った。今度は点いた。オレンジ色の炎がぼうっと光を放っている。あ、火薬のところを真上に向けたらだめだかんな。わかってるよ。マッチを真上に向けないように気をつけて、一二三がこちらに傾けている線香の先に火を移した。
「妙に馴れ馴れしいし、俺のことを貧弱だと決めつけてる」
マッチを急いで地面に落として、火を踏みつけた。足を上げると、薄黒いちいさな煙が立っていた。
「当たり前っしょ。俺っち独歩のことまだあんまり知らねーんだもん」
一二三は線香をぶんぶんと振って、余計な火を消していた。ふわりと花が燃えるようなにおいが空気に散った。
「まだ、って」
言いながら、一二三が土をこんもりと盛られた山のてっぺんに線香を挿しているようすを見ていた。線香の先からは、白くてほそい煙がもくもくと天に向かってのびている。
「ほらァ、独歩」
一二三に促されて、慌てて墓の前にしゃがんだ。
そして、誰に指示されるでもなく、瞼を閉じて合掌した。
数秒か数分かよくわからないけど時間が経った頃、俺はひとりでに瞼をひらいて横目で一二三を見た。閉じられた瞼をびっちりと縁取る長い睫毛と、穢れのない透きとおるような白い肌と、少量でも光にあたるときらきらとかがやく金の髪。典型的な「喋らなければかわいい」タイプの子どもだと思った。
やがて、一二三がゆっくりと瞼をひらいた。薄い琥珀色をした瞳が覗いてドクンと心臓が鳴った。さらさらと葉が騒ぎたてている気がした。うざい、黙れよ、静かにしろ。そんな俺の心の叫びとは裏腹に、鼓動はどんどんはやまっていた。
「……ごめんな」
ふいに、一二三がぽそりと呟いた気がした。
「え?」
「え?」
反射的に聞き返すと、一二三はパッと俺を振り向く。俺はびくりと肩を震わせて、なぜか腰が抜けて尻餅をついた。うわ、ダサイ。でも俺にはお似合いか。と、一瞬で納得した。
「エー、独歩ダセェ〜! 転んでやんの」
はい、と差し出される手。「あ、ごめん」とそれをのちのち言い訳のしようもないほどにしっかりがっしり掴んで、めちゃくちゃ後悔した。
「ああ」
「んー? どうしたー?」
「手を掴んでしまった……」
「うん? そうだなー?」
「その藻だらけの水に浸したあとの手を……」
「あー」困ったように笑う一二三。「まー、洗えばよくね!? スコップもマッチも! 俺っち頭いいー」
「マッチは洗ったらダメだから……!」
へへへェ、と笑う一二三。よくわからない。でもまたファニーなやつだって言われるのかと思って、少しゾッとした。
「なー、独歩ォ」
「……。なに?」
「トモダチになろーよ」
はぁ? と顔をしかめた俺に対して、一二三は特にひるんだ様子もなくニコニコと笑顔を向けていた。有無を言わさない状況のように思えて、俺は自分でも気がつかないうちにこくりと首肯していた。
*
誰かとトモダチになった経緯なんていちいち覚えてねーよ。
例えば会社の同僚なんかはそうやって鼻で笑うけれど、俺は素直に同調して笑い飛ばすことができなかった。二十九歳何ヶ月かはすまん数えるの面倒だから端折らせてくれ、独身営業職、この腐った社会を回すためのちいさな歯車。いかんせんクソゴミ底辺の俺には友人がひとりしかいないうえにその友人と友人になった経緯が少々、いやだいぶ特殊だったゆえにその出来事がつい昨日のことだったかのように鮮明に覚えている。どのくらい鮮明かって言えば、……見てるこっちがうんざりするほどに色が濃くて褪せることを知らない、マゼンタ?
例えがヘタクソ。クソゴミ。ゴミ以下。
とにかく俺は空気を読めず笑えなかったせいで、また社会不適合者の烙印を押されて失笑を食らったわけで。重い火傷を抱えているかのようなヒリヒリとした心臓の痛みを我慢しながらなんとか仕事を終えて最終電車に駆け込むと、どっと力が抜けてしまった。ブッコロシタイ、いやシニタイ、え、どっち? どんな気持ち? 一瞬、脳にどす黒かったり赤かったりするものが渦巻いて、急にフッと消えた。虚無。虚無虚無虚無虚無。あー、虚無だわ虚無。これが虚無か。虚無の境地。虚無りながら吊革にぶら下がって突っ立ってたら急ブレーキに翻弄されて転倒した。黒ずんだ床に盛大に尻をぶつけて大量の視線を集めた。なに? 酔っ払い? やーね。すいません酔ってません。シラフです。よく見ろよふらふらえへへじゃないし目は虚ろだろ。あ、そういう酔い方の人間だと思ってる? そうか、マジ、スマン。でも俺は酔ってません。なんならアルコール検査薬、つかってもいいですよ、今ここで。ゼロどころかマイナスなんで。たまの飲み会ではビールはいっさい摂取せず他人のグラスに注いでるんで。泡と麦酒の比率を目測するのに必死になってるんで。心配ないです、ハイ。酔ってるといえばそうですね、時々酔いそうになるかな、殺意に。
のっそりと身体を起こした。明日もこんな俺がのうのうと生きてるのかと思うと、憂鬱だった。
マンションの小綺麗なエレベーターをつかってショートカットして、借りている部屋の前に立った。
扉からひかりが漏れていた。
「……いるのか」
うんざりした。これからあいつの相手をしなければならないのかと思うと、今すぐ首を掻っ切って死にたくなった。そんな勇気もないゴミクズだから、やらないけど。
鍵穴に鍵を挿しこんで、ガコンと音を立てて回した。恐る恐るドアノブを引くと、「あ、独歩!?」と頭にキンキンと響いてくる声。
「うるっさい……」
痛む頭を押さえて、廊下が暗かったから壁に指を這わせて照明のスイッチを探した。いや、実際には探す間もなかった。指がスイッチに触れる前に廊下がまぶしくなったからだ。
「独歩〜! おっかえり〜!」
まぶしさで目をほそめていると、タックルされた。俺のHPゼロの貧弱ボディはいとも容易く吹っ飛ばされて、勢いよく玄関扉に背中をぶつけた。そのまま扉に押しつけられて、ぎゅうと抱きしめられる。
「一二三、痛い」
強めに背中を叩いても、一二三はなかなか離れない。何を言ってもへへへへとふにゃふにゃした笑いを繰り返すばかりで、……あ、今ふわっとアルコールのにおいがした。こいつ、呑んでやがったな。一二三が着ているTシャツ越しに伝わる体温が少しだけ熱いことにも気がついて、俺はうんざりしてはぁとため息を吐いた。もう何もせずに寝たい。
「一二三」
「どっぽ〜」
呂律が怪しい。完全に出来上がっている。意味もなく一二三の肩を摩った。「肩じゃなくってぇ、頭撫でて〜」。チッ、とちいさく舌打ちした。肩に当てた手を後頭部に持っていって揉むようにして撫でた。へへへェ、と俺を抱きしめ直す一二三。いや、離せよ。
嘆息した。
「仕事でもないのによく飲むよな……俺はお前の能天気さが羨ましい」
「ん〜? なにィ〜?」
「いい加減離してくれないか。鬱陶しいから」
「えー、やだァ」
「ひーふーみ」
さっきよりも強めに背中を叩く。なにが悲しくて三十路の男と抱き合わなくちゃならん。
難儀だ。俺が好きな女の子と上手に会話できないのは、こいつとは違って単にコミュ障だからだ。イージーモード。努力すればまだなんとかなる。だのに設定ハードモードの一二三よりも遅れを取っている気がして、それを自覚するたびに人生を投げ捨てたくなる。一二三は、言動は『こう』でも自分を変えようと努力してるから。いつも。
うざったいしこいつと友人になったことを心から後悔することもあるけれど、その一方で尊敬しているのは本当だ。
だから、俺は死にたくなる。
口を開いて、……やめた。
今は纏わりついてくる一二三をなんとかしないと、と思った。
「ほら、一二三。しゃんとしろ。いつも朝、俺に言ってんだろ。自分ができなくてどーすんだよ」
「ん〜、無理〜」
「なんで」
「どっぽちんに会えたからに決まってっしょ〜」
深々とため息を吐いた。これが可愛い彼女だったらどんなに良いか。確かに一二三はすれ違えば誰もが振り返るような美しい顔立ちをしているが、なんせ男だ。リップサービスされても微妙な気持ちになる。
「一二三。とにかく、俺は疲れてるんだ。せめて靴を脱がせてくれ。そして風呂に入らせてくれ。それから着替えさせてくれ」
「チャンドポ、注文多くね!? ウケる」
「まったくもってウケない」
ほら、ともう一度背中を叩くと「ちぇ〜」と拗ねたような口振りをして、一二三はのろのろと離れた。
「あ、そだそだ。メシ食った?」
「食べてるように見えるか?」
「見えない! ヒフミン特製シチュー作ってんよ、食う?」
立ち上がってスーツから土埃を払っている俺に、ニコニコと話しかけてくる一二三。陶器のように白い肌とアルコールで赤らんだ頰が目に眩しい。俺はなんとなく申し訳ない気持ちになりながら、
「風呂入ったら、食べる」
と言った。
「わかった! あっためとくな〜」
華やかな笑顔を浮かべた一二三はそう言うと、踵を返して廊下をスタスタと歩いていった。
……意外と、言動がしっかりしている。
酔いが醒めたのかな、と思うことにした。今はそれ以上のことを考える脳の余裕がない。家にいる時くらいは馬鹿でいたい。靴を脱いで自室に鞄を放り込んで、「ねむ、」と大欠伸をしながらネクタイを緩めてスーツを脱いで。あとで回収すればいいかと自堕落なことを考えつつ廊下に全部脱ぎ捨てて風呂場に直行した。このまま温かいシャワーを浴びながら寝てしまいたい。そう思ったけれど、風呂場の扉を開く時に鍋のぐらつく音と一二三のご機嫌な鼻歌が耳に入ったから、さっさと身を清めて出ようと思った。
「あれ?」
風呂から上がって部屋着を見に纏い、廊下に出た。そうしたら、さんざん脱ぎ散らかしていたはずのスーツがこつ然と消えていることに気がついて蒼ざめた。ハ? どこ? 働きたくなさすぎて、スーツが意思を持ってどっか歩いていった? 明日も着るのに、どーすんだ? 勘弁してくれ。
「独歩ォ〜、上がったぁ〜?」
奥から一二三の間延びした声が聞こえる。上がった、と事実だけ言って、キョロキョロと見回した。何度まばたきしたり目を凝らしたりしても、ないものはない。どくどくと心臓が不穏な音を立てた。
「シチュー冷めちゃうぞぉ〜」
うん。わかる。ここまで漂ってくるコンソメのかぐわしさとミルクのやさしさが混ざったにおいは、非常に魅力的だ。朝っぱらから今まで丹念に育てられた腹の虫がぐうぐう鳴る。本当は、行儀が悪いが今すぐにでも啜りたい。だがしかし、消えたスーツの行方を突き止めない限りは一二三の手料理を心から楽しめるわけもないのだ。
「こらァ、独歩! さっきから呼んでんだろ! どーせろくに食ってないんだから、早く食べろって!」
ついに痺れを切らした一二三が廊下を覗き込む。
「あ! そこに落ちてたスーツだったら、アイロン掛けてハンガーにぶら下げといたぜ。シャツも新しいの出しといたから、明日はそれ着てけよ」
なんだ。
こちとらあんなに切羽詰ってたのに、拍子抜けだ。急に廊下にポタポタしずくを垂れ流しながら棒立ちになってる自分のことがアホらしくなった。俺はどうしようもないアホだ。生きてる価値もない。
「なぁ、急に難しい顔すんなよ」
「……。すまん。寝ぼけてたかもしれん」
「腹も減ってふらふらなんだろ!」
「食う。一二三のシチュー、食いたい……」
きゅう、とまた腹の虫が鳴いた。一二三の特製シチューは、ジャガイモも人参もブロッコリーもほくほくで、鶏肉の旨味が滲み出て、絶品なんだ。あの味を思い出したら、腹の虫どもが黙っているわけがない。
一二三は「えっ……」となぜか一瞬驚いた表情をして、だがすぐににかっと笑った。
「緑の野菜たくさん入れてっから、楽しみにしてろよ」
緑の野菜が好きだなんて、言ったことあったっけな。特にそんな事実もないし。と一瞬思ったが、たぶん一二三はここ最近の俺の酷い食生活を想像して、栄養がつくぞという意味でそう言ったんだと思う。
一二三は典型的な陽キャラで、つまり俺なんかとは真逆の質で、俺からすれば異常なほどに絡んできて、正直鬱陶しいと感じることもある。だが俺は、こいつには頭が上がらない。なぜならこの同居生活の家事全般を担い、仕事の稼ぎでアラサー成人男性二人分にかかる生活費のほとんどを賄ってくれているからだ。俺が安月給の歯車であるばっかりに。
リビングへ移動して、整頓されたダイニングテーブルに目を向ける。俺の席の前に並べられているのは、大皿に盛られたほかほかのシチュー。小皿に取り分けられた黄金色のポテトサラダ。
「今、ライス盛るな〜」
一二三はキッチンで忙しない様子で作業をしている。
「あ、……自分でやるよ。そのくらい」
「いいって、いいって! 独歩はお疲れなんだから、座っててちょ! あっ、食ってていーよ!」
「でも、」
「なぁに、急に気ィつかってんだよォ。さいっこ〜の夕飯をひふみんシェフがお届けすっから、どっぽちんはマジでな〜んもしなくていーの!」
そういうリップサービス紛いの言葉がさらっと出てくるあたりは、さすがは歌舞伎町のナンバーワンホストとでも言うべきか。
……むず痒くなってきた。
「あ〜、その、なんだ。ありがとうな、一二三。お前はもう食ったのか?」
まあ、もう遅い時間だし食ったろうなと思いながら言った。
「いんや? 食ってねーよ」
「は?」
「独歩と一緒に食おーと思ってさ。だから、実は俺っちもお腹ペコペコリーヌなんだよなぁ〜。ハハ」
「ハハッじゃないだろ……そこは食えよ……食う権利あるだろ」
「はぁ……五臓六腑に沁み渡る」
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