望んだ春は来ない 耳を澄ますと、雪の降る音が聞こえた。雨のようにはっきりとではないが、雪にも音がある。さらさらと、屋根を、前栽を、粉雪が払いながら落ちる音だ。月島は足を止めて、音のするほうへ首を巡らせた。
外はもう夜の帳が下りていて、ガラス障子を隔てて縁側から望む月島には庭の様子が朧げにしかわからない。雪明かりがでこぼこと庭木の不安定な輪郭を形作っている。
「月島ぁ」
眠たそうな鯉登の呼び声が、縁側を挟んで庭の反対側、まだ明るい部屋のほうから聞こえてきた。
「はい」
つい立ち止まってぼんやりしていた月島は声の方へ足を向けた。ミシ、と雪音を掻き消す無骨な音が響いた。
寒風が入らないよう、明障子を細く開けて、隙間から月島は身体をさっと滑り込ませた。
布団の中でうつらうつらしている鯉登が、自分の――自分達の掛け布団をのっそり捲って再び間伸びした声を出した。
「つきしまぁ……」
「はい」
先に文机のほうへ行って屈み込むと、卓上で光を振りまいているオイルランプのつまみを回す。明かりが消えて、部屋には外よりも濃い暗闇が訪れた。
寝巻きの裾を捌きながら敷布団についた膝を進め、鯉登の横に身体を横たえるなり、掛け布団が無造作に下ろされた。布団を下ろしたその腕で月島を引き寄せると、ようやく落ち着いた、という風に鯉登が小さくため息のような欠伸をした。
「……どこ行ってた……」
「厠に……」
「ああ……」
鯉登は重たい瞼をしょぼしょぼ瞬きながら、腰に回していた腕を下にやって月島の尻をさすさすと撫でた。無理をさせただろうか、という心配からであり、助平心からではない。今はだが。
「遅かったから……平気か……?」
「……先にお休みになって構いませんでしたのに」
眠いなら自分を待たなくてもよかったのだ。その上、準備や後始末を気遣われるのは、逆に気まずいものがある。つい、月島の言い方に突き放すようなものが混じった。
子供がむずかるように「むぅ」と呻いて、鯉登が月島に全身でしがみついた。ぎちぎちと両腕両足で絞め上げられ、月島が僅かに顔を顰める。蛇に、或いは存在するならば龍に巻き付かれるとこういう感覚になるのだろうか。とはいえ、息が出来るということはまだ手加減されているということだ。ならば気の済むまで好きにさせておこうと、月島は目を瞑って、小さく鼻を鳴らした。
「月島は……案外冷たいんだな……」
ぱちり、と月島は閉じたばかりの目を開いた。全身に冷水を浴びせられたように、身体が強張る。それなのに心臓だけがどくどくと激しく跳ねている。息の仕方がわからなくなりながら、どうにか出した声は少し嗄れていた。
「……そうですよ。今更ですか」
「うむ……」
目を瞑ったまま、鯉登は絡めた足で月島の爪先をすりすりと擦った。
板敷きの縁側に留まっていたせいで、月島の足は体温を感じられないほど冷たくなっていた。月島は自覚が無いのだろうか。よほど足の皮が厚いということか。
「でもな……こうして抱きしめていると、内側からだんだん温かさが染み出してくる……」
言いながら抱き直していると、腕の中で凍りついていた月島の身体が少し柔らかくなったのがわかった。月島の足の冷たさで少し眠気が薄らいだ鯉登は、血の巡りがよくなるように、せっせと月島の足を布団の中でこね回した。
寝惚けた猫がする足踏みのように、ふみふみと足をこねられながら、月島はじっと胸のざわめきが遠ざかるのを待った。
「冷たい」と言われて、思わず動揺した。そう思われたっておかしくない、それだけの態度を取っているのだから、何を狼狽えることがあるというのか。自分でも愛想が良いとは思ってない。冷静、冷徹、冷酷――そう周りから受け止められることに心が動くことは無かった。
それが、この人に言われてみると、何かとても悪いことをしでかしたような、酷く胸が苦しい気持ちになってしまった。「冷たい」だなんて、本当に今更なのに。
どうしてこんなに身体の芯が冷たくなって、声を絞り出すのがやっとなんだろうと思っていたのに。
「……あし……」
俯いている月島の低い呟きに、鯉登はぬるりと薄目を開けた。
――ああ、こいつまた、健康的でないことを考えている。
「足が冷たいと眠れんだろう……体を動かすと温まるかもしれんぞ……?」
「……それはさっきしたでしょう」
窘める隙を与えてくれたことに感謝して、月島は自分から鯉登の厚い胸板に額を寄せた。着物越しでもじんわりと温かく、額で触れた素肌は熱があるのではないかと思うほどだ。
――この温もりで充分だ。
「少尉殿は思ったとおり温かいですね……冬はあなたがいてくださってよかったと思います」
「そうか……」
片手を布団から出して、鯉登は胸元にくっついてきた坊主頭をぽんぽんと撫でた。そのままうとうとと瞼を閉じかけたが、思うところあって、もう一度その瞳を開いた。
「…………夏は?」
「……あの……良い雰囲気で会話を終わらせたつもりだったんですが……」
「冬だけか?夏は?」
「……」
「夏は?」
眠いはずなのに、ちょっとした言葉尻も聞き漏らすことなく、追及の手を緩めようとしない鯉登に月島は呆れてしまった。おとなしく寝てくれればいいものを、これは答えるまで繰り返すのをやめないつもりか。月島は鯉登の寝間着の裾を掴んで、よく聞こえるように顔を上向けた。
「春夏秋冬、あなたがいてくださってよかったと思っています」
「ん。……なら、いい」
それで満足したのか、鯉登はわしわしと月島の後頭部を撫で回して、すぐに静かになった。もう部屋にはお互いの呼吸の音と布団の擦れる音だけしか聞こえない。鯉登の耳に届かないように、こっそりと月島はため息をついた。
有るか無きかの音も密やかに、雪はどんどん降り積もる。適当なところで下ろさなくてはいけないのに、気付いたときには手遅れで、いつか重さに耐えかねて潰れてしまうのではないかと恐ろしい。
どうかそうなる前に。
解けてなくなりますように。
早く春になりますようにと祈りながら眠るのだ。