「パボちゃん、お茶飲む?」
リビングで読書に耽るパボメスの横に、茶の入った盆を持ったリネンが腰を下ろす。本の内容に集中していたパボメスは、少し遅れて顔を上げ、二、三度瞬きした後頷いた。
「随分熱心に読んでたね」
本を横に置き、冷たい茶をあおるパボメスにリネンが話しかけると、彼はグラスを持ったまま本の表紙をちらりと見て頷く。
「興味を引いたからな」
複数の花を象ったイラストが表紙を飾るその本は、いわゆる花言葉をまとめたものだ。先程二人で外を歩いたとき、ぶらりと入った書店でリネンに購入してもらった。
「ただの花一つに、人々はこうも様々な思いを巡らせ、時には一つの物語まで見出したというのだから、興味深いものだと思う」
「ふふ、気に入ってくれてよかった」
リネンが微笑ましげに見る横で、パボメスは再び本のページを繰り始める。
「先程見かけた金木犀というものも載っていたぞ」
「うん」
とあるページで彼の指が止まり、そのページを開いた状態でリネンに掲げてくる。金木犀の花の写真の周囲を取り巻くように、金木犀の紹介や花言葉が綴られていた。
「この小さな花にもきちんと言葉が添えられているのだな……」
「花は小さくても、すごく香りがいいもんね。そういうところに惹かれたんだよ」
「ほう。……だから『謙虚』とか『謙遜』などというのだな」
ふと、パボメスが目線を上げた。赤い化粧に縁取られた鮮やかな赤い目がリネンを捉える。
「どことなく貴様のようだな、黒いの」
何の気なしに言い放たれた言葉に、リネンはきょとんとした顔で黙り込む。
「………………」
そして何度か瞬きをした後、ころころと笑い出した。
「あはは、何それー」
次の瞬間、彼はとんでもないことを口走る。
「俺、今パボちゃんに口説かれてるの?」
「…………は?」
パボメスは呆れた表情を隠そうともせず、すぐにリネンの言葉を否定した。
「口説いてなどいない。何故そうなる?」
「えぇー、だって人を花に喩えるのって口説き文句としては結構定番でしょ?」
「だとしても貴様を口説いて我に何の利があるというのだ……馬鹿馬鹿しい」
さっさと話を終わらせ、また本の続きを読もうとするパボメスだったが、彼は忘れていた。
今この時間帯、リビングにはここに住む全員が集まっているということを。
「ええーーーっなになに!?どゆこと!?どゆこと!?」
案の定、こうしたことがあると黙っていられないザイカが横から割り込んできた。強い力で抱きしめられ、パボメスは思わず潰れたカエルのような声を上げる。
「パボちゃ、リネンのこと口説いてるの!?」
「だからっ、口説いてなどいないと……!」
しかし、パボメスの言い分を聞いているのかいないのか、魅朕が呆れた表情で言った。
「あんたねぇ……花に喩えて口説くなんて普通男にはやらないわよ。しかも何で金木犀なのよ」
「口説いていない!」
「あら、私は好きよ、金木犀」
パボメスはザイカを振り払おうともがきながら、魅朕の言葉を否定する。しかし今度は、魅朕の横に座っていたライラがいつものおっとりした笑顔で会話に入ってくる。
「大輪の薔薇に喩えられるより、金木犀の方が断然いいっていう女の子、結構いるんじゃないかしら?」
「そうかしら?確かにいい香りだけど地味じゃない?ちょっと雨降ればすぐ散るし」
「控えめな小さいお花が可愛らしいし、花言葉も素敵じゃない?パボちゃんが言ったように『謙虚』とか、あとはそういう、秋雨で潔く散ってしまうことから『気高い人』なんていうのもあるし……」
「ねー、何で『真実』っていうのー?」
パボメスの持っている本を覗き込んでいたザイカが尋ねると、ライラは彼女の方を向いて答える。
「ほら、金木犀はすごく香りが強いでしょ?ひとたび咲けばすぐ分かるぐらい。そういう嘘がつけないところが由来になってるのよ」
「へえー、そう考えると確かにリネンぽいかも」
ふむふむと頷くザイカ。魅朕がリネンを見てにやりと笑った。
「あんた、嘘つくの下手くそだものね」
「ええーそうかなぁ。隠せてるつもりなんだけどなぁ」
「つもり、の時点ですでに隠せてないわよ」
「魅朕ちゃんが鋭いだけだよぉ」
二人の会話をにこにこしながら聞いていたライラは、ザイカとパボメスの方へ向き直ってさらに続けた。
「それに、香りが素敵だからかしら……『陶酔』とか『初恋』、なんて言葉もあるのよ?」
瞬間、その場の空気が水を打ったように静まり返る。言葉を発したライラ以外の全員が唖然としていた。
……少しして、ザイカが眉をひそめながら魅朕のところまで後退る。
「えっ、それってさぁ……金木犀に喩えられるってことはさぁ……あなたのニオイでもう僕メロメロですーってことなの!?」
「そうよ、きっとそうだわ」
魅朕がしたり顔で頷くと、ザイカは腕をバタバタさせて騒ぎ出す。
「うわー!うわうわうわわー!!やばー!やばくない!?やばくない!?」
「いやらしいわねぇ……」
「いや、どういう意味だソレは!?というか口説いていないと言っているだろう!」
どんどん話が大きくなっていくことに焦り、援護射撃を求めてリネンの方を振り向くパボメス。
「おい黒いの、貴様からも何とか……、」
しかし、振り向いた瞬間パボメスは硬直した。
「………………」
それまで黙ってやり取りを眺めていたヒョウガが、リネンの体を後ろから抱きかかえながら鋭い眼差しでパボメスを睨みつけていたのだ。
「…………ヒョウ、」
「だめ」
どうやらヒョウガも事態を勘違いしているらしいことに気づいたパボメスは、どうにか彼の誤解を解こうと名前を呼ぶが、それを遮るようにしてヒョウガが一言だけ呟く。いつもは静かで柔らかい声も、どことなく殺気を帯びていた。
「……大丈夫だよ、ヒョウガ。俺には君だけだから」
リネンが苦笑しながら腕を伸ばしてヒョウガの頭を撫でるが、パボメスにとって根本的な解決になっていないのは明らかだ。
「宥め方が違うだろう、馬鹿者!」
「えっ」
パボメスが怒った猫のように髪を逆立てる。
「そもそも我が貴様を狙っているというのが間違いなのだから、まずはそこを、むぐ」
しかし、最後まで言おうとした言葉はヒョウガの手によって遮られる。
「僕の」
「わっ」
なおも鋭さの残る声で言い放ったあと、ヒョウガはリネンの体を引っ張り上げ、半ば引きずるようにして二人で自室へ消えてしまった。残されたパボメスは呆然とそれを見送るしかない。
「……冗談じゃないぞ、全く……」
ブツブツ呟きながら3人の方を振り返るパボメス。すると、ザイカたちはヒョウガのことはそっちのけで、パボメスが読んでいた花言葉の本をめくりながらワイワイとおしゃべりに興じているところだった。
「おい」
「ん?」
見上げてきた3人に対し、パボメスは改めて弁明した。
「口説いて、など、いないからな!」
しかし、先程のノリはどこへ行ったのか、ザイカは呆れた顔で首を振った。
「ええー、知ってるよそのぐらい」
「は?」
困惑するパボメスに、今度はライラが困った笑顔で謝罪してくる。
「ごめんなさいね、パボちゃんがあまりに生き生きしてたから、ついからかいたくなっちゃって」
「何?」
そして、とどめとばかりに魅朕が言い放った。
「あんた、あんまりムキになって否定するの止めた方がいいわよ。かえって本当らしく聞こえるもの」
「ねー。あたしらはちゃんと分かってたからともかく、ヒョウガは本気にしちゃったんじゃない?」
「リネンくんも大変ねぇ。今頃頑張って誤解を解いてるところなのかしら」
今しがたヒョウガたちが入っていった部屋の扉をちらりと見ながら、ライラがため息をつく。しかし、その表情はどこか楽しそうだ。
ここでパボメスはようやく気付く。自分がいつも通りこいつらにからかわれていたということに。
「……貴様らああああああッ!!!」
「うるさーい」
パボメスの怒り狂った叫び声も、いつもの光景だ。