胡蝶の夢 真っ白な部屋で目を覚ます。
瞳を開けた途端に溢れ返る光の洪水に目覚めたばかりの脳はわずかばかり混乱を起こした。まとわりつく真っ白なシーツ。大きめのサイズだというのに何故かベッドの片側に寄っていて、空いた片側に少しばかりの寂しさを感じる朝。ここはいったいどこだろうか。
「起きたのかい、雷我」
春の陽ざしのような声が自分の名前を呼ぶのを聞いてそちらを向いた。名前を呼び捨てにするような人間など家族と護しかいないはずなのに、その声はどちらとも違う。
「そろそろ起こそうと思っていたところだったよ」
片手に小さめの霧吹きを持ってサボテンに水をやる男はそう言って笑う。真っ白な衣服に身を包み、穏やかな朝の日を背に微笑む男は酷く眩しい。
その男の顔は見慣れた気に食わない男の顔だった。
どうしてこの男がこんなにも自分に好意的なのか、どうして自分もその好意を受け入れているのだろうか。ふと疑問に思ったところで寝ぼけていた脳が回り始める。どうして忘れていたのだろうか。この男と自分が水と油と揶揄されていたのは過去の話である。体だけの関係から始まって、紆余曲折して今は恋人同士などと甘ったるい関係性に落ち着いたのだ。
この部屋も見慣れない部屋ではない。何度も訪れた天神コウの部屋である。数年前までは鬼童町のガキと二人暮らしをしていた部屋。今は進学を機に出て行ってしまってコウの一人暮らしの部屋になっていた。いつでも戻ってこられるようにと一人暮らしにしては広い部屋にたびたびお邪魔したのは、一人だとたまに寂しい、とこの男が酒の席で漏らしたからだ。
リビングに置かれたパソコンと、飲みかけのコーヒーカップ。どうやらまた眠れないまま夜通し仕事をしていたらしい。起き上がって近づけば、年中消えない隈がまた濃くなっているように見えた。
「……寝れねぇのはわかるけど、あんま無理すんな。また顔色悪くなってるじゃねぇか、コウさん」
胃にも、喉にも、どこにもつかえることなくするりと言葉が漏れた。呼びかけた名前はもう何年もそうやって呼んでいるはずなのにどこかくすぐったくて砂糖菓子のように甘ったるい。溶けきれずじゃりじゃりと舌にざらつきが残るような感触。
「心配をかけてすまない。あぁ、のんびりしている暇はないな。さっさと朝ごはんを食べて一緒に会議に向かおうか」
炊き立てのご飯とみそ汁の香り。
持っていた霧吹きを窓辺において、男はこちらの頬に触れた。
***
薄暗いホテルのベッドで目を覚ます。昨夜、抱きつぶして寝たはずの男はもうとっくにベッドにはいなければぬくもりすらない。カシャンと軽い音がした方向を見れば、男がホテルのカーテンを勢いよく開けたところだった。
「……さすがにそろそろ起こそうとは思っていたが、目覚めたなら良かった」
薄暗かった部屋に光が差し込む。強烈な白に目が眩んで思わず片手で目を覆った。
「……あまりゆっくりする暇はないと思うが。君は会議の開始時刻を覚えているのか」
呆れたような声とともに降ってくるため息。眉を寄せて、不機嫌そうに見下ろす視線に含まれた確かな嫌悪。
――酷い夢を見た。
どうしてこの男と自分が付き合っているなんて夢を見たのだろうか。あまりの胸糞の悪さに吐き気がした。小姑のような嫌味も、こちらの行動が気に入らないと向けてくる視線も、この男のやり方も全て気に食わなくて腹立たしい。
こうやって会議のたびに嫌がらせのように抱いたところで、泣きもしないところも、噛み傷も鬱血痕も全部真っ白な衣服の下に隠してしまうところも、こちらの背中に絶対に伸ばされない両腕も、こうやって何もなかったかのように朝を迎えるところも、全部、全部、大嫌いだというのに。
「和食君、私は先に行く。君は必ず遅れないように来なさい」
一緒に行動して誤解されても困るからな、男はそう言っていつもの白いカミサマになるためのコートを羽織る。
雷我、と呼んだ夢の中の男の声を思い出してその声色の違いに少し笑いがこみ上げた。どうしてこの男が自分の名前をそんな風に呼ぶなんて思ったのだろう。夢とは言えど、その発想が自分の中にあったことに拒否感すら感じるというのに。
目の前を通り過ぎてドアに向かって歩く男の顔が僅かに歪んでいた。鞄を持っていない左手で腰をさするようにして歩く姿。いつもまっすぐ伸ばされた背中も、腰をかばうように丸められていた。
あれだけ昨日手酷く抱いたのだ。体にガタが来るのも当たり前か。
「……腰、いてぇの?」
ドアの前。あと一秒でも声をかけるのが遅ければその声は聞こえなかっただろう。少しだけ空いたドアをもう一度ゆっくり閉めなおして男が振り向く。
「……君には関係のない話だろう」
それは確かな拒絶だった。伸ばしてもない腕を振り払われるようなそんな隙のない声色に何かが抉られたような感触。どこが抉られたのかは自分自身にもわからない。
思わず漏れた舌打ち。向けられていた視線はすぐに外されて安いホテルのドアが閉まる。
窓際の小さなテーブルに置かれていたホテルの代金。いらないと言い続けているのに毎回律義に置かれているそれが、どうしてか今日はいつもよりも腹立たしい気がした。