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    間に合えば5/4新刊予定のひめ巽

    #ひめ巽
    southeast

    熱を喰らわば死ぬまで大好きな場所で歌い踊るのは、スイーツを一口食べた時のように甘い多幸感で満たされる。スポットライトの光が落ちてファンの歓声の中袖に捌けたHiMERUは、動悸が激しく苦しむ胸を落ち着けるように大きく息を吸って、仲間とハイタッチをした。
    横に並ぶ者たちが出来て早数ヶ月。ファンも増えライブの回数も増えた今、「Crazy:BのHiMERU」として自分自身でも確かな手応えを感じている。そんな中開催された同期のALKALOIDとの合同ライブは、不安や懸念はあったもののこうして大成功を収めた。
    「兄さん!」
    「最高だったなァ!」
    ステージから楽屋までの間、先に合流した燐音と一彩が何度も肩を叩きあう。他のメンバーも次々挨拶を交わす中、最後に袖に入ったHiMERUは暗がりの中で目の前の背中がくるりとこちらへ翻すのをぼんやりと眺めていた。
    「HiMERUさん!」
    いつも呑気そうで、それでいてステージ上では誰より輝くその顔が、興奮からか赤く色付いている。HiMERUもらしくなく肩で息をして、駆け寄ってくる巽を避けようともしなかった。きっと、ライブの熱がHiMERUをおかしくさせた。
    「たつ、」
    「大成功ですな!」
    声を出そうとしたHiMERUを遮るように、ドンと勢い良く衝撃が走る。そのまま身体が熱い何かに締め付けられてようやく、巽に抱き締められていることが理解できた。
    「っ」
    息がつまって、何も言えない。自分の汗が衣装に染み込むことよりも、カラカラに乾いた喉を潤すことよりも、今自分を力いっぱい締め付ける熱にすべての神経が向く。HiMERU以上に熱くて汗にまみれた身体を、巽だと分かっているのに引き剥がす気にもなれなかった。
    「すみません、あついですよね」
    「あ、っ、いや……」
    どれぐらいそうしていたか分からないが、気付けば熱が離れて巽の顔が見える。火照った頬からまた一つ汗が流れるのをゆっくり視線で追うと、止まっていた時間が早送りされるみたいに、一気に身体が熱くなった。
    ばくばくと高鳴る心臓を右手で抑えるよりも、巽が藍良に呼ばれて去る方が早かったらしい。こはくが呼びに来るまで、HiMERUは棒立ちのまま動けなかった。




    熱を喰らわば死ぬまで


    「緩みすぎです」
    「あぁ?」
    昼下がりのレッスンルームは何処か緩やかな空気で満ちている。ニキの作った昼食を四人揃って平らげた後、そのまま予約していたレッスンルームに来たせいもあるのかもしれない。HiMERU以外の三人は着替えるだけ着替えた後、床に寝そべったりスマホを弄ったりするばかりでレッスンを始める様子もなく、わざと大きく声をあげたHiMERUを怪訝な様子で見上げた。
    「ライブ直後とはいえ、限られた練習時間を棒に奮う時間などHiMERUたちには無いはずです」
    合同ライブが終わったのはつい先日だが、Crazy:Bに余裕なんてものはない。厄介な新人アイドルとしてのレッテルが付けられたグループが活躍するには少しのチャンスでも逃したくはないと練習に精を出そうという考えは、間違ってはいないはずだ。
    それなのに、眉を吊り上げるHiMERUの言葉を聞いた他の三人は、揃いも揃ってぽかんと口を開けたまま顔を見合わせている。その何とも言えない空気を破ったのは、リーダーである燐音だった。
    「つーかぁ……緩んでるのはどっちかってーとメルメルじゃねェ?」
    「あー確かに! 最近呼んでも一回じゃ振り向いてくんないっすよね」
    「……それは貴方達の日頃の行いのせいでしょう」
    更に睨む目を釣り上げても、当の本人たちはケロリと笑っている。だが、燐音の言葉に内心ギクリと焦りを覚えたHiMERUは取り繕うような自分の態度が恥ずかしくもなった。
    ここ数日、らしくない行動をしてしまっている自覚はある。あるけれど、それを認めた瞬間芋づる式に原因まで辿りついてしまう自分の勘の良さが恨めしい。今だけはニキのように何も考えずに生きられたらいいのに、と舌打ちをすると、「なんで睨むんすかぁ」と気の抜けた返事が返ってきて、溜息をついた。
    それに、そんな自分の少しの変化を仲間たちに気付かれているというのも、どこか気恥ずかしい。
    「そやね、この前中庭でボーッとしとるHiMERUはん、わしの声全然聞こえてなかったみたいやしな」
    「ッ桜河まで!?」
    思わぬ伏兵の参戦に、思わず声を荒げる。コッコッコ、と特徴的な笑い声を漏らしたこはくは、特に悪びれた様子もなくスマホをタップし続けていてHiMERUの焦った様子を楽しんでいるようにも見えた。
    「やっぱり、合同ライブで風早はんと組まされたのがそんなに嫌だったん?」
    「……いえ、そんなことは……」
    こはくの言うことは最もだった。合同ライブに向けての練習中、HiMERUは何度も巽と対象になるダンスに苦情を出していたし、それを知っていたこはくにライブMCでバラされた時でさえ否定しなかった。こはくの中で上の空のHiMERUは合同ライブの鬱憤が原因だとアタリを付けているらしいが、本当の原因よりもその誤解の方が都合がいい。
    都合がいいのに思わず否定の言葉が口をついて出たのは、心の何処かでこはくにだけはこれ以上嘘を重ねたくなかったからだろう。かといって本当のことを話すのは躊躇われる。頭では冷静に分析出来ているのに、スマホから離れたこはくのアメジストと目が合うとどうしていいか分からなくなる。
    上手い言い訳も見つからず、らしくなく言葉に詰まるHiMERUを見てニヤニヤと口角を上げて肩を組んできたのは、またしても燐音だった。
    「分かってねェな、こはくちゃんは。そんなん決まってってしょ」
    強引な口ぶりと同じく無理に回された腕に、迷いよりも怒りが表面に出る。そんなHiMERUを見て満足したのか、燐音はすべてを見透かしたように笑った。
    「メルメル、意外と目は嘘つけねェんだな? ぎゃはは!」
    「ッHiMERUは巽のことなどこれっぽっちも気にしていませんので!!」
    防音のレッスンルームに、燐音の笑い声を掻き消す大声が響く。ぐわんぐわんと声が広がる中で、ニキだけが平然とした顔で懐から取り出したパワーバーを齧っていた。こういう時、このグループの中で神経が太いのは間違いなくニキだろうな、なんて現実逃避した頭が状況を分析している間に、HiMERUの思考は「余計なことを口走った」という文字が風船のように膨らんでいく。その容量が大きくなるにつれ、HiMERUの頬が赤らんでいくことを否が応でも自覚した。
    「〜〜〜っ」
    燐音の腕がようやくぴくりと反応して、一気に思考の風船が弾ける。居ても立ってもいられなくなったHiMERUは、言い訳も残さずにレッスンルームを後にした。「綺麗に自爆していきやがった」なんて燐音の心配そうな声は、こはくだけがまともに聞いていた。




    「ってことじゃけ、あとはよろしゅうな」
    「はあ、それは別に構いませんが」
    申し訳なさそうなこはくが、巽に軽く頭を下げる。今まさに巽と二人きりにされそうな状況に、HiMERUは慌てて声を上げた。
    「……って、桜河!!」
    「どうせまた喧嘩でもしたんやろ」
    呆れた顔だけを残して、こはくはレッスン室から出ていってしまう。さっきまでメンバーがいたレッスン室は変にニヤけた燐音を筆頭に誰もいなくなった。正確には、同じグループのメンバーは、だが。
    HiMERUが綺麗な自爆をしてから数日と経っていない。今日こはくに呼び出されたHiMERUはてっきり勝手にレッスンをサボったことを怒っているものだと思っていたが、待ち合わせたこはくにそんな様子はなかった。今思えば、その時点で嫌な予感を察するべきだったのだ。
    こはくに連れてこられたレッスンルームにはCrazy:Bのメンバーと、あろうことか悩みの種である青磁色の男が待っていた。様子の可笑しいHiMERUを見て「喧嘩をしている」なんて入れ知恵をしたのは燐音だろう。
    だが、いつもなら燐音に対しても目の前の巽に対しても苛立ちしか起きないはずなのに、今ばかりは緊張の心音が上書きをしている。あっという間に二人残された状況でもなお、収まることはない。
    「あの、HiMERUさん」
    「…………なんでしょう」
    ぐるぐる空回りする思考をどうにか落ち着けようと深呼吸をする。HiMERU本人だって、理由こそ分からずともこうなってしまった原因の人物ぐらいは分かっていた。だからこそ、この言葉で表せない変な感情を作った張本人を前にして、いつもよく回るはずの口を開けたり閉じたりするしか出来そうにない。
    「こはくさんが仰ってました、HiMERUさんが俺のことで悩んでいると」
    「(……天城ィ……)」
    ぎり、と奥歯を元凶と思われる男をすり潰すように噛み締める。先日のあの様子から、HiMERUが「どう」悩んでいるかなんて、燐音には伝わってしまっているだろう。そのくせ、こはくに「二人がまた喧嘩しちまってるみてぇだし、こはくちゃん仲取り持ってやれよ」なんて湾曲して伝えたのもあの男だろうと青筋を立てて腹を立てるが、今はそれどころではない。
    「いえ、なんでもありません。桜河の勘違いでしょう、たまに思い込みが激しいですから」
    怒りを抑え込みながら笑顔を浮かべるHiMERUの本意は、どうにも巽には伝わっていなさそうだ。相変わらず心配そうな目をしたまま、「ですが」と食い下がろうとする。
    「(言えるわけないだろ、あの日の感触が忘れられないなんて)」
    どう伝えればこの場を去ってくれるか考え込む。色々な言い訳は思いつくのに口に出来ないのは、きっと少し期待しているからだ。
    出したくない答えが出てしまう気がして慌てて首を振ったHiMERUは「巽には関係ありません」とだけ言い残し、その場を立ち去ろうと踵を返した。
    「あ、待ってくださ」
    「ッ!」
    巽の手がHiMERUの手首に触れる。その瞬間、バチリと電撃が走ったように熱くなった気がして、咄嗟に手を引っ込めた。どくどくと、心臓が痛くなる。
    だが触れた手首を擦るHiMERUを見て、巽は更に眉を下げた。
    「すみません、もしかしたら、終わり際に無理に抱き締めてしまったので……それがよほど嫌だったのではないかと思いまして」
    申し訳無さそうな巽は、HiMERUから少し距離を取る。さっきまで求めていた熱が触れられないだけ離れると、さっきまで高鳴っていたはずの心臓が今度はぎゅうと締め付けられる。
    「興奮のまま触れてしまってすみませんでした、君も……俺とはそういった触れ合いは嫌だったでしょう」
    「べっ、別にそんなこと思っていないのです」
    咄嗟に口をついた言葉に、HiMERUは自分でげんなりした。こうして寂しそうな顔をして被らなくていい非を謝る巽のことが、HiMERUはずっと前から嫌いだ。嫌いなはずなのに、この勘違い野郎の突飛な思考を正したいと思うぐらいにいは、自分の熱が、目の前の男に移っているらしい。
    「……あの、お願いがあるのですが」
    「俺に出来ることでしたら」
    汗が背中を伝って、喉が渇く。でもそれよりも胸の奥の方から湧き上がる期待が、HiMERUの口を開かせた。
    「……もう一度、触れても……いい、でしょうか」
    はい、というどこか嬉しそうな言葉とあの日の熱より心地よい体温に包まれて、HiMERUはその背中に腕を回す。
    どくどくと高鳴る鼓動の正体の謎は。
    「(…………そんなわけ、あるはずがない)」
    その感情がどんな名前なのか、思い当たらないわけではなかった。




    それからHiMERUは、定期的に巽を誘うようになった。といっても以前のように「触れてもいいでしょうか」なんて直接的に依頼しているわけではない。
    決まって、二人きりになれるタイミングを見計らっているHiMERUを見て勘付いた巽が両手を広げて待っている。そんな巽に、眉根をぎゅうと詰めながら、仕方ないといった風を装って少しの間だけ腕の間に収まるのだ。長くて十秒、それがHiMERUにとってのボーダーラインだった。
    「(……何をしているんだ、俺は)」
    ふとした瞬間、例えば寝る直前であったり、風呂に入るタイミングであったりに自分の奇行を思い出しては頭を抱えたくなる。
    それなのに、その熱を独り占めしているのは自分だけなのだと優越感を感じているのも、事実だった。



    「ということで、次の合同ライブが決まったよ!」
    「も、もしかしてさァ、この間のライブがすっごく盛り上がったからってことっ? 未だにSNSでライブの感想言ってくれる人居るもん、おれたちもまたやりたかったし!」
    「もしかしなくてもそうだろうなァ。うちの副所長、そーゆーの敏感だから」
    見慣れた八人が集まったレッスンルームで、わいわいと話が盛り上がる。興奮した様子の藍良は一彩との会話に割って入ってた燐音のことを嫌そうに見つめると、「だからって前みたいにMC中絡んで来ないでください」と人差し指を立てて注意していた。藍良のお叱りで多少は予想外の動きを控えてほしいと、HiMERUは冷静な表情の下でこっそり溜息をついた。
    アンコールライブと銘打ったそれを伝えられたのは今日の朝イチだ。前回の合同ライブの盛況っぷりに目をつけたコズプロ副所長である茨は既に抑えている会場や日程を一気に説明すると、嫌味なぐらい良い笑顔でさっさと立ち去っていってしまった。
    その後、メンバーよりも詳細を伝えられていた燐音と一彩を中心に内容について話し合いを進めているが、急に決まったライブは本番までの日がない。会場設備はスタッフ、演出や衣装などはプロデューサーや事務所が用意してくれるけれど、曲目決めや合わせてのレッスンなど、本人たちがやるべきことも多々あることを考えると前途多難だ。
    「やっぱり、時間が足りませんね。いくら前回と同じ内容でも構わないとはいえ、再度来てくれるファンの方のことを考えると……」
    「そうやね。今回来はってくれるファンは前回のライブの余韻が冷めとらん子らやろうし……そういうの、ロスっち言うらしいで」
    「こはくっちってば、そういうのちゃんと調べてるんだぁ」
    メンバーがそれぞれに意見を出し合うも、纏まる様子はない。とはいえ、それまで静観していたHiMERUも、どうしたものかと悩むふりをして横目で巽を追っているばかりで集中出来ているとは言い難い。何食わぬ顔でマヨイと話し合う姿は何の違和感もないただの巽でしかなく、それがどうしようもなくHiMERUを苛立たせた。
    そんな様子を知ってか知らずか、レッスンルームをぐるりを見回した燐音はポケットからシリアルバーを出し食べようとするニキの首を腕で拘束すると、立ち上がって大声をあげた。
    「そうなると、やるべきことは一つしかねェな」
    それまで四方八方に飛び交っていた声が燐音の一言でぴしゃりと止む。不思議そうに見上げる顔が六つと、苦しげな怒った顔が一つ、それぞれに燐音に注目していた。
    「明日はお泊りセット持って門に八時集合な」
    「は?」
    思わず声が出たのはHiMERUだった。ニヤニヤと笑みを浮かべた燐音はHiMERUにウインクを寄越すが、HiMERUにとってそれは災厄のサインだ。
    「なに言ってんだよメルメル、合宿しかないっしょ」
    その言葉に、トレーニングは歓喜の声が上がった。あくまで、HiMERU以外は。



    燐音ほど、実行力がある人間はあまりない。その点について――Crazy:Bとして活動をし始めたあの夏の改革でさえも、HiMERUは評価していた。
    だが、ああやってHiMERUを揶揄うように笑う時だけは、絶対に碌なことを考えていない。だからこそ合宿を回避して効率よく全員が練習出来る方法を提案しようとしたが、結局は滅多に無い機会に喜ぶこはくの顔を見てそんな策略はあっさりと萎んでいった。

    合宿先は、燐音が手配したという都心の外れにある小さいホテルだった。普段会社の研修所として利用されているそこは、簡易のビジネスホテルのようで居心地は良い。それでいて、こういったアイドルの練習合宿として使われる想定もあったのか大きめの会議室には鏡まで置いてあって、メンバーも全員満足げだった。基本的に会社で貸し切りにしてしまうせいか、今回も八人での利用にも関わらず貸し切りになっているようで、頭のどこかでコズプロ副所長の「それだけの結果を期待していますよ」なんて声が聞こえた気がした。
    「部屋も案外広いんやね、二人部屋っち言われた時はもっと貧相なんを想像しとったけど」
    「……そうですね」
    それぞれあてがわれた部屋にはシングルベッドが二つ並んでいて、荷物も十分広げられるだけの広さがあった。HiMERUの相手であるこはくはベッドへとダイブして満足気に笑う。てっきり燐音が決めたペア割りで巽とセットになっているのではと勘ぐっていたが、考えすぎだったようだ。
    HiMERUが荷物を下ろしジャージなどこの後のレッスンに必要なジャージやタオルを整理し始めると、ベッドの上からこちらを振り向いたこはくが煮えきらないHiMERUを不思議そうに見上げた。
    「HiMERUはんも風早はんと一緒がええか? 夜でもライブの相談出来んで」
    「……冗談はやめてください、桜河」
    「まぁだ喧嘩しとんのかいな」
    呆れた顔のこはくに、むっと顔を顰める。喧嘩をしているわけではないと何度も説明してはいるが、こはくは信じてはくれない。
    以前こそ、喧嘩――といってもHiMERUが勝手に腹を立てていただけだが、険悪ではあった。こはくから見れば、今のHiMERUたちも前のHiMERUも変わらなく見えるのだろう。むしろ良くない方向に関係を深めてしまっている手前こはくの勘違いは有り難いはずなのに、どこかモヤモヤとした感情がHiMERUを支配して苛立たせた。
    「ライブまでに仲直りせんと、上手くいくもんもいかんで」
    そう言うこはくに、返事はしなかった。



    こはく曰く、「上手くいくものも上手くいかない」とのことだったが、実際は何の問題もなくレッスンは順調だった。ユニット単位の練習も、合同曲も、メドレー形式のペア練習さえも。
    アンコールライブと称している分、ライブの冒頭は前回のライブと同じセットリストで組む。だが、リピートして来てくれているファンの為に今回新しく追加したのが、各ユニットから一人ずつの二人組のペアを作ってそれぞれのユニット曲からメドレーを歌う、というものだった。前回アンコールとして歌った合同曲で各パートをペアで歌ったことがSNSで話題になったことはHiMERUも知っている。だからこそ、ペアメドレーが決まった時に何の異も唱えなかったが、何も気にしていなさそうなニキや一彩と、当の本人の巽以外はHiMERUを心配そうな目で見てきた。
    「善処しますので宜しくお願いしますな」
    ――そう笑う巽と、練習を続けてもう三日が経つ。
    朝に弱いと自負しているHiMERUが目覚ましより前に起きたのは奇跡と言っても過言ではなかった。上半身を起こしても特に疲れが残っているわけでもなく、カーテンの間から溢れる朝日がうっとおしいと思うこともない。隣のベッドでは綺麗な寝相のまま寝息を立てているこはくが居て、なるべく音を立てないようにベッドから降りた。
    素早く身支度を済ませたHiMERUは自身のキャリーバッグから出したジャージに着替え、タオルを持って部屋を後にする。スマホで時間を確認するとちょうど七時になろうとしていた。もうすぐ起動するアラームを切って、この時間には外にいるだろう想い人を探しつつ、HiMERUは走り出した。

    宿泊している合宿所の周辺は、郊外から離れているとあって人通りがほとんどない。合宿所の裏は海が面していて、バスを利用してここに来たときも随分と砂利道を通ってきた気がする。
    軽く外周を走って汗が滲み出てきたところをタオルで拭いて、朝日が差し込む海岸側へと回る。あくまで、ついでだ。ついでに、いつもは見れない朝の特別な時間に、運良く遭遇してしまうだけ。そう思ってホテルに併設するテラスまで来て、人の影すら見えない白い床にHiMERUは大きく溜息をついた。
    「(誰も、いないな)」
    明らかに期待をして高鳴っていた心臓に、ほとほと呆れ果てる。潮風に揺られることで肌も髪も朝から軋んでいて、気分は最悪だ。勝手に会えるかもしれないなんて期待をしたのはHiMERUの方なのに、誰かさんが信仰している空の更に上にまで恨みを溢してしまいそうになるほどに。もちろん、HiMERUは神なんてものは信じてはいないけれど。
    もう一度神とやらに聞こえるように溜息をついたHiMERUは、テラスの奥へと足を進める。中の食堂と繋がっているのだと初日に受けた説明を元に頭の中で地図を広げ、そこから屋内に入った方が時間短縮になると結論付けた。最も鍵が空いていなかったら徒労に終わるけれど、幸い朝食前にシャワーを浴びるぐらいの時間はまだ残っている。そう思って屋内へと続くドアから中に入った瞬間、キッチンカウンターの中にいる人物とばちりと目があった。
    「っ!」
    おや、と目を丸くするその姿はさっきから探していた青磁色の男で間違いない。カタカタと何かが煮える音がしているから、朝食の支度でもしているのだろう。もうとっくに朝の祈りなんて終わっていたのかと、HiMERUはやっと空回りしている自分に気づいて巽から目を逸した。顔が赤いことが、朝日の逆行に負けて分からなければいいと思いながら。
    「……巽」
    「HiMERUさん、おはようございます。随分早起きですな」
    「巽こそ、どうせ毎日ここにいるのでしょう」
    「ふふ、そこのテラスで祈りを捧げるのも中々気持ちいいんです。どうしても時間が余ってしまって、こうしてお節介もしてしまいますが」
    充満している匂いからするに、コーンスープとフレンチトースト、それにコーヒーといったところだろう。HiMERUさんも飲みますか、と問われて頷くと、満足そうにカップをもう一つ並べ始めた。
    ただ待っているのもシャクで、横に並ぶようにキッチンに立つ。広々とした食堂は二人だけでは随分と静かだ。
    貸し切りのせいか設備こそあれど従業員を始めとしたスタッフはごく少数しかおらず、調理をしたいなら自分たちで作るしかないところはホテルではなく研修所であることを思い出させる。そう言われたところでHiMERUはニキや巽の作るご飯を食べるだけでこうしてキッチンに立つ機会はほとんどなく、今こうしてコーヒーが焙煎されていく音だけが響く空間で二人でいることが、どこか特別に感じた。
    「HiMERUさん」
    ぱり、とその一言で空気が張り詰める。普段な温和な巽の声とは違う、少し昔を思い出させる声色。びくりと肩が跳ねそうになるのを抑えて、返事はせずに横目で巽を見やる。その顔は、声の割に辛そうだった。
    「もしかしたら、君に迷惑を掛けてしまうかもしれません」
    「……悪いんですか、調子」
    「悪い、と断言出来ないところが厄介なところですな」
    目線が否が応でも下にいく。特に引き摺った様子もないが、本人の言う通り突然不調に陥ってしまうこともあるのだろう。
    ――巽の足は完治しない。問題はない代わりに、突然何かがあっても可笑しくない。そう以前の合同ライブの時にもALKALOIDのメンバーが巽よりも先に相談してきたのは記憶に新しい。
    HiMERUがじいと見ているのが気になったのか、巽がHiMERUの顔を覗き込む。突然近くに現れたアメジストに、どくりと心臓が煩く鳴った。
    「でも、無理はしません。あの子達と約束していますから」
    そう目を細めた巽の髪が、さらりと頬に落ちる。どこかいつもより重そうなのは、HiMERUがそうだったように潮風に当たったせいだろう。
    煩く鳴った心臓が何度もHiMERUを攻め立てるから。その塩気を含んだ巽の髪が、同じ匂いがするのか確かめたかったから。そんな言い訳を心のなかで唱えながら、HiMERUは目の前の身体を抱き締めた。
    「……ふふ、HiMERUさんからしてくれるのは初めてですね」
    「……」
    「優しい子」
    無理をしようとする巽を慰めているとでも思ったのか、巽はHiMERUの背中を撫でる。腕ごと閉じ込めるように抱きしめていなかったら、きっと頭を撫でられていただろう。まるで子供扱いだ。
    ――そんな、綺麗な気持ちだけじゃない。あの日感染った熱はどんどん増えて、HiMERUを飲み込むほどに大きくなっている。そんなHiMERUの気持ちのほんの一欠片でも、この好意に無頓着な博愛主義者に伝わればいいのに、と腕の力を強くした。
    数秒して、冷静になったHiMERUはゆっくりと腕を下ろす。だが巽の腕は背中に回ったままで、身を捩って抜け出そうと試みた。
    「……あの」
    「え? ……あ、はい。ふふ、こう明るい場所では、主に見られているようで少々恥ずかしいですな」
    上がったばかりの太陽の光がガラス張りのテラスから燦々と降り注いでいる。恥ずかしそうに赤く染まった巽の頬が朝日に照らされて、まるで。
    「…………」
    コーヒー淹れますね、なんて呑気な声を無視して、HiMERUは食堂を後にした。暴発しそうな熱を、シャワーで鎮火させるために。




    「はい、では一彩さんと燐音さんはここまでです。次、巽さんとHiMERUさんお願いします」
    マヨイの声で、思わずピンと背筋が伸びる。普段のオドオドした様子からは想像もつかないぐらいハキハキとしたマヨイは、噂に聞く通り有能なトレーナーの一面を持っているらしい。監視カメラ越しに見たことはあれど直接対面するのは初めてで、少し緊張した。
    汗だくの燐音がニキからタオルを受け取る姿を横目で見ながら、ポジションに着こうとストレッチをしながら歩き出す。対象となる位置に既に立っている巽と目があって逸らせないでいると、後ろに居たニキに目敏く見つかってしまった。
    「そういえば、HiMERUくん今回は嫌がらないんすね」
    「……嫌がってますよ、この顔が見えないのですか」
    「え〜? だって顔はむっとしてますけど、なんかこう、嬉しいって感じが……っいででて!」
    「はいはい、ニキちゃんはちょ〜っとこっち来ましょうね〜」
    「僕のペアは燐音くんじゃないっすよね!?」
    終わったばかりの燐音がニキを連れて部屋の隅へと引き摺っていく。その苦笑の理由が「早く始めろ」と言いたげに顔を顰めているマヨイだと気付いたHiMERUも、少し大股でポジションに着いた。
    よく通る声でカウントが始まり、巽とHiMERUのペア曲が流れ始める。全員で何の曲をどのペアがやるか、と相談した時、何故か巽とHiMERUの曲はすんなりと「翼モラトリアム」に決まっていた。
    巽もHiMERUも実年齢より大人びているという共通点がある分、バラードを充てがわれることには納得がいく。だが、いわば劣等生の自分が藻掻きつつも前を向いて歩き出すこの歌詞が二人に合っているかと言われれば、正直微妙だ。HiMERUは勿論、巽だって足の怪我さえなければ今も最前線で活躍するアイドルだっただろう。ALKALOIDとして歌う翼モラトリアムと、HiMERUと歌う翼モラトリアムでは意味合いが異なる。歌詞の意味と、ダンスの表現、歌声。どう作り上げていくか、HiMERUは悩んでいた。
    『分かったふりで 常識ぶって』
    カウントに合わせて二人用にアレンジしたダンスを踊っていると、あっという間にサビが終わる。流されているALKALOIDの音源のそこだけがやけに大きく聞こえて、思わずワンテンポ遅れた。しまった、と心の中で舌打ちをして次のフリに間に合わせる為に大きめにターンをすると、それも叶わず動きが止まる。
    半歩分巽側に寄っている、と気付いたのは、HiMERUの肩が巽の身体にぶつかってからだった。
    「っ、すみません」
    「……大丈夫ですよ、俺もセンターが見えていませんでした」
    ニコリと笑う巽に、気にした様子はない。でも、どこかヒヤリとする違和感があった。

    それから何度かマヨイの指摘を取り込みつつ通しでレッスンをして、巽とHiMERUのターンは終わった。次のこはく・藍良ペアの準備が始める中、水分補給と汗を拭っている間にレッスンルームから巽の姿が消えていることに気がつく。練習当初の違和感が胸を過ぎったHiMERUは、慌ててもう一本の水を持ってレッスンルームを後にした。
    防音になっている重い扉を背に、会議室、フロントを通り越して目的地まではあっという間だ。朝とは違いガラス張りから西日が差し込む食堂に入ると、探していた背中が見える。ガラスの引き戸を開けてテラスへ足を踏み入れると、来訪者に驚いた巽が珍しく目を丸くしてHiMERUを見上げた。木目の床に直接座る姿はどこか珍しくて、普段なら「汚いですよ」なんて指摘が出そうだけれど、言葉よりも先に身体が動いて巽の横へと腰を下ろしていた。
    「……よく、分かりましたね」
    「ここが心地良いのだと、巽が言っていたのです」
    「ああ……ふふ、HiMERUさんは何でもお見通しですね」
    そう笑う巽は片膝を立て、もう片方の膝を伸ばしたまま座っている。片手が置かれる位置が怪我と一致すると頭の中で紐付けたHiMERUは、さっきのレッスンを思い起こして顔を顰めた。
    「やはり、痛むのですね。すみません、さっきぶつかってしまったせいでしょうか」
    「い、いえ! 違います、ただ……お伝えした通り万全でないにも関わらず、その……さっきの練習で、張り切りすぎてしまったので」
    恥ずかしそうに頬をかく巽の、真意が見えない。HiMERUが不思議そうな顔をしていると、巽は空いていた少しの距離をつめて、内緒話をするみたいに肩を寄せる。二人しかいないのに、隠れんぼをしている子供のようだ。
    「君と同じステップを踏むことが、あんまり楽しくて」
    夕日に照らされた頬が、くすくす笑う振動で柔らかそうに揺れる。どく、と暴れ出した心臓に我に返ったHiMERUは、慌てて目を逸した。
    「君が見ていてくれると、無意識に気を抜いていたのかもしれません」
    「……見てなどいません。巽がどこでくたばろうと、HiMERUには関係ないですから」
    「ふふ、そうですな」
    口をつく悪態も、どこか空回りしている。いつからこんなに、毒気を抜かれてしまったんだろう。毒気の代わりにたっぷりの熱を注がれて、否が応でも愛だとか恋だとかの甘ったるい感情だと思い知らされる。甘いものは好きなのに、胸焼けしそうだ。
    大きく溜息をつきながら顔を伏せると、長い髪がHiMERUの表情を隠す。その顔を覗き込もうとした巽の手を引き腕の中に収めてしまえば、顔が見えなくなって安心だった。
    「……でも、少しは困ります。巽と触れ合うのは、好き……なので」
    口をついた好きの言葉に、言った本人が動揺する。思いを自覚してからどうにもタガが外れてしまったようだ。変に誤解をされていないといい、でも自分のことを少しは意識してくれてもいい、なんてチグハグの思いのせいか、鼓動がエスカレートしている。
    だが気付かれる前にと巽の肩を持ち身体を引き離すと、巽は声を上げて笑い出した。ぽかん、と口を開けていると、笑い終えた巽はもう一度HiMERUの腕の中に収まった。
    「俺も、君とこうすることは嫌いではありません」
    「…………好きではないということですか?」
    「え?」
    予想外に、拗ねたような声が出る。まるでこちらの好きと同じものを返せだなんて子供っぽい駄々のようだ。また子供扱いされてしまう。
    「い、いえ。すみません、忘れ……」
    「ふふ、好きですよ」
    「HiMERUさんの可愛らしい一面が見れて得をしてしまいましたね」なんて言いながら、巽はゆっくりと離れていく。初めて食堂で出会った朝に思い描いていた通り、海風に当たった巽の髪からは塩の匂いがした。そして、恐らくHiMERUも同じ匂いがするだろう。
    子供扱いのような「すき」に、どうしようもなく気持ちが高ぶる。悔しいのに、こうやって誰にでも向けられる「すき」が、こんなにも嬉しい。
    「……そうやって、思わせぶりなことを言う巽のことが、HiMERUは嫌いです」
    「そうですか……残念ですな」
    巽を置いて立ち上がると、テラスの床がギシリと鳴る。戻っています、と言葉を残して自分の水だけを持ち屋内へ戻ったHiMERUは、片手で顔を覆いながらレッスンルームへと歩き出す。手も熱いけれど、頬はそれ以上に熱い。
    「(……ああ、腹が立つ)」
    その余裕そうな顔を同じだけの熱でいっぱいにしたい。だって、HiMERUばかりが巽のことを好きなのは、不公平だ。
    もっとドロドロして、汚い「好き」が欲しい。まるで、今。HiMERUが抱いているように。



    合宿が終わってからライブ本番まではあっという間だった。演出や衣装、MCやアナウンスをどうするかなど、ライブの演目以外のことが目白押しで息をつく暇もなかった。
    合宿中は何度か巽のフォローに回るHiMERUを見た藍良に「なんか変だよォ」とツッコミを入れられもしたが、巽はあれ以来不調を見せることなく当日を迎えている。HiMERUからもわざわざ気にしすぎることはないと変わらぬ素振りを見せていたが、今思えば気にしすぎなぐらいが調度よかったのだろう。
    巽は、弱みを見せるのが苦手だ。そんなこと、HiMERUが一番分かっているはずだった。


    ライブが始まって、ALKALOIDとCrazy:Bのそれぞれが持ち歌を数曲入れ替わりで披露し、全員でのMCまでつつがなく終了した。そしてここからは、例のペアシャッフルの時間になる。MC後に会場では練習風景を交えたムービーが流れていて、「アンコールライブ」だと聞いていたファンは知らない展開にザワつき始めていた。
    その裏でペア用の衣装に着替えそれぞれが最終チェックをしている中、先に着替え始めていたはずの巽の姿が無いことに気付く。スタッフに衣装チェンジとアクセサリー類を付けて貰った後居場所を聞くと、その場に居た誰もが知らないようだった。
    ペアの曲目は燐音と一彩、ニキとマヨイ、こはくと藍良、HiMERUと巽の順番だ。それ加えそれぞれ曲が終わった後にペアMCを挟むから、HiMERUの出番は当分先になるだろう。とはいえ、合宿中のような違和感を感じたHiMERUは、急いでステージ裏を探し回った。

    そして、巽の背中を見つけたのは楽屋だった。正確には、スタッフの楽屋だ。こうして巽の姿を探してばかりだな、と少し悔しく思いつつ近づくと人影が見えて、巽一人ではないことに気がついた。
    「巽、次ですよ。……巽?」
    声を掛けると同時に、巽が珍しくバツの悪そうな顔で振り向く。そして同じような表情をしたスタッフの手元は巽の足に添えられ、真っ白なテープを巻き付けている途中だった。それを目にしたHiMERUが眼光を強めると、巽は諦めたように肩を竦めて笑った。
    「あ、はは……バレてしまいましたな」
    「……隠していたのですか、また!」
    「ひ、HiMERUさん」
    思わず声を荒げると、テーピング中だったスタッフがビクりと怯えたように身体を震わせる。すみません、なんて悪くもない巽がHiMERUに代わって謝るのも、気に食わない。もう処置が終わりかけだったのか、すぐに巻き終わったスタッフは頭を下げて小走りで立ち去ってしまい、静かな廊下に二人だけになった。
    「……すみません。辛いのは、巽の方です。大丈夫なのですか」
    「ええ、動けない程度のものではありません。念の為を思って、テーピングして頂いて……」
    陽に焼けていない足に不釣り合いな白を、衣装でサッと隠す。裾を下ろしてしまえばそこに痛々しい痕があることなんて分からないだろう。その姿を苦々しく思いながら眉間に皺を寄せて黙っていると、普段はペラペラとよく話すはずの巽の声が途切れた。不思議に思って向き合うように巽の正面に回ると、珍しく顔を歪めて目を伏せていた。
    「……情けない」
    奥歯を噛み締めたような、か細い声がHiMERUの耳に届く。
    初めて聞く声だった。初めて、見る顔だった。その昔、神様みたいに人々の上に立っていた巽は、人の思いの重さに耐えきれず姿を消した。HiMERUは――要は、いちばん大事なものを壊された巽を今でも許していない。それでも、あの時もこうして、誰もいない場所で自分を悔いていたのかもしれない。そして今は一人ではなく、HiMERUの前でこんな姿を見せている。そう思うと、どうしようもなく、この聖人野郎というだけではない巽という人間を助けてやりたくなってしまった。
    「……ひとまず、ステージ以外の移動は肩に掴まって頂いて構いません。ステージ上でも万が一の際は目線で合図をして頂ければ、HiMERUの方で違和感ないようアレンジしますので」
    言いながら、顔を覗き込むようにしゃがみ込む。巽の前髪が影になって、表情はよく見えない。
    フリを足の負担が少なくなるよう変更しようなどと言い出すのは、やめた。それは巽が一番望んでいないことだろうから。
    「……でも」
    否定の言葉だけを漏らし、その先の言葉は出てこなかった。頼って迷惑をかけることと、頼らずに最悪の結果を招いた時のことを天秤にかけ、結論が出ないのだろう。こうして迷っている姿は珍しい。いつだって透き通ったアメジストはふらふらと左右に揺れ、HiMERUのそれと交わらない。
    「巽」
    「……HiMERUさん?」
    膝の上で固く握り締められていた巽の手を、両手で上から包み込む。いつもなら、巽よりもHiMERUの方が手が冷たいはずなのに、今だけは逆だった。
    揺れていたアメジストは見開き、やっと目が合う。やっぱり、綺麗だ。
    「巽が思っているより、世界は貴方に優しくないのです。貴方がどんなにこの世のすべてに優しくとも」
    「はあ……?」
    「……貴方のことを、自分のこと以上に心配する方々もいます。そして、それはHiMERUにも」
    びっくりした顔のまま固まる巽の背中に腕を回す。もう何度目にもなるのに、未だに直接伝わる熱は慣れない。
    「巽もHiMERUももう一人ではありません。だからこそ、巽」
    ライブ中でお互い汗まみれだし、やりすぎれば衣装が皺になる。だから一度だけ、これでもかと力を込めた。柄にもなく、巽のことをこんなに心配しているのだから気付けよ馬鹿野郎、の意味も込めて。
    そして巽の背中から両頬を包むように移動させて、また視線を合わす。一滴だって、この想いが漏れないように。。
    「もっと、俺を頼れよ」
    自分が思っているより、小さい声だった。でも、誰もいない廊下で二人きりの今、聞こえなかったはずがないだろう。
    打てど響かない巽が、珍しく固まったまま動かない。いいざまだ、とほくそ笑んだところで、遠くの方からスタッフの呼ぶ声が響いてきた。もうセットリストが直前まで迫っているのだろうと立ち上がると、巽はやっと我に返ったようだった。
    「行きますよ、たつ……巽? 変な顔ですね」
    「え、あ、な、なんでも無いです!」
    挙動不審な巽を覗こうとすると、顔を避けされる。何でも無いのだと右手を左右に振る姿を見るに、多少元気になったように見えた。
    もうもたもたしている時間もないと、頬を抑えている方の巽の手を引いてステージへ向かう。袖横まで到着するともうとっくに出番の終わった燐音に揶揄われたが、巽の優位に立てたことで気分のいいHiMERUは無視してポジションについた。その時離れていった巽の手が、既に恋しい。そういえば、巽と手を繋いだのなんて初めてだった。
    「HiMERUさん」
    存外、しっかりした足取りで自分の立ち位置についた巽は、慌ただしく騒がしいステージ裏でも落ち着いている。「ALKALOIDの風早巽」になる前の、ただの巽がHiMERUに笑いかけた。
    「ありがとう」
    こはくと藍良の曲が終わり、翼モラトリアムのイントロと共にステージへと躍り出る。前半のライブの疲れなんてないほど、身体が軽い。
    『変わりだした世界に気付く』
    歌に、感情が乗る。やっと、どうして自分たちがこの曲に決まったのかが分かった気がした。
    『なんで僕らは臆病だね』
    ――臆病者は、まさしくHiMERUのことだ。そして、巽も。





    ライブは、無事に終了した。開催から一週間経った今でもSNSを中心に大盛りあがりを見せていて、アンコールライブを提案した茨も合同ライブを定期化しようと企画を出していたほどだ。他のメンバーもその確かな手応えに満足していて、日常に戻った今とライブ前を比べると両ユニットの仲はぐっと良くなった。
    ――一部、例外を除いて。


    「HiMERUはんも珍しく甘味頼んだんやね」
    「まあ、ライブも終わりましたし。暫く撮影の仕事もないので」
    「ラブはんも、これで解禁だ〜なんてはしゃいでおったわ」
    打ち合わせとレッスンの間にカフェシナモンで休憩を取ることは珍しくない。それでも最近交流が多くなったことで、今日のようにこはくとHiMERUの二人だけというのは随分と久しくなった。楽しそうにパンケーキを頬張りながら話をするこはくに、HiMERUもアップルパイの最後の一口を食べきった。
    「ライブ終わってからも、風早はんと会うとるか?」
    コーヒーを啜りながらチラチラとESビルの方を見ていることなんて、こはくにはお見通しだったらしい。バツが悪そうに眉間に皺を寄せると、あの独特な笑い方が返ってきた。
    「別に心配はしとらんよ、合宿ん時には仲直りしてたみたいやし」
    「……だから、元々喧嘩などしていないのです」
    そう、むしろライブまでは、喧嘩なんてしていなかった。巽のことでHiMERUの機嫌が悪くなるなんてのは日常茶飯事で、むしろ誰にも言えないあの行為は喧嘩をしていたら出来やしない。
    それが今、HiMERUは巽に避けられている……ような気がしている。普段、頼んでもいないくせにHiMERUにちょっかいを掛けてくる巽はあっさりと去っていくし、不自然なまでに出会っていた回数もぐんと減った。次に会った時こそ、その理由を問いただしてやると決めていたのだ。
    そんな思いが実ったのか、はあ、と溜息をついてコーヒーカップに口をつけた瞬間、視界の端に青磁色が過ぎる。だが驚いてESビルの方を向いてももうその姿はなかった。
    ――確証はないけれど、行かない理由もない。カップを少々乱暴に置いたHiMERUは、慌てて立ち上がった。
    「桜河、すぐに戻りますので」
    「わしはええから、はよいき」
    しっし、と手で払われるがまま、カフェシナモンを後にする。ビル内からエレベーターホールの方へ向かうと、ちょうど乗り込もうとする背中を見つけて柄にもなく走った。閉じようとするエレベーターのドアを手で抑えると、中には驚いた顔の巽一人だけだった。
    「巽!」
    「ひ、HiMERUさん!?」
    息を整えつつ無断で中に入り込む。今度は何事もなく扉が閉まると、エレベーターが動き出した浮遊感で身体が揺れた。ちらりと文字盤を見ると予め押されていたのはスタプロの事務所がある階で、あまり二人きりの時間が取れないことに焦った。
    「ええと……なんでしょう?」
    「……いえ、たまたま姿を見かけたもので」
    違う、こんなことを聞きたいんじゃない。でもいざとなると、この男の前では言葉が詰まる。
    ああもうヤケだ、とHiMERUは両腕を広げた。ずっとそうだった、HiMERUは言葉で上手く思いを伝えられない。だから、まずは「いつもどおり」から始めよう。
    だが、巽はぽかんと口を開けたまま動かなかった。
    「……言葉にしなくても、分かって頂けると思ったのですが」
    拗ねたように口を窄ませて、仕方なく巽の身体を抱き締めようと詰め寄る。ぴこん、とエレベーターから音がしたから、もうすぐ目的の階まで着いてしまうだろう。
    もうすぐ触れる、というタイミングで、巽の両手がHiMERUの胸元を押し返す。明確な、拒絶だった。
    「……は?」
    「す、みません。先日からHiMERUさんに触れると、熱くて……ま、また今度とさせてください……!」
    タイミング悪く、エレベーターが到着の音を告げる。がたん、と背後で扉が開いて、巽は広げたままのHiMERUの腕の隙間から出ていってしまった。
    固まったままのHiMERUを残して、エレベーターの扉が閉まる。「行き先階を指定してください」なんて無機質な声でやっと我に返ったHiMERUは、ふつふつと湧く怒りのままに、元居た一階のボタンを握り拳で叩きつけるように押した。
    「…………風早、巽ィ……!」
    行き先を失った熱が、HiMERUの中でぐるぐると渦巻く。恋をさせたのは巽の方なのに、こんなのはあんまりだ。
    「(HiMERUは、……俺は、絶対に、死ぬまで諦めないからな)」
    ――その身勝手な恋が別の場所で熱を産んでいることを、HiMERUはまだ知らない。


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