祝音とエンドロール■■
「ふらぺちーの……」
看板を目にした要が、目をキラキラさせて初めて口にする言葉を零す。
スイーツみたいに甘い飲み物だと説明するHiMERUの手は気付けばガッチリと掴まれていて、振りほどくなんて無理だった。
要がリハビリを続けて、病院から外出出来るようになったのはつい先日だ。事の顛末を伝えた異も今では兄弟のどちらにも以前同様に接してきて、要は笑うことが増えた。
こうしてお出掛けする時にHiMERUだけでなく巽が同行することも珍しくないが、 巽に対してつっけんどんな態度を辞められないHiMERUはいつだって居心地が悪い。 お兄ちゃんもぼくみたいに素直になるといいのです、なんて言葉は、この間病院で巽に剥いてもらったりんごを齧る要に言われたものだった。
チェーンの喫茶店は満席だったが、運良く空いたテラス席を取ることが出来た。まだ車椅子で移動している要にメニューを見せて、一つの丸いテーブルを三人で囲うようにセッティングする。 ここで巽と待つよう にと伝えると「楽しみです」と要が笑った。
「俺も買いに行きますよ」
「いいんです、要を一人にするわけにはいきません」
実際、巽だって要の車椅子を意気揚々と押していたが万全の人間というわけではない。いいから座っていろ、という意味を込めて睨むと巽は大人しくテーブルについた。
会計を済ませたHiMERUが三人分のカップを持ってテラス席に戻ると、巽と何やら楽しげに笑っている。何の話をしていたのだ、と聞くと、どうやら昨日のテレビ局で燐音と言い合いをするHiMERUのことを話していたらしい。そういう完璧じゃない話を要にするな、と巽を咎めたが、要はむしろ楽しげだった。
「これは、混ぜてよいのですか?」
「うーん、俺もあまり飲んだことがなくて……藍良さんなどはよく飲んでいるのですが」
「クリームだけ掬って食べるのも美味しいですよ」
上のカップを開けて、持ってきたスプーンを渡してやる。痩せきった手でそっとクリームを口に運んだ要は、花が咲くように笑った。
「巽先輩も食べるのです」
「ふふ、 ありがとうございます」
シンプルなティーラテを飲んでいた巽にスプーンの先を向ける。何の抵抗もなく口をつけた巽に眉を顰めるが、それよりもその後に自分へ向けられないことに思わず口が出た。
「俺は?」
「お兄ちゃんはカロリーがどうのっていつも言ってるじゃないですか」
「む……」
身から出た錆。黙るしか出来なかったHiMERUに、巽は目を細めた。
ずるずると音を立ててフラペチーノを飲む要は空白の時間を埋めるように巽に向けて沢山お喋りをする。 山盛りのクリームが口の端に付いているのを見かねたHiMERUがフキンを持つが、それよりも巽の手の方が早かった。
「要さん」
「むぐ」
子供のようでしたと恥ずかしそうにする要に、HiMERUはまたも眉根を寄せる。学園にいた時程ではないにしても、要は未だに巽に憧れているからだろう。
そうしてHiMERUに見せない顔をする要にも、HiMERUに焼かないような世話をする巽にも、無性に腹が立つ。
「ちょっと、甘やかさないでください」
「ふふ、一生懸命な姿が可愛らしいもので。 HiMERUさんのほうが甘やかしていると思いますよ」
「つ、次はないので! 大丈夫なのです」
慌てた要が両手を振って話を戻す。あれやこれやと話す間に結構な時間が経ってしまって、要が病院に戻るタイムリミットはあっという間だった。
沢山話して疲れたのか、寝落ちてしまった要を今度はHiMERUが引く。カフェを出て病院に戻ろうと歩き始めた所で、巽が思い出したように財布を出してきた。
「すみません、おいくらだったでしょうか」
「今回はいいです、 今度は巽が奢ってください」
「……また、俺も誘ってくださるんですね」
「…………要が、望んでいるので。 HiMERUは要と二人きりが良いのですが」
「……お兄ちゃんも先輩と一緒の方が楽しそうです。お兄ちゃんは素直じゃないのです」
「要!」
話し声で起きたのか、要が上を向いて笑う。 思わず車椅子が揺れて、慌てた巽がHiMERUの手の上からハンドルを握った。
ありがとう、と言う言葉は、きっとHiMERUにだけ届いていた。
■■■■■
「――ありがとう」
「巽先輩?」
「……え?」
声を掛けられてやっと、意識がはっきりする。無意識に漏れていた言葉が何だったのか、もう思い出せない。
目の前にいるのは病院着ではなく、制服の要だった。さっきまで要の車椅子を押してカフェで寄り道をしていたはずだったけれど、見渡す限りここは玲明学園で、要は出会ったあの頃のように大きな声で巽に駆け寄ってきている。
「要さん? 怪我は……?」
「怪我? ぼくはそんなヘマはしないのです」
えっへん、と胸を張っている姿を見るに、どこにも身体の不調は無さそうだ。ばうっとしていた頭が段々とクリアになって、何をしていたか記憶が蘇る。
先にジャージへ着替えていつものレッスン室で要のことを待っていた。お互いにソロの仕事があるから二人揃って練習出来る機会はそう多くない。巽が考える以上に他の誰かと二人で歌い踊るのは難しく、なるべく練習の時間を多く取るようにしていたのだが気付けば摩訶不思議な幻覚でも見ていたらしい。
既に薄ぼんやりとした光景は要と、――もう一人、雰囲気のよく似た誰かが居た気がする。
「そう……ですよね。時にかな……HiMERUさん。とても良く似たご兄弟などはいらっしゃいますか?」
「お兄ちゃんはいるのです。ただ、顔は……ええと、きっとぼくに似てるに違いありません! 何でも出来るところはぼくとそっくりですので」
「ふふ、そうですか」
目をキラキラと輝かせて家族のことを語る要は可愛らしい。だがそのまま話が脱線しそうになって、慌てて今日集まった理由へと路線を戻した。
「HiMERUさんも来たことですし、レッスンをしましょうか。あまり、時間はありませんし」
「お、遅れてしまったのはぼくの方ですから。ごめんなさい、今ジャージに着替えます」
ベージュのブレザーを脱いで、大きなボストンバッグの上に投げ捨てる。ちゃんと畳まないと皺になってしまいますよ、と声を掛けて手に取れば、要は恥ずかしそうに笑った。
バックへ手を入れて中を漁って暫くすると、青褪めた顔で巽の方へと振り返る。わなわなと口を震わせて、可哀想なぐらいだった。
「じゃ、ジャージを忘れてきてしまったのです」
「おや……制服でダンスレッスンは難しいですな。今日はやめておきましょうか?」
「そ、そんなこと……!」
「おい~っす、HiMERUいる? って、風早先輩!! おはようございます!」
貴重なレッスンの時間を無駄にしてしまったことを余程気に病んでいるのか、要は必死に食い下がる。すると、まごついた空気を破るように扉が開かれて、ジュンが現れた。用があるのは要に対してのようだったのに、巽を見るや否やそちらへと方向転換して駆け寄ってきて、思わず頭を撫でそうになった。
「さざなみ! ジャージを貸すのです」
「はあ!? 急になんだよ」
「い、いいから貸すのです! このままではぼくがレッスンできないのですよ」
ぐいぐいとブレザーの裾を引っ張った要は、問答無用でジュンへと詰め寄る。巽から引き剥がされて不服そうなジュンは、それでも要の無理なお願いには慣れっこなのか、すぐ諦めたように大きく溜息をついた。
「ったくも~、オレだってこの後レッスンあるんすよぉ? 取りに戻る時間あるからいいけどさあ」
文句を言いながらも、持っていたバッグから巽が着ているものと同じ玲明のジャージ一式を取り出す。少し皺のついたそれはジュンがこのジャージを着て沢山練習をしている証で、どこか誇らしい。
要が受け取ったジャージやTシャツを着替えている間に本来の用事を思い出したのか、ジュンは紙切れを一枚鞄から見つけ出すと、嬉しそうに巽へ広げて見せた。
「てかこれ! 次の二人のライブの告知ポスターが出来たんすよ、まずはHiMERUにと思って持ってきたんすけど、風早先輩もいて助かりました」
紙の中で、巽とHiMERUが手を取り笑っている。驚くほどに清廉なものだった。学園に潜むドロドロとした感情の嵐も、蟻地獄のような学園の実態も分からない。目指すアイドルの理想郷が、きっとここから始まる。
「あの集会で二人がユニット組むって言った時はどうなるかと思いましたけど、これでやっと、いい方向に動くっすよね」
ジュンが満足そうに笑うのに釣られて、着替え終わった要がポスターを覗き込む。その目はキラキラと輝いていて、眩しい。
「ぼくが……巽先輩と……」
自分の横に誰か別の人間がいるというのは、未だに慣れない。自分だけでやっていけるという強情なまでの革命心は、この幼くて馬鹿な子が、救ってくれたのだ。
――変えていける。そんな自信と嬉しさが、胸に満ちていた。
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「巽先輩、起きてください」
肩を揺さぶられて、やっと瞼が持ち上がる。普段はもっとすんなり起きられるはずなのにやけに身体が重くて、声に反応するのもやっとだった。
玲明の現状を知って、ただひたすらに粉骨砕身する日々が続いている。終わらない仕事、非特待生のケア。自分自身でも限界が近いことは重々承知していた。
「珍しくお寝坊さんなのですね」
陽の光をバックに、要が仕方なさそうに笑う。普段は巽やジュンに起こされないと遅刻してばかりなのに、今日に限っては立場が逆転していた。慌てて壁掛けの時計を見れば、本来の起床時間より遅いものの仕事には支障が無い時間だった。
「要さん……? すみません、まさか起こして頂くだなんて」
「ふふん、ぼくはいつだって偉いですから」
ジュンがここに居たら小突きそうなところだが、既に居室にはいないらしい。そうですね、とだけ返事をして身体を起こすと、背骨がぽきりと音がした。無理をしている自覚はあるが、そうも言っていられない。さっそく準備に取り掛かると、要が早起きした理由を思い出したかのように慌てて「仕事へ行く前に時間を頂きたいのです」と巽の腕を引っ張った。
「す、少し待ってくださいね、着替えだけさせてください」
本当は他の身支度もしたいところだが、要の強引さには叶わない。言葉通り制服に着替え終わった途端部屋を飛び出して成すがままに付いて行くと、行き着いた先は講堂だった。
「まだ、誰も居ないのでは?」
「一番に紹介したかったのです、僕のお兄ちゃんを」
「おにい……さん」
朝方の校舎は生徒がまだ少なくて、空気が冷たい。生徒が居たら居たで罵倒や怒号が飛び交っているだろう。朝日が要の顔を照らすと、見たことのない晴れやかで、嬉しそうな顔をしていた。
「ぼくは完璧ですが、アイドルとしてまだ未熟なところがあるので。それを話したら、お兄ちゃんが一緒にアイドルをしてくれることになったのです」
「一緒に?」
「はい!」
重い講堂の扉を開けると、外よりも静かな空気が充満している。今のこの静寂は、秘密の話をするのには最適だった。
「巽先輩ばかりがお仕事を請け負うのはよくありません。ぼくらが、いえ、ぼくらも、この可笑しな世界を革命するのです」
要が巽の腕を離して、講堂の壇上へと向かう。目線をその先に移動させると誰かが立っていた。窓から差し込む光が逆光になっていて、顔までは分からない。
要のあとを追って階段を一歩ずつ下ると、段々と光がズレていく。見たことの無い顔、身体。そして――
「お兄ちゃん、巽先輩です。先輩、この人が■■……」
「――はじめまして。風早、巽」
声。何も知らないはずなのに、いやに耳馴染みがいい。不気味なのに、懐かしい。いくつもの感情が喉からせり上がって、吐きそうになる。
「きみ、は……」
――ああ、全部、夢だ。
そう理解した瞬間、意識が途絶えた。
□
「お疲れ様でしたー!」
その言葉を皮切りに、スタジオが喧騒に包まれる。熱いほど照らされていた照明は一斉に落とされ、こちらを向いていたカメラのランプが消える。それを見届けた巽は、ふう、と息をついて背中を丸めた。
「タッツン先輩、やっぱり今日調子悪いんじゃない? なんか上の空だったよぉ」
「ウム、あんまり無理をしてはいけないよ」
「挨拶は私たちに任せて、先に寮へお戻りになられた方がよろしいのでは……? タクシー呼んでおきますので……」
本番が終わったばかりのスタジオのど真ん中で、仲間たちに囲まれる。本番中だというのに集中出来ていなかった年長者を叱ってもいいものを、と内心申し訳なく思う。
今日はALKALOIDとCrazy:Bの合同での特番撮影だった。元から配られていた台本には無かったのに、突然抗争自体の玲明学園の話が持ち出されて柄にもなく頭が真っ白になってしまった。
当事者の一人でもあるHiMERUの助け舟とそれとない返事だけで場は進んでいったが、以降のトークに身が入らなかったのは事実だ。白濁の思考の中で、無かったはずの幻影を見てしまっていたせいだろう。
「いえ、なんだか……叶わない夢の続きを、見ていたようです」
「なにそれェ?」
「ふふ、俺は今こんなに幸せなのに、そんな願いを持つのはバチが当たりますな」
楽屋に戻ろうと四人連れ立ってスタジオを後にする。同じ番組に出演していたCrazy:Bの面々も同じようで、廊下で一緒になってしまった。
ちら、とHiMERUの方を見るとすぐに目を逸らされる。いつものこととは言え、今日は幻影のせいでやけに気まずく、声を掛けるのは避けた。
八人での移動はそれなりに大所帯で賑やかだ。特に一彩や藍良は合同の仕事が嬉しいだろう。この後ご飯に行こうだとか次の合同の仕事についてだとかを話していたが、先にその集団から逸れたのはHiMERUだった。
「……今日はもう解散ですよね? HiMERUは寄る所がありますので、先に帰ってください」
「あっ……HiMERUさん!」
過ぎ去る背中を呼び止めてしまった。振り返った顔は不服そうで、いつものHiMERUだ。
もう薄ぼんやりとしか覚えていない幻覚の中で見たことの中で、ただ一つ気になっていたことがあった。顔の良く似た、もう一人の、「誰か」がいるのでは、なんて。
「いえ、すみません。やっぱり、気のせいですね」
「気の、せい」
「皆さん、俺ももう先に帰りますね。HiMERUさんも、また明日」
頭を振って、思考を飛ばす。調子が悪い日は、巽とて嫌なことを考えがちだ。お辞儀をして早々にその場を離れた巽は、タクシーを使わずに歩いて寮に向かう。後を追う様にして、HiMERUもテレビ局を出た。
病室は嫌いだった。昔から治療して貰えるような正当な育ちではないから、用もない。むしろ、そうやって甘えて生きている人間のことが嫌いだった。
そして何より、要が玲明の抗争に巻き込まれ意識を失ってから、この薬臭い部屋は、■■にとって牢獄同然だった。
「今日は、お前の好きな巽先輩と一緒だった」
生きていることだけを伝える心電図の音は、砂時計みたいに要のアイドルとしての時間を減らす。
ああすればよかった。こうなればよかったのに。そう後悔する度に、色んなシナリオを思いつく。でも、どんなに有能な頭や技量があったって、過去だけは覆せない。
少しだけ温もりのある手を握って、熱を移してやる。この馬鹿な子が、起きた時に幸せな夢を見ていたと錯覚出来るように。
「早く、起きてくれよ、要」
それで一緒に、ほんもののアイドルになろう。