君のキャロットケーキが食べたい「はぁっ、はぁっ‥」
カインは荒い呼吸を整えながらそっと茂みに身を隠す。森の中を全速力で走り抜けたので息が上がってしまった。いつもは気をつけているのに、珍しい木の実を見つけてうっかり狼の縄張りまで入ってしまった様だ。木の実を摘んでいたら狼達に見つかって、追いかけ回されている最中だ。狼は足が速いし力が強い。足の速さでは負けるが体力と小回りではカインは負けないと自負している。なんとかして逃げ切らなくては‥。
この世界には獣人が暮らしている。カインは茶色のたれ耳を持つ兎だった。身体は人間の雄と変わりはない。獣人の中にもヒエラルキーがあり、狼は兎よりも遥か上に君臨している。草食動物である兎は肉食動物の狼に捕まると餌にされたり奴隷にされたりしてしまうのだ。餌にされると言っても身体を食べられる訳ではなく、兎の体液が狼にとっては甘露であり一番好まれる餌だった。この世界には雄しかおらず、番を見つければ同種族でも異種族でも番になれる。でも兎は弱いので独り身の者は自分の身に気をつけて暮らさないといけないのだ。カインは兎の種族に生まれたが、小さな頃から体力作りや鍛錬を欠かさなかった。好き合った相手以外に捕まって自由を奪われるなんて絶対に嫌だ。
「かわいいうさぎちゃ〜ん!どこいったの〜?」
「出ておいで〜お兄さん達と遊ぼうよ」
下卑た声がすぐそばで聞こえてカインは身構えた。このまま隠れていて見つかったら逃げる間もなく捕えられてしまう。持っていた木の実が入った籠を床に置き、落ちていた木の棒を握りしめる。覚悟を決めてカインは茂みから飛び出した。
「俺になんの用だ?」
カインが狼達と距離を取りながら木の棒を剣に見立てて相手に向ける。狼達はカインを見て笑った。
「うさぎちゃん、チャンバラごっこがしたいの?」
「お兄さん達は君ともっと大人な遊びがしたいな〜」
カインは自分の意思を無視した発言にムッとする。
「力で無理矢理自分のものにしようなんて、良くないな。そんなやつはモテないぞ」
カインが怯えた様子もなくそう言うと、狼達は頭にきたようだった。
「兎の癖に生意気だな!」
そう言って狼達がカインに飛びかかってきた。カインは相手の動きを読んで素早く避けて、後ずさる。手を伸ばしてきた1匹の手を木の棒で薙ぎ払い、後ろから来たもう1匹の腹に蹴りを入れる。
「いってぇな、ナメやがって!」
激昂したオオカミが鋭い爪でカインの腕を引っ掻いた。咄嗟に避けたが、避けきれなかった。カインの腕はシャツが裂け、肌には血が滲んだ。
「ヒュウ!うまそう」
「いい匂いだ‥クラクラするぜ」
狼達が怪我をして疼くまるカインに向かってくる。痛みに耐えて立ち上がらなければ‥。そう思った直後、白い何かが目の前に降り立った。
「か弱い兎相手に多勢で取り囲むなんて、お前達は狼としてのプライドがないの?」
凛とした低い声が耳に届いて見上げると、そこには輝くような銀髪に銀色の立派な耳と尻尾を持った狼が立っていた。雪の様に白い肌は美しい相貌を引き立てており、カインは思わずその姿に見惚れた。
「‥ッ、オーエン!」
「チッ、嫌な奴に見つかったぜ‥」
オーエンと呼ばれた狼は狼同士がする威嚇の声を相手に浴びせる。するとカインを追いかけていた狼達は怯んで、捨て台詞を吐きながら尻尾を巻いて逃げていった。カインは予想外の展開に目を見開いて成り行きを見届けていた。狼なのに、兎の自分を助けてくれたのだろうか‥。カインはお礼を言う。
「ありがとう。一人では逃げ切れるかわからなかった」
すると、銀髪の狼は笑って言った。
「兎のくせに狼と戦うなんて変なやつ。もう縄張りに迷い込むなよ」
そう言って俺の血で汚れたシャツの片腕を捲り上げてからポケットから上等な布で出来たハンカチをだして、俺の腕を縛って止血してくれた。それから俺をフワッと横抱きに抱き上げる。
「わっ、自分で歩けるから‥」
突然現れた知らない狼にお姫様抱っこをされて、カインは焦ってジタバタしてしまう。
「さっき蹲ってた、痛いんだろ。傷口を洗わないと。大人しく掴まってなよ」
そう言ってカインが床に置いたバスケットを拾って腕にかけて歩き出した。どうやら俺のことを食べようとしてるのではなく、手当の続きをしてくれるみたいだ。カインは驚いて、相手のルビーの様な瞳を見つめる。目を見ればどう思っているのかは大体わかる。オーエンと呼ばれたその狼の目に敵意はなかった。
「ありがとう、オーエン‥だよな?俺はカイン!」
「‥カイン。綺麗な水のある湖まで連れてってあげる」
そう言ってオーエンは森の中の湖まで俺を運んでくれた。畔に俺を下ろして、腕を水に伸ばす様にと言われる。すると、オーエンが水を掛けて傷口を綺麗に洗ってくれた。鋭い爪で引っ掻かれたので水が染みて痛かった。
「もう少し我慢できる?」
とオーエンに問われて、カインはコクンと頷く。するとオーエンが傷口に口を近づけてペロペロと舐め出した。血はもう流れてないのでこれは捕食行為ではない‥わかっているのになんだか恥ずかしくてジッとしていられない。いつも垂れている耳がピンっと立ってしまう。
「わっ。お、オーエン‥!」
「舐めた方が早く治るから。ただの治療だよ」
そう言われてカインは落ち着こうと思った。耳もまた元の位置にペタンと垂れ下がる。オーエンの舌は暖かくて優しい。されるがままになっていると、治療が終わった様だ。
「はい、終わったよ。‥お前の耳、かわいいね」
オーエンがそう言って俺の耳にそっと触れた。オーエンの手は水に触れていたので冷たかった。他の獣に触られるのに慣れていないのでピルピルっと耳が動く。
「ありがとう。俺も気に入ってるんだ」
それを聞いてオーエンが微笑んだ。カインはこのまま別れてしまうのはなんだか寂しくて、オーエンに提案する。
「なぁ、助けてもらったお礼をさせてくれないか?俺の家、この近くなんだ」
すると、オーエンは少し驚いた様な表情をして言う。
「ダメだよカイン。知らない狼を家に入れたら」
「オーエンは知らなくないだろ。治療までしてくれたし、優しい狼だ」
「優しいと思ってたら急に襲われるかもしれないよ?」
ニヤニヤしながらオーエンが言うが、その言葉や目つきに邪気はない。
「オーエンはそんな事しないだろ?今朝焼いたキャロットケーキがあるんだ、食べていってくれ!」
「‥そう。お前の気がそれで済むなら寄ってやってもいいよ」
そう言ってくれたのでオーエンを家に招く事にした。カインの家は両親から受け継いだ、木の根元にある小さいが住みやすい家だった。暖かい紅茶を淹れて、手作りのキャロットケーキと一緒にオーエンに出した。
「お口に合うかわからないけど‥」
「いただきます」
一口食べてオーエンは呟いた。
「これ、甘くておいしい。お茶はもっと甘い方がいい」
「本当か?良かった!俺の得意料理なんだ」
「へぇ、おまえが作ったの?」
「ああ、他にも焼き菓子は作れるぞ!」
カインはオーエンがケーキを気に入ってくれて、お礼が出来た事にホッとした。お砂糖のポットを持ってきて追加の砂糖をティーカップに入れる。どのくらい入れるのか聞いたらすごく沢山入れるのがオーエンの好みみたいだった。オーエンって甘党なんだ、なんだか意外だな。カインが微笑んでいると、オーエンがカインに聞いてくる。
「お前、番はいないの?家族は?」
「番はまだいないよ。父さんと母さんは天国で、いつか俺が行くのを待ってる」
「そう‥」
そう言ってオーエンは何か考え込んでる様だった。カインはオーエンの事が気になって聞き返す。
「オーエンは番はいるのか?」
「いないよ」
「そっか‥」
オーエンが独身な事が分かって嬉しい様な気がして、カインは不思議な感覚に襲われた。
「カイン、僕に毎日ケーキを焼いてくれたらお前の事守ってあげる」
突然の申し出に驚いたが、これっきりで離れ難い気持ちになっていたのが自分だけではなかった様だ。キャロットケーキがそんなに気に入ったのかな?とカインが驚いて目をパチパチさせていると、
「お前一人じゃ危ないから、今日から僕もここに住むね」
オーエンの勢いに押される形になったが、兎のカインとしても狼のオーエンが一緒にいてくれたら今日の様な事は無くなるだろうし心強い。
「ああ、これからよろしくな!」
狼と兎、違う種族の2人の生活が始まる事になる。