【フィファ】告げた言葉のその先で※二部を越え、それからも少し未来のはなし。
告げた言葉のその先で
「僕は、おまえの、あなたのことが、好きだよ」
黒い布の裂け目のように細く輝く<大いなる厄災>。それは遠く、それよりも小さく煌めく星たちの光のほうが空を彩る、そんな夜だった。
ふとした会話の切れ目。フィガロとファウストの会話においては多々訪れる、空白の時間。
落ちた沈黙がいやな重さを持つことは少なくなった。回答、返答、告げたい言葉、それらを探すときもある。口に含んだ酒の美味さを舌の上で転がしながらただ味わうような、ふたりの時間を堪能するかのようなときもある。そんな沈黙。
いま、口から転がり出た言葉は、いま思いついたものではない。いつのころからかファウストの中にあって、形となって、相手に渡す機会を待っていたもの。
伝えること、聞くこと、すなわち話すということ。それができるときにしておかなければ残るのは、恨みのような怒りのような悲しみのような、濁ってねばついて取り去ることのできないものだけだ。おそらくきっと後悔と呼ばれるもの。
知っていたはずなのに、再会してからどうしてフィガロを前にしたらうまくできなかった。
突然訪れた過去との再会と、予期せぬ干渉に混乱するばかりで、自分がどうしたいのか何を求めているのか分からず、分からないから恐ろしく、その恐怖の正体に向き合うこともなく、ただ避けようとつっぱねてばかりだったのだけれど、三度目の死地を越えてから、そんなことはいっていられなくなった。
心の奥にある感情と望みを、その時のファウストが考えうる、自分と相手の立ち位置と関係と周囲の状況のなかで、必要で、目的のための手段として、求めても許されそう。というまわりくどい形にした。破門された身ではあるけれど、また魔法を教えてほしいという望み。
本音はまた師匠になってほしい。これから先のフィガロと共に生きるのは自分ではないと、国を隔て、彼を取り巻くものを見て、そうわかっていても、本当は共に生きていきたいという願い。そんなものを口にできるわけがない。
希望に燃えていた過去だって彼から失望されているのに、いまの自分が彼のそういう存在として見合うわけがないのだ。
けれど、一度ならず二度、三度、それからまた何回か死にかけた。死を前にすると、いろいろなことを考える。
目の前に終わりが見えてようやく、自分の中でぐちゃぐちゃに絡み合った心の奥にあるものが見えてくることもある。
なんだかんだと理由をつけてみはしたものの、ファウストが願いを望みとして口にできなかった理由は、ただただ恐ろしかったからだ。
傷つくこと。同じ人に同じ痛みをつけられること。以前うけた傷の痛み知っているから、また傷つけられたらと妄想の痛みにおびえていた。
いまは、それがなんだと思う。おびえて避けることで、望む心を抑え込む、そのことに何の意味があるのかと。裏切られて傷つく可能性、それがなんだというのだ、傷ついてやる、死にそうにはなるかもしれないけれど、実際には死にはしない。
シンプルに言えば開き直ったファウストは、それでも少しだけ時期はうかがって、それどころではない状況ではない頃合いを見計らいながら、フィガロに対して思っていることを伝えようと決めていた。
酔った勢いというほどには酔ってはいない。ただ、この心地よい時間、心地よい空気、二人の間におちた居心地の悪くない沈黙、それらを足がかりにして転がり出た、というのは事実だった。
どくどくと鼓動が早まる。首の後ろから、耳の後ろ、頬までが熱を持った。おそらく赤くなっているだろうそれを見られたくなくて、ファウストは苦し紛れに俯いた。
困らせてしまっただろうか。開き直ったといっても、相手の反応に心は揺れる。フィガロに向かって抱いているのは、嫌われたくない、できれば好かれたい。そばにいたい。そういう願いも含む感情なのだから仕方ない。
同時に、もっと困れ、と思う自分もいる。こちらがどれほどおまえのことで悩まされたと思っているのだ。なかなか見せない本音の底では、困っていたことも悩んでいたこともあったのかもしれないけれど、フィガロがファウストにそれを見せることはそう多くはない。いや、それを感じ取れたことは多くない、というのが正しいのかもしれないけれど。
だけれど、だから、こうやって分かりやすく困ったような感情を見ることができるのは、少しだけ怖いけれど、でもはやり、少しだけ嬉しくも感じる。
無言の時間はそれほど長くなっただろう。そろりと視線を上げた先でフィガロは、いつの間にかグラスを置き胸の前で組んでいた腕、その右手をもちあげ、口元を隠すように顎に添えていた。
「そう」
それで、と目を細める。それだけ言った彼が、透徹した榛色で、目踏みするようにファウストをとらえた。
「俺に何を望むの?」
問われて反射的に心に浮かんだ答えはこれだ。知って欲しい、知りたい。おまえは、どうなのかと。同じなら、嬉しい。違うなら、さみしい。それでも、知りたい。
言葉を間違えたくない。ああまた、うまくやろうと考えてしまう。うまくなんてできないのに。そう、分かったはずなのに。
ファウストは言葉を探し、けれども結局はただまっすぐに思ったことを形にするしかないと思い至った。
心の底にあるものを、相手にとっての自分の立ち位置と、様々な可能性と状況とこれまでと、いま。そういう自分の中の膜をいくつも通して、言葉にして届けた相手の中にあるそれらを通してまた伝わったものが、伝えたかったことの本質ではなかったことが多々あった。
それはファウストも同じこと。だからできるだけ、ただ、純度の高い言葉を渡すしかない。
「おまえが、僕のことをどう思っているのか知りたい、とは思うが、それは僕が自分の中にある言葉を伝えたからといって教えてもらえるものだとは思っていない。そういうことじゃない」
そういうことじゃないとは分かっているけれど、知りたい。そこまで言っていいのだろうか。言えばいい。不敬でも、厚かましくても、求めてみればいい。愚かだと言われても。
そう分かっている。開き直ったはずだ。けれどもその先の言葉を続けることができなくて、ファウストはまろびでそうになった言葉を、口の中にたまった唾液とともに飲み込んだ。
視線をそらすことはしない。けれども言葉が出てこない。言ってしまえ、いや、冷静に考えろ。どう思われても気にするな、失望されたくない。揺れる心に呼応するように、視線も揺れる。
言葉を探すファウストを急かすことなく、からかうことなく、フィガロは何も言わなかった。また沈黙が落ちる。けれど先ほどまでの心地のいいそれとは違う、どうしよう。どうしたら。
「願って」
小さな声だった。
「知りたいなら、知りたいと、願って、ファウスト」
白いシャツの袖に包まれた腕が、二人の間にあるテーブルを超える。ファウストに向かって伸ばされたフィガロの右手が、ファウストの爪の先にわずかに触れた。
伏せられることもそらされることもなく、けれども少しだけ感情に揺れる榛色がまっすぐにファウストをとらえる。
「願ってくれたら」
答えるから。どうしてか苦しそうに眉根を寄せて、けれども真摯な表情に、願われなければ言えないのかという、怒りの感情は湧かなかった。
願ってほしいと願う。まどろっこしい。けれどもそうしたら、聞きたいことを聞くことができる。フィガロの感情を、想いを、考えていることを知りたいというのは真なる願いだから口にしたところで嘘ではない。
ならば。
「教えてほしい。おまえは僕のことをどう思っている?」
口を開くと同時に、爪先に触れるフィガロの手に己のそれを重ね、彼の手が逃げていかないようにしっかりとつかむ。掌の下のそれが小さく跳ねた。フィガロの願い通りに願ったのだ。だから逃がさないという意志を込め、少しだけ握る力を強くする。
「俺は、俺はね」
口を開いたフィガロが、そう言って、また言葉を探すように口を閉じた。薄く開いて、閉じて、そこまで来ている言葉を口の中で転がすように舌が動く。
「教えて、フィガロ」
ファウストは焦れて言葉を重ねた。フィガロはファウストの言葉を急かすことはなかったというのに。そこまできている言葉を、彼に飲み込んでしまわないでほしかった。飲み込んだ後また出てきた言葉はもしかしたら、ちがうものになっているかもしれないから。
いくばくかの逡巡ののち、きみのことがすきだよ。とファウストに言葉を届けた声は、少しだけ震えていた。
「ああだめだ、これだけじゃちっとも伝わらないよね」
もっと、あるんだ。伝えたいいろいろなことが。空いている左手で額を押さえたフィガロが、ああでもないこうでもないと連ねる言葉の半分も理解できない。ちゃんと聞きたいと思っているのに、どくどくと脈打つ自分の鼓動がうるさくて。
重ねた手のひらの下で、彼のそれが身じろぎする。くるりと返された掌が、ファウストのそれと再び重なり、今度は彼の指もファウストの手を握った。
緩い力で持ち上げられる。フィガロのもとに引き寄せられる自分の手。
だからそう、行き着く先はこれだけなのかもしれないね。言ったフィガロの頬が少し紅潮して見えるのは、ファウストの願望だろうか。
「好きだよ、ファウスト」
そう言って、持ち上げ引き寄せたファウストの指先に、フィガロはそっと唇を寄せた。