その輝きを その頭髪と同じ色の薄群青のまつ毛が縁取る眼が薄く細められた。ただそれだけだった。
それまで、ファウストを嘲笑う、まではいかずともまだまだ従えるには力不足、我らの力を借りたくばそれだけのものを見せてみろ、と煽るかのように縦横無尽、自由自在、まるで北の大地に荒れ狂う吹雪のように飛び回っていた精霊の気配が変わる。
風のない静かな夜の闇の中、白銀の大地にしんしんと降る雪のような静けさと、冷え切った空気のような張り詰めた気配。それは、自分達を支配することを認めた者の一挙手一投足を見逃さないためか、あるいは、一歩間違えたなら牙を剥いてやらんとする臨戦体制なのか、もしくは、その両方なのかもしれなかった。
箒の上に軽く腰かけた師が、右手を揺らして魔道具であるオーブを出現させる。手のひらからはあふれるけれど、小ぶりなそれをファウストが目にするのは、彼の元で修行を始めてから今日で二度目だった。
一度目はファウストの魔道具が鏡であることを話した際に、俺のはこれ、といって見せてくれた、二週間前のことだ。それ以来、実際に使われているところは見たことがなかったもの。
そのオーブの前に、それよりひと回りほど大きいだけの小さな魔法陣が出現した。ちょうどいい角度を探すかのようにくるりと回転し、何度か角度を変え、そして、止まる。
小さな魔法陣の前にまた、一回り大きなものが現れ、それが同じように幾枚もになり大きな魔法陣へと広がっていく。
魔力が巡り術式が組み上げられていく、いや、流し込まれた魔力によって発現しただけで、すでに編まれていたものなのかもしれない。ファウストが認識できるものよりも複雑で深淵な何か、それらが猛烈な速さで展開されているのだと、それしかいまは分からなかった。
理解が追いつかない。まだぜんぜん足りない、知識も力もなにもかも。瞼の動き、呼吸ひとつで北の精霊たちを従えた、このひとの背中は遠いのだと、分かっていたことをまた実感する。
よく見ておきなさい、と言われたから、これはきっと自分に見せるための形だ。ならばこの目に心に焼き付けて、ひとつでも多くのことを学び取りたい。そのように師から学びを得ている身として思う反面で、胸を震わせる高揚感が確かにあった。
幼いころに初めて魔法を見たときのような胸が高鳴るときめき。かのひとの手から生み出された魔法の煌めく不思議な輝きは、自分が生み出すものとは全く違って、知っているはずなのにまるで知らないものだった。
今目の前にあるのも、いるのも、それよりもっと強く、大きなものだ。
力がうねり収束していく。師の手元に魔道具であるオーブが淡い光を帯びた。そこから伸びた薄い光の線が、オーブを浮かせる手のひら、指の先から輪郭を縁取っていく。そう、見えただけなのかもしれない。圧倒的な存在感が、魔力が、世界から彼を浮かび上がらせていくかのような錯覚。薄群青の髪が揺れるのは、吹く風ゆえか、帯びた力ゆえなのか。
すっと、そのひとが息を吸った。どこを見るとでもなく半ば閉じられていた瞼が上がる。現れるのは、色を持たぬ冷えた無彩色。その中央にある命が芽吹く世界のはじまりの、若葉色。ほんの小さな瞳孔なのに、そこに力強い鮮やかさがあることが分かった。
「ポッシデオ」
力んだところはない、肩の力の抜けた、ファウストの名を呼ぶ時のようなほとんど日常と同じ軽やかな声だった。
どん、と鈍く重たい音がした気がした。けれどもそれもまた錯覚で、ただ圧倒的な力の気配に魔力が揺れた振動だった。動揺がそのまま伝わったファウストの乗る箒がバランスを崩す。それを立て直しながら師を見れば、彼は呪文を唱える前と同じようにただ軽やかに箒の上に腰かけていた。
そして一閃。
オーブから放たれたのは、細くか弱くも見える光一筋だけ。それが巨大に広がった魔法陣までをいくつも貫いて進む。貫かれた魔法陣が弾けたり、砕けたり、光に取り込まれたりしながら消えていく。
最後の魔法陣を貫いた光の筋が一直線に向かうのは、高くそびえる山の中腹だった。瞬きをする間もなく、師が標的とした場所になんの障害物もないかのように遠くから見れば豆粒のような黒い穴をあける。そして数瞬ののち、先ほどよりも大きな音が空気を揺らした。今度は本当の音とともに襲い来る衝撃に、心の動揺からではなく、物理的に箒が揺れる。
今度はくるだろうと心構えをしていたので、なんとか襲いくる強風と衝撃を魔法で躱すも、煽られた髪が視界を覆った。顔にかかった髪をどかして視界を確保するが、きっと髪はボサボサだ。そして、目線を向けた師といえば、やはり先ほどまでと寸分違わず、箒の上に腰掛けて、髪と服の裾を揺らしもしない。
遠く、穴を開けた山へと向けられていた視線が不意にファウストを向く。世界から切り離されたようであった師が、世界に戻ってきた、そんな気がした。
「どうだった? 少し張り切りすぎちゃったかな」
「す……ごい、です!フィガロ様」
「そう言ってくれると思ってたけど、嬉しいものだね」
柔らかい微笑みを浮かべ、ファウストのそばに箒を寄せたフィガロが、先ほどまではオーブを浮かせていた指で、爆風で乱れた髪の顔にかかったいく筋かを整える。その近すぎる距離も、彼の手ずから行われるくすぐったさも、普段ならば恐縮するようなものであったが、高揚感にあてられているいまのファウストにとっては少しも気にならなかった。
近隣の村の魔を癒し、一夜にして崩落した谷を救った偉大な力を持つひとだ。だから彼の門を叩いた。けれども破壊とて同じように行えるのだと、わかっていたけれど身を持っては理解していなかったのかも知れない。少しだけおそろしさも感じている。けれども、師事を許されて二週間余りで大きくなった尊敬や好意が薄れたわけではない。
彼に追いつくにはまだ自分は遠くにいるのかもしれない。それに、ここにいる目的は彼に追いつくことではない。けれども、叶うならば、いつか、ファウストの今やるべきことがすべて終わった後。隣に並ぶことも難しいかも知れないけれど、もっと近くに、おそばに寄ることができたなら。
「術式がいくつ使われていたかわかったかい?」
高揚感のままに頭の中を巡っていた思考は、フィガロの静かな声に現実に引き戻され、霧散した。瞬く間に展開され消えていった魔法陣を思い返しながら、わかったものを指折り数えていく。
「手元のものは軌道確保、途中に力の膨張を防ぐものと均等化を促すもの、光線の周囲を硬貨させるものがあり、先端は速度確定……読み取れないものもいくつかありました」
「術式についての基本は今週座学でやったばかりだからね。あの時間でそれだけわかれば及第点だよ。いくつかブラフも混ぜてある」
「展開させたものを読み取られたときの策ですか?」
「そう」
ファウストが直前まで考えていたことになど気づいていないのであろうフィガロが、ゆったりと頷いた。
それから、フィガロはあの一閃のための構成を口頭でファウストに細かく教えた。
いまは箒の上、普段は自分の屋敷の一室、主に書庫で行われる座学のときのように紙に書き写すことができず、彼は告げられたものを一つも取りこぼすことがないように記憶に刻み込んでいる。
だから、思考のために下方に視線を向けながら、相槌をうち、ときには質問を返す勤勉な弟子を、フィガロがどのような目で見たかなんて気づいていなかった。
「まあ、今回はきみに見せるために全てを術式にしたけれど、これを感覚でやることもできる」
「フィガロ様はできるのですか?」
「さっきのもの程度ならね。思考して動くものに対してや、より複雑な性質を付与するする場合には使うときもある」
「先ほどおっしゃっていたブラフも含む、ということですね。なるほど」
「そう、術式は補完みたいなものだと考えた方がいい、それと感覚を掴むための練習かな。まずは感覚、それで完結できるならそれが一番早い」
「早い」
「治癒でも防御でも、もちろん攻撃においても早いに越したことはない。けれども、先ほどの例で言うなら軌道確保を感覚として掴むのが苦手ならば術式で補填してやればいい」
「確実性を増すんですね」
「そう。他にも、感覚で掴みきれない複雑な魔法を使う時、または誰かと共同で魔法を使うなら陣を展開した方がいいよね」
「どういった魔法を使うのか、己にも他者にも認識しやすくなるからですね」
「うん。それを逆手にとってどんな魔法を使おうとしているのか相手に誤認させることも、本来の目的から相手の意識を散らすこともできる。相手が格上でも、魔力量、魔法のセンス、それらに圧倒的な差がない時なら、それが勝機に繋がることもある」
「媒介も使えば、さらに確率は上がる、ということでしょうか」
そうだね。鷹揚に頷いてフィガロは帰路を促すように箒の柄を屋敷の方角に向ける。それにならったファウストだったが、今一度、穴を開けられた山を振り返った。
後ろ髪を引かれるようなそぶりに見えて、まだ足りなかったかなとフィガロが考えた時だった。ほう、とすこし乾いた薄い唇からため息を吐いたファウストが山から視線をフィガロに向ける。
「先ほどの魔法、おそろさも感じましたが、とても」
「うん?」
ファウストの目がフィガロをしっかりと捉えた。
無垢に輝く菫色、透き通っているようでその向こうには確かにファウストの意志がある。底知れぬその煌めきが印象的だった。
尊敬、憧憬、好意と、畏敬。おそれは恐れではなく畏れ。そして貪欲に知識を求める純粋でフィガロが善であると感じる欲。
「とても美しかったです。あなたのように魔法が使えるよう、精進しようと今日改めて思いました」
まっすぐに届く心からのものだとわかる言葉。これがファウストの持つ、魔法の才能以上の、生きてきた時間も経験も短く浅いのにも関わらず、国を巻き込む動きの先頭に立つ者の力か。これがあるから立たされたのか、立ったから身につけたのか。いややはり、彼の出身国の性質なのかもしれない。
じわり、と腹の底から湧き上がる感覚にフィガロは緩やかに口角を上げた。
「頑張ってね。ついて来れないようなら、すぐに振り落とすよ」
「はい!」
開門を求めたときと同じ声。ああ、いいな。と思う。
まだ小さな輝きをこの手の中で育んでいく。どれだけ大きな光となるのだろうか。
それが楽しみで、仕方なかった。