大学生×一途青年細身の青年が階段を登っている。
見覚えのある顔だった。すぐには思い出せない。注意深く彼を見た。
暖かくなってきた気温と共に、彼の少し長めの前髪がなびく。
ハッキリと顔が見えたその瞬間、綿矢は目を見開いた。
ふぅふぅと少し膨らんでいるお腹を片手で押さえながら、彼はスーパーの袋とカバンを持って階段を歩いていた。
綿矢 謙介(わたや けんすけ)は先月の事を思い出す。
以前、親に勧められるまま向かった裁判での事。
今も鮮明に思い出せる。
『でも…好き、なんです…お金なら…今は持っていませんが、慰謝料としてこれから働いていくらでもお支払いいたします、……ひっく…別れたく、…ない、です…お願い、佐木川さん‥お願い…』
腹を押さえ、涙ながらに切実な思いを訴える青年が、今もなお綿矢の目に焼き付かれている。
あまりにもひどい内容だったのだ。
あの裁判は妊娠した彼が負けてしまった。
なぜ妊娠しただけで損害賠償を払わなければならないのか。法とはなんなのか、傍聴席に座り、裁判が開始して数分足らずで胸くそが悪くなった。
綿矢は自分に忘れろと頭を振った。
しかし忘れる事などできはしなかった。
あの裁判は、今後一切自分と関わらないようにしてほしいという要求と精神的苦痛による賠償請求を訴えるものだった。訴える側、佐木川(さぎがわ)被告の弁護士は自分の兄、綿谷良一(わたやりょういち)だった。
兄の晴れ姿を見れば弁護士になりたいという気持ちを養えるだろうと綿矢は父に言われ、ヒマだったからという理由でノコノコ傍聴しにやってきてしまったのだ。
裁判が終わったあと、見なければよかったと心の底から後悔をした。
結果は散々だ。
兄の方は見事勝訴し、森被告は妊娠したばかりという身であるにもかかわらず、これから一人で400万という大金を支払い続けながら子供を一人で育てるという道を歩む事になった。認知もしないという佐木川の意見に、何人もの傍聴者が顔をしかめた。
兄が勝ったのに少しも喜べない。二人ともクズにしか見えなかった。自分の兄と、父親になったにもかかわらず、相手に無慈悲な要求をするその男に。金のためにそこまでやるのかとその場で吐き捨ててしまいそうだった。
思い出したくもないのに、あの青年、森 蛍(もり ほたる)は今どうなっているのかふと頭をよぎる日々が続いている。
今は男性でも妊娠ができる時代。
訴えられた青年、妊娠をした男性の名前は森 蛍。「妊娠したら家族や友達みんなに婚約した事を認めさせよう」というベッド上での佐木川の睦事をまんまと信じ、相手にサプライズのつもりで妊娠薬を黙って服用して懐妊した。めでたい知らせにきっと喜んでくれると思った蛍は彼氏である佐木川に報告したのだ。
しかしまったくめでたい事態にはならず事態は逆方向へと進んだ。森が通院していた病院には佐木川の親族が働いていた。
そのせいで、親や友人、佐木川が働いていた会社にまで男と付き合っていたことがバレてしまったのだ。
周囲に男と付き合っている事がバレた事で社会的に大きな打撃を受けた事、望んでもいないのに勝手に妊娠薬を飲まれていた事で大きな精神的苦痛を受けたと、佐木川は蛍に訴訟を起こした。
相手が自分の子を身ごもっていると知っていながら、男---佐木川(さぎがわ)は400万円の賠償金を求めてきたのだ。
そしてあの時負けた青年---自分と同い年かもしくは年下の青年、森蛍が今目の前にいる。
一度逡巡したあと、綿矢は口を開いた。
「あの」
「あ…あなたは」
どうやら森の方も綿矢の事は覚えていたようだ。
「あの時、ハンカチをありがとうございました。いつかお礼を言いたいと思っていて…あ、でも今、あの時のハンカチはもっていないんです。申し訳ありません」
ペコリと頭を下げる森に、片手をあげて綿矢が制止する。
「いえ、ハンカチは差し上げます。それより…あのあと…だいじょうぶ、でしたか?」
「はい、なんとか」
何とかなっているようには見えない。にこりと笑った森の目の下にはうっすらとクマが見えた。体も、あきらかに痩せている。
裁判が終わったあと、裁判所の隅で泣いている森を見つけた。あのあとハンカチを差し出し、あまりに哀れで、思わず抱きしめてしまったのだ。
「他人なのに、抱きしめてしまったの、気持ち悪かったですよね」
「いえ、そんな・・・!あの時、本当につらくて・・・見ず知らずの人に、ああやって優しい事ができる人もいるんだなぁって・・・違う意味でも僕、泣いてました」
「そうですか・・・」
ふふ、とお互い笑いあった瞬間、そよそよと気持ちのいい風がふいた。数秒お互い無言で視線を交わした後、森が口を開いた。
「あそこのアパートの一階に住んでるんです。よかったらお茶でも・・」
そう誘われ、綿矢は森のアパートへと向かった。
「すみません、狭くて」
「いえ・・・」
本当に狭い。これまで何不自由なく暮らしてきた綿矢には経験したことの無いものを感じさせた。
「お茶を入れるので、どうぞ」
座布団を敷いてもらい、そこへ座る。ぐるりと部屋を見渡した。
「どうぞ」
とん、と置かれた温かい茶の香り。
麦茶だ。
「ありがとうございます」
その後、あの裁判のあと、どのようにしていたのかを簡単に教えてもらった。
「国から・・・それは補助金ですか?」
「いえ、借りる形です。利子なしで」
国から金を借りるという形で今後の生活をまかなう予定だという。妊娠をしてからというもの、これまで続けていた調理師として働く事が出来なくなった。大きく動くと、めまいを起こしてしまうという。そのため、小さな子供たちに国語や算数を教えるパートの仕事でなんとか食いつなぎながら、国から金を借りて病院代をまかなっている。
「その・・・失礼なことを聞いてしまう事になるんですが・・・中絶、とかは考えなかったんですか?」
「いえ・・・」
顔が暗くなったのを察し、綿矢は頭を下げた。
「すみません、軽率でした」
「いいんです。よく、聞かれる事ですから。それより、夕飯・・・いっしょにどうでしょうか。僕、今日誕生日で・・・誰かと一緒にご飯が食べられるとうれしいなって・・・」
「いいんですか?」
「はい。ぜひ」
**************
裁判が終わったあとも、賠償請求をしてきた彼を好きだという気持ちはまだ残っていた。
だから泣いたのだ。そんな時、見知らぬ誰かが抱きしめてくれたのを覚えている。
胸は温かくなり、悲しくて泣いていた気持ちのどこかで、優しく触れてくれた事への感謝と嬉しさからによる涙も混ざって流れ出た。
あの後から、出産して落ち着くまでは分割して賠償金を支払うという事になった。
今は収入の十分の一を支払っているが、パートで生活している身だとまったく妊娠費用が足りなくなっていた。仕方なく通院費用を国から借り、お腹の子を育てている。
もう相手とは顔を合わせる事は無い。付き合っていた彼との接点はほぼなくなる。
今後は半年に一度、弁護士と電話をし、月々の支払いをいくらにしていくかを相談していくぐらいだ。
頼れる家族も友人もいなかった。そんな中、優しく抱きしめてくれた綿矢の行動が本当にうれしくて、その後もたびたび思い出したほどだった。
ずっと、気になっていた。もし会えるなら、もう一度会いたい。ずっとそう思っていたのだ。
今回、一緒に夕飯を食べてくれる。森にとって、これは最高の誕生日プレゼントだった。
「えーっと、急にきてお食事にお邪魔するのもアレなんで・・・手伝いますよ」
「いいですいいです・・・!お客様はゆっくりしていてください・・・!」
「・・・じゃあ、誕生日プレゼント、買ってきます。近くに大きめのショッピングセンターあったはずなんで。いってきます」
「あ・・・そんな、」
申し訳ない、という言葉を言い終える前に綿矢は出て行ってしまった。
――そんな気を使わなくてもいいのに・・・――
一緒に食事をしてくれるだけで十分なのだ。申し訳ない気持ちになる。
せめて、今日の夕食で満足してもらおうと腕を振る。食材はすべてワケあり商品の安い野菜だが、和洋折衷のレストランで働いていた森にかかればどんなフルコースをも思いのままだ。
「よしっ・・・!」
気合を入れ、ゴーグルをつけてから玉ねぎを切り始めた。
************
戻ってきた綿矢は驚いていた。
「貴族の料理だ。宝石がちりばめられた食卓って感じ」
うれしい誉め言葉に森の顔が緩んでしまう。
「言い過ぎです。ただパンの上にいろいろ乗せただけです」
「このスパゲティはなんていうやつですか?」
「マグロとナスのシチリア風スパゲッティです。もう完成してるので、よかったらどうぞ」
「うまそう!いただきます」
買ってきたプレゼントを置き、一番気になっていたスパゲティから食べ始める。思っていた以上のおいしさに、頬が落ちそうだった。目の端に入ったスープを手に取る。
「これは?」
「ゴボウのポタージュです」
その後も、食べたことの無いソースがかけられたサラダや宝石にも見えるような品に次々と手を出す。最後の薔薇のムースやライチのソルベを食べているときにやっと、オメデトウの一言も相手に言っていなかった事を思い出した。
「お誕生日、おめでとうございます」
「わ。嬉しい。・・・大きいですね。なんかすみません、急に誘ったのに」
プレゼントされた包みは両手で抱えるほど大きい。
「いえ、俺こそ、こんなに満喫できるなんて思ってもみませんでした。どれもおいしくて今日一緒に過ごせてよかったです」
森の頬がほんのりと朱に染まる。
「よ、良かった、良かったです・・・っ」
赤くなった顔を隠すように、森は顔を下に向けた。
「えと、プレゼント、開けてもいいですか?」
「どうぞ」
包装を丁寧にはずした森は目を大きく開けた。
「抱っこひも・・・!」
「ちょっと早いですけど、役には立つとかなと」
「うわ、ほかにもたくさん・・・!」
「白なら男の子でも、女の子でも両方着られると思って」
赤ちゃん用の白色で統一された衣服が数着。ぼろ、と森が涙をこぼした。
「ありがとう・・・ございます」
嬉しいという感情がいっきにあふれ出る。一度流れ始めた涙を止めるのは難しかった。
「・・・どういたしまして」
綿矢は腕を広げ、ベビーグッズを大切そうに触れて小さくなっている森を抱きしめた。
「すいません、また・・・」
裁判の後もこんな感じだったのだ。また同じように目の前で泣いてしまって、なんだか森はいたたまれなくなった。
「あの、嫌で泣いているわけじゃ・・・うれしくて」
「わかってますよ」
以前は悲しい気持ちでいっぱいだった。この先お腹の子を守れるのは自分だけで、もう好きだった人は自分の身勝手な行動のせいで遠く離れていってしまったのだ。
けれど今は違う。一緒にいるだけで、心温まる人が出来たのだ。今はそれだけで、森は満たされた。
***************
その後も綿矢は足しげく森のアパートへと通った。友人の一人として。
買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら、ちらりと綿矢を盗み見る。目鼻立ちが整った顔に少しうっとりと見ほれる。ハっとして冷蔵庫のドアを閉めた。
「余ったお金、ここに置いておきますね」
「使ってくれていいのに」
「そういうワケにもいきませんよ」
忙しいのかパソコンに何かを入力し続けている。綿矢はほぼ毎日来ては森と食事をするようになった。そしていつしか食費を出してくれるようになったのだ。
はじめのうちは断っていたが、できるだけ仕事に行く回数を減らして、赤ちゃんのために休んだ方がいいですよと言われた。確かに近頃仕事中に体調が悪くなる事が多かったのだ。
そんな時、必ず綿矢は看病をしてくれる。
優しくしてもらっているうちに、友人以上の気持ちを綿矢に抱いてしまうのにはそう時間はかからなかった。
ふと、お腹の子のお父さんになってくれたらいいなという思いが出てきてしまうようになったのだ。
――いけない、こんな考え、良くない――
自分のようなこぶつきの人間、綿矢にはふさわしくないと思った。彼には自分などよりもっと優れた人間---女性がいいに決まっているのだ。
「あの・・・大学、大丈夫ですか?こんなに毎日お昼にぶらぶらして。弁護士になるためのお勉強、あんまりサボってると後から大変なんじゃ・・?」
森の質問に、パソコンから目を離さずに綿矢が答えた。
「もう卒業しましたよ。先月の三月に」
「えっ?!あ、じゃあ今は就職活動中ですか?」
「いえ。仕事はもうやってます」
「あ、もしかして、パソコンで出来るお仕事ですか?いつもカタカタ・・・何をしてるのかなって気になってました」
ノートパソコンを森に見せる。
「ブログ。これが俺の仕事ですよ。月に100万くらい稼げてるので、わざわざ弁護士として就職する意味は無いかなと」
「ひゃ、ひゃく・・・?!そのお仕事、大丈夫なんですか・・・?」
ブログで収入を得る、なんて聞いたこともない世界だ。何か怪しい事でもしているのかと、ちょっと心配だという目線が送られた。
「ブログ収益なんて、普通にそこらへんの主婦でもお小遣い稼ぎでやってますよ。ぜんぜん怪しくないんで安心してください」
「そう、なんですか・・・」
「それより、今日のお昼はなんですか?」
「天ぷら定食です。今から準備しますね」
台所の方を向く森の背中をジっと見つめ、綿矢が立ち上がった。
のし、と背中に乗ってきた綿矢にドキドキしながら森が注意する。
「もう、どうしたんですか?」
「お腹の子のさ・・・新しいお父さん候補、いますか?」
「えっ?」
「俺、立候補してもいいですか?」
ぐい、と森の顔を自分の方に向ける。
思った通り、顔が真っ赤だ。
「森さん、今すごく可愛い顔してますけど・・・脈アリですか?」
「・・・!」
近づいてくる唇を拒否する事など、森にできるはずもなかった――――。
fin.