とくべつ、その後。 ふわりと鼻孔を擽られ、目を覚ます。なんとも食欲をそそられる匂いだ。この匂いは紛れもなく、己の大好物だと確信する。
ごろりと布団の上で向きを変え、横になる。体を起こそうにも腰が抜けていて、起き上がれなかった。それに加えて気だるさもあり、下腹部はもったりと重く、股の間にまだ挟まってるような違和感が抜けきらない。
体だけでなく、喉もヒリヒリと痛む。昨日、いや正確には今朝にかけて、だけれども。あれだけ散々鳴かされ続けたのだ。喉が嗄れて当然、と言えば当然なのだろう。
仕方なく横になったまま、開かれた障子の向こうを見る。すっきりとした青空が広がり、雲がまるで綿のように丸みを帯びて、ひとつ、ふたつ、みっつと不規則に並んでいた。太陽は空の真上に差し掛かっており、とっくに正午を迎えているのだと教えてくれているようだ。そして時折吹き抜ける風が、なんとも心地いい。
「(いい天気だな)」
ぼんやりと外を眺めていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。
やっと戻ってきたのか。
「起きてるかァ」
「……」
声が出ない代わりに、首を縦に振って肯定する。
不死川は盆を持っており、そこにはやはり、己の大好物の鮭大根があった。しかも白く艶のある、ほかほかとした白米。野菜がたっぷりと入ったお味噌汁。小鉢には、ほうれん草のおひたしまであるではないか。
条件反射のように、くぅ、と腹の虫が鳴ってしまった。
「食欲はあるみてぇだなァ」
「……」
ある。たった今、お腹が空いた。
しかしここで問題がひとつ。そう、己は今、起き上がる事が出来ないのだ。
食べたいのに食べれない。なんともどかしく、悲しい事だろうか。
「……座ってんのも、きついか?」
脇に手を入れられ、上半身を起こされる。それだけならまだしも、不死川が冨岡の腹に手を回し、背凭れになるように背後に座り込んだのだ。
その一連の動作が甘やかす様なものだったから、思いきって寄りかかってみた。何か文句でも言われたらどうしようかとも思ったが、そんな事はなく、それどころか起き上がれない冨岡を大変気遣っているようだ。
冨岡が不死川の問いにふるふると横に首を振れば、「ん、」とだけ返ってきた。
「箸も持てねぇんか」
それもまた、否定する。
ゆったりとした動作で箸を持つ。少々行儀は悪いが、ぷす、と一口大の大根を箸で刺して口に運んだ。正しく不死川の作る、鮭大根の味がする。
「……」
ぱくり、と今度は鮭を口に運んだ。もぐもぐと一回一回丁寧に噛み締め、彼の作ってくれた食事を味わう。――あぁ、しあわせだ。
「………其れ食ってるときは本当、分かりやすいのによォ」
呆れるような、そうでもないような、そんな声が背後から聞こえてくる。
破顔して当然だろう。他の誰でもない、特別な人に一番好きなものを作ってもらえたのだ。嬉しくないなんて、そんな事絶対にあり得ない。
「――義勇」
おや珍しい。床以外で名前を呼ばれることなど、皆無に等しいというのに。
噛み締めていた白米をごくん、と飲み込み、茶を啜った。ことん、と盆に湯飲みを置き、背後にいる不死川を見る。
「もし、」
彼は己を見ず、どこか空虚を見つめているようだった。しかし言葉は、こちらへと投げかけている。
「……鬼共を滅ぼしてこの世が平和になった時だァ…いったい何時になるかなんて分からねェ……が、もしもそん時まで俺もテメェも生きていられたら、」
くい、と手が掬い取られ、己の指と彼の指が絡まり合う。ギュッと力を込められ、彼の熱がじわじわと伝染する。
じっとりと湿っぽいのは、彼の手汗の所為だろうか。これまた珍しい。らしくもなく、緊張しているらしい。
「(なんだ…俺は、何を言われるんだ…)」
どく、どく、と心臓がだんだんと早く脈打ち、じわりと背中に汗が伝う。
不死川が『もしも話』をするなど、余程のことである。聞きたいような、聞きたくないような、そんな正反対な気持ちを同時に抱いた。
悪い事だったならば、どうしようか。平常心でいられるだろうか。涙を流さないでいられるだろうか。
彼を好いてからは、随分と泣き虫になってしまった自覚はある。格好悪いのは百も承知だが、如何せん、勝手に流れるのだ。己とて、どう対処すれば良いのか未だに分からない。
「おいこら、ちゃんと聞いとけ」
ぼんやりと考え事しているのを、どうやら気付かれてしまったらしい。空いている手が、むに、と頬を摘んだ。これまた、なんとも可愛らしい注意の仕方である。本当にどうしたというのだろう。
冨岡は視線を彷徨わせた後、おそるおそると不死川を見遣る。先ほどまで空虚を見つめていたのが嘘のように、不死川はジッと冨岡を見つめていた。そして、
「鬼殺の剣士が必要ねェ時代になったら…、――そん時は二人だけで、祝言でも挙げるかァ」
「……っ」
あぁ、あぁ、なんて酷い男だ。こんな、こんな不出来な口でも、ちゃんと返したかったというのに。こんな時に言うなんて。
どんなに絞り出しても、不協和音しか出ない喉が恨めしい。
言われるなんて、思ってもみなかった。奇跡を願いさえすれど、叶うなんて夢のまた夢だと信じていた。
今の己に出来ることは、たったひとつだけ。その台詞を目一杯、肯定するのみ。
「……んとに、泣き虫だなァ」
誰が泣かせているんだ、誰が。
そう言いたげに不死川を睨み付ければ、彼はくしゃりと笑ったのである。