クリス「裕那」
その日出勤すると、店の支度が全て整っていた。後は開店するだけと言った様子に、いつも全部俺に任せるのに、と不思議に思った俺は、考え込んでいるオーナーの次の言葉に息を飲んだ。
「夏油傑がお前をご使命だ」
「ご、使命って、俺はホストじゃないですよ」
「組を通して依頼がきた。関東最大の暴力団、五条組の……、組長補佐だ」
「…………」
思いがけない立場に眩暈がする。
あの男が?組長補佐?
怖い人だと思ったのはこの前の別れ際だけだ。だからこそ背筋が冷えていく。そんな地位と権力を匂わせもしないで、あの男は。
「断るよ」
「えっ」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、オーナーはじっと俺を見ていった。
「断る。お前がそんな顔する相手に依頼も何もねえだろ。相手だってこんな小さなバーを見せしめに潰そうなんざ考えねえはずだ。お前をつぶすことになる。あの男はそんなタマじゃねえ」
「でも、」
俺は一つ呼吸をしてからオーナーを見やる。
「ヤクザですよ」
俺は続ける。
「反社会勢力の人間。俺らとは違う世界に生きてる。断るなんて駄目だ。そんな相手に反感を買うようなこと。絶対だめだ」
「裕那」
宥めるような声に、どうして俺の方が宥められてるんだろうと情けなくなる。
「行きます。そしてこれからのことは断ってきます」
「断れんのか?」
「え?」
顔を上げると、オーナーは煙草を手にしたところだった。この店は禁煙だ。火をつけずに加えた声でオーナーは俺に問いかけてくる。
「魅入られてるのはお前のほうじゃねえだろうな」
「…………」
咄嗟に否定できなかった俺を見て、オーナーは手を伸ばしてくるとわしゃわしゃと頭を撫でた。
「なあ、お前がこの店を愛してくれてるのは分かってるよ。お前がしたいようにしろ。俺にはほかに道楽もある。店を潰したって、趣味の一つ構いやしねえさ。だから」
オーナーは言葉を区切ると、ゆっくりと俺に言い聞かせた。
「後悔する選択はするな」
「……はい」
返事をして、俺は依頼を受けることにした。
幹部達だけで行われるというパーティは、パーティ会場ではなく、そのホテルの最上階のスイートルームで行われるようだった。まるまるワンフロアが客室になっており、中にミニバーがあるそうだ。そこでバーテンダーをしろということらしく、俺はホテルの従業員の丁寧な案内により、エレベーターを昇ってその階に到着する。すると、入口にガタイのいい青年が見張りをして立っており、俺を見ると丁寧に頭を下げた。
「柏木さんですね。今夜はよろしくお願いします」
丁寧な口調と態度に、偏見が入っていたのもあって驚きながら、それを顔に出さないようにこちらも頭を下げる。
「柏木裕那です。よろしくお願いします」
「夏油さんがお待ちです。中へどうぞ」
カードキーをかざしてドアを開けた男に案内され、室内へと入る。ホテルの一室とは思えないほどの広い室内に、呆気にとられそうになる。きょろきょろとしないように気を付けてたところで、夏油の姿を見つけた。目が合って微笑まれる。離れた場所からゆっくりとこちらに近づいてくる夏油に、どうしてか逃げ出さないとならない気持ちになった。
「来てくれたんだね。ありがとう」
「ご依頼ありがとうございます」
なるべく事務的な声音を心掛けて返事をした俺に、夏油は目を細める。さっきから感じていたが、今日は自分の組の人達といるせいか、雰囲気がある。そうされるとどきりとするような威圧があった。すると、意外なことにそれから夏油は寂し気に苦笑した。
「もう笑ってはもらえないのかな」
「夏油さんは怖い人でしょう」
「そうかもしれないね。否定はしないよ。でも、君には笑ってほしいと思う」
「……夏油さんは本当に、」
「傑!」
不利に響いた声に、夏油と一緒に顔を上げた俺は、目を見張る。
接客中は表情をあまり変えないようにしているのだが、それでも驚くほどきれいな男がそこに立っていた。
「悟。少し遅刻だよ」
「ごめん。ま、いつものことだし許してよ。……そいつがお前のお気に入り?」
近寄られて緊張しそうになったのを抑え込み、俺は微笑むと頭を下げる。
「本日バーテンダーを務めさせていただきます、柏木と申します。よろしくお願いします」
それから顔を上げると、ずい、と間近に顔を近づけられて目を瞬く。
恐ろしいほど澄んだ青い瞳が、吸い込まれそうな空の色をしていると思って見返していると、男は笑った。
「あはは、大抵の人間は圧されるんだけどね。度胸あるね~」
軽薄な雰囲気と口調の中に潜んでいる重々しい気配に、俺はもしや、と夏油を見やると、夏油は頷いた。
「そう。彼が五条組のトップの五条悟」
「傑とは親友なの。だから君の話も聞いてるワケ。報告とかそう言うんじゃないからおびえなくていいよ」
笑って男は続ける。
「取って食いたいのは傑の方だし」
「悟」
咎める声音がらしくなく少し慌てたようだったのに、俺は意外で夏油の方を見る。するとため息をついて、言い訳をするように言う。
「君の嫌がることはしないよ」
「あっれ~。いつもの慣れた手管はどうしちゃったのかな~。組長補佐の傑君」
「うるさいよ悟」
その一連のやり取りに思わず笑むと、五条が俺に視線を向けてくる。
「面白かった?」
「ええ。仲が良いんですね。俺は仕事ばかりで仲の良い友人はもういませんから」
「じゃあ僕と仲良くなろうよ」
思いがけない言葉に五条の顔を見返した。
「度胸あるよ。君。自覚あるか分からないけど、僕たちに色々な意味で臆さない人間って珍しいからちょっと興味が沸いた。立場なしでどう?」
「申し訳ありませんが、仕事の場でそのような誘いは遠慮いたします」
「ちぇ、つれないねー。ま、それくらいが良いのかな」
なんだか安心したような顔をしている夏油に、五条が近くにいると素が出るのかななんて少し面白く思う。
「僕はアルコール飲めないんだけど、今夜は傑にいっぱい作ってあげて。こいつザルだから」
「強いけどちゃんと酔うよ。お酒が無駄になるみたいな言い方やめて。ほら、さっきから何か話したそうにしてる人がいるけど?」
俺も気づいていたが、五条の部下なのか、眼鏡をかけた細身の男がずっと声をかけたそうに待っていた。
「伊地知。邪魔しないでよもー」
「も、申し訳ありません」
「伊地知、悟の文句を間に受けなくていいよ」
「はい……」
気弱そうな人だな、なんて感想を持ちながら、俺は話をするために離れていく五条と伊地知と呼ばれた人を見送りながら、ミニバーにある移動式の冷蔵庫の中身を確認する。思ったよりリキュールもシロップも数が多い。
「五条様は、甘いものはお好きでしょうか」
「悟?好きだよ。むしろ好物だね。甘いほど好きみたいだよ」
甘党のようだった。それなら、とホテルの近くにコンビニがあったことを思い返しながら、夏油にいう。
「少し買い物に出たいので、席を外しても大丈夫でしょうか」
「買い物?……人を付けるよ。灰原!」
呼びかけに人の良さそうな顔をした黒髪の青年が近寄ってくる。
「夏油さん、どうしたんですか?」
年上だがなんとなく子犬っぽいな、なんて思いながら、灰原と呼ばれた男をみやると、彼は俺に向かってにこにことした。
「あっ、夏油さんの片思い相手さんですか!?」
「灰原……」
「あ……すみません!」
ぺろりとストレートな暴露を、知っているので暴露でもないがしてきた悪気のなさそうな顔に、なんだかんだで夏油のプライバシーがあんまりなさそうなのが気になった。怖い人だけど慕われていそうだ。
「灰原雄です。柏木さんですよね?よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。灰原様」
「灰原。悪いんだけど、彼の買い物に付き合ってくれないかな。お会計はこれで」
万札数枚をポンと財布から出した夏油に、コンビニに行くだけなんだけど……?と、思いながらも口出しはしない。案外逃げ出さないようにする見張りかもしれないし、過保護よりはそう思っておいた方が気が楽だ。
「まっかせてください!夏油さん!」
慕われているらしく、にこにこと承諾する彼に、じゃあ行こうか、と連れられて俺は一度部屋を出た。
機嫌の良い表情で俺の前を歩く灰原は、エレベーターに乗り込んでから俺を振り向いた。
「柏木さんは夏油さんが好きじゃないんですか?」
「え?」
思いがけないこれまたストレートな問いかけに驚いて見返すと、灰原は気にした様子もなく続ける。
「夏油さん、格好いい人ですよ。なんでも出来るし、優しいし。怖い時はちゃんと怖いし、仕事も出来ます。五条さんと合わせて最強って呼ばれているんですよ」
「さ、最強……」
日常で誰かを差すには中々聞かない単語だった。むしろ逆効果のフォローな気がするが、やはり灰原は気にした様子もない。素直な性格なのだろうなと思う。なんでヤクザやってんだ?
「俺、夏油さんが好きな人出来たって聞いて嬉しかったなあ。他人のことばっかりで自分をあんまり大事にしない人だから、良かったって思ったんです。あ、これしゃべっちゃまずいやつですかね」
「俺は大丈夫ですけど」
「なら大丈夫ですね」
大丈夫じゃないかもしれないが、俺が言わない限り大丈夫そうだった。面白いので止めないことにする。
「灰原さんは夏油さんが好きなんですね」
「はい、尊敬してます!」
きらきらっとした表情でそう返事をされて微笑んだ。癖があるが、この性格の男に尊敬されていると言われるのだから、本当の悪人じゃなさそうだと思う。そう、それは、分かっている。
エレベーターを下りてホテルを出る。
「何買うんですか?」
「プリンですね。あと紅茶とか」
「へえ。カクテルに使うんですか?」
「ええ。五条様が飲めないと聞いたので、即席でノンアルコールを用意しようかと」
事前に聞かされていれば、もうちょっと色々用意してきたんだが、それを言ってもしょうがない。
「えっ、俺も飲んでみたいな。作ってもらえます?」
「ええ。勿論」
「やった!」
子供っぽい人だなと思うが、幼い印象じゃない。独特の雰囲気に絆されそうだと思った瞬間、その問いは繰り返された。
「で、柏木さんは好きじゃないんですか?」
「………………」
じっと俺を見る灰原に、適当に誤魔化すのを断念した。誤魔化すにはもう少し心構えと、仮面が必要だったのに、つい話に夢中になってしまった。
「……たぶん、好きですよ。でも、」
「ヤクザだから怖い?」
頷いた俺に、灰原はそうですよね、と寂し気に笑う。灰原がそんな顔をする必要ないのに、灰原は俺と夏油の関係を良い方に行かないかと願っているようだった。身内贔屓が入ってるが善人だ。
「俺は、……俺はどうでも良いんです。母も亡くなってしまって今は一人ですから。ただ、育ての親には迷惑をかけたくないんです」
「その育ての親と夏油さんのどちらかを選べって言われたらどっちにします?」
さらりと、問いかけられたその質問の重みに、俺は咄嗟に答えられずに黙り、それから答えられなかった自分に呆然とした。
まるでオーナーと、夏油の存在が自分の中で同じ重さで存在しているみたいで。
そんな、わけない、のに。
その俺を見ていた灰原は、到着したコンビニの前で一度足を止める。
「ま、夏油さんちゃんと断れば、引くと思いますよ。大丈夫。腹いせなんてしません。そんな人じゃない。俺が保証しますよ!もしそうじゃなかったときは俺ががつんと夏油さんに言ってやりますから!」
「尊敬している相手にがつんと言えるんですか?」
「え?うーんどうかな……」
頼りなくも素直にそう考え込んでしまった灰原に少し気が抜けて、俺はプリンと紅茶を買った。万札を横から出されてじゃらじゃらと小銭とお札を受け取り灰原は戻りましょうか!と笑う。
「開始時間まであまりないですね」
「今日は本当に身内の飲み会みたいなものなので大丈夫ですよ。怒られるなら俺が怒られますから!」
「怒られるのはだめだと思いますよ」
ちょっと急ぎましょうと俺は足を速めてホテルへと戻った。
「おかえり」
夏油は室内に戻ってきた俺たちを見てそう微笑んだ。
すでに人がにぎわっている室内にコンビニの袋をぶら下げて戻ってくるのは気が引けたが仕方ない。安いものでも使い方によっては美味しいカクテルに変わる。気に入ってもらえるかは分からなかったが、せっかくなので試したい。
カタギじゃなさそうな体格のいいサングラスの男が居るかと思えば、金髪に彫りの深い、日本人離れした顔立ちをしている男もいる。誰も彼も長身で、日本人の平均より少し高いくらいの俺が埋もれそうだ。
「遅くなり申し訳ありません。すぐに支度します」
「構わないよ。気の置けない集まりだからね」
「そうそう。君も飲みなよ。君の分の部屋も取ってあるからさ」
「え?」
思わず夏油の方を見ると、夏油も初耳だったようで険しい顔で五条に視線を向ける。
「悟。聞いてないよ」
「言ってないから。はい、これ鍵ね。52階のスイート。ここよりランクは落ちるけど」
「えっ、いただけませ、」
「貰ってよ。どうせこれで最後かもしれないでしょ」
五条の言い方に俺は動きを止める。俺が別れを告げに来たつもりだったことを察しているようだった。夏油は何も言わずに俺と五条のやり取りを見ている。
「泊まらないで鍵返して帰っちゃっていいからさ。傑、君と飲みたいって言ってたし」
言いながら鍵を押し付けられて受け取ってしまう。
「……友達思いなんですね」
「でっしょ~?」
「君は恩着せがましく後で私に無理難題を押し付ける気だろ。まったく……。君の好きにしていいから。柏木さん」
「帰りなとは言わないんだ?傑」
揶揄う口調の五条は生き生きとしていて見るからに楽しそうだ。
「そうだね。出来たら泊まっていってほしいかな」
すっと俺に視線を向けた夏油の真剣な瞳にどきりとする。
「考えておきます」
微笑んで夏油はそれから準備の邪魔をしたね、とミニバーから離れていく。五条もみんな集まった?なんて言いながら離れていった。カクテルの準備をして、人が来るのを待つ。
一杯目はビールの人も多く、乾杯用のカクテルや注文のウイスキーを用意して渡した。
乾杯の声に俺も自分で作ったカクテルで倣った。
賑やかになる室内に、まばらに訪れる客の注文に答えていると、五条がやってきた。
「流石だね。みんな美味しいって言ってるよ」
「ありがとうございます」
「ノンアルコール作れる?」
「ええ。プリン好きですか?」
「え?好きだけどプリン?」
液体に近くなるまで柔らかいプリンをかき混ぜたモノを取り出した。紅茶と牛乳を混ぜて味をととのえ、さらにマーマレードシロップを足す。上にホイップをくるくると乗せ、ストローを挿して出した。
「オリジナルではないんですが、甘いほど好きと聞いたのでどうぞ」
「へー」
スーツは勿論そうだが、良く見ればしている手袋もネクタイも10万20万じゃきかない海外ブランドのものだ。そんな人間相手にコンビニの安いプリンを使ったのは申し訳ない気がしたが、美味しさに自信がある。
「ん。おいしい。これプッチンするタイプのプリンでしょ?結構飲み物として馴染むね」
流石にバレたようだった。
「ええ。本当はインスタントコーヒーを入れて味を引き締めてもいいんですが、珈琲は好みが分かれますから」
「十分美味しいよ。気に入った、レシピ教えてくれない?」
「作るんですか?」
「僕結構料理得意だよ」
なんていうので、五条にシェイカーの振り方をレクチャーすることにした。
持ち方も振り方もすんなり覚えてしまって、器用だと感心する。同じ高さで振って練習させようと思ったが、胸の上と下で振る二段降りも形は綺麗に覚えてしまったので、練習すればプロ顔負けのバーテンダーになれそうだ。
「筋が良いですね。綺麗だから振っている姿が映えて格好いいですね」
「そんなに褒めてもお金くらいしか出ないよ」
「出さないでください」
すぐに断ると、五条はおかしそうに俺を見る。
「傑が気に入ったのも分かるよ」
それから五条は折るように身を屈めて、俺の耳元に唇を寄せる。
「今夜僕の部屋に来てくれても良いよ」
どきり、とした俺が身を引く途中で五条が目を合わせてきたのに捕らわれる。迫力のある美しさがある人だ。綺麗な髪も、透けるような肌も整った輪郭も、そして青い瞳も、飲まれそうだと思った瞬間、ぐい、と五条は誰かに背後から引かれたようだった。
「悟。さすがに怒るよ」
「ごっめ~ん。物珍しいし可愛くてさ」
ひらりと手を振って退散退散とあっさり離れていった五条にほっと息をついた。危なかった。
「…………」
そんな俺を複雑そうな表情で見てから、夏油はためらったように聞いてくる。
「悟の方が好みかい?」
思わず破顔してしまった。そのままくすくすと笑う俺に、夏油は目を見張って俺を見つめている。
「意外と可愛いところがあるんですね。夏油様」
「気取ってると言ったけど、あれは本当だからね」
「困りますよ」
俺の言葉に夏油は口を噤んでじっと俺を見る。
「……俺は深入りしたくないんです。……そんな隙を見せられても困ります」
「君が好きだ」
はっとして夏油を見上げる。
「誰にも渡したくない」
苦し気な声音に、夏油が俺に抱いている恋情の大きさを感じ取って俺は立ちすくむ。
そんな反応出来ない俺を、救い上げる(黙す)ように夏油は言った。
「クリスを」
「……かしこまりました」
カクテルを作ってる間は無言だった。
受け取った鍵のことを考えないようにしながら、俺は美味しくなるようにシェイカーを振った。