自室の戸を開くと部屋の奥に久し振りに見る同室の刀の姿が在った。
「あれ、還ってたんだあ」
僕とほぼ同時期に顕現した松井江。顕現後すぐに僕は別の任務で少し出てしまったから、ゆっくりと二人きりで話せてはいない。まあだからって余所余所しくなるわけでも無いのだけれど。
僕が任務に出た後、松井も別の任務に出陣したらしい。どこに出陣になったのかは誰も聞いてなくて、鶴丸さんに連れられて豊前と一緒だっていう事しか知らない。どうやらその出陣を終えて還ってきたようだ。部屋の壁に凭れるように座り込み、少し疲れた顔を上げて僕を見た。
「さっきね」
「手入れは?」
「終わってる」
そう云ってはいるもののいつもしゃんとしてる彼がぐったりしてるのが気になって、血を流したままにしてしまってはいないかと、松井の傍に寄る。
「何だい?」
「うん。血の匂いはしないね」
「信用ないんだな」
信用してないじゃあなくて心配なんだ、と云えば笑ってくれるだろうか。なんて思いながら別の台詞を紡ぎ出す。
「まあ、顕現した時の第一声を聞いたら、ねえ」
血を流し流されたりする方が得意だなんて聞いたらそう云われるのも当然じゃない?
「僕が流した量なんて全然足りないし、流したままにしておきたかったのだけど、豊前に押し込められたよ」
「あはは。じゃあ豊前に感謝しないとねえ」
なるべく軽めに云ったつもりだったのに、松井はゆっくりと目を閉じ、それから同じだけ時間を掛けて瞼を開くと碧空色を宙へと投げた。その瞳に映るものを僕は共有出来ない。
「そうだな。特に今回の出陣では迷惑を掛けてしまったし」
「ふうん」
まあ、豊前は迷惑だなんて思ってもみないのだろうけれど。
「桑名も今還りかい?」
少し黙ってしまった僕に松井が問う。
「僕は畑から帰ってきただけだよお。ここの畑は――、」
「畑の話は要らない」
そんな時だけきっぱりと強い声音に思わず口角が上がる。やっぱり松井は元気な方がいい。
「疲れてる?」
「疲れてなくても畑はごめんだけど、うん、ちょっと疲れたかな」
「布団敷こうか」
防具は外してあるとは云え、未だに戦装束を着たままな松井。本当なら湯浴みをした方が良いんだろうけれど、今にも寝てしまいそうで返事もない松井の様子に軽く息を吐いて押入れへと向かう。
「……島原だったんだ」
それはとても静かな声音で。
独り言のようで、聞いて欲しそうで。
僕は襖の引き手に指を掛けたまま、そう、とだけ呟いた。
島原は松井江が人の身を得て顕現するのに必要な松井江の物語の核だ。これがなくては松井は松井で在れない。
老若男女、撫で斬りと呼ばれる皆殺しの物語が松井の中でどうなっているのかは僕には全く解らないけれど、それを業と受け止め、同じだけの血を流さなければならないと思っているだろう事は解る。
「刀の時に見た光景と同じだったよ。僕はまた同じだけの血を浴びた」
松井興長の刀として振るわれた松井江は敵を斬った。
37000。
その全ての血を松井江が浴びた訳ではないのだろうけれど、松井にしてみたら誰が、どの刀が斬ったのかなんて些末な事なんだろう。
松井が血を浴び、撫で斬りをして、あの戦は終わった。
それが事実。
「もう、染まっていないところなどないくらい、僕は――、」
「同じだけっていうなら、ちゃんと歴史は守られたんだね。任務は成功だったんだ」
振り返って笑った。松井は驚いたように目を丸くする。
「え?」
碧空色。僕の好きな色。
「えらかったねえ」
「偉くなんてっ」
「ああ、違うよ。お疲れ様っていうお国言葉」
松井の碧がより暗く陰る。出来ればそんな顔して欲しくはないなあ、だって碧空は明るい方が綺麗だ。
「そっちに行ってもいい?」
相変わらず返事は無い。でも厭なら厭って僕には云うから、拒絶はされない筈だ。
引き手から手を離して松井の元へと近寄る。そしてぺたりと座り込んでいる松井にしゃがんで視線を合わせてから、その隣に腰を下ろした。合った視線はうろうろと彷徨い、瞼で伏せられる。
「僕ね、近いうちに新しい任務に出るんだ。だからまた部屋を空ける事になるよ」
「……そう」
「せっかく同じ時期に顕現して同じ部屋なのに、なかなかふたりでゆっくり居られないねえ」
お互いの顔じゃなくて、ただ真っ直ぐに正面を見ながらつらつらと思い付くままに口を開く。すぐ近くにある温度が心地良い。
「畑に新しい苗を植えたんだ。僕が留守の間、松井が面倒みてくれる?」
「やだ」
「けち」
「けちで結構」
「このままさ、」
投げ出された松井の手に僕の手を重ねて、指を絡める。ぎゅっと握って引き寄せれば自然に松井の頭が僕の肩にこつんと乗っかった。
「一緒に寝ちゃおうか」
「布団敷いてくれるんじゃなかったのかい?」
「この方がきっとよく眠れる気がするんだよね」
「そんなばかな」
ふふ、と笑った松井の目はもう既にとろんとしていて、碧空がゆるやかに蕩けだしている。
「おやすみ、松井」
「ああ、おやすみ、くわ…な……」
掠れた語尾は寝息に変わり、肩に掛かる重みがゆっくりと増してきた。
僕はそんな松井のさらりとした鉄紺の髪を頬に感じながら、そっと目を閉じる。
「松井は偉いよ、自分と向き合ったんだね」
ん、と返事のような小さな咽声ひとつ。
これから僕たちは色々な出陣をするだろう。二人一緒だったり、今回のようにばらばらだったり、この先増えるかも知れない江のみんなと一緒だったり。そして出陣の度に何か手に入れたり失ったりするのかも知れない。
でもせっかく人の身で出逢えたのだから、人の身でしか出来ないことも経験したいと思うんだ。
うん、例えばこんなふうに。
そんな事をゆるゆると考えていた僕も、気付いたら眠りに落ちていた。
‥了