【夏五】第64回 お題「胡蝶の夢」――…る、――…とる
「悟!」
びくりと、体が跳ねた。目を開けると、葬式にでも行ってきたような上下黒のスーツ姿の男が、呆れ顔で天井からぶら下がっている。
…いや違う、五条が仰向けにひっくり返っているのだ。
「――…れ、すぐる?」
「待っても来ないと思ったら…ほら起きて、移動だよ」
「本当に、すぐる?げとー、すぐる?」
「はあ?」
とにかく起きろと屈んだ男に額を軽く叩かれ、渋々上体を起こす。途端にくらりと襲ってきた眩暈を、首を振って追い出した。
起き上がってみてようやく、五条自身も全く同じ黒いスーツを着ていることに気づく。寝るためになのかネクタイは緩んでいたが、こちらも同じく黒である。
混乱していた思考が徐々に落ち着きを取り戻す。今の状況を思い出す。
ああそうだった、俺たちは。
「祓ったれ本舗…」
「寝ぼけてるのかい?」
ようやく真正面から、正位置で顔を合わせた男の眉間がさらに寄る。大きな手のひらに頬を撫でられて、無意識に体が強張った。
「顔色が悪いな…最近あまり寝れてないし」
「――それは、お前も一緒だろ」
同じように手を伸ばして頬に触れる。明らかに頬は削げたし、メイクで誤魔化しているとはいえ、目の下に隈は常駐していた。
それでも、生きている。目の前の、この男は。相方は。
夏油傑は。
「どうしたんだい。変な夢でも見た?」
「変な、っていうか」
離れていこうとした手を咄嗟に掴む。
「最悪な夢。俺がお前を―――」
「ん?」
「―――いや、なんでもない」
すべて振り払うように、手を掴んだまま勢いよく立ち上がる。急に動いたせいか追い払ったはずの眩暈がまた戻ってきて、ふらついた体を横から支えてくれた。
「今度の移動は長いから、もう少し眠れるよ」
「ん、お前も寝ろよ」
「そうしようかな」
手を離さないことを訝しんではいるだろうが、振り払うことはせずに好きにさせてくれる。強く握りしめれば、同じだけ握り返してくれる。
ああ、本当に。
「夢で良かった」
「おい五条、起きろ」
頭上から降ってきた声に、目を開ける。目線を上げれば、さらに隈がひどくなった同級生が覗きこんでいた。
「…えー、もうそんな時間?」
「伊地知が待ってるぞ」
今日も今日とて、任務である。時間も、曜日も、季節も関係ない。
東に呪霊が出たと言われれ駆けつけて祓除し、西で呪詛師が暗躍していると聞けば飛んで行って捕縛。上層部のジジイ共に呼び出されれば悪態付きながらもきちんとお小言を聞いてやり、非術師の苦情にもニコニコ笑って右から左へ聞き流す。
もうすっかり慣れきってしまった、日常。
「どうした、変な顔して」
「硝子ひっどーい、このGLGつかまえて変な顔なんて」
「で?」
さすが10年以上の付き合い、スルースキルは上級者だ。同じくらい一緒にいるのに伊地知の反応は出会った頃とあまり変わらないのだから面白い。
「いやー、なんか変な夢見たんだよねぇ」
「夢?珍しいな」
そう、夢なんて滅多に見ない。見るほど寝てない、と言った方が正しいだろうか。
「それがさぁ、聞いてよ。僕と傑がさぁ、お笑い芸人やってんの。チョーウケる」
揃いの真っ黒なスーツを着て、僕がボケで傑がツッコミ。2人で舞台に立って、大勢の客を笑わせる。名前が売れたらテレビや雑誌にもいっぱい出て、めちゃくちゃ忙しくなって、あんまり眠れないところだけは同じだ。
疲れて、くたびれて、でも隣には生きてる傑がいて、僕は笑っていた。
憶えている限りの夢の話に、同級生はどう返していいのか迷っている顔をした。別に、いつも通りでいいのにね。
枕の横に置いていたスマートフォンが震える。表示されている名前は、後輩のものだ。時間切れである。
「行かなきゃ、じゃあね硝子。続きは帰ってきてから」
「五条」
ベッドから下りて脱いでいた上着を着て、医務室から出ようとしたところで呼び止められる。しかしそのあとは続かない。
「…いや、なんでもない。気を付けてな」
「誰に言ってんの。お土産期待しててね」
ひらひら手を振って、扉を閉める。長い廊下を歩きながら、大きく伸びをした。
それにしても、おかしな夢だった。
―――いや、もしかしたらこっちが夢なのかもしれない。それで、傑が生きてるあっちが現実。だとすれば、さっさと目が覚めればいいのに、なんて。
「いけないいけない、お仕事お仕事」
きっと駐車場で、スマートフォンとにらめっこしている後輩が待ちくたびれているはずだ。
胡蝶の夢= 夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのか