陽射しの中 袋を探していた。慣らしておこうと試しに履いて、靴紐を解いたままのダンスシューズを指に掛けて。歩くたびに床が軋む音がする。叔母さんが部屋から顔を覗かせた。
「探し物ですか?」
「ああ……コンビニの袋ってわけにもいかない気がしてね」
ダンスシューズを軽く掲げて見せると、それで全てを汲み取ったらしい叔母さんは頷いた。オーディションに合格して、事務所の一員となって、明日は初めてのダンスレッスンだった。何やら愉快そうなやつらとユニットを組む、らしい。アイドルとしての初めの一歩なのだろう。目的は、芸能界の汚れを掃除すること。だとしても、真剣に臨まなければ失礼というものだ。形ばかりを整えても意味はないけれど、形を整える事で生まれるものもある。
「それならちょうどいいものがあるわ。よかったら、そのまま使ってちょうだい」
「いいのかい?」
「ええ。私は使わないので」
叔母さんの部屋の扉が閉まる。部屋からの明かりが細く絞られて、昼の名残がもうすっかり消えている事に気が付いた。夜が来た。眠りに就くための準備を整える穏やかな時間は、昼の喧騒に隠れているものを呼び覚ます時間でもあった。壁に凭れて、叔母さんが部屋から出てくるのを待っていた。掃除屋の一員らしく部屋がよく片付いているのは知っている。仮にそうではない部屋に入れられたとしても、奇妙なほどにあっさりと探し物を見つける人だった。だから、すぐに部屋から出てくるのだろう。
予想通り、叔母さんはすぐに部屋から出てきた。持っている巾着袋は確かに見覚えのないものだ。使う予定がないものを買ってくるのは珍しい、と言いたい所だけれど、叔母さんは不思議とこうして使わない何かを持っていて、けれどそれが必要になる時が突然やってくる。まるで、その瞬間の事が見えていたかのように。
「大きさはどうですか?」
巾着袋を広げてダンスシューズを翳してみる。大きすぎるようにも見えるけれど、底の厚いダンスシューズを入れるのならばちょうどいいのだろう。口を開けてみれば、その巾着袋はするりとダンスシューズを飲み込んだ。紐を引く。まるでこのために作られていたかのように、軽い手応えで口は閉ざされた。
「あら、ちょうどいい」
「そうだな。ありがたく頂戴するぜ」
「ええ、どうぞ」
そう返事をして、叔母さんはじっと俺を見た。首を傾げて見せると、叔母さんは口元に袖を寄せて俺と同じように首を傾げた。
「あなた、暑がりなのに大丈夫なの?」
その問いの意味を考える。ダンスの練習をすれば、それは確かに暑くもなるのだろう。
「体を動かして汗をかくのは掃除だって同じだからな。夏の暑さとは違うさ」
「いえ、そうではなくて。……熱いし、まぶしいでしょう、光の中は」
光の中、と繰り返す。思い出したのは小学生の頃の学芸会だ。言われてみれば確かに、教室で浴びる明かりよりは眩しかったような気がする。けれど、記憶にあるのはその程度だった。その記憶も実体験から来ているものなのか定かではない。舞台の真ん中で光を浴びるような役を選んではこなかった。手元の袋へと、その中に納まるダンスシューズへと視線を落とす。この靴を履いてレッスンを繰り返す。いつか光を浴びるために。
「考えた事はなかったな……そうなのかい?」
「ええ。……言っていなかったかしら。昔はそれなりに名の知れた舞台女優だったので」
顔を上げた。それは初耳だ、と思ったけれど、叔母さんの表情を見て冗談だと気が付いた。気を抜くとすぐにこうして冗談を飛ばしてくるのだから油断ならない。
「……いつかゆっくり写真でも見せてもらうとするかね」
「あら、つれない」
そう言って笑う叔母さんの声を聴いたのは、ほんの数年前の出来事だ。けれど、今となっては遠い記憶のように思える。光の温度なんて考えた事もなかった。眩しさなんて考えた事もなかった。……想像すらできなかった場所に、俺は今立っている。熱い。光の中で踊る体が、歌うために吐き出す息が。握ったマイクのささやかな冷たさだけが、溶け落ちてしまいそうな俺をどうにかこの場所に繋ぎとめていた。今ここで溶けて消えてしまうのも悪くはないけれど、三十年という月日は、仲間と歩いてきた日々は、人生を謳歌したと満足するには短すぎる。
乱暴なほどに眩しい光を浴びて俺はアイドルになる。熱狂の一部になる。なりたいと願う。その願いを指先に籠める。声に籠める。ペンライトの光が揺れている。眩しすぎる明かりの中でも消えない光は、いつだって俺たちの背中を押す。汗が頬を伝っていく。暑くて仕方がない。叔母さんがこの温度まで見透かしていたのかはわからないけれど、心配するのも頷ける。
夜の中で生きてきた、ような気がしていた。光の中で、目に映るものを捉えるのは俺たちの仕事ではない。俺たちは夜空の色に似た汚れを掃除するのが仕事だ。だから、こんな、太陽を集めたような光は俺には似合わない。そう思っていた。今でもそう思っている。けれど、光の中へと背中を押してくれる手があって、一緒に飛び込む仲間がいて、そんな俺たちを照らす声がある。……その中で、確かに浮き立つ心がある。それは揺るぎようのない事実だった。マイクを握り締めた。噛みつくように声を上げた。光が揺れる。歓声が降ってくる。雨のように。
雨は、夜のうちに止んでいるはずだ。ブラインドの隙間から差し込む頼りない光を見ながらそう思い出していた。歌って、踊って、笑った体はまだ少し重かった。天井を見上げる。目を閉じる。それだけで昨日見ていた景色が蘇る。飛び出していく背中が。汗を光らせながら舞台袖に駆け込んでくる笑顔が。揺れる光たちが。俺たちを照らしていた眩しすぎる光が。目を開ける。雨上がりの淡い灰色の空気が部屋を満たしている。二度寝をするのも悪くはないと思ったけれど、多分、俺にしては十分すぎるほどに眠ったのだろう。枕元の目覚まし時計を引き寄せる。予想通り、朝というよりも昼の方が近いぐらいの時間だった。最後にもう一度目を閉じて、昨日の記憶を再生する。どれだけ大事にしようとしても少しずつ薄れていくものだ。だからこそ、今は大事に覚えておきたい。
体を起こして、ベッドの中から抜け出した。着替えを済ませて部屋を出る。階段を下りる音で気が付いたのだろう。声をかけるよりも先に、居間で新聞を読んでいた叔母さんは俺の姿を捉えていた。
「おはようございます」
「おはよう。……と言っていいのか怪しい時間だな」
「そうね、あなたにしては珍しい……でも、そうね、疲れもするでしょうね」
あんな声、初めて聴きました。叔母さんはそう言って笑った。からかうような色も混ざっていたけれど、それだけでもない笑みだった。
「そんなにかい」
「ええ、そんなに。周りの子たちも驚いていたみたい。でも……嬉しそうでしたね」
らしくなかったか、と思ったけれど、その瞬間のおぼろげな記憶の中で考えていた事は覚えていた。今思い返してみても、そこに嘘は見つからなかった。本心だった。その事実があるのだから、らしくなかろうがあの時に気持ちを放ったのは間違ってはいないはずだ。
「叔母さんも、楽しんでくれたかい?」
その問いに答えるよりも先に、叔母さんの視線が俺から外れた。雲が切れたのだろう。窓から差し込む光が少しずつ強くなっていく。埃をくるくると踊らせながら、空気の色を白く塗り替えていく。叔母さんはまた俺を見た。それから目を細めて笑う。
「……そういえば晴れ男でしたね、あなた」
(END)