足跡 その日は空が高かった。
ただのほったて小屋状態の海の家。ちらほらと波打ち際で遊ぶ家族がいるくらいで、砂浜はレジャーシートでいっぱいでもなければビーチパラソルもテントも張られていない、海開き前の寂れた海水浴場。
これがあと一ヶ月もすれば、人がいっぱいの海水浴場になるのだから不思議なものだ。
海が見渡せる駐車場に停められたワーゲンワゴンの助手席から、双眼鏡片手に相方を眺めるのは宮野志保。
あ、今波に乗った。
パドリングから華麗にテイクオフ。フェイスをするすると滑らかに滑り落ちる姿を見て、本当に器用だな、と思った。
相方である降谷が突然サーフィンを始めると言い出したのは、確か二人で立ち飲みの焼き鳥屋でビールジョッキを傾けている時だった。志保は思わず、飲み込みかけたビールが気管に入りそうになりむせたのを今でも鮮明に覚えている。だって、似合い過ぎやしないか。
褐色の肌にミルクティブラウンのその髪がサーフボードを片手に、と想像しただけで笑えてしまったのだ。しかもなぜか未経験だというのが、それもまた不思議なことだった。器用な降谷のことだから、きっとすぐに波に乗れるようになってしまい、早々に飽きるのではないかという心配もあった。
しかしそれは杞憂というもので。降谷は『夏までにはものにする』と宣言し、本当に夏前にものにしてしまった。有言実行とはまさにこのことだった。
志保は降谷に付き合って海に来るようになり三ヶ月ほどになる。降谷は年明けからサーフィンを始めていたらしく、やっと波に乗れるようになったから見てほしいと言われたのが三月の初めだった。寒いから、と双眼鏡とホットココアの入ったタンブラーを渡され、車中から観察していると、本当に降谷は波に乗ったのだ。
それが志保が降谷に付き合った一回目で、それからというもの、降谷は度々志保を誘うようになった。
(ダメだわ。つい見ちゃう)
本来の目的を忘れかけた志保だったが、降谷が崩れいくリップに乗り上げたことを確認し、双眼鏡をダッシュボードに仕舞い込む。そして足元をビーチサンダルに履き替えて日傘を手にし外へと出た。
ブワっと風が吹き、髪が乱れる。海側から流れてくる風は磯の香りが強くした。日傘を開くと風を強く受け、持っていかれそうになるのを堪える。
まだ六月。もう六月。日差しはもうそれなりに強い。
遠目に降谷がフローターを決めたところを確認し、砂浜へと出る。ビニール片や流木、割れた貝殻が散乱する、お世辞にも綺麗とは言えない砂浜をザクザクと歩いていく。
降谷が次の波待ちをしている頃だろう、でももう上がってくる。それを砂浜で待つのが志保の役目だ。
腰をかけれそうな大きな流木を見つけ、座り込む。
そして降谷を探す。
黒いウェットスーツにミルクティブラウンの髪、ピンクのロングボード。それを容易に発見できるようになったのは最近のことで、海に連れてこられた当初はずっと目を凝らして見張っていないとすぐに見逃してしまっていた。
それが今ではどうだろう。どこにいても、パドリングをしていても、波に乗っていても、なんなら浜を歩いていても、容易に見つけることができるのだから、人の慣れとは凄いものだと感心する。
時刻は午前八時。サーファーの朝は早いので、必然的に志保の朝も早くなる。朝の六時には降谷と合流しているのだ。朝の高速道路を年季の入ったワーゲンワゴンで走り抜け、人気もまばらな海までやってくる。場所はまちまちだが、大抵は千葉の外房。たまには茨城の海まで行けばいいのに、と思ったり思わなかったり。人が多いので湘南へは行かないらいし。あちらは場所取りにご近所マウントが付き纏い煩わしいそうだ。
そんな時、志保にかかる影。雲でも出てきたかと顔を上げると、見知らぬ男が二人。身なりからして、降谷と同じくサーファーのようだった。だって、小脇にサーフボードを抱えているし、ラッシュガードは着ているが、ウェットスーツを半身脱いでいる。
「マジで可愛いーじゃん。お姉さんこんなところでなにしてるの?」
その言葉に志保は見上げた顔を前方へと戻し、降谷を探す。一瞬、顰めっ面になったのを見られやしなかったか、別に見られた方が良かったかもしれない、とも思いつつ。
「ちょっと無視しないでよ。彼氏でも待ってんの?」
彼氏、という言葉に考え込んでしまう志保。別に降谷とは付き合っているわけではないが、友人でもないし、同僚でもない。この関係をなんと表現するべきなのか、こんなナンパ野郎の言葉でも、聞かれてしまうと考えてしまう。
「え? 彼氏じゃないの? だったらさ、これから飯食いに行くんだけど一緒に行かない?」
無言の志保にグイグイと押し込んでくるこのナンパサーファーに、志保は無視を決め込みたかったが、気がつけばそのナンパサーファーは隣に座り込んできた。
志保の差す日傘を通り越えてまわり込んで視界に入り込んでくるので、仕方なく立ち上がる志保。
「私は人を待っているの。あなたたちとは行かないわ」
「怒った顔も可愛いね。そんなに怒らないでさ。こんなところで待ちぼうけにさせるやつなんて置いて俺らと行こうよ」
志保が立ち上がったことをいいことに、もう一人の男が志保の腕を取る。反射的に腕を払おうとするが、力が強く抵抗がまるで効いていない。そして抵抗した際に日傘が相手に当たってしまうと、志保を握っていた手の力が緩んだ。
「いってー……何すんだよ」
どうやら傘の先が腕に当たったらしく、男のその瞳には明らかに怒りが宿っていた。
面倒なことになった、と志保は降谷に助けをと海を見やるがまだ沖にいるようだった。その場から走って逃げるか、いや、砂に足を取られることはわかっている。まして志保の足元はビーチサンダルだが、男たちの足元はサーフブーツだ。逃げたとて、捕まってしまうのは明白だった。
どうしたら、と怯える志保をよそに男たちは志保を囲い、無理矢理にでも連れて行こうとする。
その時だった。
「何してんの。女の子怖がってんじゃん」
また新たな登場人物に志保は今日は殆運がないと、全てが面倒になった。ここで暴れても、あとは降谷がなんとかしてくれそうな気にもなっていた。
諦めて状況を整理しようと見渡せば、新たな登場人物はヒゲにサングラス。くたびれた中折れ帽を被り、右手首にぐるりとトライバルの刺繍。
(もしかしてこの人……)
本来の目的を思い出し観察を始める志保をよそに、志保に始めに声をかけてきた二人組は新たな登場人物に対して敵意を向けたが、その男の眼光なのか、一瞬の間の後、縮こまってしまう。
なんなのか、志保には状況が理解できなかったが、男二人はこのまま退散してくれそうな雰囲気であることは間違いなかった。この辺の元締めなのだろうか? いや、もしターゲットならばそれもあり得る。
「大丈夫?」
トライバル刺繍の男が志保に優しく声をかけるので、志保は、大丈夫、とだけ返す。その間に男二人は足早に立ち去っていったので、志保は、一息つく。
この先、もっと暖かくなったら今日以上に絡まれる機会が増えそうな気がし、早くこの仕事を終えたいと思った。そのために、志保は今目の前にいる人物を降谷が海から上がってくるまでの間、引き留めなければならない。
「あの、ありがとうございます」
「いいってことよ。最近、あぁいうやつら増えてるから気をつけてね。彼氏はまだ?」
また、彼氏という言葉に言い淀む志保。彼氏ではないが、彼氏ということにしておけば話がこじれずに済むのはわかっているが、どうも突っかかりを感じていた。
「……あそこの、ピンクのボード」
志保が指差す先には、今まさにテイクオフをした降谷がいた。今日、何度目だろう。何度波に乗っているのだろう。今日は風も強く波の状態がいいわけではない。崩れる波も多かったし、そんな中で、何回乗っているのか……。
「今日の波であれだけ乗れれば凄いなー。長いの?」
「いいえ。今年。年初めに始めたばかりなの」
「ひゃー、半年でこれは凄い。彼氏、プロかなんか目指してるとか?」
また、彼氏という言葉に突っかかりを覚えたが、すぐに意識を戻す。
「違うと思うけど、どうなのかしら。そういう話はしたことがないわ」
そこで、降谷は波に飲まれていった。まだ少し耐えられそうだったが、波が続かなかった。そしてすぐに波もから顔を上げると、手を振ったので志保も手を振り返す。
サーフボードを抱えて海から上がってくる降谷の姿が志保は好きだった。前髪を掻き上げる仕草も、水浸しでやってくる姿も、その黒いウェットスーツも、小脇にロングボードを抱えている姿も。いつからか、その姿を見るのが好きになっていた。
しかしそれは、恋とは違う、好みだがときめきはあるが、恋ではないと、志保は決めつけていた。
「絵になるね〜。夏には女の子が寄ってきそうだなー。彼女さんは大変だね?」
「どうかしら」
ヤキモチとは違う、何かを否定したい志保のツンとした物言いだったが、側から見ればただのヤキモチからの突き放したその物言い。志保からは見えないが、この男はニヤッとしていた。
「男から見ても格好いいと思うよ? 何かスポーツでもやってたんじゃない? そうじゃなかったらこんな短期間であれだけ波に乗れるようにはなれないと思うし、何より、いい体をしてる」
何かスポーツをしていたのか、志保は知らない。志保が知っているのは、組織に潜入していたバーボンとしての姿と、カフェ店員の安室の顔と、公安刑事としての降谷零だけだ。その前のことなど何も知らない。そう、何も知らないのだ。
降谷の戦闘スタイルがボクシングだということも、知らないのだ。
「脱いだらすごそうだけど、どうなの? 彼女さん?」
「知らないわ」
あからさまに揶揄われて、ふいっと横を向いてしまう志保。少しからかいすぎたかと思ったのか、失敬、とその男は言った。
波打ち際まできた降谷が再度志保に手を振るので、志保は降谷へと駆け寄って行く。
そして隣に立つと、小声で囁く。
「ターゲットと思われる人物と接触。右手首にトライバル」
「あぁ、わかった」
そして志保は歩きながら、ことの手末を降谷に伝える。
「やっぱり一人にしておくのは気がかりだな。志保さんも、やる?」
「私は嫌よ。日焼けも嫌だし、髪が痛むのも嫌」
「ダメかー」
わかりきっていたことではあったが、提案が一蹴されると笑うしかない。
なら、どうしようか、と考えてもいい考えなんて一つも浮かびやしなし。連れて来ないのが一番なのかもしれないが、それはそれで寂しいものがある。
そう。別に志保がいなくてもこの任務は遂行しようと思えば遂行できる。しかしそこに志保を巻き込みたいと思ったのは完全に降谷のエゴだった。
ターゲットとの距離が近くなったところで、降谷が声をかける。
「すみません、うちの志保を助けてくださったそうで、ありがとうございます」
言い切った頃にはちょうど良い距離になっていた。志保は改めて頭を下げる。
ターゲットの男は、改まってそんなこといいって、といつの間にか取り出していた扇子で仰いでいた。
「それにしても。よぉ彼氏、格好良かったよ。まだ初めて半年なんだって? 凄いね、本当。惚れちゃうよ」
扇子を持つ右手とは反対の腕を降谷の肩に回し、上機嫌にしている。降谷はその距離で男のトライバルを確認するが、どうも柄が違う気がした。
「いやいや、今日はたまたま調子が良かっただけですよ」
「いやー、今日の波、そんなに良くないよ? それなのに凄いよー。あ、俺、そこの通り沿いでカフェやってるからさ、あとで来てよ。話聞きたいなー」
男は降谷から離れて、濡れてしまった服を確認している。海から上がってきた男の肩に腕を回せば、それは濡れるだろう。
「わかりました。あとで伺わせてもらいます」
「あ、名前なんてーの?」
「安室です。こっちは、志保」
「安室くんに志保ちゃんね。俺は柏田。じゃぁ待ってるよ〜」
そう言って柏田は歩いていった。その後ろ姿を見送る降谷と志保は、顔を見合わせると、同じタイミングでため息をついた。
「違くない?」
「偽名かも?」
「うーん、その可能性は薄いかなー」
「とりあえず、カフェ、行ってみましょ?」
「そうだな」
ターゲットと思われた男だったが、至近距離で確認したトライバルの柄、そして名前から違う可能性が出てきたが、とりあえず、二人は車に戻ることにする。早く海水を洗い流して着替えなければ風邪を引いてしまう。まだ六月なのだから。
「ねぇ、ターゲットじゃなかったらまだサーフィンするの?」
「そうだな、見つかるまでかな」
「ふーん」
じゃぁそれまでは一緒にいられるのだろうか、と志保は淡い期待をする。見つかるまでは、こうして降谷にくっついて海にやってきて、志保の好みの降谷を見ていたられるのか。
でも、見つかってしまったら?
この時間は無くなってしまうの?
見つからなければ、と思ったところで、志保は頭を振る。見つけることが仕事なんだから、と考え直す。
「どうした?」
志保が突然被りを振るので不思議そうにする降谷。
「なんでもないわ。早く行きましょ」
「そうだな」
二人並んで歩いた砂浜に、二人の足跡が残っていた。