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    あげ(タツタアゲ)

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    POIPOI 10

    草稿「花と淫売」第二話 上

    蝶よ花よ登場人物
     僕(通称フィル):語り手。「綺羅星」座の雑用係。十七歳
     ナナ(芸名ジュリエット):花形役者かつ娼婦。僕の母親。三十三歳
     ロレンツォ(ローラン):役者。僕の兄貴分。二十三歳
     ターニャ(タチアナ):衣装係。僕と肉体関係にある。十九歳
     ベアトリス:「綺羅星」座の常連客。ジュリエットのファン。十五歳 

     「ねえ、フィルってさ。役者にならないの?」
     「ならないよ」
     「なんで? 似合いそうじゃん」
     「やだよ。面倒だから」
     「綺羅星(étoile scintillante)」座の住み込み部屋がある別棟は、劇場と一階部分で繋がっている。男は相部屋だったが、女には個室もあった。どちらにせよ、建物の老朽化が進んでおり、みすぼらしかった。衣装係のターニャの部屋も例外ではなかったが、彼女の美的センスがそうさせるのか、不思議と洒落て見えた。彼女なりに少しでもこのあばら家の住み心地をよくしようという努力の賜物である。壁に掛かっている衣装の端切れから作られたワンピースはファッションに知見がない僕にも「よい」ものだとわかる。
     
     「……フィルが役者になったら、私が衣装作ってあげるのにな」
     「ならないって言ってるのに……」
     「……寒いね。もう少し寄っていい?」
     深夜の住み込み部屋には碌に暖房器具もなくて寒かった。冬の寒さを僕たちは肌を寄せ合って紛らわせた。ターニャに煙草の灰がかからないように、僕は体勢を整えた。
     「僕に役者は向いてないよ。人前に出るの嫌いだし」
     「そっか、残念」
     「……ターニャはいいね。やりたいことがあって」
     僕にはこれといった人生設計がない。ただ、刹那的に生きているだけだ。
     「何言ってんの。今からでも見つかるよ、やりたいこと」
     無責任に言ってくれる。でも、僕はターニャのある意味で無遠慮なところが好ましいと思っていた。
     
     僕とターニャは後腐れのない関係である。ターニャは僕が他の女と寝ても干渉してこなかった。僕もターニャが他の男と寝ようが一向に構わない。そういう関係は気楽でいい。僕はまともに人間を好きになったことがないからなのか、他人を自分だけのものにしたいという気持ちがよくわからなかった。他人は他人であって、自分は自分だ。それ以上でもそれ以下でもない。だというのに、世の人間はどうして自分が他人をどうこう出来ると思い込んでいるのだろうか?

     「私、束縛する男って嫌いなのよね」
     情夫たちに対してナナは冷たく言い放った。あの女は男を食い散らかしては、また新たな獲物を探し回るのだった。ナナの後ろには数多の男たちの屍が置き去りにされていた。あの女は彼らが破産しようが自殺未遂しようが全く気にかけなかった。永続的に金を得ることより、一時的な刺激を得ることの方がよっぽど重要だった。だからこそ、父のような男と相性がよかったのかもしれない。最近のナナは下劣な遊びに興じていた。ナナが「客」と情事に耽っている最中に僕が乱入して「姉」との不貞行為を咎めて金を要求するのである。いわゆる美人局だが、目的は金ではなかった。ただ、愉快だから。それだけのことだ。ナナが副産物である金の一部をよこすので、うんざりしつつも僕は遊びに付き合っていた。
     「ねえ、見た? あいつの顔!」
     「……誰に姉がいるんだか」
     「あら、まだ私若いのよ? 嫌味ったらしいんだから。誰に似たのかしら」
     「あんたじゃないの」
     「まあ、可愛くない!」
     可愛かろうが可愛くなかろうが、どうでもいい。どうせ、僕たちはまともな親子にはなれないのだから。

     「綺羅星」座は十八時から二十四時までの六時間営業である。十八時から二十時までの前半の部から始まり、一時間の準備休憩を挟み、二十二時から二十四時までの後半の部にて終わる。前半と後半は同じ演目である。座席は早いもの勝ちで、順番に案内されることはない。あの日、チケット売り場係である老女に僕は仕事を押し付けられた。彼女は何かにつけて、腰の持病を理由に仕事を休んでいた。ロレンツォ曰く、詐病であり至って健康とのことだった。仕事を押し付けようとして難色を示されると、お前は哀れな老人を労わりもしないのかいと泣き落としにかかる厄介な婆であった。僕なんかは雑用係なので、いいカモだ。癪だが、やられっ放しな僕ではない。前半の分だけ交代してやる嫌なら杖と仲良くしていろと僕が言うと、全く嫌な小僧だよ! と老女は捨て台詞を吐いてわざとらしく腰を擦りながら去っていった。 

     「くそ婆が」
     僕がぽつりと悪態を吐くと、杖をつく音がした。もう戻って来たのか? と焦ったが、随分と遅い到着の客だった。チケット売り場は客と顔を合わせずに済む構造になっている。こっちの顔は客によく見えないが、客の顔もこっちによく見えない。
     「大人一枚」
      明らかに、それは少女の声だった。隙間からよくよく覗き込むと、頭にはスカーフ顔にはサングラス手には杖という怪しい風体の少女がいた。
     「聞こえなかったのですか? 大人一枚です!」
     少女は咳払いすると、改まって、大人びた声色を取り繕っていた。僕は無言でチケットを渡した。たまにいるのだ、こういう子供が。僕には彼らを出禁にする義理はない。しかし、わざわざ老人に変装までして来るとは。……よく見ると、杖は盲人用だった。盲目の癖に芝居など"観て"何が楽しいのだろうか? 変なガキ! それが彼女に対する最初の印象だった。お世辞にも上品とは言い難いこの劇場に年端もいかない少女が何を目的に来ているのだろうか? それも目が見えないのに。そもそも、夜中に付き添いもなく盲目の少女が治安もよくない地区をうろつくというのは正気の沙汰ではない。何が少女をそこまで駆り立てるのだろうか? 知りたい、その理由を。僕は仕事を途中でサボって様子を見に行くことにした。なに、どうせ僕には一銭も入ってこないのだし、あのくそ婆が何とかするだろう。

     なるべく音を立てないように上映中の劇場に入ると、例の少女は最後部席に座っていたのですぐに見つけることが可能だった。最後部席には空席もいくつかあったから、僕は少女の傍に腰かけた。女優を間近で拝めない後ろは人気がない。こんな席に座るのはボンクラくらいである。隣の男に舌打ちされたが無視だ。お前のことなど、どうでもいい。少女はにこやかに公演を"聴いて"いた。今宵の演目は「椿姫」であった。使い古されたチンケな書き割りのサロンでは、ギャグや時事ネタを織り交ぜたお粗末な寸劇が繰り広げられていた。何しろ、二時間しかないのだから、全部を歌劇にするには時間が足りなかった。舞台の上にはヒロインであるヴィオレッタ役のナナとガストーネ子爵役のロレンツォもいた。女としての旬は過ぎているにも関わらず、ナナ──ジュリエットはこの劇団綺羅星の頂点に君臨し続けているのだった。スピーカーから「乾杯の歌」の安っぽい演奏が流れると、少女の"目の色"が変わった。特に、ヴィオレッタがソロで歌い始めてからだ。
     
     ……皆さんとご一緒なら楽しい時をともに過ごせるわ
     この世は馬鹿げたことでいっぱいよ、歓楽以外はね
     楽しみましょう、そして儚く終わるのよ
     愛の喜びと言えども
     咲いては散る花のようにね
     さあ、今しかないのだから
     楽しみましょう! 熱く焼け付く言葉に誘われて……

     熱っぽく歌い上げると、ヴィオレッタは意味もなく脱いで薄着になった。もちろん元々の歌劇にそんなシーンはない。客席から拍手喝采が沸き起こり、舞台は大いに盛り上がった。いいぞ! ジュリエット! ヴィオレッタ役がジュリエット──ナナというのはある意味似合ってはいた。むしろ、似合い過ぎていた。ヴィオレッタのように高級娼婦でも真っ直ぐな愛の持ち主でもなかったが。露出度の高い衣装から見え隠れするジュリエットの肌は、スポットライトに照らされて青白く妖艶に光っていた。そして、大きく伸びやかで高らかなジュリエットの歌声は、清らかに透き通っているのに水底のような深みがあるのだった。父がジュリエットを「まるでセイレーンのようだった」と評したのも頷ける。その美声は、魅せられて船が沈没しそうな危うさを孕んでいるのだった。僕もこの女の腕前だけは天下一品だと思ってはいた。もっと上品で立派な劇場で通用するほどの歌唱力を持ちながら、こんな場末のしがない劇場でしか生きていけない人格破綻者だったからこそ、ジュリエットはスターであり続けたのかもしれない。
     
     少女はというと、驚くべきことに、感涙していた。そんなシーンだったか? まだ序盤だぞ? その後も、ヴィオレッタがソロで歌うシーンでのみ、彼女は感極まって涙を零していた。アルフレードは添え物らしい。全く役者泣かせである。しかしながら、盲目の少女にとっては音だけが全てなのだ。劇団綺羅星の猥褻さも陳腐さもどうでもよくて、ただジュリエットの歌声だけが彼女には響いているのだと僕は理解した。──ああ、なるほどね。綺麗なものしか、このお嬢さんは知らないんだ。醜悪なものを、この僕はよく知っているというのに。僕はなんだか白けて、このガキに対する興味を失っていった。

     けれども、人生とは運命的な再会があるものだ。あの「椿姫」の公演から程なくして、僕が女の元から帰る途中に「綺羅星」座の前を通りかかると、ある男が例の少女に絡んでいるのを見かけた。正直なところ驚きはしなかった。むしろ、今まで無事だったのが不思議なくらいだ。
     「放して!」
     はい放します、という訳にはいかないだろう。僕は無視を決め込むことにした。しかも、夜中だというのに雪まで降ってきた。もう面倒に巻き込まれるのはうんざりだ。
     「"たすけて"! "だれか"!」
     ──それは、フランスに来てから久しく聞くことのなかった言語。日本語だった。自然と僕の体は突き動かされ、少女と男の間に割って入っていた。
     「……この人は僕の友人です。手を放してください」
     闖入者の登場に、少女も男も唖然としていた。
     「あんた、日本語わかる? 逃げるよ」
     僕が日本語でこっそり告げると、少女は安堵した表情で頷いた。

     もっとも、男もそれで諦めるタマではなかった。男は本当に少女の友人なのかと僕を問い詰めてきたので、僕はあんまりしつこいと警察を呼ぶと男を脅した。男の方が僕より身長は低いが体格はよい。今のところ、僕の背丈に男は威圧されているだけに過ぎない。僕に筋力はさほどないと男が気付いたら、何をしてくるかわからなかった。もし乱闘になったら勝てるか怪しいところだ。それでも男は食い下がってきたので、僕はお巡りさん(policier)! と思い切り叫んだ。この地区一帯に聞こえたのではないか? 自分でも信じられないくらいの声量が出た。僕の声に釣られた野次馬が集まって来たため、あえなく男は退散した。緊張から解放されて、急に冷静になってきた。なんで、こんなことをしたんだ? 僕は?

     「……あの、ありがとうございます。助かりました」
     おずおずと少女は僕に話しかけた。
     「なんとお礼をしたらいいか……」
     「別に。礼は結構」
     「じゃあ、せめてお名前だけでも。私はベアトリス・ヴァレリーと申します」
     「……フィル(Fil)」
     「えっ? 糸さん(Monsieur Fil)? 変わったお名前なのね」
     何を、律儀に名乗っているんだ。僕は。
     「さっき、日本語をお話してらっしゃいましたよね。日本の方ですか?」
     「……そうだよ」
     「やっぱり! とってもお上手だったもの! 私の母も日本人なのですよ」
     ベアトリスと名乗った少女は、頭のスカーフと顔のサングラスを外した。すると、三つ編みのハーフアップにされた淡い栗色の長髪と緑色の瞳、やや日本の血を感じる童顔が現れた。
     「父はフランス人ですけれど。私にはわかりかねますが、少しだけ日本人みたいでしょう?」
     
     「……僕も」
     「はい?」
     「僕も、父が日本人で母がフランス人なんだ」
     「まあ! 偶然ですね!」
     偶然とも言えるが、偶然ではないとも言えた。日本語が聞こえなかったら、少女を僕は助けていなかっただろう。「綺羅星」座の悪趣味なギラギラした電飾看板に照らされて、雪の結晶が繊細な形を浮かび上がらせた。どうやら本降りになってきたようだ。
     「……よかったら家まで送るけど」
     「いいのでしょうか? でも、そうしていただけると心強いです」
     何を、言い出しているんだ。本当に。

     悪路と混雑によりタクシーも地下鉄も捕まらなかったので、僕たちは少女の家まで歩く羽目になった。わざわざ隣の地区から「綺羅星」座まで通っていたらしい。
     「家に連絡はしなくていいの」
     「駄目なの。あそこに通っているのは秘密なんです」
     「……あんた、いくつ?」
     「十五ですが」
     どうかしてるな、このガキ
     「あのさあ。もう、あそこには行かない方がいいよ」
     「……それは出来ません」
     「あんたみたいなお嬢さんが来る場所じゃないんだよ」
     「私、どうしてもジュリエットの歌が聴きたいの」
     やっぱりね。予想通りとはいえ、頭が痛くなる。
     「……あんたは何もわかっちゃいない」
     「あなたこそ! 私を子供扱いしていますけど、おいくつなの?」
     「……十七」
     「ほら、二つしか離れていないじゃありませんか!」
     「とにかく、もう行くな! 今までは運がよかっただけなんだよ!」
     僕たちは口論みたいになりながら、雪のパリを歩いた。
     「じゃあ、どうしてあなたはあそこにいたのです? 大して歳も変わらないのに!」
     随分と根に持つな。まあ、僕もターニャの姉貴面を鬱陶しいと思っているのだが。
     「それは……僕が劇団のメンバーだから」
     「……本当に?」
     しまった。うっかり言わなければよかったな。
     「じゃあ、ジュリエットとお話ししたこともあるの?」
     それどころか、息子である。ジュリエット──ナナ譲りである僕の容姿を見れば、血縁関係にあるとわかるだろう。だけれど、このガキは目が見えないのであった。
     「……あるけど」
     「すごい! すごいわ!」
     無邪気に喜ぶ少女の顔は、僕に不快感をもたらした。
     
     「ねえ、どんな方なの? ねえったら!」
     「……もう、着いたよ。ここでしょ、あんたの家」
     少女の家はパリでも珍しい一軒家で、なかなかの豪邸だった。身なりからも想像はついていたが、やはり温室育ちなのだな。
     「残念。もっとお話ししたかったのに」
     僕は残念じゃないけどな。少女の案内で裏口まで行くと、心配そうな顔をした女がランタンを片手に立っていた。おそらく女中だろう。
     「お嬢様! 警察を呼ぶところでしたよ!」
     「ごめんなさい。雪が降ってきたから、帰るのに手間取ってしまったの」
     「ところで、そちらの方は?」
     じろじろと女中は僕を見た。彼女からしたら僕は不審者に違いなかった。
     「ああ、帰れなくなっていたところを、この方に助けていただいたのです」
     「……そうでしたか。私からもお礼申し上げます」
     「彼に何かお礼がしたいのだけど。……上がってもらっても構わないわね?」
     何を言い出すんだ。早々に退散するつもりだったのだが。
     「お嬢様に何かあれば私が解雇されてしまうことだけはお忘れなきよう」
     「心配ないわ」
     相変わらず警戒してはいたが、女中は勝手口から僕たちを中に招き入れた。てっきり、門前払いかされると思っていたのに。
     「……もしかして、この人にも事情を言ってない訳?」
     僕は少女にだけ聞こえるくらいの声量で話しかけた。
     「ええ、そうよ。本当のことを言ったら閉じ込められちゃうもの」
     「あんたって、とんだ不良娘だね」
     「そうなの」
     少女は悪戯っぽく笑うと、口元に人差し指を当てた。

     「旦那様と奥様はご就寝されていますので、どうかお静かに願います」
     女中は僕たちを応接間まで案内して、そっと扉を閉めた。女中が去った途端、また少女はひそひそと話し出した。
     「……あなたは役者さんにはならないの?」
     「残念だけど、僕は役者志望じゃない」
     「だって、あなたの声とっても素敵だと思うわ」
     僕の声を好きだと言ってくる女も稀にいた。でも、僕の声を理由に役者になれと言われたのは初めてだった。
     「僕には裏方が性に合ってるんだ」
     「あら、そうですか? 声が凄く通るのに」
     ──そういえば、そうだ。お巡りさん! と叫んだとき、自分にもあんな声が出るのだなと仰天したのだ。女中が戻って来たので、僕たちは口をつぐんだ。女中はホットミルクが入ったマグカップを少女と僕に差し出した。
     「ありがとう、ジゼル」
     「どうも」
     僕たちは熱いマグカップを受け取った。飲むと、喉から腹にかけて、冷えた体に温かな液体が流れていった。どうやら蜂蜜が入っているらしく甘かった。
     「それで、お礼の件なのだけど」
     「礼? これじゃなくて?」
     「これじゃあ、足りないわ。それに、あなたとはもっとお話ししてみたいのよ」
     「僕は御免だね」
     「……お嬢様、殿方を困らせるものではございませんよ」
     このジゼルとかいう女中は僕を早く帰らせたいようだった。僕が彼女の立場でも、こんな得体の知れない男が雇い主の家にいるのは嫌だろう。
     
     「じゃあ、こうしましょう。日曜の十一時、モンマルトルのサクレ・クール寺院でお会いするのはどうかしら。それまでにお礼の内容を考えておいてくださいます?」
     ミサにでも行けっていうのか? 馬鹿馬鹿しい。
     「この方は敬虔な信徒なのよ。パリ中の聖堂を廻ってるの」
      流れるように嘘を吐くな。大体、礼が欲しいなんて一言も言ってないじゃないか。
     「ジゼル、紙に書いて頂戴」
     女中は深いため息を吐くと、紙片に万年筆で文字を書いて、僕に手渡した。ごく簡潔に「日曜の十一時、モンマルトルのサクレ・クール寺院」とだけ書いてあった。僕が帰るとき、少女は見送りに来た。
     「それでは、また」
     「……僕は行かない」
     「私はあなたがきっと来ると信じていますよ」
     勝手口が閉められ、薄く雪で白に染まった街角に僕は一人残された。ここからまた徒歩で帰るのかと思うと、酷く疲れる。あのベアトリスという少女は、蝶よ花よと愛でられて生きてきたのだろう。世界の美しいものしか知らなくて、全て自己中心という傲慢さがあり、すぐ他人に心を許す。僕がもっと極悪非道な人間だったらどうする気だったのだろうか。そもそも、彼女にはそんな発想すらないのかもしれない。それが羨ましくて憎らしかった。そんな風に生きてきた人間が存在していること自体が僕のルサンチマンを刺激するのだった。ベアトリス・ヴァレリー、あんたはおめでたいお嬢さんだよ。僕は、僕の居るべき場所に帰ることにした。
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    あげ(タツタアゲ)

    PROGRESS草稿「花と淫売」第二話 下
    蝶よ花よ 僕の帰りが遅いのは毎度のことなので、心配する者はいなかった。ただターニャだけを除いては。寒空の下、彼女はずっと僕を待っていたようだった。
     「……大丈夫?」
     「何が」
     「聞こえたんだよ、お巡りさんって」
    これはまた噂の種になりそうだ。根掘り葉掘り、嬉々として聞いてくる連中で溢れるだろう。
     「ああ、あれね。ちょっと揉め事になりそうだったから……」
     ターニャは僕に抱き着いて、泣きそうになりながら睨みつけてきた。
     「もう、馬鹿。無茶しないで……本当に」
     「ごめん」
     そう口では言いつつも、僕は自分がいつどうやって死のうが構わないと思っていた。仮に僕が死んだとしたら、本当に悲しむ人間はターニャとロレンツォくらいではないだろうか。自分の死を悲しんでくれる人間がいるだけでも、僕は幸せなんじゃないか? ターニャはもっと一緒に過ごしたいようだったが、僕は休息を優先した。色々ありすぎて、もう気を遣う余裕がなくなっていたのだ。相部屋の皆を起こさないよう、着替えもせずに、ひっそりと寝床に潜り込んだ。疲労感はあるのに眠れなくて、寝返りを打っているうちに、紙片がポケットから出てきた。四つに折られたそれを指で広げると「日曜の十一時、モンマルトルのサクレ・クール寺院」の文字が目に入った。何を、迷っているんだ? 僕は? こんなもの、捨ててしまえばいいじゃないか。……いや、そうだ。あのお嬢さんも世界の醜い部分を知るべきだ。全てが自分の思うままになる訳がないと。赤の他人を簡単に信用するものではないと。あんたが僕を信じていようが、僕はあんたを信じていないんだ。
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