蝶よ花よ 僕の帰りが遅いのは毎度のことなので、心配する者はいなかった。ただターニャだけを除いては。寒空の下、彼女はずっと僕を待っていたようだった。
「……大丈夫?」
「何が」
「聞こえたんだよ、お巡りさんって」
これはまた噂の種になりそうだ。根掘り葉掘り、嬉々として聞いてくる連中で溢れるだろう。
「ああ、あれね。ちょっと揉め事になりそうだったから……」
ターニャは僕に抱き着いて、泣きそうになりながら睨みつけてきた。
「もう、馬鹿。無茶しないで……本当に」
「ごめん」
そう口では言いつつも、僕は自分がいつどうやって死のうが構わないと思っていた。仮に僕が死んだとしたら、本当に悲しむ人間はターニャとロレンツォくらいではないだろうか。自分の死を悲しんでくれる人間がいるだけでも、僕は幸せなんじゃないか? ターニャはもっと一緒に過ごしたいようだったが、僕は休息を優先した。色々ありすぎて、もう気を遣う余裕がなくなっていたのだ。相部屋の皆を起こさないよう、着替えもせずに、ひっそりと寝床に潜り込んだ。疲労感はあるのに眠れなくて、寝返りを打っているうちに、紙片がポケットから出てきた。四つに折られたそれを指で広げると「日曜の十一時、モンマルトルのサクレ・クール寺院」の文字が目に入った。何を、迷っているんだ? 僕は? こんなもの、捨ててしまえばいいじゃないか。……いや、そうだ。あのお嬢さんも世界の醜い部分を知るべきだ。全てが自分の思うままになる訳がないと。赤の他人を簡単に信用するものではないと。あんたが僕を信じていようが、僕はあんたを信じていないんだ。
日曜日の十一時、僕はサクレ・クール寺院の前にいた。中からはミサの典礼聖歌が聞こえてくる。今日はよく晴れていて、モンマルトルの丘からはパリの街並みが一目で見渡せた。
「やっぱり、来てくださいましたね」
「……まあね」
「お礼の件の前に、ちょっとだけお話ししませんか?」
「いいよ」
あんたにとっては、そっちの方が本題だろうが。
「ジュリエットのことなのだけど……」
きっと、あの女の話になるだろうと思っていた。
「彼女の歌を初めて聞いたのは、モンマルトルの丘なの」
だから、待ち合わせ場所がサクレ・クール寺院だったのか。てっきり、真面目な用事を装っているのかと思っていた。いや、このお嬢さんからすると真面目な用事そのものなのだろうが。
「ここに両親と一緒に来たときにね、聞こえてきたのよ」
気まぐれに、外でナナは歌うこともあった。自分の美声を誇示するように。
「とっても素敵な歌だったから、聞き惚れたわ。拍手までしちゃった」
「……へえ、そうなんだ」
「プロの方なんですかって伺ったら、綺羅星劇団の女優さんだって仰ったの」
「よく、あんな小さい劇場見つけられたね」
「そうなの! 簡単な地図と連絡先はいただいたのだけど、父が行っては駄目って言うから、どうにか探したのよ」
このお嬢さんの父親には心底同情する。きっと、彼だって綺羅星劇団がどんな場所か調べたに違いない。歌姫に敬意を払って、いかがわしい場所だと愛娘に教えることを避けたのだろう。
「まあ、私の話は置いておきましょう。ジュリエットって、どんな方なの?」
また、その質問か。よっぽどジュリエットにお熱らしい。
「……よく知らない。あんまり話したことないから」
「でも、お話ししたことあるんでしょ?」
「事務的な話だけね」
「どんな感じだったの?」
「別に。普通だよ」
「普通って?」
ああ、うるさい! 口を開けばジュリエットの話ばかりで、もう、うんざりだ!
──このお嬢さんに本当のことを全て暴露したら、どうなるのだろうか。軽蔑するのか? 幻滅するのか? はたまた絶望するのか? 僕はそれに興味があった。
「……それよりさ。礼の内容、僕なりに決めてきたんだ」
「ごめんなさい。つい私ったら話し過ぎちゃって……。それで、何がいいかしら」
このお嬢さんが絶望するところが見たい。僕の中で正体不明のどす黒い気持ちが湧いて、そうしようと決めていた。戯れに、僕はベアトリスの唇に接吻した。これが「礼」だ。どこの馬の骨とも知れない輩にいとも容易く騙されるから、こういうことになるのだ。これで少しはわかっただろうか? 世の中には、善良な人間ばかりではないってことが。この僕だってそうだ。あんたの身体に興味は微塵もないが精神が壊れるところを見たがっているのだ。あんたは泣くのだろうか? 僕にその顔を見せてくれよ。
さらに僕が舌を捻じ込もうとすると、容赦のない平手打ちが頬に飛んできた。舌を少し噛まれたので口の中は血の味がした。存外、芯のあるお嬢さんだったらしい。悲しみも怒りも見せず、ベアトリスは極めて冷静な表情をしていた。
「……今、あなた。とっても、よくないことをしましたね」
「そうだよ。あんた、ちょっとは人を疑うことを覚えた方がいいよ」
「違うわ。あなたはあなたが傷付くために、こうしたのよ」
「は?」
「私を自傷行為の道具にしないでください。不愉快です」
訳がわからず僕が呆然としていると、いつの間にかベアトリスは居なくなっていた。僕が、傷付くため? ……意味がわからない。よく考えろ、だって? それはこっちの台詞だ。あんなお嬢さんに言われる筋合いは無い。なんで、僕の方がこんな苛々しなきゃならないんだ。……苛々? ああ、そうか、僕は苛立っているのか。あんなガキのくだらない戯言に。阿呆らしい! だというのに、その夜、僕は何人かの女を乱暴に相手したが憂さ晴らしにはならなかった。