蝶よ花よ 僕の帰りが遅いのは毎度のことなので、心配する者はいなかった。ただターニャだけを除いては。寒空の下、彼女はずっと僕を待っていたようだった。
「……大丈夫?」
「何が」
「聞こえたんだよ、お巡りさんって」
これはまた噂の種になりそうだ。根掘り葉掘り、嬉々として聞いてくる連中で溢れるだろう。
「ああ、あれね。ちょっと揉め事になりそうだったから……」
ターニャは僕に抱き着いて、泣きそうになりながら睨みつけてきた。
「もう、馬鹿。無茶しないで……本当に」
「ごめん」
そう口では言いつつも、僕は自分がいつどうやって死のうが構わないと思っていた。仮に僕が死んだとしたら、本当に悲しむ人間はターニャとロレンツォくらいではないだろうか。自分の死を悲しんでくれる人間がいるだけでも、僕は幸せなんじゃないか? ターニャはもっと一緒に過ごしたいようだったが、僕は休息を優先した。色々ありすぎて、もう気を遣う余裕がなくなっていたのだ。相部屋の皆を起こさないよう、着替えもせずに、ひっそりと寝床に潜り込んだ。疲労感はあるのに眠れなくて、寝返りを打っているうちに、紙片がポケットから出てきた。四つに折られたそれを指で広げると「日曜の十一時、モンマルトルのサクレ・クール寺院」の文字が目に入った。何を、迷っているんだ? 僕は? こんなもの、捨ててしまえばいいじゃないか。……いや、そうだ。あのお嬢さんも世界の醜い部分を知るべきだ。全てが自分の思うままになる訳がないと。赤の他人を簡単に信用するものではないと。あんたが僕を信じていようが、僕はあんたを信じていないんだ。
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