ようこそマーメイドカフェテリア(仮)◆採れたて新鮮海藻サラダ
「しゃーせー……ランチどーっすか」
「ごめんね、悪いけど間に合って……、えっ?」
レンガ敷きの街中を軽やかな足取りで散歩していた日和は、突如かけられた声の方へチラリと目を向けて、そして思わず足を止めた。
日和はこの街を治める一族の子息だ、毎日なにかと多忙なのである。つまらない事に時間を使うつもりは無いし、ランチならこの後お気に入りのカフェでとる予定を立てているので、ただの客引きであったなら軽くあしらって通り過ぎるつもりだったのに。そこにいたのは『ただの』客引きではなかった。
庭のある煉瓦造りの小さな一軒家を改築して造られたカフェテリア、それをぐるりと囲むレッドロビンの生垣の途切れた入口に、それはそれは大きな木製のワイン樽がある。人間一人がスッポリと入る程のサイズ感、実際、声の主であろう濃紺の髪色をした青年の何もまとっていない上半身が覗いている。それから……日の光を受けてキラキラと鱗が煌めく魚の尾びれも。
ご丁寧に『人魚います!』などと書かれたボロ看板を掲げ、その人魚の青年は日和のことをジットリと睨みつけていた。
◆
人魚とは、その名の通り上半身が人間で下半身が魚の亜人である。この国では特に珍しい生き物ではなく、人間と同じ言葉で意志の疎通ができることから古来より友好的な関係を結んできた。もし信じられなければ海沿いを散策してみるといい、数歩歩けば自由気ままに生きる人魚が目に入るだろう。砂浜で日光浴を楽しんでいる姿や、港で餌となる魚を貰いに来た猫と格闘している姿も日常茶飯事だ。
とはいえそれは沿岸部での話。この街は海に面していないため、滅多に人魚を見ることは無い。そんな物珍しさから、日和はついつい予定変更してそのカフェの扉をくぐった。
カランカランと小気味良いベルの音、赤い革張りのソファに年季の入ったテーブル、昔は観賞魚でも泳いでいたのであろう空っぽの水槽。レコードプレーヤーから流れる音割れした古いクラシックを聞く客は一人もおらず、カウンターの向こうには背の低い老齢のマスターが震える手でコーヒーミルの手入れをしていた。
日和はカウンター席のハイチェアに腰を下ろしてランチセットのオーダー、それから外にいる客引きの人魚と話をしてみたいという要望をマスターに伝えれば、彼は耳が遠いのか何度か聞き返したのち、台車で樽を店内に運び入れてくれた。
その後少しして、ベーコンのクロワッサンサンドとセットの海藻サラダに、日和の指定したアッサムミルクティーとはかすりもしないブラックコーヒーを二人分用意したマスターは、くたびれたわい、と店の奥に引っ込んでしまった。
随分と愉快なカフェだ。内装は落ち着いていて居心地が良いし、料理の味も悪くない。次は好物の紅茶を飲んでみたいものだと思うくらいには、日和はこのカフェが気に入り始めていた。
ふと気付けば、日和の隣では先程運ばれてきた人魚の青年が水槽代わりの樽から上がってハイチェアに腰かけ、チラチラと横目で日和の様子を伺っている。話に聞く人魚より警戒心の強い様子が逆に微笑ましく見えてきて、日和はクスッと笑みをこぼしながら、青年の前のランチセットを手のひらで指し示す。
「遠慮しないで、ぼくの奢りだね。どうせ暇なんでしょう? 話し相手になってほしいね」
「……ウス。……いただきます」
人魚の青年はぺこりと律儀に頭を下げたあと、静かにマグカップに口をつけた。ちびちびと少量ずつコーヒーを口に含むのは淹れたてでまだ熱いからか、それとも話すことがなく困っているからか。……後者だろうな、と日和は更に口元を緩ませながら、どうも口下手らしい人魚の青年に話しかける。
「自己紹介がまだだったね。ぼくは巴日和。この辺り一帯はぼくの庭だから、困ったことがあれば相談するといいね。聞いてあげるかはわからないけど! きみの名前は?」
「……漣ジュンです」
「ジュンくんね。きみ、人魚なのにどうしてこんな内陸にいるの? お喋りは苦手そうだし人相も悪いのに、わざわざ向いてなさそうな接客のお仕事まで」
「……そこまで言います? まぁ実際、向いてない自覚はありますよ。……実は」
ジュンは言いづらそうに視線をうろつかせながらごにょごにょと事の次第を語る。店内にかかるクラシックにかき消されそうな程の小声に耳をすませてみれば、半ば信じ難いが有り得なくはない言葉が聞こえた気がして、日和はつい「えっ?」と聞き返してしまった。するとジュンは顔を顰めてワナワナと身を震わせながら、ヤケになったように叫んだ。
「だぁから! 漁船の網に引っかかって水揚げされちまったんですよぉ〜っ!」
「……ふっ、ふふ、あっははははは!」
「ぐ……っ、笑い事じゃねぇですよ! そりゃ
あオレも不注意でしたけど! 大量の魚に押し潰されそうになるし、網で全身擦り傷だらけだし、偶然混ざってた毒魚のトゲで怪我までしたんすよ! おまけにその港の付近には人魚を診られる医者がいねぇってんで、遠くまで運ばれてナワバリからは離れちまうし……」
聞いているだけで痛々しい話だ、確かによく見ればジュンの肌には細かな傷やカサブタが残っている。これはまた、ついていないにも程がある。
「ごめんごめん、それは大変だったね。でも治療はもう終わったんだよね。それなのにどうしてまだ陸地にいるの?」
「それが、帰してもらえなかったんっすよぉ〜っ……治療費と運送費を払え、とか言ってきやがって。しかも人魚の通貨じゃ駄目だっていうから、とりあえず陸で働いて返すって約束したんです」
「……うん?」
「あ〜クソッ、思い出したら腹立ってきた……なぁにが人間と人魚の共存社会だ! 陸地なんか、人魚にとっちゃロクなことが無ぇ、とっとと借金返済して、海に帰ってやりますよぉ〜っ!」
何やら話がキナ臭くなってきた。今回のような人間と亜人間の事故では、各々の通貨や価値観が違うことは当然のことであるため、双方になるべく不満のないように様々な取り決めがされている。しかし聞いている限り、ジュンがかなり一方的な条件を飲まされている気がする。
(……この子、騙されているんじゃない?)
残念ながら世間は人魚に友好的な人間ばかりでは無い、そういった輩が絡んでいるとすれば、ジュンの身が危ない。危機感を覚え、日和はもう少し詳しく話を聞き出してみることにした。
「ちなみに、全部でいくらなの?」
「………、」
ボソッと不服げに告げられた金額に日和は耳を疑った。亜人医療は通常より高額とはいえ、擦り傷と毒魚の刺傷、運送費だけでそこまでするとは思えない。怪訝に思ってついジュンの目を見る。本当に? そんな心の声が届いたかのようにジュンはこくりと頷いた。
「オレ、普段は深いとこに住んでて人間と関わることが少ないからよくわかんねぇんですけど……なんか、ホケンショー? が無いからジューワリフタンがどうとか……他にも色々」
「……、………そう」
やはり、騙されている。亜人に人間の制度を適用することはできないし、逆もまた然り。この人魚はそれを知らず、そういう決まりだからと押し切られ受け入れてしまった。
そうなると疑わしくなってくるのはジュンの働いているこの店だ。もしや……と、日和は奥にいるマスターに聞こえないよう声を潜めて尋ねる。
「……さっきのマスターもその一味?」
「えっ、いやいや、違います! マスターは無関係で、むしろマスターのおかげでヤバい目に遭わずに済んだっつうか……」
「おや、そうなの? 」
てっきり何かしらの関わりがあるものと思ったのだが、そういうわけではないらしい。一度は胸を撫で下ろしたが、ヤバい目、などという不穏な言葉が気にかかった。先を促せば、ジュンは苦虫を噛み潰したような表情で続きを語る。
「実は、最初は水族館を紹介されてたんです。見世物にでもされんのかなって思ったんすけど……到着するなりバックヤードの研究室に連れていかれて、目ぇギラギラさせた研究者の人間たちに囲まれて、いきなり鱗を剥がされたり採血されたり……。これ以上ここにいたら何されるかわかんねぇと思って、人間たちに噛み付いて、その隙に窓からすぐ下のプールに飛び込んで逃げました」
「……信じられない」
捕らえた人魚で一儲けしたい悪人に、研究対象としか見ていないマッドサイエンティスト……頭の痛くなる話だ。ジュンが網にかかってしまったことだけは流石に不慮の事故だったと思いたい。
それにしても……ジュンの小さな口から覗く牙についつい視線が吸い寄せられる。人魚と言えば真っ先に尾ひれを思い浮かべがちだが、それに加えて様々な魚の特徴を持つ人魚もいる。アンコウのような発光器、ミノカサゴのような毒の棘……ジュンの牙はサメだろうか。この牙で思い切り噛み付かれたのなら、それは大騒ぎになっただろう。それこそ、陸では上手く動けないであろうジュンを追いかける余裕も無いほどに。
しかし逃げたと言っても水族館の敷地内であることに変わりない。まさかそこから地上を這って逃げ切ったわけではないはずだ。適度に食事に口を付けながら引き続きジュンの話に耳を傾ける。
「プールではちょうどイルカショーをやってて。飼育員にもイルカにもすげぇ驚かれましたよぉ。ただ、お客さんの方は演出だと思ったのか笑顔で歓声をくれましたけど。この状況を利用するしかないと思って、飼育員のマイクを奪って仕事を募集したんです。誰かオレを連れて行ってくださいって」
「きみ、律儀だねぇ……」
そんな目に遭ってもなお借金返済のことを考えるとは。思ったままを口にすれば、必死だったんすよ、とぶっきらぼうに返される。
「オレはあんまり頭が回るほうじゃねぇし。今考えれば、あの惨状を暴露するとか他にもやりようがあったってわかってますけど……いいんです。楽しんでる観客の前で胸糞悪い話せずに済んで良かったって、そう思うことにしてますから」
「ふふ、そう。それで?」
「正直、誰もいるわけねぇって思ってました。引きずり戻されても仕方ねぇって。でも、お孫さんを連れて遊びに来てたマスターが名乗り出てくれたんすよ。店で飼ってた金魚が死んじまったとかで、観賞魚として雇ってくれるって」
なるほど、そうしてこのカフェと繋がってくるわけか。入店時にもちらりと見た空っぽの水槽に目をやり、日和は思わず感嘆の声を漏らした。
なにせショーのまっ最中、公式の募集だと誰もが信じただろう。水族館として満員の観客の前で大っぴらに手荒なマネができるわけもなく、後に引けなくなった。
奥からは、こんな武勇伝が語られているとは露とも知らないマスターのいびきが聞こえてくる。ジュンは日和と顔を見合わせて小さく笑った後、すぐに深刻な表情に戻る。
「そういう経緯なもんで、研究室からは逃げられましたけどオレの居場所は筒抜けですし、間にはやつらが一枚噛んでる。借金はマスターんとこに請求がいくことになっちまって……。それにさっきの金額、高ぇって思ったでしょう。実はあいつら、オレが逃げる時に怪我させちまった人間たちの治療費も上乗せしやがったんです。このままだとこの店、潰れちまうかもしれない。だから借金全部返し終わるまで、オレは慣れない仕事でもなんでも頑張らないといけないんです」
「……そっか」
口の悪さや見た目に反して健気なところは好ましいが……果たして本当に返し終わるだろうか。あくまで日和の予想だが、恐らくその連中、ジュンを解放する気などサラサラないだろう。せっかく手に入れた人魚だ、利息だ何だと言い出したり卑劣な手を使って半永久的に縛り付けようとするに決まっている。そしてこの律儀で善良な人魚
は、確実に良いように搾取されてしまうだろう。
(ぼくの街でこんな非人道的な行為がまかり通っているなんて……許せないね)
日和は苦い思いと苛立ちをコーヒーと共に一気に飲み干す。ジュンも話してばかりでほとんど手をつけていなかったサンドイッチに豪快にかぶりつき、例の鋭い歯でベーコンを噛みちぎっている。人魚も普通に地上の食べ物を食べるのだなぁなどと興味深く眺めながら、紙ナプキンで口元を拭った。
「……ジロジロ見ないでくださいよ、食いづらいっす」
「あぁ、ごめんね。でもきみは観賞魚として雇われたんでしょ? 見られることに文句は言えないはずだね」
「反論できねぇ……あ〜クソ! どうぞお好きなだけご覧になってくださいよぉ〜!」
「あはは、頑張れ頑張れ! できればもっと可愛く笑った方がいいね! 成り行きでもなんでも、観賞魚なら観賞魚らしく見え方に気を遣わなくっちゃ!」
「……人間相手に愛想笑いしろって? いや……わかってますけどねぇ〜……」
「ううん、わかっていないね。きみのすべきことは、なんとしてでもこのカフェを潰されないように盛り立てることでしょう? それなのにそんな仏頂面じゃ、いくら人魚が珍しくたってみんな近寄ってくれないね。このままだとバイトどころか営業妨害、行く末は研究室に逆戻りかな? 二度と海へと……ううん、お日様の下にすら出られなくなるかもね」
「……、」
ジュンは言葉を詰まらせ不安げに俯く。今はまだ人間への不信感が強すぎるのだろう。けれど、そんなことを言っていられる状況ではないことも事実。
言い過ぎたか、などと反省しフォローを入れるほど日和は殊勝な性格をしていない。言うべきことは言うし、自分が正しいという自負もある。
しばらく無言が続いたのち、ゆっくりと上向いたジュンの瞳は、ギラギラと野心に燃えていた。
「……あんたの言う通りです。あの……お客さまにこんなこと頼むのどうかとは思うんですけど、どうやったらこの店がもっと人気になるか意見をくれませんか。オレだけじゃ、陸地のこと何にも知らねぇんで難しくて」
おや、と日和は口元に笑みを浮かべる。言い負かされても食らいついてくるジュンのその姿勢が気に入った。不幸に塗れたこの人魚が自らの手で逆境を切り開いていけるように、手を差し伸べてやるのも悪くない。
「うんうん、気分が乗ったから一緒に考えてあげる。このぼくがアドバイスするんだから、きっと街一番の大人気カフェになっちゃうこと間違いなしだね!」
「……シャス」
ジュンは日和には馴染みのない言葉遣いで礼を言いながら律儀に頭を深く下げた。客商売をするのなら敬語も指導するべきだろう。これは長くなりそうだと思いながら日和はマグカップに手を伸ばすが、先ほど飲み干してしまっていたのを忘れていた。おかわりを頼むにもマスターは相変わらず寝息を立てている。
ジュンは申し訳なさそうにしながらガラスのコップにピッチャーからお冷を注いだ。どうやらキッチン回りは任されてはいないらしい。人魚なので当然か、とそのほんのりレモン風味のついた水で喉を潤し本題へと入る。
「ぼくが思うに……やっぱりまずはきみが看板人魚になることが一番てっとり早いね。人魚がいるカフェ! な〜んて、宣伝効果はバツグンなんだから、きっと興味を持ってくれる人も多いはず」
日和だって今日は元々別の店にいくつもりだったのだ、それくらいこの内陸の街では人魚という生き物には人を惹きつける力がある。
ただ、それだけではまだ弱い。もっと色々な方法で他のカフェとの差別化を図らなければ。
「せっかくなら、人魚や海をモチーフにしたメニューを作るなんてどう? シーフードを使った料理とか」
「……それなら、さっき食ってたランチセットの海藻サラダがちょうど、海っぽいメニューを増やそうってことでできたサラダなんですけど……」
「え……そうだったの? 確かに美味しかったけれど……言われなければ気付かなかったし、セット限定だよね、これ。せめて単品のサイドメニューにするべきだし、もっとインパクトがあってお店の名物になるような物がいいね」
「……ッス」
工夫はしていたようだが、容赦なく一蹴されてしまいジュンは肩を落とした。努力は認めるが、もっと洗練させる必要がありそうだ。
「まぁメニューはマスターたちと相談してごらん。後は……このお庭かな。今は使っていないみたいだけれど噴水や池があるし、ここを掃除して外にテラス席を置くとか? 綺麗なウォーターガーデンを見ながらブランチなんていいと思うね。もちろん、池には観賞魚たるジュンくんが入って笑顔でおもてなしすること!」
「は~……すげぇ……よく思いつきますね」
「ふふん、ぼくだからね。とはいえ、どれも今すぐには無理だし、明日からでもすぐにできることとなると……そうだ、客引きだけするんじゃなくて、お客さまが入ったらきみも今日みたいに中に入って、海のお話でも語ったら?」
「……オレの身の上話を?」
「駄目駄目っ! お茶が美味しくなくなっちゃうね!」
「っ、声デカ……!」
日和の大声に驚いてジュンが身体を震わせる。椅子と尾びれとが擦れ合い、ぴちっと魚の跳ねるような音がした。
「きみ、さっきの話はもう誰にもしない方がいいね。今日はぼくから聞いたけど、本来なら美味しいランチとコーヒーで安らぎを提供する憩いの場に、重たいお話は似つかわしくないからね」
「……っすよねぇ~……。すんません」
「まぁ、同情で気を引くっていうのも有りだけどね。危ない輩と繋がっているなんて噂になってしまったら逆効果でしょ。ぼくが言っているのは、海ではどんな生活をしていたとか、どんな景色があるとか、そういうお話をしたらどう? ってこと。それに、きみも人間について知らないことを聞けるいい機会になるね。そうやって、少しずつでもいろんな人間とお話してごらん」
「……いろんな人間と」
「そう。人間は、きみが恐れるほど悪人ばかりじゃない。せっかくなら海へ帰っちゃう前に、ぼくの大好きな地上の世界とそこで暮らす人間への悲しい印象を、全部とまでは望まないけれど払拭してくれたら嬉しいね」
「……うぃっす」
ジュンはまだ納得いかない様子で頷いた。これも、すぐには無理な話だ。徐々に人間と関わっていく中で感じ取ってもらうしかないのだから。今はただ、願うことしかできない。
さて、あらかた案は出尽くしただろうか。あとはこの人魚の努力次第だ。
「ぼくが言えるのはこんなところかな。どう?」
「……はい。すげぇ参考になりましたよぉ。オレも新しいアイディアが浮かびそうっす」
「本当? 例えば? 聞かせて聞かせて!」
「えっ、た……例えば……歌、とか」
「歌?」
日和がグイっと前のめりになって距離を詰めた分と同じだけ背を反らせながら、ジュンはぽつんと呟いた。唐突に表れた歌というワードにぱちくりと瞬きをしながら日和は視線で続きを促す。
「……ガキの頃からよく歌ってて。お客さまの前でコンサートとかできっかなと思って……」
「なぁんだ、そんな特技があるのならもっと早く言ってほしいね! 試しにちょっと聞かせて!」
「えぇ~……」
日和の無茶ぶりに困り果てながらも、引く様子が無いことを悟るとジュンはため息をつきながら音をつむぎ始めた。いつのまにかレコードの止まっていた無音の店内に歌声が響く。
知らない曲だ、歌詞も何語なのかすらよく聞き取れない。もしかしたら人魚の世界には人魚にだけ通じる言語があって、それを使って作られたものかもしれない。おまけに少し粗削り、それでもその水面を揺らすかのような少しハスキーな歌声はスッと心に入り込んできた。
恥ずかし気に伏せられていたジュンの瞼がふっと持ち上がり、黄金の瞳と視線がぶつかる。見つめられていることに気付いていたたまれなくなったのかすぐにまた逸らされて、照れ隠しのようにカウンターテーブルで爪を弾いてリズムを刻みだす。余計な音で少しでも声をかき消されてしまいたくなくて、日和は手を被せてその指を止めた。ジュンは一瞬ギョッとしたが、しかし歌を止めることは無かった。
やがて静かに歌が止む。日和はテーブルに向き直り頬杖をつくと、うっとりと目を閉じて余韻に浸った。寄せては返すさざ波のように、記憶に残る歌声が繰り返されて耳から離れない。
気まぐれに強請っただけであったのに、こんなものを暴き出してしまったなんて。鼓動が高鳴って、まだ治まりそうにない。
件の研究者たちはなんと愚かだったのだろう。目先の鱗やら血液などに気を取られ、その奥に隠されていた本物の宝物に気付かなかった。そんな連中の元にこの人魚を渡してしまうなど、あまりにも惜しい。
「あの……? どうです?」
どれくらいそうしていただろうか、ずっと放置されていることに痺れを切らしたジュンがおずおずと尋ねてくる。
「……うん、なかなかいい声だったね」
日和らしからず、先ほどの感情を表現する言葉が咄嗟に出てきてくれなかった。けれどそれだけで安堵したらしいジュンは、強張った頬を僅かに緩めて、ざす、とまた砕けた口調で礼を言った。
「海に帰ったら、これで食っていきたいんです」
「そっか」
磨けばきっと叶うだろう。ジュンの歌は……海だけでなく、この陸地でも生き抜くための武器になり得る。
その期待を込めて、会計の際、日和は二人分の料金に幾ばくかの金額を上乗せした。人間の通貨と金勘定については教わっているのか、トレイに乗った紙幣と硬貨を慎重に数えたジュンが目を丸くして日和を見た。
「これ、多いんですけど……」
「うん。お釣りはいらないね。きみの歌へのチップだね。好きに使いなさい」
「え、いらないって……で、でも……」
「いいから。コンサートの話、真面目に考えてみるといいね。それじゃあ、気が向いたらまた来てあげる。ごちそうさま」
「ありがとうございました……」
未だ戸惑うジュンの手に無理やりお金を握らせてしまうと、さっと背を向け飴色の扉を押し開けた。カランカランとドアベルが上機嫌に鳴る。さぁ、次はいつ足を運ぼうか。来たときよりも弾むような足取りで、日和はカフェを後にした。