部屋とワイシャツと「あ、れ……まだ起きてたのか……?」
目をまんまるに見開いて、父さんが僕を見てる。仕事の後だから当たり前に制服の父さんが、リビングのドアに手をかけたまま僕を見ている。
今は1:30を過ぎていて、日付も土曜から日曜に変わっていた。すっかり街も寝静まってしまっている時間で、階下もとっくに静かになっている。
いつもならば家に帰るとすぐにシャワーを浴びてしまうはずの父さんが、こうしてリビングのドアを開けたのは消えているはずの明かりがついていたから。何かあったのかと慌ててしまったのだろう。目だけでなく口までぽかんと空いている。
「お仕事お疲れ様、父さん」
「あ、あぁ……まだ寝てなかったのか……」
「うん、眠れなくてさ。コーヒーでも飲もうかなって。父さんのも淹れるね」
何かトラブルでもと駆け込んできた父さんは拍子抜けしたのか、言われるままにソファに腰を下ろした。シャワーも浴びず、着替えることもなく、まだ仕事の続きの父さんが家にいる。
上手く切り替わらないのだろう父さんは、どこかぎこちない顔でネクタイを緩め始めた。表情は仕事中のように少しよそ行きの硬さが残っている。
「はい、どうぞ」
湯気がゆるりと立ち上るカップをテーブルに置いた。僕の動きを追っていた父さんの視線が、猫みたいに白い湯気を追い始める。
カップに口付け一口飲み込むと、ゆっくりと息を吐いた。ふぅと長く吐き出される吐息に、仕事での強張りを乗せているようにも見える。こくんと喉を上下させた後、目元を緩め細い皺をいくつか作っていることに気付いていない。
「美味いな」
「練習したからね」
これは事実。どうしても未成年でアルコールを使ったものは味見ができず、練習回数が限られていた。父さんに味見してもらうにしても、一日に何杯も作ったりはできなかった。
だからこそソフトドリンクやサイドメニューは人一倍練習した。とりわけコーヒーや紅茶にはこだわった。丁寧に淹れた分、味を変えてくれる。
しかも父さんがアルコールメニューを作っている時に、自分が何かできることが増えたから。最近では食後のコーヒーは僕にとオーダーをもらえることも増えた。
父さんは黙って飲み続けている。初めは苦いなんて言って、砂糖とミルクを足されていたけれど、今では何も入れられることもなく飲んでくれている。
この部屋の中ではただ一人のためだけに淹れているコーヒーは、全ての匂いを掻き消してくれる。悲しいことも悔しいことも全てを上書きして、今日を何もなかったように終わらせていた。
「ねぇ、父さん……」
「ん?」
顔を上げた父さんの唇に口付けた。ふわりとほろ苦い香りが鼻先をくすぐる。その香りは父さんから漂ってきている。
今日の全てを塗りつぶした芳しい香り。父さんの昔を繋ぐ仕事の気配も、父さんが父さんでいるための『夜』の香りも全てを見えなくしてくれた。
「いい香りだね」
「おいっ、危ない……んっ」
もう一度口付けて、あたたまった唇を甘噛みする。柔らかな場所は僕を受け入れるように閉ざされることはなかった。
熱いものを持っているのに零してしまったら、僕が怪我をするかもしれない。しないにしても服を汚してしまう。そんなことを考えて、父さんは僕の体を押し返すことなくカップを握りしめている。
でもそんなものは嘘。すでにカップの中身がほとんど入っていないことも、ぬるくなっていることも知っている。その上で父さんが動かないことも、僕は知っている。
父さんの咥内は、コーヒーの香りしか残っていなかった。騒々しいくらいのアルコールの味も、ねっとりと纏わりつく夜の生き物の残り香すら覆い尽くしどこかへ隠してしまう。
ようやく父さんになった。他の何でもなく、ただの僕の父として今目の前にいる。誰かのためにいるわけではない父さんが、濡れた夜の色を纏う瞳で見上げていた。
「んっ……ん、ふっ……」
不安げに体を硬くする原因を父さんの手から取り上げて、すっかり温度をなくしていたものをテーブルに置いた。もう父さんを拘束するのは何もないのに、縫い付けられたように父さんは立ち上がることもなく座ったままだ。
全てを覆い尽くしてリセットするこの香りは、余計な思いも掻き消してくれる。このまま全てを塗り込めてしまいたいという思いすらも。
黒い渦の中に少しずつ混じるミルクみたいに、僕が混じり溶け込んでいく。柔らかく溶けていく色の奥底で、黒く淀んだ澱が沈んでいる。黒さの影に隠れるように溜まったものは消えることも溶けることもない。
人知れず積み上がるどんよりとした思いを、どうすべきかはわからない。けれど今はそんな悩みすらもコーヒーの香りが覆い隠した。
だからせめて、この時間だけは……。
「父さん……」
返事の代わりの父さんの吐息からは、コーヒーの香りがした。全てを覆い隠すコーヒーの香りが。