そもそも期待はしていなかった。
「今日泊まっていい?」
期待するだけ虚しくなるとわかっていたから。
「……いいけど、今日ルフィいねえからな」
「まじか。じゃあ久々に二人でいけないことしちゃいますか」
にしっと歯を見せてあどけない顔でサボが笑う。
サボの委員会が終わるのを待っての帰り道での会話だった。
サボが言う“いけないこと”が弟抜きで深夜にラーメンを食べるだけの、深夜のラーメン大会(サボ命名)だとわかっていても、心臓はとくんと跳ね上がるし、期待しそうになってしまうのが男というものではないだろうか。
ましてや、サボとは付き合い始めたばかり。恋人となって初めてのお泊まり。そもそも親もいないし、じじいは仕事で滅多に帰ってこない。面倒を見ている血の繋がっていない弟は友人宅にお泊まり。一つ屋根の下で恋人同士が二人きりで夜を過ごすのだ。そんな状況で意識せずにいれる男をおれは今のところサボしか知らない。
「一旦家帰んのか?」
「いや、もうこのまま行くよ。パジャマ貸して」
だから、期待はしない。
恋人となってから二週間と三日。ほぼ毎日会っているというのに、こちらがいくら意識しようと、そういう雰囲気を出そうと、サボの態度は付き合う前と何ら変わらなかった。おかげで未だに手すら繋げていない。
まあ、幼馴染で兄弟のように育ってきたので。距離感がバグっていると周りにもよく言われた。そんな今までが今までだったので、いきなり態度を変えろとかは求めていない。だけど、少しは、とは思う。だいぶ我慢もしているが、がっついていると思われたくないからサボが意識するまでは手を出そうとも思っていない。それに、やっぱり少し寂しく思う。もっと近づきたいとか、触りたいとか、そうやって求めてしまうのは自分だけなのかと。
「そういえばさ、お前のグループの東さんだっけ? ピンクのセーター着てる女子」
「南な」
「あー、そうそう。南さん。また訊かれたよ」
「なにを?」
「エースって彼女いるの? だって」
「あーね」
高校生になって、別々のクラスになり、お互いに別々の友人とつるんでいる。だけど、おれとサボが幼馴染だということは周知の事実で、だからこそよく互いのことは訊かれた。その中で特に多いのが、その質問だった。
「高校生になってモテるようになったよな、エースは」
「そうでもねえよ。それに南が好きなのはおれじゃなくてサボ、お前な。話す口実が欲しかったんだろ」
「あーね」
高校からモテ始めたおれとは違い、サボは中学の頃からよくモテた。イガグリ頭だった金色の髪を伸ばし始めた頃だ。元々の顔の作りは悪くない上、文武両道。裏表がなく誰にも媚びない凛とした姿勢が昔からよく人を惹きつけたが、その勢いはさらに増した。黙っていれば王子様のような見た目なのに、存外大雑把な性格で、おれとつるめばただの悪ガキ。そんなギャップにやられる人が続出した。
「それで?」
「ん?」
「なんて答えたんだ?」
いつも同じ質問をされるたびに、いないと答えてきた。おそらくサボも同じだろう。いないという答えに勝手に安心しておいて、自分だと答えられず歯痒かった。だけど、もう違う。おれの恋人は現在進行形でおれの目の前にいて、サボの恋人だってここにいる。
サボはわかっているだろうか。淡い期待が渦巻いて、どんな顔をしていいのかわからなくなって、視線を逸らしながら問いかけた。すると、サボがくいっと袖を引いてきて、視線を戻される。上目がちに見つめてくるサボの目元はほんのりと赤く染まっていた。
「……なんだその顔」
「変な顔してる?」
「かわ……、いや、大丈夫」
「かわ?」
なんでもないと雑に誤魔化して続きを促せば、珍しく言いづらそうにしながらもサボは小さく口を開いた。
「いるって言っちゃったんだけど……よかった?」
訊きながらサボは小首をかしげる。その拍子に金色の髪がふわりと揺れた。
立ち止まって、そんな仕草に見惚れて答えられずにいたら、目の前でおーいと手のひらを振られてハッとした。
「え、なに。だめだった?」
「駄目じゃない、超いい」
「超いいんだ」
「むしろ言いふらせよ」
「言いふらしはしねえよ」
くつくつと喉で笑って、サボが前を歩きだす。慌てて追いついて隣に並んだ。
一応、恋人としては認めてくれているようだ。当たり前のことなのにたまらなく嬉しくて、胸がぎゅっと何かに掴まれたような心地がする。そんな単純なことで喜べる安い男だと知られたくなくて、すぐににやけそうになる口を引き結んで、心が落ち着くのを待った。
「てか、おれも南にサボに彼女いるか訊かれて答えたし」
「なんて答えた?」
「めちゃくちゃいるって」
「めちゃくちゃってなんだよ。めちゃくちゃはいねえだろ」
吹き出したようにサボが笑ったから、つられて笑った。笑っている顔が可愛くてまた胸が締め付けられた。まだ手が繋げなくても、恋人としての自覚が足りないサボの言動だって、それだけで許してしまえるから不思議だ。
そんな話をしているうちに家に着いた。
家に着いてからはいつも通りに過ごす。
サボが課題をしている間は漫画を読んで、それが終われば二人でゲームをしたり、一つのタブレットを覗き込んで動画を見たり。
わかっていたが、まったく意識してもらえず少し心はやさぐれる。それなのに、一人で馬鹿みたいに意識して、そんなおれの心情なんて露程も知らないサボは、いつも通り距離が近い。肩が触れるたび、サボの匂いを濃く感じるたび、じじいの足の匂いを思い出して平静を保った。
そうしてすっかり日も暮れて、腹が減ったなってタイミングでマキノが夕食を届けに来てくれた。有り難くちょうだいし、サボには先に風呂に入っているように言って、マキノを送ることにした。帰りにコンビニで二人分のアイスを買ってから家に帰ったが、サボはまだ風呂から出ていないようだ。五分あれば出てくるサボにしては珍しい。
気になるので帰ったという報告も兼ねて脱衣所を覗き込めば、風呂にも入らず服も着たまましゃがみ込んで腕に顔を埋めるサボを見つけた。
「何してんだ?」
「反省中」
「なんの?」
「自分の軽率な行動に」
「けーそつ?」
「泊まりたいって。他意はなかったんだ。でも、おれたちは付き合ってるし、エースからすると期待するよな」
なんか、ごめんと小さく呟いて、俯いていた顔をそろりとあげた。
何が気づくきっかけになったかはわからないが、今更気づいてしまったようだ。可哀想に、耳が真っ赤になっている。まさに風呂に入ろうというタイミングで気づいてしまい、一人で戸惑っていたのだろう。そして、気づいてしまったからにはもう普通にできない。これからどうするか考えて、考えているうちに無自覚だったとはいえおれへの配慮が足らなかったことに思い至り、反省した。おそらくそんなところだろうか。
「気づいちゃったか」
「何で言ってくれねえの」
「一人でがっついてるみたいでだせえじゃん。それにサボにそんな期待してねえよ」
目の前にしゃがんで鼻先を指で摘めば、それはそれで気に食わなかったみたいで。少しはしろよと肩を押され、尻餅をついた。そのままあぐらをかいて後ろ首に手を当てる。
「期待はしなかったけど、正直めちゃくちゃ意識はした」
「だからそっけなかった?」
「まあ……。でも、今日はそもそも何もするつもりはなかったし、気にすんなよ」
「しなくていいのか?」
「いいよ。でも、次は覚悟できてから泊まりに来てほしい、です」
「ちなみにどっちの……?」
「できたら抱かれる方で」
「即答。必死かよ」
間髪入れずに答えると、サボはふはっと笑った。
立ち上がって、もう一度抱かせてくれるのか念を押しながら、サボの両手を取って引っ張るように立ち上がらせる。されるがまま立ち上がったサボは、すっかり機嫌が戻ったようで「可愛くお願いしてみろよ」と意地の悪い笑みを浮かべた。
可愛いなんてサボみたいな奴に使う言葉であって、おれのような男に使うものではない。その時点でサボの望む“可愛くお願い”はできそうにないので、ここは正攻法で。何もしないつもりだとは言ったが、あくまでも“つもり”なので。
まだ握ったままだった両手をぐいっと引っ張って、サボの身体ごと引き寄せる。よろけるように一歩踏み出したサボが驚いた声を上げたと同時に、短く触れるだけのキスをした。そして、言葉を失い、目を丸くしているサボとしっかりと目を合わせて、
「抱きたい」と、そっと囁くようにして言った。
丸まっていた目がすぐさま尖って、頬がじわじわと赤みを帯びていく。
全然可愛くないし、今日は何もしないんじゃなかったのかよ、なんて言いたげな口が“いいよ”と言うまでお願いを繰り返した。