聖者の行進目の前の地面から砂埃が舞い上がって、日の光を反射する。
よろけながら立ち上がった圭介さんが、自分の腹にナイフを突き立てて崩れ落ちる。
たくさん人が居る筈なのに何も聞こえなくて、叫び声みたいに場地さんって名前を呼んだ自分の声だけやけにでかく響いた。抱き起こした圭介さんの唇が笑って、何か言ってるのに聞こえない。
どうにかしたくて奥歯を噛み締めたとき、こめかみにゴツンと金属が押し当てられる。目の前の取り乱した相棒を怒鳴り付けた。
あの時の圭介さんみたいに俺の唇が笑って、そのまま視界がブラックアウトする。
「ちぃ、起きろ」
何も聞こえない世界から急に引き上げられて、喉がヒュッと音を立てた。
こちらを心配そうに覗く圭介さんの向こうには夏の空と入道雲。
「…大丈夫か?また、夢か…?」
「あ、俺…寝ちゃってました?」
「汗、すげぇ」
首に掛けたタオルで俺の額を拭ってくれる圭介さんはいつも通り、生きてる。
ドクドクと心臓が脈打って、くちから詰めていた息を吐き出した。
「畑、また明日にするか?」
「いや、大丈夫っす!やっちゃいましょ!」
まだ何か言いたげな圭介さんを振り切って畑へ向かう。夏場の野菜たちはあっという間に大きく育って、膝の高さになった茄子とトマトの苗の間にしゃがみこみ溜め息を漏らした。
まだ中坊だった頃、圭介さんは自分で腹を刺して心肺停止の状態で救急車に乗せられた事がある。昏睡状態が続くなか俺は祈る気持ちで病院に通い詰めた。
その待合室で相棒からタイムリープの全てを聞いて、冷や汗を流した。もし、このやり直しの未来が失敗だったら…。
結果的には奇跡的に持ち直してくれて、初めて神様に感謝した。相棒が何度も過去をやり直しボロボロになりながら掴んでくれた世界だと知って、相棒にももちろん感謝したけれど。
それからは圭介さんとの関係にゆっくりと変化が起きて俺たちは人生のパートナーになった。一緒に居る時間は楽しくて、幸せで、安心できる。
26歳の誕生日を迎えた夜に、知らない世界の夢を見始めるまでは。相棒曰く、タイムリーパーでもなければトリガーでもない俺に、圭介さんが死んでしまった世界の記憶があるはずないらしいけど…、俺の脳には時折、突然それが断片的に流れ込んでくる。
腕のなかで冷たくなった圭介さんを俺は知ってる。
いま居る世界では、誰も死んでない。
みんな穏やかに平凡な生活してる。
頭では理解してるけど、東京の生活が途端に苦痛になった。コンビニなんかでばったり会う昔からの仲間、実家のある団地、ときどき通りかかる母校、雑居ビルの建ち並ぶ路地、廃車置き場。
目に映る全てが恐怖の対象。このままじゃきっと、圭介さんの事も怖くなってしまう。
それによってどうにかなってしまいそうな自分がいちばん怖くて、もう、ここで生きるのは無理だと思った。
「圭介さん、俺と別れてください」
「…は?」
「理由は言えません、…けど、もう無理なんです、一緒に居たくないんすよ」
自分の気持ちと真逆の答えを出した俺は、全身を襲う吐き気と寒さを堪えながら言葉を絞り出す。
握り締めた指先が白くなって、それに圭介さんの手が重なる。いつも冷えてる手が暖かくて驚いたけど、それだけ俺の手が冷たくなっていたみたいだった。
「どっか、誰も知らねぇとこ行くか」
「…?」
本当のことなんて言えなくて、理由も説明できない。そんな俺を問い詰めたりもせず、くしゃくしゃと頭を撫でられた。狡い俺はそれに甘えて、東京から逃げ出した。圭介さんだけが、俺の全てだったから。
「圭介さーん、この豆、何の豆なんすかね」
「知らねぇよ、そのあたりお前の担当だろーが。テキトーに撒くからわかんなくなってんじゃん」
「なんか貰った種だと思うんすよね」
「あとでタバコ屋のおっちゃんに聞いとけよ」
「シシシ…何の豆でも炒め物かなんかにぶちこんだらどれも変わんねぇっすよ」
額から流れ落ちてくる汗を軍手のまま拭いながら圭介さんのお小言に返事をすると、手の甲で頬を擦られた。
「軍手の泥、顔に付いてる」
そのまま圭介さんの顔が近づいてきて、柔らかく触れた唇がちょっと塩辛い。
「…またおばちゃん達に隠し撮りされますよ」
「上等上等、…っし!栄養補給したし、もう少し頑張るかぁ」
ナニで栄養補給してんすかって、青空の下で大きく伸びをした圭介さんの背中を眺めながら、尻のポケットで震えた携帯電話に手を添える。
メールの差出人はかつて相棒だった男。
「ちーふゆぅ、サボってんじゃねぇよ」
「ちゃんと働いてますって!」
メールの内容は確認しないままポケットにねじ込んで、正体がハッキリしている枝豆と、正体不明の豆をちぎって籠に放り込んだ。
◆
「あー!やっぱハウスの中やばかったな」
「扇風機、サイコーっすね」
2人並んで扇風機の前に座って、昼間からビールを煽る贅沢、たまんねぇ。
朝、家を出る前に冷蔵庫に入れておいたビールはキンキンに冷えて、苦みと共に喉から腹へ冷たさを運ぶ。
自分たちで育てた枝豆は格別の味。
扇風機の首を回せばいいのだけど、1ヶ所に留めてお互い肩を寄せあって座るのが好き。
ゴクゴクと音を立てて旨そうにビールを飲む圭介さんの喉仏が視界に入って、つい、手を伸ばした。
「んぶっ、っおま、喉、押さえんなよっ」
「…だって、触りたかった」
「なに、やっぱり夜だけじゃ甘え足りんかったん?」
ニヤリとからかう口調で言うから、喉仏に当てていた手をくっきり浮き出た鎖骨の方に這わせていく。
「足りるわけねぇっすよ…」
携帯の通知ランプは未読メールを知らせたまま、チカチカと点滅し続けている。
見て見ぬふりをして、ゆっくり近づいてくる圭介さんと唇同士をくっつけた。
ずっとここに居ればこうやって安心できるのに。
けどこれは、圭介さんを縛ってんだよな。
本来なら沢山の仲間に囲まれてんのが圭介さんらしいんだ。なんであの夢ばっかり見るんだろ。
なんか俺、悪いことしたのかな。
「…千冬、また考え事してんの?俺とこうしてるときは何も考えんなって教えただろ」
「…すんません」
軽く啄み合って、舌先だけ触れあわせながら、圭介さんの緩く纏めた髪をほどいた。
さっきシャワーを浴びたばかりの髪はまだ湿り気を帯びて、とろりと流れるように俺の頬を撫でる。
もう一度、今度は深くくちを合わせようと顔を寄せた時。
「圭にいちゃーーーーん!!!」
玄関から聞こえた突然の呼び掛けに、お互い同じタイミングで飛び上がった。この馬鹿みたいにでかい声の持ち主は3世帯同居しているワタナベさん家の孫の健太(小学3年生)だ。
圭介さんが立ち上がる気配がしたから、脱がそうと掴んでいたTシャツをぐっと引くけど、ポンポンとあたまを撫でられしぶしぶ手を離した。
居留守しちゃえばいいのに、圭介さんはこういう時でもそうしてくれないんだよなぁ。
そういうところはいつでも変わってなくて、変わらない事に安心するけど。
「よぉ、健太、どうした?」
「朝、道の駅に行ってきたけん、かーちゃんがオスソワケって!道の駅で行列できとるメロンパンとクロワッサン!」
「まじか!ぜったい美味いやつじゃん」
襖の向こうで繰り広げられる健全なお昼時の会話に、怨めしげな視線を流す。
「あれ?千冬は?」
「あー…千冬は、ハライタで寝てる」
「またアイス食い過ぎたんやろ~?千冬、いつも腹こわしてんじゃん」
生意気な。手を伸ばし少しだけ襖を開けて言い返す。
「健太、俺のことも兄ちゃんって呼べや!」
「千冬は千冬やん?」
「テメェ…、覚えてろよ!ぜったいクラす!」
「そーいうのは俺より早く登り棒、登れるようになってから言ってくださ~い」
「まじで覚えてろ!!」
スパンっと襖を閉めれば圭介さんの爆笑する声が聞こえて、笑ってねぇで早く来てって鼻息荒く押し入れを開けて敷布団を引きずり出した。
◆
健太が去って、キッチンに圭介さんが移動する足音を聞きながら、早く早くともどかしくて堪らなくなってくる。
どこからから聞こえてくる雑音混じりのラジオはゆったりしたジャズで「聖者の行進」を演奏している。誰かが庭仕事しながら流してるんだ。
ラジオのパーソナリティが、この曲は昔、外国の葬式に使われた曲なのだと説明してる。
葬儀場から墓場までは静かに、その帰りは明るく楽しく歌うんだって。魂が解放されて、天国に行くことを祝うんだ。
俺もこの苦しさを、葬ってやりたい。焦燥感が募って、身体をぐっと丸めた。
まだ真っ昼間なのに。みんな外では庭の手入れとかしてんのに。俺は布団に転がって圭介さんにめちゃくちゃにされたいって身体を投げ出してる。