小さな猫と、大きな愛を携えて。師走の街は吹き荒ぶ木枯らしが肌を刺して、場地は着物の襟を合わせ直し、自らの両腕を抱え込むように背を丸めた。
仕事仲間の一虎の、ちょっと一杯引っ掛けて帰ろうという誘いになんとなく頷いてしまったあの時の自分を呪いたい。
「あのなぁ…俺そーいうの興味ねぇんだよ。」
「いーだろ、ちょっとだけ付き合えって。俺のお勧めの遊女、紹介してやっからさぁ。」
「興味ねぇって…。」
「最近、俺の馴染みの店が面白いことやってんだよ。」
強引な一虎の誘いに負けて、半ば引きずられるように足を踏み入れる。
寒空のもと悠々とそびえ立つ大門を潜れば、塀に囲まれた空間は、この世とは別の世界へ迷い込んだような目も眩むきらびやかな橙の光に溢れていた。
男も女も浮かれた笑いを浮かべ、店先の格子の向こうでは華やかな化粧を施し派手な着物で着飾った女たちがゆるりと此方に視線を送る。
この街の独特な空気に顔をしかめる。
甘い香の匂い、女たちの白粉の匂い、色めき立つ人々の纏わりつくような熱気。
一虎はご機嫌に耳飾りの鈴をリンと鳴らして、一件の茶屋へと足を踏み入れる。
「一虎、お前こんな高級な店に通ってんの。」
「そうでもねぇよ。中の上くらいだ。金に代えられねぇ価値があるんだよ。場地にはまだわかんねぇか~。」
中の上ならそうでもなくない高級店ではないかと、
ニヤニヤと口元に笑いを浮かべる一虎を一瞥する。
付き合ってやる代わりにここは全額お前が払えよと言えば、任せとけと胸を張る。
遊びへの投資を惜しまない親友へ、そっと溜め息をこぼした。
一虎の言う通り、場地は心底、早く帰りたかった。
着飾った女にも酒にも、興味が無い。こんなところに長居するくらいなら、自分の屋敷で通い猫のクロスケと戯れたかった。
クロスケは身体が大きな長毛の猫で、つり上がった目尻がどこか自分に似ていて愛着が沸き、よく可愛がっている野良猫だ。
今日は朝から餌を置いてきていたから、普段から夕飯を場地の屋敷で済ませているクロスケは今ごろ軒下で茶碗に鼻先を突っ込んでいるだろう。
その光景を思い浮かべてぼんやりする。
場地より一歩前に立つ一虎は、愛想の良さそうな店主から、お待ちしておりました羽宮さまと声をかけられ、何やらお気に入りの女を指名しているようだった。
ずいぶんと自然な態度に、こいつほんとに通い慣れてんなと思う。
本人の言葉通り、どうやらいわゆる売春宿のような雰囲気ではない。まぁ、気に入った女がいればそういうことも出来るのであろうが。
自分達の仕事は、有り体に言えば高利貸しの借金取りだ。それはつまり、この街にいる女たちをこの場に送り込む手助けをしたかも知れないと言うこと。
借りたものは約束を守って返すのが当然なのだから、借りた奴に容赦はしない。自己責任だからだ。
けれど、その裏で身売りされる女たちに落ち度は無い。昨日、回収した金がこの中の誰かを売った金かもしれない。
笑って酒を酌み交わす相手に選ぶには、相当な後ろめたさを感じる。
自分が裕福な生活をできているその裏には、少なからず女たちが売られた金も含まれている。
そう思うと場地はより一層、この空間に興味を持てなくなってしまう。
しかし、女たちはここで年季が明けるまで働き暮らしていくのだから、一虎のように大金を払って指名してやることは、それまでの期間を少しでも良い待遇に持っていく手段としては、一周回れば優しさかもしれないなとも思うと、責める気にもなれなかった。
一虎が贔屓の女に酌をして貰っている向かいで、場地はお勧めの女とやらに酌をしてもらう。
女はあれやこれやと男が喜びそうなおべっかを放つ。女の言葉のそのどれもこれもが耳を素通りしていく。馴れ馴れしく身体の線を辿る指が不愉快だ。
頭のなかはクロスケの事と早く帰りてぇな、の2つがぐるぐる回っていた。
「便所行ってくるワ。」
おおよそこの場に相応しくない雑な一言を放って、場地は廊下に逃げ込んだ。
踏みしめる度に板張りの床が軋む音を聞きながら、無駄に長い道筋を辿り便所を済ませる。ふと顔を上げた窓の格子の向こうに、ふわふわとした生き物を認める。
猫だ。
薄い金茶色の毛並みに顔の中心と耳だけ黒い、珍しい猫。あまり見たことの無い容姿なので外国から来たものだろう。
どうせ部屋に戻ったとしてまたあのおべっか攻撃を受け続けなければならないのだから、この時間を有意義に過ごすのであれば、猫がいい。
渡り廊下から使用人が置きっぱなしにしてしまったのであろう草履を引っ掛け庭に降り、猫が見えた辺りまで進む。
チリンと鈴の音がしてそちらを向けば、先程の猫が可愛くお座りをしていた。
揃えた足と尻尾の先も顔と同じく黒色で、ほっそりした姿が上品で愛らしかった。
近づいても逃げることなく、大人しく場地の手を受け入れる。くるくると顎の下を撫でてやれば、気持ち良さそうに喉を鳴らした。首に鈴を付けているから、ここの飼い猫かもしれない。
夢中で撫で回し、お前うちの子にならねぇかと猫を口説いていたところで、前方の垣根から、か細い声が響いた。
「ちぃ…どこ行った…?」
そちらに顔を向けて、場地は眼を見開いた。
深紅の襦袢に透けるような白い肌の脚が視界に飛び込んだ。
目線を上げると、月明かりに煌々と光る金糸のような頭髪に、透き通った青い眼をした子どもが立っていた。猫のような大きな瞳に釘付けになる。
この冷たい空気の中、襦袢だけの寒々しい格好のやせっぽちの子どもが申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「あ、あの、その猫を…。」
禿かと思ったその子どもの声は意外にも低く響き、それが少年であることを表す。幼く見えるが、14、5歳くらいなのだろう。
猫は場地の手からするりと抜け出し、少年の脚へすり寄り抱き上げられた。
「…それ、お前の猫か。」
「…。」
場地の問い掛けには答えもせず、少年は襦袢を翻して垣根の向こうに消える。
後を追って覗き込めば、小さな店の入口が見えた。
目立たぬ小さな提灯の薄暗い明かりだけが灯っている。
ここはまだ茶屋の敷地内であるのに、なぜ別の建物があるのか、遊郭の事に詳しくはない場地にはわからない。部屋に戻って一虎に訪ねようとその場を後にした。