だって、何も知らなかったから 電車を乗り継いで数時間。連れ出された先は夏の代名詞でもある海だった。
珍しく森くんの方から誘われたものだから、まだ僕に飽きてないんだと安心する反面、いつまで続けるのだろうかと憂鬱になりながらも浮き立つ心を隠せずにいた。
羞恥を押し込めてシャワーを浴びて後ろの準備をして、髪をセットして気に入りの服を素早く吟味して。そうして訪れた森くんのアパートの前。繰り返してきた行為をなぞるように深呼吸しようとして、腕を掴まれた。
びっくりして顔を上げれば、むっつりと黙り込んだ森くんが「海、行くぞ」とだけ僕に告げる。呆気にとられるままに流されてここにいる。
海に行くなんて思ってもいなかったから水着なんて持ってきてない。持っているのはビニール袋に入れられたローションとゴムだけだ。
場違いにも程がある有様で、夕暮れ時の海辺をゆっくりと歩く。
チラリと隣で歩く森くんの顔を伺ってみても何も読み取れなくて、どうしてとそればかりが浮かんでくる。
どうして急に海になんて。普通の恋人のような真似なんてするのだろう。
ぐずぐずと往生際悪く残り続ける心が期待に揺れそうになるのをグッと押し込めた。
きっと気まぐれに違いない。なんとなく。セフレに対するサービスみたいな?そんな軽い感覚なのだろう。
一気に心が冷めて微かに身体を震わせた。
「……ん」
「えっ、わっ」
「着てろ」
「あ……うん」
バサリと被せられたのは森くんの上着で。ほんのりと体温が溶け込んでいた。サラリと寄越される気遣いが愛おしい。僕には大きい上着を羽織ればほんの少しだけ暖かくなる。
横目で確認した森くんは無言で歩き出すので、慌てて置いていかれないようにと足を踏み出す。そうして気づく。慌てなくても追いつける速さで、歩幅を合わされていることに。
気恥ずかしくなって、どうにかなりそうになって、やめてくれと叫び出したくなった。
所詮はセフレでしかないのだと、自惚れるなと自戒する。そうでもしなければ、口に出してしまいそうになる。甘えてしまいそうになる。
波打ち際を隣り合って歩いているのに、何処か遠く離れている。
きっと。きっと森くんは僕が何を思っているのかなんて微塵も興味がない。
その手を絡ませたいだとか、言葉を交わしたいだとか。そんな些細で甘やかなことを願っているだなんて思いもしないだろう。
だから、僕にできるのは森くんの気まぐれだろうこの時を思い出にすることだけだ。
「嫌だったか」
「………?」
「海。行きてえって言ってただろ。時間が合わねぇから連れてくるだけでも…って思ったんだが。嫌だったか」
「へ………?」
ぼんやりしている僕に投げられた問いかけは予想外のことで。パチリと瞬く。
海に行きたいと言ったことがあっただろうかと記憶を反芻して、前に抱かれたときを思い出した。
ほんの戯れ。ピロートークにも満たない帰り際の会話。確かに僕は言葉にしたのだ。夏といえば海だろう。時間があれば行きたいね。だなんてことを確かに僕は言った。でもそれは雑談のようなものだ。そのはずだ。
「僕が、行きたいって言ったから?」
「あんまり、外に行けなかったからな」
「僕が言ったこと、覚えて……?」
「当たり前だろうが」
何か可笑しい?と言いたげに目を細める森くんの顔を見れなくて俯く。真っ赤に染まっているだろう顔を見られたくなくて、足を早めた。
後ろから咎める声が聞こえてきたけど、崩れ落ちそうな身体を必死で動かした。
「おいっ!」
後ろ手を引かれてガクンと力が抜ける。ぽすんと音を立てて抱き止められ、しっかりと腕が回される。ドクンと心臓が跳ねた。
「あっぶねぇなぁ」
ようやく目前に岩壁があることに気がついた僕は慌てて森くんから離れる。離れる間際、森くんの顔が寂しそうに見えたのは気のせいだ。
「まあ、いいか。気をつけろよ」
ぐっと腰を抱き寄せられて先導される。岩壁の向こう側。足元に気をつけて前へと進むけれど、腰に添えられた手が気になって平常心を保つのに必死になる。
「わぁ……」
岩壁の向こう側で見えた景色は美しく、思わず感嘆の息を溢す。
海に沈む夕日が綺麗に見え、まさに絶景だった。
不意に手を取られて指先が絡まる。じんわりと伝わる体温を呆然と感じ、次いで一気に体温が上昇する。
思わず顔を上げ、ヒュッと息を呑む。
森くんの顔は優しさと切なさを閉じ込められていて、それでいて愛しさが溢れていた。
スッと自然な動作で顔が寄せられる。唇が触れ合う寸前、反射的に顔を背けた。頬に濡れた感触が当たり、じわじわと足先から這い上がる痺れに侵される。
キスはダメだ。その一線を超えて仕舞えば、僕はセフレでいられなくなる。だから、キスだけはダメだ。
目を閉じて三秒。心を落ち着かせる。ゆるりと瞼を開けてうっそりと微笑んだ。
「……随分とロマンティックな真似をする」
「気に入らねぇか?」
「いや?でも、そうだな……。僕は生憎と此方の方が好みかな」
するりと太い首筋に腕を回す。わかるだろ?と足を絡ませて手慣れた娼婦のように蠱惑する。内心は不安で一杯だけど、必死で虚勢を張る。ガサ、と音を立てたビニール袋が嘲笑っているような気がして胸が締め付けられる。
森くんはジッと僕の目を見つめて、微かに笑う。獰猛な欲の獣が静かに起きる気配がした。
「なら、そうするか」
押し倒される衝撃を覚悟して固まった身体は簡単に抱きすくめられ、そのまま座り込んだ森くんの膝の上に支えられる。虚を突かれた僕に薄く笑いながら「怪我したらどうすんだよ」と森くんが告げる。どうにも身の置き場がなくなって、早くしてと急かすように森くんの身体を弄った。
首筋に顔を埋められ、ズクリと下半身が重たくなる狭間。横目で見えた美しい海の景色が色褪せて見えて、目を閉じた。