キミとボクと しくじった。
草の匂いを必死で胸いっぱいに吸い込みながら、朦朧とした頭で思う。
キノコがよく生えているミュルエルの森。その最深部にはフォステイル広場という花畑があるらしい。
らしい、というのは道半ばで魔物にやられて瀕死だからだ。悪魔さえも寄せ付けないという、英雄フォステイルの石像まで行けていれば、こんな風にはなっていなかっただろう。
何もしないまま、というのは性にあわない。必死に地面に爪を立て、なんとかはいずろうともがけども、そんな力ははなから残っていなかった。
重たい腕を持ち上げることも叶わず、しかし気配に気付いたらしいメランザーナが此方へと跳ねてきた。
(ボク、ここで死ぬのかな……)
ぼんやりと最後に花畑が見たかったなと思い、そのまま意識は闇に落ちた。
* * *
柔らかくて温かなものに包まれる感覚に、ふわふわとした意識が浮上する。
まるで両親に抱き締められているような居心地の良さに、思わず笑みが零れた。
その笑みの声を自分で拾い、声が聞こえたことを疑問に思う。自分はミュルエルの森で死んだのではないのだろうか?
疑問に思い、自分の身体を認識しようとすれば、意識は急速に浮上した。
パチッと音が鳴るほどに勢い良く目を開けて飛び起きれば、天蓋付きの可愛らしいベットが目に入った。
痛む身体を押してきょろきょろと辺りを見渡すと、そこは薄暗い部屋のようで、窓から射し込む微かな光だけが今が昼間だと教えてくれていた。
部屋のど真ん中に位置するベットに寝かされていたらしい。周りには大きなぬいぐるみや、可愛らしい家具類が置かれていて、この部屋の主の好みが察せられた。
しかし、ここは何処だろうか?
疑問に思い、小首を傾げていると誰かの足音が近付いてきた。きっと助けてくれた人なのだろう。
控えめなノックの音と共に入ってきたのは、執事服を着た青い髪のエルフの男性だった。
「良かった、目が覚めたんだね」
起き上がっているボクに目を見開いた後、ニッコリと花が綻ぶように微笑まれる。男性は腕にタオルをかけ、湯気を立てるタライを持っていた。どうやら清拭しに来てくれたらしい。
「助けてくれてありがとうございました。あの、ここは……?」
丁寧にお礼を言って現在地を訊ねる。ここはミュルエルの森の近くなのだろうか?
「いいや。キミを助けたのは僕の主でね。ここはその主の屋敷さ」
男性はベットの脇のテーブルに持って来たタライを置きながら疑問に答えてくれた。
ボクを助けてくれたのは、どうやらこのお屋敷の主らしい。助けてくれただけでなく、使用人にこうして世話をさせてくれているのだからありがたい話だ。
「色々聞きたいだろうけど、今はキミの体調が心配だな。余裕があったら自分で拭いてくれるかい? 僕は主に報告とキミのご飯を作ってくるからさ」
ボクの疑問を察したのだろう、男性はそう提案した。否やは無いので素直に受け入れる。
それを確認して、男性は部屋から出て行った。
遠ざかっていく足音を聞きながら、手早く服を上だけ脱ぎ、置いていってくれたふかふかのタオルをぬるま湯につけてよく絞る。
どのくらい眠っていたのか、身体はバキバキだったが何とか動けた。また冒険に出るには少しリハビリしないといけないかもしれない。
温かなタオルは、体の緊張を解してくれたようで、少しだけほっとした。
着替えが欲しいと荷物鞄を探せば、ベットの傍に寄せるようにして置いてあった。ざっと確認したが、なにかなくなったりはしていない。
新しい服を引っ張り出して着替えた頃、再びノックの音が響いた。
「大丈夫です」
声を掛ければ扉が開かれ、先程の男性が顔を出す。手にはほかほかと湯気を立てるお粥があった。
お粥なんて何年ぶりだろう。誰かに看病された記憶も遠い昔な気がしてくすぐったい。
「エルトナ名物薬膳粥だよ。と言っても、僕の独自ブレンドだけど」
そう言って差し出された粥に混ぜこまれていた葉っぱは、見たことの無いものばかりだった。ついでに言えば色も少し不思議だ。
「いただきます」
丁寧に挨拶して、レンゲでひと匙すくい頬張る。少しの苦味の後に甘味やら塩分やらが複雑に絡まった不思議な味がした。しかし、意外と不味くはなく、むしろ癖になる味だ。
夢中で食べ進めれば、あっという間にお皿は空になった。
普通の人には少ない量のはずなのに、ずっと寝込んでいたからかそれだけで十分お腹は満たされたようだ。
お代わりがあるという男性の言葉を断って、ボクは彼に疑問をぶつける。
「美味しかったです。ところで、主さんはなんて仰ったんですか?」
「そのことだけどね、体力も戻ってないようだし暫く滞在していったらどうかって」
「願ったり叶ったりなんですが、さすがにご好意に甘えすぎる訳には……」
「気にしないで。ここに人が来ることがないから、僕としてもキミがいてくれたら嬉しいんだ。あぁ、まだ名乗ってなかったね。僕はリック。この屋敷の使用人さ」
リックと名乗ったエルフの男性は、優しい兄のような笑顔を見せてボクに挨拶してくれた。きっと弟妹がいるんだろうな。
「ボクはカナトです」
「いい名前だね」
そう言ってボクの頭を撫でたリックさんは完全に弟妹を見る目だった。まあ、ペット扱いも捨てきれないけど。
「さて、キミの疑問に答えようか」
手近な椅子を引き寄せて座り、リックさんは柔和な笑みを浮かべる。
しかし、金色の瞳は弧を描いているのに底冷えのする光を宿していた。
「ここは、どこなんですか?」
まず聞きたいのは現在地だ。窓の外から見えるのは背の高い木々で、ここが森の中だということしか分からない。
「ここはエルトナ大陸の夢幻の森さ」
「エルトナ……」
「そう、主にエルフの住む大陸だね。夢幻の森はかつて王都カミハルムイがあった所さ」
名前だけは知っていたが、如何せんまだ駆け出しの冒険者である。ミュルエルの森で倒れていたぐらいなのだから、夢幻の森なんてもっと大変だろう。
まあ、プクランド大陸から出たことはないけど。
「不安そうな顔しないで。心配しなくてもこの場所は結界が張られているから普通の魔物は入れないよ」
魔物を退ける結界だなんて、ここの主は相当な魔法の使い手らしい。
だが、風の噂で神獣ペガサスが守護していた村が魔物に滅ぼされた、という話を聞いた気がするので安心は出来ないとも思う。
「ここの主さんは賢者さまなんですか?」
「違うよ。主は色んな職に才能のある人だけど、主にデスマスターをしているかな」
「ですますたー……」
噂には聞いたことがある。グレン領東の井戸にデスマスターが住んでいる、と。
(でもここエルトナ大陸だから違うか)
冒険者にとって情報は大切だ。噂話でも精査すれば有益な情報かもしれない。まあ、尾ひれ背びれがついて原型を留めていないものも多いけれど。
「主に関する質問は本人にしてね。僕もあまり多くは語れないんだ」
確かに、ここは色々と秘密が多そうだ。機密の情報もあるだろうから、下手なことを言うことは出来ないだろう。
少し話をしただけなのにもう疲れてしまった。それに気付いたのであろうリックさんが優しく微笑みながらボクに寝るように促す。
「用があったら呼んで。僕は凄く耳がいいんだ」
幼い弟妹を寝かしつけるように頭を撫でられれば、自分でもチョロいと思う程簡単に意識は落ちてしまった。
* * *
次に目が覚めた時、窓の外は薄暗いながらも明るかった。どうやらまだ昼のようだ。
とはいえ、木々が生い茂っている為正確な時刻は分かりづらい。
「リックさん」
呼んで、と言われたのを思い出したので小さな声で控えめに呼んでみる。
しかしまあ、聞こえなくて当然の声量なのでボクはベットから飛び降りた。
天井からぶら下がるシャンデリアの灯りをつければ、まだ少しは辺りを認識できる。
ボクが寝ていた部屋はど真ん中に天蓋付きベットが置いてあり、入口に対して足を向ける形になっている。
どうなっているのか不思議なことに、衝立の役割をしている壁から光が差し込み、ベットに柔らかく降り注いでいた。
その壁の後ろには少し微睡むのにピッタリのソファーがあって、少しだけ隠れていたい時に良さそうだ。
そんな壁の窓の部分の前には、黄緑色の花が咲きみだれる花束が置いてあり、なんの花だろうとボクは小首を傾げた。
花の民とはいえ、結局のところボクは植物に詳しくない。どちらかというと研究者気質なエルフの方が知っているのではないだろうか。
ひとまず花のことは頭からおいやって、ドアの方に向けば右側に大きなうさぎのぬいぐるみがお行儀良く鎮座していて、その前に小さなぬいぐるみたちが規則正しく並べてある。
「オルガンだ……」
反対を見れば、そこには小さなオルガンがあった。音は鳴るのだろうかと好奇心に駆られるが、調律してあるかも怪しい気がする。
近付いてそっと表面を撫でれば、きちんと掃除されているのか指に埃がついたりすることはなかった。
ぼんやりとオルガンを眺めていると、コンコンとノックの音が響いた。
返事をすれば入ってきたのはリックさんで、ボクはビックリしてしまう。
「夕食の準備をしていたんだ。丁度できたから呼びに来た。一緒に下に降りよう」
エプロンをしたリックさんが朗らかに言いながら、まだふらつくボクの介助をしてくれる。オーガやウェディといった大きな種族ではなかったことは幸いだと思った。
「わぁ……!」
リックさんの介添で階段を降りれば、そこには不思議な食堂の光景があった。
床からグルグルと蔦が巻きついたような植物が生えていて、更にそれが光っている。
料理が所狭しと並んだテーブルの上にも、可愛らしいアロマキャンドルが揺らめいていた。
装飾も美しい家具はため息が漏れそうな程で、ひと目で高価なものだと分かった。
「目が覚めたようでよかった」
そんな幻想的な光景に感動していると、不意に誰かの声がした。
注意深く見ると、ウェディの紳士がボクを優しく見つめていると分かった。
彼は食卓に既に座しており、ボクが来るのを待ってくれていたようだ。
「あの……あなたがボクを助けてくれた人ですか?」
リックさんの時の失敗があるので、違うと言われても苦笑いで有耶無耶にできる程度の質問を投げかけた。
「うん、そうだよ。僕の屋敷にようこそ、カナトさん」
椅子から立ち上がり、優雅な貴族の礼をする。オシャレなシルクハットや胸元の蝶ネクタイと合わさって、その動作も姿も全てが優美だ。
「助けていただいてありがとうございます!」
勢いよくお辞儀をしたら、勢い余りすぎて床に頭をぶつけた。
そのさまに主さんは優しい慈愛の瞳を向けているだけだった。リックさんは肩を震わせて笑っているので後で抗議する。
「どういたしまして。さあ、立ち話もなんだから座って。食事にしよう。リック」
主さんが声をかけると、リックさんはキッチンの方に向かった。
キッチンは食卓から見えるようになっていて、装飾も美しいオーブンや食器棚がきちんと管理された状態で並んでいる。
「リックの料理は美味しいよ。最初は食べれたものじゃなかったけどね」
「聞こえてるよ」
不服そうに唇を尖らせたリックさんが、予めキッチンに用意されていたのであろう料理を運んでくる。既にテーブルの上には料理が所狭しと並んでいるのに、まだ追加があるのか。食べ切れる自信はない。
「普段はリックと二人だからね。誰かと食べる料理は久しぶりだ」
そう言って主さんは穏やかに微笑んだ。温和な性格の人物なのだなあとぼんやりと思う。
「ボクも久しぶりです。ずっと冒険をしていたので」
故郷を旅立ってどのくらい経ったのだろう。両親は元気にしているだろうか。
懐かしい思いに駆られながら、食事の挨拶をして、まずは先程リックさんが運んできてくれたスープから口にする。
「ふふふ、気に入ってもらえてよかったよ」
耳をピンと立て、目を見開いているボクに、リックさんが得意げに笑った。料理が下手だったなんて想像もできない。
そこから先は記憶にないくらい、ボクは夢中でリックさんの料理を食べていた。
中には不思議な味がするものもあったが、不思議とやみつきになる味だ。
「それはモモガキとプクプクピーチのサラダだね」
目を輝かせる度にリックが説明してくれる。ぜひ嫁に欲しいレベルのスキルだ。
主さんはマイペースにゆっくりと食事をしている。時々「落ち着いて、料理は逃げないよ」とかきこみ過ぎるボクを穏やかに注意してくれた。
ようやくボクのお腹が満たされた頃、あんなにあったテーブルの上のご馳走はすっかり消えていた。これは運動しないと身についてしまう。
「さて、カナトさん」
満腹による眠気に襲われ始めたボクに、主さんの苦笑が聞こえた。
「この屋敷に滞在するにあたって、約束事はひとつ。僕の部屋に入ってはいけないよ。研究をしているから、危ない薬品が多いんだ」
「それだけ覚えてくれていたらいいから」その言葉を最後に、ボクは睡魔に誘われた。
* * *
恥ずかしい。
目が覚めて最初に思ったのはそれだった。
物凄い勢いで料理に食いつき、あまつさえその後満腹感にほっとして眠ってしまった。恥ずかしいことこの上ない。
頭を抱えて悶えるボクの声を聞き付けたのか、リックさんが朝食があると呼びに来た。
ハッとして昨日より軽くなった身体で軽やかにベットから飛び降り、階下の食堂へと進む。
朝はフルーツとパンなのだろう、繊細な飾り切りされたフルーツがお皿の上に並び、ホカホカの焼きたてのパンが籠に盛られている。
「おはよう、昨日はよく眠れたかな?」
にこにこ笑いながら、リックさんが飲み物を聞いてくれた。コーヒーは苦手なのでありがたい。
絞りたてのフルーツジュースを飲みながら、ボクはリックさんに疑問を投げた。
「主さんは?」
「まだ研究室に篭っているよ。ここは昼夜が分かりづらいからね。昼も夜もあの人には同じようなものさ」
苦笑して肩を竦めながらリックさんが「あの人のことは気にしなくていい」と笑った。一応恩人なのだから恩返しくらいはしたいのだけど。
朝食を食べた後、ボクは身体を動かしたいとリックさんに告げた。
「結界から外に出なければいいよ。結界は内側から見たら光っているし、通ろうとすると膜を突き抜ける感覚がするからすぐにわかると思う。出てしまったら認識阻害が働いて戻れないから、気をつけてね」
ボクはそれに了承を返して、一旦二階にあがって武器を持ってきた。簡単に素振りをするつもりだったからだ。
屋敷の外に出れば、そこは不思議な森だった。
ランタンが生った木が生えていたり、白銀の丘にあるような真っ白な木も生えている。かと思えば不気味な灰色の枯れ木も生えているのだから、統一性がなくて分からない。
実際の夢幻の森と大幅に風景が違うのだと、ボクはまだ知らない。
とりあえず端を知りたかったので、真っ直ぐ突き進めばリックさんの言っていた結界が見えてきた。
なるほど確かにキラキラと光っていて、軽く押してみると何かを突き抜ける感覚がする。こんな結界は初めてで、小一時間遊んだ後、ボクは結界を見ながら走ることにした。
森だからか足元に草が生い茂っていて、木の根などで足元は悪い。いいトレーニングになりそうだ。
木々の間から微かに落ちる陽光を受けて、ボクは転がるように駆けていた。
昼過ぎになるとリックさんがバスケットを持ってきてくれた。示し合わせたようにぐううとお腹が鳴る。
「今日の洗濯は大変そうだ。ああ、そういえば主がクローゼットの衣服は好きに着てくれて構わないって言ってたよ」
泥だらけのボクに苦笑しながら、リックさんが伝言を伝えてくれる。こうなることを見越されていたようで、なんだか面映ゆい。
リックさんを昼食に誘えば、なんとなく分かられていたようで、リックさんがシートを敷いてくれた。野営などでよく使うもので、冒険者なら誰しもが持っている。
並んで腰を下ろし、持ってきてもらったサンドイッチを食べる。魔法瓶に温かい飲み物も用意してくれたようで、ほっと一息つくのにピッタリだった。
「身体の具合はどうかな?」
「以前のようにとはいかないとはいえ、大分勘を取り戻しました」
その過程で木の根に足を取られて転んだりしたが、それは秘密である。帰ったら袋から薬草を出して食べなければ。
回復魔法は使えないことは無いが心許ない。袋には魔力を回復する小瓶や聖水、薬草類が詰めれるだけ詰めてあった。
昼食後は武器を使って鍛錬に励む旨を伝えて、愛用の武器を手に取る。
しっくり馴染んではいるが、そろそろ替え時のような気がするので、今度バザーを覗いてみよう。
リックさんは「日が暮れる前に戻るように」とだけ言って屋敷の方へと向かっていった。
まあ、結局屋敷の方向がわからなくて主さんがわざわざ迎えに来てくれたんだけどね。
「この場所は僕の結界の中だからね。大体どこに何があるのか把握できるさ」
とは出来る魔法使いの言葉である。さすが、回復魔法と攻撃魔法を使いこなし、死霊という霊を操ることが出来るデスマスターだ。
差し出された手を握り、ボクは優しく主さんにエスコートされて屋敷へと戻ってきてリックさんに叱られたのだった。
* * *
その日は朝から雨が降っていた。
ここ数日ずっと森で鍛錬していたから、外に出られないのはなんだか物足りない。そうこぼしたらリックさんが「屋敷を見て回るといい」と言ってくれた。
外に出ないのならば借り物の服でも汚すことはないだろうと、クローゼットを開く。
何処かの学園の制服であろう服や、道具使いと呼ばれる人たちが着ていた服、エルフの礼服などがかかっていた。
「……可愛い」
そんな中ボクの目に留まったのは、マスカット色の服である。巨商の衣の上と短いスカートが一緒になったもので、柔らかなカフェラテのマスカレードブーツが可愛さをひきたてる。
しかし、ボクはそれを着る勇気はなくて、結局いつものプクリポの市民服を選んだ。
部屋を出て、廊下に出る。
どこか懐かしさを感じる風景画と、可愛らしい花が飾られている棚があるだけの廊下だ。壁側には星空のような美しいカーテンが取り付けられている。
ボクはとりあえず隣の部屋に行くことにした。
上品な白い扉を開けば、そこにはまるで海の底のような貝殻の大きなベットが鎮座していた。
クラゲのランプが薄暗い部屋の中でキラキラと輝き、このベットに寝転べば人魚姫のような気分になれそうだ。主さんはウェディだから、そういった雰囲気にしたかったのかもしれない。
ベットの後ろにはボクの部屋とは違う模様の壁があり、さらにその先を除き見れば足置きのついた立派な椅子があった。
蓮の花がベットまでの道の足元を照らして、天井からは不思議なことに花弁が舞っている。やはり不思議なお屋敷だと改めて思った。
「おや、こんなところにいたんだね」
見惚れていると、扉の隙間から主さんが顔を除き込ませていた。通りがかりに扉が開いていたから好奇心に駆られたんだろう。
「すいません、とても綺麗で……」
「いいんだよ。僕の部屋以外は入っていいと許可したからね」
にっこりと笑って、ボクの頭を撫でてくれる。モノクル越しの瞳は、非常に穏やかだ。
「ところで主さんはどうしてここに?」
「久しぶりに弾きたくなってね」
そう言って主さんが示した先には、美しい光が差し込むグランドピアノが置いてあった。
なるほど、壁の後ろの椅子は、誰かが寛いでピアノの演奏を聞くためのものだったのか。
「キミもなにか弾くのかい?」
「いいえ、ボクは何も弾けないです。芸を磨くために旅に出たものの、ご覧の通りの有様で」
「ふふ。雨が上がったら夢幻の森に出てみよう。僕も戦闘をしなければ勘を忘れてしまいそうだ」
愛おしげにピアノの蓋を撫でながら、主さんは願ったり叶ったりの提案をしてくれた。
強い人に稽古をつけてもらえるなんて、ありがたいことこの上ない。
鍵盤の蓋を開けた主さんが、ポーンと鍵盤を叩く。
優しい音が部屋の中を満たして響き渡り、ボクは思わずびっくりしてしまった。
「うん、狂ってないみたいだね」
軽く練習曲を弾いたのだろう、主さんが微笑みながらピアノの前の椅子に座る。
「何かリクエストがあるかな、お嬢さん?」
お茶目な赤い瞳が、ウィンクをしながらボクに問いかける。
「面白い、曲がいいです」
「面白い、ね。なるほど君らしい」
クスクスと笑って、主さんはピアノに向き直った。
静寂に包まれた中、す、とだけ音がして、ハチャメチャな曲が聞こえる。まるで混乱するために作られたような曲に、頭がクラクラした。
「ははは、混乱してる」
そう言いながら、主さんは天使のすずを鳴らして混乱を治してくれた。
「ううう、何なんですかあの曲!」
「怒らないでくれよ。アレはメダパニワルツという曲でね。僕も教えて貰った時同じように混乱したものだよ」
誰だこんな罪深く混乱する曲を作曲した奴は。盛大に文句を言いたい気分になってしまう。
「でも、キミが言う面白い曲には合ってるんじゃないかな」
そうだけど……、そうだけど……!
無性に文句を言いたい気持ちをぐっと飲み込む。自分で言ったことなのだから、自業自得としか言いようがない。
「じゃあ、仕切り直しに僕の好きな曲を聞いてくれるかな?」
そう言われて、ボクはこくんと頷いた。
壁の後ろにあるキラキラと豪華な足置き付きの椅子に座って、主さんの背中を見つめる。
静かな世界で、やけに大きく呼吸音が聞こえた。
衣擦れの音まで大きく拾ってしまい、何故かこちらが緊張してしまう。
す、と青い指先が鍵盤に触れ、するりと撫でるように鍵盤の上を踊り始めた。
(あ、知ってる)
童謡でよく聞く、きらきら星。でもそれとは違う、細かい動き、飛んで、跳ねて、まるで星空がはしゃいで遊んでいるような音。
チカチカと明滅するなんてものじゃない。あっちへぶつかり、こっちへ跳ね返り、楽しく笑う声が聞こえてきそうな曲だ。
それなのに優しい優しい一音一音に、ボクはそっと目を閉じて……眠ってしまった。
目が覚めると椅子に座ったままで、ボクの上にブランケットがかけられていた。
かああと顔に熱が集まる。恥ずかしい。
他人の演奏を聞いていたのに、どうして眠ってしまったのか。主さんもきっと怒っているに違いない。
変な体勢で寝た為にバキバキと音を立てる身体をほぐしながら、ボクは階下へと向かって歩き出した。
階下に降りるとリックさんがキッチンで料理を作っているところだった。昼食は食べ損ねてしまったらしく、現在作ってるのは夕食のようだ。
情けなくお腹を鳴らしてしまった音を聞き付けて、リックさんは苦笑しながらボクに軽食を出してくれた。
「あの……主さんは……?」
「日頃運動して疲れが出たんだろうから起こしてやるな、って言って夕食まで部屋にいるってさ」
おどおどと訊ねるボクにリックさんは「気にしなくていいよ」と言ってくれ、マドレーヌを出してくれた。バターがよく効いたそれはとても美味しくて、もう一個とねだったのだが、晩御飯前だからとリックさんは許してくれなかった。お母さんか。
仕方なくボクは椅子を窓辺に持っていき、窓の外を眺める。
酷かった雨は雨足を緩めていて、このままだと今夜には止みそうな雰囲気だ。
葉にあたってパツパツと響く音に耳を傾ける。雨の跳ねる音が、何故だかさっきのきらきら星と重なって聞こえた。
* * *
ボクの予想通り、次の日は見事な晴れだった。
差し込む光はいつもよりも金色で美しい気がするし、森の匂いもずっとずっと深くなっているような気がする。
森に包まれているような、そんな感覚は嫌ではなかった。むしろ心地いいと思ってしまい、朝早くから外に出て胸いっぱいに空気を吸い込んだくらいだった。
見かねたリックさんが朝食に呼びに来て、昨日も謝ったが今日も主さんに寝てしまったことを謝る。
「もう、あんまり謝ると今日は本当に疲れて寝落ちてしまうぐらいに扱いてしまうよ?」
なんて脅しをかけられてしまい、謝るのは終わりにした。
朝食の後、リックさんが作ってくれたお弁当を持って主さんと一緒に屋敷を出る。
主さんの隣に立って見ているだけで、世界はもっと美しく見えた。
結界まではあっという間で、主さんはするりとその先に出てしまう。ボクもそれに続いて外に出れば、中との違いにびっくりした。
ボクたちがいる夢幻の森と、実際の夢幻の森は大きく違っていたらしい。
苔がむしている地面と木々に、何かよく分からないホワホワとした光が無数に浮いている空間。同じく苔むした石でできた小さな祠が木々の根元に点在していて、プクランド大陸との違いをまざまざと感じさせられた。
プクランド大陸が華やかならば、エルトナ大陸は落ち着いている、といったところだろうか。
そこらにうろついている魔物も、ボクが倒れていたミュルエルの森なんかとは比べ物にならないほどに強く、ひとりではとてもでは無いが対処出来ない。
ふと気になって後ろを振り返ってみると、そこには目の前に広がっていたのと似た光景があった。どうやら認識阻害の魔法は本当に凄いものらしい。
試しに腕を突っ込んでみたら、膜を通った感覚がして腕が消えた。少しホラーだったので慌てて腕を引っこめる。
そんなボクの様子を見ながら、主さんはボクの隣に静かに立っていた。
相当強いんだろう、主さんを認識した魔物たちは急いでそこから逃げていく。ボクひとりならきっと襲いかかってくるだろうに。
「さて、始めようかな」
「はい!」
主さんの言葉に背筋を伸ばして元気よく返事をする。まずはボクの実力が知りたいからと手合わせをすることになった。
が、何も打ち込んでこない主さんに対して勝てる気が全くしない。そもそもダメージが通らないのだから、ボクが打ち込む意味ある? と思ってしまう。
それならば魔法は、と思ったけれど、詠唱時間は長いし、苦労して唱えても主さんに大した傷を与えることは出来なかった。
ある程度ダメージを与える努力をし尽くした頃、主さんがようやく踏み込んできた。どうやらボクの立ち回りを見ているらしい。
武器を構えることはないが、熟練の冒険者はどの職業であっても格闘スキルを使いこなせると聞いたので、肉弾戦でも油断はできない。
小柄な身体を活かして、ひょいひょいと避けるも、木々の根元に足を取られてまた後ろにすっ転んだ。
急いで跳ねるように立ち上がり、隙を伺ってひたすらに避けていく。
が、あっという間に唱えられた初級魔法によってボクは呆気なく倒された。
倒れたボクを引き上げて、回復魔法をかけてくれる。あの時もこうして回復魔法をかけてくれたのだろう。
それから、主さんはボクに足りないことや練習した方がいいことを教えてくれた。
まずは詠唱を噛まないことから、と言われた時は穴を掘って潜りたい気持ちになった。
昼休憩を挟んで、他愛のない会話をして、ボクは主さんをまたひとつ知って楽しくなった。
今思えば、ボクは主さんに惹かれていたんだ。名前も、知らないのに。
* * *
主さんに扱かれて、ボクはようやくひとりでも夢幻の森の魔物と渡り合えるようになった。
柵の向こう側には強い魔物がいるので、そちら側に行くと生傷を作ってしまうが、普通の魔物はボクを認識して逃げるようにまでなった。
もうミュルエルの森で倒れることもないだろう。そう思う程にボクは強くなった。
そして、そろそろ旅に戻らないと、思い始めた。
優しい主さんとリックさんは「好きなだけいてくれていい」なんて言ってくれるけれど、そんなご好意に甘えてばかりではいけないのだ。
「また来ます」
リックさんにそう挨拶すれば、少し悲しそうな顔をされた。嫌だな、今生の別れでもあるまいし。
ボクの隣には主さん。主さんは凄いルーラストーンを持っているらしく、町や国、果ては休息所なんかにも行くことが出来るらしい。「好きなところに送ってあげるよ」と言われたので、主さんの故郷に行きたいと思った。
主さんの手には、凄いルーラストーンではなく、故郷の石、と呼ばれるルーラストーンがある。ある人に「故郷を大切にして」と貰ったそうだ。
「行ってくるよ、リック」
「うん、行ってらっしゃい」
短い挨拶を交わして、主さんがルーラストーンを掲げる。眩い閃光のような青い光に包まれて、ボクたちは大陸をも超えて飛び立った。
気付いた時には長閑な村にいた。
海岸に打ち寄せる漣が耳に優しい。
初めて嗅ぐ潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、大きく息を吐き出した。
「ここがボクの故郷、レーンの村だよ」
優しい瞳はどんな思いで故郷の風景を眺めているのだろう。夢幻の森に隠れるようにして住んでいる彼は。
「ありがとうございました」
振り返ってぺこりとお辞儀をする。きちんと筋肉がついたからか、最初の頃のように頭を下げすぎて地面に激突することはなかった。
主さんは「じゃあね」なんて微笑みながら、帰るためのルーラストーンを懐から出した。
あっという間に主さんの姿は掻き消え、光の残滓だけが残る。それが酷く儚く見えた。
ボクはレーンの村を歩いてみる。
柔らかい砂地の地面は歩きづらくて、主さんはここで足腰を鍛えたのかな、なんてぼんやりと思った。
温暖な気候はプクランド大陸に似ているが、ここはどちらかと言えばカラッと暑い。家も風通しのいいものになっているので、一年中暑いのだろう。
ボクは少しだけ主さんのことが知りたくて、村の人に主さんの特徴を言って訊ねてみた。
しかし、小首を傾げる人ばかりで、ボクの頭には疑問符が浮かぶばかりだ。
「お前、アイツに会ったのか?」
そう言ってきたのは、もう老人のウェディだった。
「もし、お前の言ってる奴がオレの知り合いなら……アイツはオレたちの幼なじみの親戚か何かなのかもしれないな」
「え? でも、ここが故郷だって言ってました。故郷の石を使って……」
「あなた、もしかしてだけど……」
そこに老人の妻であろう老婆がやって来て、不安そうな瞳を揺らした。若い頃はさぞ美人だったのであろう面影がある。
「まさか。本人だとしたらアイツもオレと同じジジイだ」
肩を竦める老人は、快活に笑った。
「そうだな……フィーヤ孤児院に写真が残っているかもしれない」
ボクがあまりに真剣だったからだろう、老人はそう言って丘の上に建つ建物を指さした。
ボクはお礼を言って孤児院を訪ねる。アルバムを見せて欲しいのだと言えば、少し怪訝な顔をされたものの快く見せてくれた。
「あった……」
張り付いてなかなか剥がれないページにイラつきながら、ボクは目当てのページに辿り着く。
そこには若いウェディの男性が三人、並んで写っている写真があった。
ひとりはバンダナをしている色男、もうひとりは愛嬌のある顔立ちの男、最後の一人は主さんだ。
主さんの姿は今と全くと言っていいほど変わっていない。一体主さんに何があったのか……。
お礼を言って孤児院を飛び出す。さっき離れたばかりだというのに、無性に主さんに逢いたくなった。
この村には駅がない。駅がある場所まで必死に走らなければならない。
幸いにも次の町までの魔物は強くはなかった。以前のボクならば苦戦していただろうに、主さんには感謝してもしきれない。
何度かテントを張って、逸る気持ちを押し殺して野営もした。夜は魔物が凶暴化する傾向にあるからだ。
また、この地の魔物の特性を知らないというのもあり、下手なことは出来ないと思ったからでもある。
次の町……ジュレットの町に辿り着いたのは、レーンの村を出て三日目のことだった。
ジュレットの町はレーンの村と同じく海辺に隣接していた。ビーチに町があるようでなんだか不思議な光景だ。
白亜の建物に青い屋根が美しいジュレットの町は階段が多く、家々が高い所に作られている。
「出たぞー! 逃げろー!」
早く駅に向かおうとした時、町の中にカンカンと鐘が鳴り響いた。
わけも分からぬまま、慌てる人々に上層へと押し流される。
途端に空が暗くなり、生臭い臭いが立ち込めた。
階段の二箇所に最終防衛ラインとなる結界が貼られ、酒場の前に突如として制服に身を包んだ八人の人物が並び立った。
いつの間にか酒場の上には大砲が設置され、土嚢が積まれている。
不気味な轟音がして、ハッと駅の方を見れば、髭を三つ編みにした青い男が立っていた。その大きさは巨人と表現出来る程で、持っている武器も三叉に割れた独特のものだった。
『十分間だ! 十分耐え抜け! 諸君の健闘を祈る!』
拡声器から男の声が響き、それを合図に八人の人物たちは走り出す。
まず身体強化を行い、その後二手に別れた。
『北に敵の気配!』
拡声器からまたもや声が響き、八人の人物たちに物資の支援などの合図を送る。
八人の人物たちは雑魚敵を蹴散らしながら、大物である巨人へと果敢にも挑んでいた。
砲撃が放たれ、怒号が飛び交う。そこはまさに戦場だった。
やがて、恐ろしいほどに長い十分間が経過して、八人の人物たちの姿は掻き消えた。
歓声と共に避難していた人々が、元の暮らしに戻っていく。
「あれは……何なのですか?」
近くにいた気の弱そうなおばさんに問いかければ「突如として町を襲うようになったの」との返事。
「僕が聞いた話だと、オーグリード大陸の獅子門、エルトナ大陸のツスクルの村、プクランド大陸の荒野の休息所、ここ、ウェナ諸島のジュレットの町、ドワチャッカ大陸の岳都ガタラを侵略しているらしいですよ」
近くにいた鞄職人のおじさんが、追加で教えてくれる。五大陸の各所でこういったことは発生するらしい。
「さっきの人たちは……?」
「あれは防衛軍の人たちよ。ここから先に進んだ、王さまが住んでいるヴェリナードという所に本部があるの。ある程度の冒険者を募っているから、行ってみたらいいわ」
親切なおばさんはそう言って教えてくれた。ボクは二人にお礼を言って、少しだけ迷う。
けれど、その迷いを振り切って、ボクは駅へと向かいアズラン行きの切符を買った。
* * *
風の町アズランへと到着した時、ボクは言い知れぬ懐かしさを感じた。
ふと足が向くままに町の外に出て、幻想的な夢幻の森とは違うものの、落ち着いて苔むした大地に降り立つ。
足が向くままに歩いて、また野営をして行けば、ボクが到達したのは学舎と言われるツスクルの村だった。
懐かしい。ただひたすらに。
何となくこの場所で宿をとって、ボクは元気に勉学に励むエルフたちを見つめる。
「アサナギ先生! 先生のライバルだった人のお話を聞かせてください!」
「今度彼女について論文を書くんです! なんたって彼女は……」
聞こえてきた声に興味をそそられた時、空に暗雲が立ち込めてきた。
この感覚はジュレットの町で見たものに似ている。確か鞄職人のおじさんがエルトナ大陸のツスクルの村にも出現するのだと言っていたのを思い出した。
急いで避難を始める人々。今回の結界はひとつ。
八人の人物たちが出現して、襲ってきたのは巨大な二体の骸骨だ。
「ツクシ!」
その時、ボクの隣にいた母親が子供を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして前を見れば、逃げ遅れて泣きじゃくる子供。
ボクは駆け出した。あんな子供、すぐに死んでしまう。ボクの方がまだ守備力がある。
子供に転がるように駆け寄った時、既に戦闘が始まっていたのか、ぼうれいけんしやボーンプリズナーが武器を振り上げて襲ってきていた。
「マヒャデドス」
短い詠唱とともに巨大な氷柱が広範囲の魔物たちを押しつぶす。ハッとして前を見れば、黒い鎧の騎士がボクたちにガードを張って護ってくれていた。
「早く逃げなさい!」
声が聞こえて、ボクは震える足を叱咤して安全な場所へと走り出す。
轟音が響いて、火の粉が舞う。
何とか転がり込んだ安全地帯で、子供が母親に抱き着いて泣いていた。
何度もお礼を言われるが、ボクの意識は激戦区域に向いていた。
ボクを助けてくれたのは、デスマスターの主さんだった。
死霊を使役し、補助、攻撃、回復全てをこなす。鎌を振るってゾンビ系の魔物を狩る姿はさながら死神のようだった。
やがて、空は元の色に戻った。今回は防衛ではなく討伐に成功したらしい。
しかし、討伐を果たしても何度でも蘇り襲ってくるのだと聞いたのだから恐ろしかった。
防衛を終えた八人の人物たちは前と同じように、ヴェリナードの本部へと帰っていったのだろう、そこに主さんの姿はなかった。
* * *
子供を助けたことにより、ツスクルの村に居づらくなったボクは、風の町アズランへと一旦引き返し、そこからイナミノ街道を抜けて王都カミハルムイに向かっていた。
イナミノ街道は湿原地帯で、下手に動くと足を取られてしまう厄介な地形だった。虫も多く、虫刺されにはだいぶん辟易させられた。
イナミノ街道を抜ければ、カミハルムイ領南だ。
カミハルムイ領は年中桜が咲き乱れる美しい場所である。
桜が咲き乱れているからか、この場所に生息する魔物は桃色のものが多く、見ていて可愛らしいが凶暴さには変わりない。
カミハルムイ領北に行くために、王都カミハルムイに入れば、その荘厳さにびっくりした。
巨大な城郭を中心とし、周りは水が張られた深い堀に囲まれている。王都もまた、漆喰の塀に囲まれており、砂利を敷きつめた地面と相まって美しい。
ボクはここで一泊宿をとって、カミハルムイ領北に向かった。
カミハルムイ領北を真っ直ぐ北上すれば、夢幻の森はすぐそこだ。自然と歩幅が広くなり、足取りも早くなった。
狭い入口を抜ければ、そこは摩訶不思議な森。懐かしささえ感じる夢幻の森だった。
さて、ここからが難しいところだ。主さんのお屋敷は認識阻害で場所がわからない。
夢幻の森はどこも似たような風景をしているし、高低差が激しいので一歩踏み間違えれば戻れない場所も多い。
ボクはこの場所での長期戦を覚悟して、草を踏み締めて歩き出した。
夢幻の森にやって来て五日目にして、ようやく主さんのお屋敷を見つけ出した。
「あれ? こんな所にブランコが……」
キラキラとした不思議な森を進んでいると、草が生い茂った中に残されたブランコが目に止まった。
周りには水仙の花が咲き乱れ、赤い花も見える。
しかし、もう既に日はとっぷりと暮れていたのでボクは先を急いでお屋敷へと辿り着いた。今晩はここに泊めてもらおうと扉を叩くも返事はない。
不思議に思い、扉を開けば鍵は開いていた。
「おじゃましまぁす」
キィと軋んだ音を立てて扉を開けば、相変わらず中は不思議で薄暗かった。
「リックさん?」
主さんはともかく、リックさんはまだいるだろうと思い声をかけるも返事はない。
その時、キッチンの奥にある物置部屋から物音がした。
そっと扉に手をかけて、隙間から覗き込んで、ボクは思わず口に手を当てて悲鳴を押し殺した。
「……知ってしまったんだね」
不意に、背後から声がした。主さんの声だった。
「リックはね、元々シルバーデビルだったんだ。違うな。人間がシルバーデビルになったんだよ」
リックさんに一体何があったのだろうか。主さんの声は悲しげだった。
「今日みたいな新月の夜は、魔物の血が抑えられないようでね。ああしてシルバーデビルになってしまうんだ」
扉をきちんと閉めて、主さんはボクの方に向き直った。
主さんの瞳に見詰められて、ボクの心臓はドキドキと大きな音を立てた。
助けてくれた逞しい腕や、たくさんの優しさにボクはずっと前から……。
「好きです」
思わず心の声が口をついて漏れてしまった。
リックさんの秘密を知ってもなお、ボクはリックさんを好ましく思っている。そんなリックさんを思いやる主さんが、どうしようもなく好きだった。
「ありがとう」
主さんはそう言ってボクの頭を優しく撫でてくれた。
きっとたくさんの人を守ってきた優しい手なのだと思うと、愛おしくって笑顔が零れた。
「でも、ボクは君の気持ちに応えられないかな」
しかし、思いとは裏腹に、ボクはあっさりと振られてしまったらしい。
そんなボクへ儚く微笑んだ主さんは「お腹が空いているだろう?」と、自らキッチンへと立った。
主さんがわざわざ作ってくれて、主さんと囲む楽しい食事だったはずなのに、何を食べたのか覚えていないし、味も空気を食べているように感じられた。
* * *
翌朝、いつもの部屋で目を覚ました。
階下に降りればリックさんはもう人間に戻っていた。
「少し出てくる」
朝食を急いで食べたらしい主さんが、そう言いながら急ぎ足で屋敷を出ていく姿が目に止まった。
その瞳は酷く焦っているようで、ボクでは何の力にもなれないのに悔しさを感じた。
「おはよう。昨日は済まなかったね」
扉が閉まったのを見届けて、リックさんがボクに謝罪した。
「いいえ、ボクが見てしまったのが悪いんです」
「少し、聞いてくれるかな。ボクがシルバーデビルになった話のこと」
椅子に座るように促されて、ボクは素直に従う。
リックさんはそれに弱々しく微笑んでから、ホットミルクを出してくれた。
自分の分にはコーヒーをいれて、リックさんはボクの向かいに腰を下ろした。
「僕が生まれたのは寒い北国だった。一年中雪が降っていて、ずーっと戦争をしていた」
ずっと戦争をしていたなんて、想像がつかない話だ。
大魔王マデラゴーサが勇者姫アンルシアに打ち倒されて、現在は比較的平和な時代だというのに。
「成長して僕は兵士になった。でも、沢山いた弟妹も、両親も、仲間たちも、次々に死んでいった。僕は死ぬ事が怖くなった」
まるで罪の懺悔のようだ。リックさんは、一体どんな罪を犯したというのか。
「僕はあろうことか魔物側に寝返った。スパイとなって自分だけが生きる道を探したんだ。で、シルバーデビルになった」
なるほど、それが人間からシルバーデビルになった経緯なのか。
オーグリード大陸、ロンダ岬に封印されている悪鬼ゾンガロンも人を動物や魔物に変えると言われていたので、出来ないことではないだろう。
「僕はその時、憎んでいた力で死んだ。生きるか死ぬかだったんだ、仕方がないね。僕は骨さえ残らずに消えた……ハズだった」
魔物は死んだ後あまり何も残さない。黒い靄を出して消えてしまうのだ。
魔物由来の素材や肉もあるが、手に入ることは稀である。
「気付いたら僕はある人に助けられていてね。その人のお陰で人の姿も得たってわけだよ」
「その人が主さんなのですか?」
「いいや。でも僕の主の知り合いではあるよ。僕はあの人を主と選んだ。だからこの屋敷の主と帰るのを待っているんだ」
話を全て聞き終わる頃には、既にお昼の時間になっていた。
リックさんが昼食を作ってくれたあと、食材を買い出しに行くから留守番をしていて欲しいと頼まれた。
二つ返事で了承して、ボクは誰もいなくなった屋敷にひとり残された。
その時、キィと風に煽られたのか扉が開く音がした。
音のした方を見れば、主さんの部屋の扉が開いている。どうやら急いでいてきちんと締め損なったらしい。
ボクは主さんの部屋に近付いて、言いつけを破って中を覗き込んだ。
「わぁ」
主さんの部屋は壁一面が本棚だった。
ウィザード家具が大半を占め、部屋全体が暗い色調だ。
更にその奥の部屋を覗けば、そこが研究場所のようだった。
釜が湯気を立て、くるくると勝手に混ざっている。ここも壁に本棚があり、壁掛けの棚に瓶が並んで、何に使うのか分からない素材もかかっていた。
所狭しと空いている壁にメモが貼られ、その文言は「時渡り」「エテーネの民」「錬金レシピ」などといった御伽噺のような言葉だった。
一旦研究室を出て、主さんの部屋に戻る。ふと、主さんのベットの傍に写真が飾ってあることに気がついた。
メイジドラキーの写真立てに飾られていたのは、色褪せた写真だった。
今とは違う、貴族風の格好をした主さんがエルフの女性と共に写っている。
「……八…………年…………場?」
右下に年号と場所であろう文字があったが、経年劣化からか読むことは出来なくなっていた。
が、この景色はきっとボクが行こうとしていたフォステイル広場だ。
主さんと女性の背後にはプクリポの石像があり、ボクは全四巻からなるフォステイル伝でその姿を知っていた。
ふと見覚えを感じて、写真をよくよく見れば、女性の服と同じものがクローゼットにあったと思い出した。
セピア色で分かりづらくなっているが、きっとこれはあのマスカット色の服だ。
主さんはこの人が好きなのだろうか。リックさんたちが待っているのはこの人なのだろうか。
頭の中で色んな思いがグルグルと回って、ボクはふらつきながら与えられた部屋へと戻って倒れ込んだ。
* * *
気がつくと、真っ白な空間にいた。
そこには写真で見たエルフの女性が、マスカット色の服を着て立っている。
「あなたは……?」
「ん? 私はあなただよ」
にっこりと瞳を眇めて女性が微笑む。何を言われているのかさっぱり分からなかった。
「どうかあの子たちをよろしくね」
ろくに何も告げないまま、ボクには聞きたいことがいっぱいあるのに不意に突き放される。
そのままボクは目覚めてしまったようで、酷く痛む頭で先程の光景を思い出していた。
「良かった……」
不意に声が聞こえて、ボクは声の主を見た。そこには少し窶れた主さんがいた。
意味が分からなくて混乱する。また天使のすずを鳴らして貰えないだろうかと思った。
「三日も目が覚めなかったんだ。外傷はないし病気でもない、呪術でもなくて心配したんだよ」
そう言われれば心配される理由が分かった。が、三日も寝ていたなんてどうしてだろう。
小首を傾げて、ぼんやりとした頭で思う。主さんはどうしてここまでボクを心配してくれたんだろう。
「主さんは、エルフの女性のことが、好きなの? なんでボクを心配してくれるの?」
優しくしないで欲しい。辛いだけだから。
そう思ったら口から言葉が零れていた。
「泣かないで」
それだけでなく、気が付いたら涙も出ていたらしい。そっと優しい指で拭われる。
「そうだね。寝物語に昔話をしよう」
主さんはそう言って話し出した。
「僕はフィーヤ孤児院で育った孤児だった。僕には両親に会いたいという夢があって、旅に出たんだ」
やはりあの写真は主さんのものだったのか。あの頃と変わっていない姿はどうしてなのだろう。
疑問は尽きないが、ボクは静かに話に耳を傾ける。
「僕は世界中を回った。その中で君と同じようにたまたまミュルエルの森で行き倒れたんだ」
そして、それを助けてくれたのがエルフの女性だったらしい。
「僕は彼女について行くことにした。彼女もまた、世界を股に掛ける冒険者だったからね」
エルフの女性について語る主さんの瞳は、とても優しくて、愛おしい思い出を掘り返しているように感じた。きっと、大切な記憶なのだろう。
「彼女は各地の災を斥け、冥王ネルゲルを倒し、レンダーシアで勇者姫を救って盟友になった。僕にはとても遠い存在になったんだ」
そこでボクはふとツスクル村での光景を思い出した。アサナギという教師に話を聞いていた子らが知りたがったのは、まさに彼女のことだとピンと来た。
「そして彼女は、ナドラガンドという竜族の世界にまで救いの手を伸ばした。けれど……」
主さんの瞳が伏せられる。
そこで良くないことが起こったのは一目瞭然だった。
「強烈な魔瘴毒に侵されて、彼女のいのちの輝きは失われたんだ」
それはどれ程の苦しみだっただろう。毒に……しかも魔瘴毒だなんていう強烈なものに侵されて死ぬのは苦しかっただろう、辛かっただろう。
「メダパニワルツを教えてくれたのも、きらきら星変奏曲を好きになったのも、僕が君を拾ってしまったのも、全部彼女のせいなんだよ」
ちょっと待てボクが拾われたのも彼女のせいってなんだ。
「彼女はよく、次はプクリポになりたい、なんて言っていたからね。だから思わず、あの場所で運命を感じてしまった。彼女は本当は人間でね、一度死んでエルフの女性の身体を貰ったらしいんだ。だから、また君の身体に入ったのかとも思ったよ」
目がクラクラしてしまうような話のオンパレードに、ボクのキャパシティはいっぱいっぱいなのに、何故かそれが事実であると受け入れられた。
「彼女は時渡りの民、エテーネの民の生き残りでね。その為に殺されてしまったと言っていたな」
途端に感じたことの無い熱さの記憶が蘇る。
燃え盛る村、迫る火球。手を伸ばせども届かない誰かとの距離。
「僕は彼女の兄が遺してくれたという、錬金釜を譲り受けて、時渡りの力やエテーネの民について研究したりしながら過ごしていた」
そうして自分の時を止めてしまったのだという。
生前のエルフの女性はツスクルいちの秀才であったことから、彼女の記憶を借りて彼女が生前書き起こしていたいくつかの書物が役に立ったそうだ。特に彼女は古代の呪術の研究をしていたらしい。
「…………この部屋は?」
「彼女の好みで作られた部屋だよ。この花束はレタスカメリアの花で花言葉は……気まぐれ」
言われて納得した。クローゼットの服、可愛らしいぬいぐるみたち、飾られた花束。全てが合致した。
きっと森に設えてあったあの古いブランコも、彼女の好みなのだろう。今では乗る人もいなくなって朽ちるのを待つばかりとなっているが。
「なんで、ボクをここに?」
「彼女だと思ったから……。でも、君は彼女と違う色で、似ているけどなんだか違ってて……でもふとした瞬間に彼女に重なるんだ。彼女の面影があるのに、君は君。……カナトさん」
重ねられていたことに少し怒りを感じたが、徐々にでも別の人だと割り切れるようになったのだろう。
それでも、ボクの中に彼女の姿を見る。
「妬けるな……」
ボソリと呟かれた言葉は、静かな部屋に漣のように広がった。
そんなにも想われている彼女に妬けてしまう。ボクはボクを見て欲しいのに。
戸惑った瞳がボクを映して、腕が宙をさまよっている。抱き締めたいけれど、抱き締めたらいけないと思っているような動きだ。
普段はあんなにスマートなのに、その戸惑いが可愛いと思った。
やがてその腕はボクを抱き締めることにしたようだ。ぬいぐるみを抱き締めていると思えばいいと思う。うん。
「カナトさん。僕は……どうしようもなく葛藤したんだ」
懺悔するような低い声が鼓膜を揺すり、ぞわりと身体が泡立った。どうして、そんなに苦しそうな声を出すのだろう。どうして、そんなに泣きそうなのだろう。
「彼女が好きなはずなのに、彼女と君の違いに気付いては惹かれてしまう。僕は君を彼女として見ていたのに……」
震える声は、何を求めているのだろう。
誰の許しを、得たいのだろう。
「僕は……もう待っていることに疲れたのかもしれないね……」
そう言って主さんはボクに体重を預けた。ウェディの成人男性の体重は重たかったが、ボクが支えられるように加減はしてくれたらしい。
……いやほんと重かったけど。
「僕は君を、好きになってもいいのかな……。君の気持ちを受け取っていいのかな……」
弱気な声に、ボクはその背に手を回してそっと撫でた。
「許してあげる、*****」
ふと、誰かの名前が口をついて出てきた。
ガバッと主さんが身体を離してボクを凝視する。
ボクだってビックリしているんだ。急に誰かの名前が浮かんだんだから。
「なん、で……僕の名前……あぁ……」
泣きそうな程に目尻が下がって、もう一度強く抱き締められる。
「ありがとう……ありがとう……」
何度も何度もお礼を言う主さんを、ボクはそのまま抱き締めていた。
* * *
「行ってきまーす!」
ボクは元気よく声を出して出発を告げる。
手にはリックさん特製のお弁当。隣にはボクの恋人になった主さん。
あの後眠ってしまったらしい主さんが目を覚ましてすぐ、ボクは主さんにもう一度告白をした。
色気もへったくれもない。ボクをボクとして愛して欲しいと告げたのだ。
ボクは未だにもう居ない彼女に嫉妬しているし、なんなら自分自身にも嫉妬している。
だってボクは、彼女の生まれ変わりなのだと、薄々感じているから。
そんなボクたちは、彼らの縁の地を回る旅に共に出ることにした。
彼女との記憶を思い出にして、ボクとの記憶で上書きするため……なんて少し傲慢だろうか?
「行こうか、カナトさん」
にっこり笑って差し出された手を満面の笑みで掴む。そんなボクの荷物には、このお屋敷にいつでも帰ってこれるルーラストーンが握られていたのだった。
*Fin*
アズラン住宅村のどかな農村地区8336丁目6番地より愛をこめて