繋ぐ声 ・あしつつワンドロ・ワンライ お題:《公衆電話》
「……もしもし、」
無機質に響く呼び出し音にも飽き、そろそろ受話器を置こうかと離しかけた耳にかすかな男の声が届いた。
「―おう、帰ってたか。……俺だけどよ」
再度受話器を耳に寄せた津詰は相手の反応などお構いなしに尋ねる。
「何か買って帰るモンあるか……?」
沈黙の続く受話器の向こうから聞えよがしな溜息が伝わってきた。
すっかり日の落ちた街角で常夜灯に照らされる緑色の電話機の台に凭れながら、刑事の男は掌上の十円玉数枚をジャラと鳴らし、苛ついたように声を低める。
「だから、必要なモンがあんのかないのかって聞いてんだよ!―早くしろ、小銭がもったいねえ」
今度の沈黙にはやや逡巡するような間があった。数秒してから素っ気無い声が返ってくる。
「―べつに、今は思い当たらねエな」
「そうか……、」
自身の用件を済ませるとさっさと切ろうとした刑事の耳に、少し慌てた風な声が追い縋った。
「……あ、おい!おめえ、夕飯食ったか?」
「ーいや?帰ってからなんか適当に……、」
津詰の何の気なしの返答に対する男の声が一段階低くなる。
「帰ってから?適当に?おめえ本当に冷蔵庫の中身把握してんのか?誰かが作らなきゃ即食える状態の飯はねエぞ普通?自炊舐めてんのか……?」
受話器越しにもひたひたと迫る圧に腰の引けた津詰は慌てて告げた。
「そ、そんな畳み掛けなくてもいいだろ?わかったよ、適当に外で食って帰……、」
「なんか適当に作っておいてやるから、奇特な居候に感謝しろよ」
話しの途中で被さってきた言葉の内容に虚を突かれ、津詰はなんとも間抜けな声を漏らす。
「……え?」
割って入った通話時間の刻限を知らせる音に慌てて十円玉を追加した。
「だから、作っておいてやるっつってんだろ!……なんか、適当によ」
どこか面倒臭そうに、ぶっきらぼうに付け足した受話器越しの声に津詰は恐る恐る言葉を返す。
「お、おう……。手間じゃねえのか?自炊……、」
「一人分作るのも二人分作るのもそう変わんねエし、むしろまとめて作った方が光熱費の節約になんだろ」
「そういうもの……?」
「じゃ、切んぞ」
「―あ、おい!」
ブツッと唐突に切られた通話に顔を顰めた津詰はやれやれと息を吐く。相変わらずあの男が何を考えているのかは依然としてわからないままだ。
◇
「……なんで、帰りがけにいちいち電話してくんだ?お互い顔合わせてる時にでも聞いときゃいいだけの話しだろ」
しんとした台所で四人掛けのテーブルに斜向かいに座る男が味噌汁の椀を置くと唐突に口を開いた。鯵の干物をつつきながらビールを飲んでいた津詰は不思議そうな顔で斜め前に座る葦宮の顔を見やる。
「なんでって……、」
自然手にしていた箸先を相手の方に向ける仕草にムッとした風な注意が速攻で飛んできた。
「指し箸すんな。行儀の悪イ刑事サンだな」
厳しい指摘に素直に箸を置いた強面の男は、思案気にビールを一口飲むと小首を傾げる。
「―前に、それで失敗してるから……っつうのが理由、かもな」
「……んだよ、そりゃ?」
小鉢によそった青菜の胡麻和えを食べていた葦宮が眉を顰めた。厳めしい顔で俯いている刑事を見やる。
「以前、この家で女房と娘と暮らしてた時、どんなに遅くなっても家に連絡らしい連絡の一本も入れる習慣が無かったんだよ」
今はタイを解き幾分砕けた黒シャツ姿の津詰はハア……と自嘲気味に溜息を零す。
「だから、今度誰かと暮らすときには十分気をつけようと思ったってワケだが……、ん?」
奇妙な沈黙に視線を戻した先、形容し難い表情で固まる葦宮の姿があった。
「どうかしたのか?」
「ねえわ……、それはねエ…………!」
信じられないといった風に緩くかぶりを振る相手の様子に津詰は怪訝そうに声をかける。
「何がないんだ?何か買うモン思い出したのか?」
何もわかっていない顔で聞き返してくる刑事の無邪気ともいえる鈍感さに葦宮は思わず声を荒らげた。
「違エよ!本当におめえの思考回路はどうなってやがんだ?前に失敗したから?今度は?今度ってななんだよ!オレはてめえの女房じゃねエぞ!?」
突然噴火したような葦宮の剣幕に当の津詰はきょとんとした顔で目を丸くしている。
「いや、まあ、そりゃそうだけどよ……」
「そうだけどよ……じゃねエだろがッ!そういうのはちゃんと本人に伝えてやりゃいいじゃねエか。どうせ愛想尽かされた女房に未練たらたらなクセしやがってよ。男寡にゃウジしか湧かねエって言うぞ?」
言うだけ言って少し気の鎮まったらしい葦宮は黙って残りの夕飯に箸をつける。不機嫌そうな顔のまま黙々と食べている男の様子を眺めていた津詰が妙に感心した風に呟いた。
「お前さんからそんな真っ当な説教される日が来るなんざ、思いもしなかったぜ……」
揶揄や皮肉ではなく本心からの言葉だとわかるのが余計腹立たしく感じられ、葦宮はワザと大袈裟に嘆いてみせる。
「あーあ……、ウジが湧いてるようなトコにゃ長居できねエな。こちとらこう見えて綺麗好きなもんでね。早いとこ新しい家見つけて出てくからせいぜい期待してろよ」
目を瞬かせた津詰はいつものような軽口を返す。
「お、そうか?そいつはちょっくら残念だ。なんだかんだ言ってお前さんの作る飯、けっこう美味いからな」
気安い相手にかけるようなその声色が耳にこそばゆくて、どうにも葦宮を落ち着かない気分にさせる。
「この味噌汁が飲めなくなるのは寂しいもんだ……」
続く独り言めいた呟きに、黙り込んだ斜向かいの男から壮絶な顔で睨まれていることに刑事はついぞ気付かなかった。
人が作ってくれた飯は美味い。そんな当たり前のことすらわからなくなるほどにあの頃の自分の感覚は麻痺していたのだと、津詰は今になってしみじみ思う。
穏やかな笑みを浮かべる津詰の表情を盗み見た葦宮はスッと目を逸らせた。心がざわつくのはこの無神経な刑事の言動だけが原因ではない。
誰とも確かな繋がりを持たぬ孤独の中、他ならぬ自身に向け電話してくる相手が居るということに、葦宮は、《根島》は少なからず動揺を覚えていた。そのたった一人の存在というのが、かつての事件で根島を追い詰めた張本人の警察官であるということが事態をさらにややこしくさせているのだ。
「そうかよ……。自業自得、ザマアみろってヤツだな」
呆れた風に吐き捨てた葦宮は冷めかけた味噌汁を一気に胃へと流し込む。味などわからなかった。ただ早くこの空間から逃げ出したいと強く思う。
停滞した家庭の空気に、居心地のいいぬるま湯に肩まで浸かりきってしまう前に。もしかしたらこういう幸せもあるのかもしれないと、ありもしない錯覚に焦がれる前に……。