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    zenryoudeyasasi

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    zenryoudeyasasi

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    ⚠シリアス 笑えるところ一個もない
    ⚠捏造
    ⚠ちょっと岸←吉ブロマンス感ありですが腐向け要素はありません カプ抜き

    17巻の表紙も裏表紙も吉田祭り♡♡いっぱいしゅきしゅき♡♡とか浮かれてたら中扉見て気絶したって話です なにあれ?

    #吉田ヒロフミ
    hirofumiYoshida

    命は地獄に置いてきた 彼が笑わなくなっていたことには、すぐに気付いた。落としたコンビニの握り飯を拾い食いし、安いハンバーガーのチェーン店に屯するだけでひどく楽しそうに生きていたのに、学校は楽しくないのか。そう思ったが、彼が笑わなくなった理由など、あまりに明らかであった。












     目覚めた。眠い。
     重く倦怠感に満ちた身体を起こし、目覚まし時計を止める。窓の外を見ると、曇り空だった。きっと午後から天気が崩れるだろう。微かに片頭痛がする。
     嫌だと思いながら、ベッドを降りて、トイレを済ませて、歯を磨いて、着替える。六個入りで売られている安いバターロールを袋からひとつ取り出して、齧る。朝は食欲がないのだが、少しでも腹になにか入れておかないと身体が動かない。それから頭痛薬を水で流し込み、外に出る。電車は混むし彼も乗らないから使わない。徒歩で通学する彼のために、吉田もまた徒歩で学校に向かう。
     カフェで彼と交わした会話や、学校の屋上で女子生徒を紹介したときの反応を思い返す。なんだか、どれも上手くいかなかった。なぜ上手くいかなかったのかは、よくわからない。理論的に会話を進めた筈なのだが、彼はおおよそ理論と呼べるものからは程遠い男なので、ただでさえ他人に興味のない吉田の手にはほとほと余るのだ。

     (…………いや、というか、たぶん俺が……俺が、人の心を開示させるのが、下手なんだろうな)

     人の心を動かすのが苦手だという自覚は、少なからずあった。知っている。だからこういう仕事は避けてきた。ひたすら前線に出て報酬の大きい仕事を受けることで、生計を立ててきた。自分は歳を取ってもきっと出世できない。己の背中に人をついて来るよう仕向ける才能がないからだ。だから、若いうちに殺せるだけ殺して、金を貯めて早くに隠居する気だった。こんな人生、送るつもりじゃなかった。
     でも吉田は学校に向かって歩いていく。彼と自分の中間地点で蛸を移動させながら、彼に歩調を合わせて進む。仕事だから。プロだから。そう教わったから。









     「デンジ君、人を殴ったんだって?あまり悪目立ちしてはいけないよ」
     吉田は声を掛ける。デンジは、チェンソーマンを馬鹿にした生徒を殴ったのだった。彼は話しかけた吉田に一瞥もくれず、家から持ってきた握り飯を黙って食べていた。
     「不良を好きな女の子もいるにはいるけどね、結局優しい人間を装うのが一番手っ取り早い。チェンソーマンを笑われて嫌だったのはわかるけど、目的のためには我慢も必要だよ」
     「……我慢なら毎日してるよ。テメーらのせいでな」
     「それは君を守るためさ」
     「何からだよ」
     「君を狙うあらゆる勢力や、世論から」
     デンジは目を開いて吉田ヒロフミを凝視した。悪魔の目ではなく、現代にありふれた、親なしの子供の目だった。
     「お前、本当は俺に興味ねぇだろ?」
     吉田は驚いた。それが彼にバレるとは思っていなかった。
     「そんなことないよ」
     とりあえず、常識的に考えて、吉田はそう取り繕った。だがデンジがそれで納得するはずもなく、舌打ちされた。女を口説くならまだやりようはあるが、吉田はこのような場面で子ども相手になんと言葉をかければいいのか、全くわからなかった。
     「なんなんだよテメェは、俺に高校生らしく暮らさせてどうしたいんだよ」
     「それは」
     吉田は途中で言葉を切った。
     「……君に、平穏に暮らしてほしいんだよ」
     デンジは信用ならないセールスマンでも見るような目つきで、吉田のことを睨んでいた。そして、顔を背けて歩き去っていった。吉田は追いかけずにその背中を見ていた。追いかけなかったのは、やる気がなかったからじゃない。デンジが、追いかけられたくないだろうと思ったからだ。
     吉田は野菜ジュースの紙パックにストローを挿し、少しずつ飲んだ。風が吹いて、なにか嗅いだことのある匂いがした。
     デンジ君、実は俺もね。あんまり、学校に通ってなかったから、よくわからないんだ。友だちとどんな会話をするべきなのか、放課後はどんな店に立ち寄るべきなのか、知らないんだ。正直、家族のことも。だから、君にナユタちゃんとどう過ごすべきなのか、言えることはなにもないんだ。
     吉田は自分の両親がどんな顔をしていたか思い浮かべようとしたが、彼らの顔は揺れる水面のようで、判然としなかった。野菜ジュースを飲みながら、吉田は昼休みの間、そこでずっとぼうっとしていた。









     なんで、彼の周りには面倒な奴が集まるのだろう。微笑みながら、吉田はそう思っていた。
     「さっき校門の前でブツブツ何言ってたの?」
     「一人で生きる方が生きやすいって話…」
     彼女は照れたような、いっそ不機嫌のような顔をして、吉田から目を逸らしていた。思春期という言葉の代名詞のような、自意識と恥と期待にまみれた未成年の表情であった。それを見て、吉田は「そうか、一般的な高校生とはこういうものか」と学び、そのうち本当に微笑ましい気がしてきた。
     「なぜそんな独り言を言うのか疑問はあるけど……だいたい俺と同じ考えだな。人は人と共存して生きる事が成行き的には楽だろうけど、他者とお互いにいつまでも快適な関係を築ける保証はないからね」
     人と過ごせば必ず衝突は不可避である。そして、吉田はそれほど寂しさや人恋しさを感じたことがない。故に、わざわざリスクを冒してまで他者を求める必要がなかった。しかし、この三鷹という少女はどうなのだろう。ただ臆病なだけにも見える。
     だがどっちでもいいし、それ以上踏み込んで都合の悪いことを言われても困るので、吉田はそのまま話を進めた。
     「今の時代本やテレビで一方的にだけど他人に触れることはできるから、一人で生きた方がリスクは少ないよな。よかったよ、キミと思想が同じで」
     三鷹アサは此方の話に耳を傾けていた。彼女の感情は、この際どうでもよかった。ただ、会話の流れから彼女が逆らえないロジックを生み出せればそれでよかった。彼女はまだ幼いから、会話とはそういうものなのだということを知らないのだろう。コミュニケーションとは、常に道理の奪い合いだ。
     「キミにずっと言いたい事があったんだ。あのさ……もうデンジ君と関わるのはやめてほしいんだ」
     彼女は、少し傷ついたような顔をする。それを見て、吉田は、なんだか何も感じなかった。思春期特有の彼女のまどろっこしさが、うざったさが、吉田の同情心を削ったのかもしれない。助けを必要としている人間は、大抵、人が助けたいと思う姿をしていない。
     「え…?なんで…?」
     「なぜかをキミに説明するのはやめておこうかな。好きに解釈してくれて構わないよ」
     スクールバッグを手に取り、肩にかけた。
     「今日は話せてよかったよ……それじゃさようなら」
     一般的に会話を切り上げる時に言うべき言葉を羅列して、吉田は部室を出た。もう約束の時間まで、あまり余裕がない。







     「ハニートースト、季節の盛り合わせフルーツ、バニラアイス、チョコレートケーキ、窯焼きホットケーキ、いちごパフェ。今言ったのを全部5つずつ」
     首を傾けがちな彼女はそう言った。店員がメモを取って席を離れていく。
     「……奢るとは言ったけど……少しは遠慮してほしかったな」
     「私を呼んだのは貴方でしょ。奢るのは当然でしょ」
     彼女の首は傾いたままだった。七課は新設された魔人と武器人間だらけの課だ。当然上には嫌われていて、必要経費をきちんと経費として落としてくれるかわからない。
     ため息と呼ぶには僅かに満たないような息を吐いた。
     「本当に来てくれるとは思わなかったよ…キガ先輩。いや…飢餓の悪魔と呼んだ方がいいかな?」
     「キガちゃんって呼んで」
     「キガちゃん……」
     吉田は、少し微笑んだ。この女、人型の悪魔なだけあって、人間が好きなのだろう。「ちゃん」付けしろということは、人間扱いされたいという欲求に他ならない。
     ひとまず吉田は、その思考を包み隠した。
     「悪魔は名前を付けるのが苦手…という噂は聞いた事あったんだけど、その名前は正体隠すつもりなさすぎないか?」
     「別にバレてもいい。要件は何」
     変な話だが、公安の同僚といるよりも、監視対象のデンジと口を聞くよりも、飢餓の悪魔と話す方がまだ気が楽だった。話題が初めから決まっているからだ。なにを尋ねるべきなのか、なにを聞き出すべきなのか、全て初めから明らかだった。だから吉田は、それに即して脳味噌を働かせればいい。
     「噂ついでじゃないけど……最近巷ではこんな都市伝説が流行ってるんだ」
     キガちゃんは更に首を傾けて、斜めの視界で吉田を眺めた。
     「ノストラダムスの大予言…1999年7月に恐怖の大魔王が降りてくる…といった内容が予言集に記載されていて、それは人類の滅亡を示しているって騒がれているんだ。世間ではテレビとか学生の間で騒がれている程度の認識にすぎない…でも公安はそう思ってない。とある実験で囚人30人に釈放を条件に未来の悪魔と契約をさせ、そして自分がいつ死ぬのかを聞いてもらった。そしたらビックリ、なんと30人の内23人が1999年7月に命を落とすと予言された」
     「それで?」
     「キミが裏で何か悪い事をしているのを知っている。それとノストラダムスの大予言が関係しているんじゃないかと公安は思ってるんだ」
     彼女の瞳の渦を見つめた。彼女は無表情で、喜怒哀楽が読めない。隠しているのではなくて、元々薄いのかもしれない。俺と同じで。
     「オレはキミにそれを聞かされに来たってワケ。言うつもりがないのなら、これからはキミを悪魔として接しなければいけなくなってしまうかも」
     飢餓の悪魔の唇は動かなかった。吉田も暫しの間沈黙していた。
     「その30人の内7人は…今週中に命を落としてるんでしょ」
     吉田は微笑んだ。やはりお前は、人間が好きなのか。
     「……今から40秒前に東区玉野集合団地に悪魔が出現した。これから世界を最悪の恐怖に導く一人目の悪魔。彼女は根源的恐怖の名を持つ悪魔。その名前は」













     血のついたナイフを眺めていた。熱の悪魔を刺し殺したら、血が沸騰していた。マグマみたいだと思って、少しの間眺めていた。
     「なんか用ですか?」
     ナイフを眺めたまま、声をかける。暫く静かだったが、やがて路地裏に、ひとつの四角い影が伸びた。
     「頼みがある」
     低い声がした。
     「いくらですか?」
     「もう口座に振り込んだ。俺の名前じゃない、お前が昔いた孤児院の院長の、遺産を装ってある」
     吉田はナイフを眺めるのをやめ、振り返った。顔に傷のある大きな男が、そこにやや傾いて立っていた。
     「……依頼内容を話す前に振り込んじゃうなんて、ルール違反だなぁ。断らせてください。ヤバい話持ってきたでしょ?」
     岸辺はいつもの様に、表情をまるで動かさなかった。
     「公安に入れ」
     「嫌です。金は返します」
     「返すな。公安に入って、デンジを守れ。奴を守らないと、人類はまずいことになる。だが公安はあいつを刺激しない為に、強攻策に出るだろう」
     「最大多数の最大幸福のためには、仕方ないんじゃないですか?彼は学がないから、話もあまり通じないでしょう」
     半笑いでそう言うと、岸辺は沈黙した。吉田はその間にナイフを拭き、懐に仕舞った。
     「マキマさんは、死んだんですよね?なら、アンタが公安を牛耳ることも可能なんじゃないですか」
     「無理だ。俺は支配の悪魔を盗んだ」
     「何故そんな馬鹿なことを?」
     「支配はデンジに預けた。二人のことを守ってやれ」
     吉田は話を無視してその場を去ろうとした。岸辺は勝手に話し続けた。
     「俺はじきに消える。もう今後、お前の前に現れることは二度とない」
     少し足を止めた。ほんの少し、その言葉の意味するものが引っ掛かった。
     「……消えるっていうのは、消されるって意味ですか?」
     「そうだ」
     吉田は、笑顔を消しそうになった。だが意図的に頬に力を入れ、笑みを保った。自分がなんのために笑みを消そうとしたのかわからなかったからだ。岸辺は吉田の笑顔に目もくれず、煙草を出して吸った。
     「まあ、俺の逃げ足が早ければ、消される前に自分から消えるかもな。でもお前は俺を探すな。俺が明日以降生きてる保証はない」
     吉田は笑みを深めた。笑いたくて笑ったのではない。何故だろう。どうして自分は、いま笑顔を保たなければと強く思っているのだろう。
     「そんなひどい組織に俺を突っ込むんですか。要はアンタ、日本から逃げるってことでしょ?俺のこと連れてってくれないの?」
     岸辺はそこでようやく吉田に視線をやった。それから数歩前に出て吉田に近付くと、急に吉田の頬をぶった。
     吉田は、ぶたれてそのまま呆然としていた。頬が痛い。呆然としたまま顔を上げると、岸辺は笑ってもいなかったし、怒ってもいなかった。無表情であった。
     「いつまでガキの振る舞いを続けるつもりだ。お前、もうプロだろ」
     言葉が出ない。勝手なこと言って勝手な依頼してきたのは、そっちだろと、そう思う。でも言葉が出ない。
     岸辺は煙草を口から抜いて、地面に投げ捨てた。それを足で踏みつけて火消しする。
     「デンジのこと頼むぞ」
     それだけ呟いて、彼は背を向ける。吉田は追いかけられないし、なにも言えない。どうしたらいいのかわからない。とりあえず、彼の背中を刺すイメージをした。殺す技術以外、吉田はなにも学んでこなかった。だから、思い浮かべられることが、それしかなかった。本当は自分がなにを言いたいのか、それをイメージすることすら、ろくすっぽできなかった。



     正直、吉田は監視を始めたての頃、少し、デンジが嫌いだった。デンジが、まだ子どもだったからだ。







     ふと、足の裏が地面から浮いた。吉田は即座に掌をナイフで切った。血が迸る。社会情勢が不安定な中、若者の間で都市伝説やリストカットが流行るのは仕方がない。そんな気がした。
     掌からダクダクと流れる体液を見つめ、その圧倒的な赤い色に意識を集中させた。痛みのことだけ考えていればいい。俺は感情が希薄な方だ。落下の悪魔に揺さぶられて、まるで自分に絶望や悲哀の感情が備わっていたかの様に思わせられても、それは錯覚だ。そんなものは、人生で感じたことがない。
     飢餓の悪魔が歩いていった方向は、落下の悪魔の出現場所と真逆の方向だった。けれど、彼女のことだから必ず向かうだろう。これはただの直感だが、そもそも落下の悪魔を地獄から呼び出したのは彼女だ。でなければ、根源的恐怖の名を持つ悪魔が急に現世に現れたりする筈がない。
     携帯電話が震えて、吉田はそれを取り出し耳に当てた。
     『もう現場に他の課が介入してます。七課が表立ってデンジ君を保護しに行くのは無理です』
     そう、彼を守ろうとしていることは、公安に気付かれてはならない。あくまで七課もまた、彼を悪魔として、あるいは政治の駒としてしか見ていないという態度を貫かなければならない。でなければ、彼と直接関わる機会を全て失うことになる。特異七課という実験的部隊は、危険で厄介事の多い案件に突っ込むために編成された。こちらがそれを逆手に、デンジの安全を担保しようとしていることは、もう既に薄々気付かれている気がする。だから彼を慮るような動きを見せれば、すぐに揚げ足を取られて現場から撤退させられるだろう。
     「……わかった。三船さんは、現場に出ないで。俺は飢餓の悪魔と対話が終わったから、彼女の監視という体で彼の側まで行くよ」
     『死んじゃいませんかね?』
     「さあ」
     電話を切った。進んで行きたい理由はないが、吉田は落下の悪魔に接近することを選んだ。
     「蛸」




















     チェンソーマン出現の件は、落下の悪魔による混乱で目撃者の大半が死に、テレビカメラも回されていなかったので、あまり話題にならなかった。だが公安は情報を把握していた。
     このままだと、デンジは公安に回収される。吉田は上層部の待つ会議室へ向かいながら、次に打つ手を考えていた。エレベーターが上昇していく。もう少し、ゆっくり上ってほしい。早くに着きたくはないから。
     しかし、エレベーターは静止する。内臓に微かな浮遊を感じたとき、無情な音が鳴る。吉田は革靴を鳴らして、会議室に向かう。最上階はいつも独特ななにかの匂いがして、好きじゃなかった。

     「吉田ヒロフミ、入室します」
     そう声を掛けて、扉を開く。確か、とある映画監督が、自身の作品についてのインタビューで語っていた。「私は映画を作るとき、扉を開けたら必ず悪いことが起きるようにしているんだ」。
     中に入ると、なんの変哲もない禿げかかった中年男性たちが並んでいる。吉田が少し走って、少し腕を振るだけで皆殺しにできる男達。しかし、弱者ではない。彼らは、吉田にはできないことができる。次年度のアメリカ政府の動きを予測したり、ソ連のゴマ擦りをして矛先を他国に変えたり、といったことが。
     「……チェンソーマンが落下の悪魔と交戦していたが」
     「申し訳ありません。彼は未だあの姿になって活躍することに執着しているようです」
     「さっさと女をあてがえと言っただろう」
     「彼が女性との性的関係を求めるのは、根底には母性への渇望があります。そのため、三船には肉体関係を結ぶのではなく母のように接しろと指示してあります。彼の孤独感は徐々に快方に向かっています」
     「だが、止められなかったと」
     「申し訳ありません。精神的な療養は時間の経過を必要とします」
     「そこを、どんな手を使っても短縮しろと言っている」
     「申し訳ありません」
     こんな状況でも、吉田は微笑んでいた。あまりなにも感じていなかった。感じるのは、此処に来る前と、此処を出た後だ。その時は何故か、疲れを感じる。こうして話をしている今はなんともないのに。
     「……もう一度、彼の説得を我々に任せていただけませんか?」
     彼らは、吉田がそう言うのを待っていた。七課はチェンソーマンの封殺に失敗したが、自ら己の尻拭いを買って出た。そういう図式に落とし込みたがっていた。吉田はそれを理解していた。だが、あくまでデンジを保護しようとしていることは気付かれてはならない。
     「……続けなさい」
     「彼は恐らく、今の生活が価値あるものであると理解していません。そこで、彼と同居している支配の悪魔とチェンソーマンとしての活躍を、天秤にかけさせます。それを通して、彼に本当の望みを自覚させます」
     脅迫、という言葉は使わなかった。吉田は薄く微笑んだままでいた。やっぱり、なにも感じない。
     上層部らのうち、端に座っていた者が口を開いた。
     「チェンソーマンが将来、日本の公安組織に永続的に悪感情を持つことは、我々としても避けたいとは思っている。チェンソーマン教会だかなんだか知らんが、彼らがチェンソーマンを雑に祀り上げ、彼の力を弱めてくれるのは、まあいい。だが放置するわけにもいかない……選挙に影響するからな。つまり、チェンソーマンの弱体化とは、世間に忘れ去られることが最良の道なんだ。わかっているよな?」
     「承知しております」
     そう、日本はマキマの一件で失敗している。人間の姿をした人間に友好的な悪魔を、教育し公安組織に組み込んだ。だが、支配の悪魔の本質は悪魔のままであった。故に、公安としてもマキマの置き土産である電鋸少年を、下手に刺激したくはなかった。円満に無力化し、円満に世間から消し去りたかった。
     「……キミはアレだな。殺しは上手くても、政治はからっきしだな。あの造反者からはそこまで教わってなかったのか?」
     「あの男に師事していたのは、一年ほどのみでしたので……個人的な関わりは一切ありません」
     「そうか。思春期時代に一年も関わっていれば、十分影響を受けそうなものだが……キミは感情があまりなさそうだものな。復讐心を抱きがちな若いデビルハンターの中では珍しい」
     吉田は頭を下げて、会議室を出る。あの頬に傷のある男……あの男との接点が、公安内部で足枷となっていた。情で身を滅ぼした老人……いつまで経っても、邪魔な男。



















     「いやしかしよかったよデンジ君。キミを無事に保護できて」
     「学校で居眠りして起きたら縛られてるのが保護?」
     彼の顔を眺めていると、結構嫌われてきているのだなとわかる。髪型を早川アキにでも似せようか。ピアスも減らして。それは余計か。
     「三鷹アサは病院にいる。大きなケガはしていないって」
     「……ナユタは?犬達はどうしてんだ?」
     唇が歪むのがわかった。冷血な人間として振る舞うのは、善良な人間を装うよりも、遥かに負荷が少ない。
     「キミと同じさ。今は僕達で……保護、している」
     デンジは突然パイプ椅子からジャンプし、床に転がり落ちた。
     「ナユタ達にオレと同じ目あわせてみろ…!ぶっ殺すぞ!!俺達を家に帰せ!!今すぐ!!お礼にテメーのケツ穴ん中一週間舐めてやっからよオ!!」
     なにを言ってるんだろうな、この子は。
     「ナユタちゃんにも犬にも何も危害は加えないし、ケツの穴を舐めなくてもいい。キミが保護されているウチはね」
     「死ね!!」









     外は晴れていた。そんな良い天気の下で、人々はプラカードを持って、列を成して歩いていた。デンジはアレがなんなのかまだ知らないから、他人事のような顔をしてそれを見ていた。
     「このデモ隊をキミに見せたかったんだ。チェンソーマンを悪魔と扱い討伐するように、公安へ呼び掛けている」
     「オレって良い子なのになんで?」
     良い子、という言葉が耳に残った。良い子。良い子ってなんだろうね、デンジ君。
     「キミを嫌いだからさ」
     吉田が短くそう答えると、デンジは口を半開きにして、彼らの方を見つめ直した。その時、反対方向から歩いて来た男が、男を殴った。
     「……あっ」
     あっという間に乱闘じみていく。プラカードで人を殴る者もいる。
     「今デモ隊とぶつかっているのは、チェンソーマン教会の信者達だね」
     「なんでデモ隊と戦ってんだ?」
     「キミを好きだから」
     吉田はまた、短くそう答える。デンジは口を開けたまま吉田の顔を見つめ、そしてまたデモ隊の方を見た。
     「なぁんか良い気分だな…俺の為に争いが起きるなんてよ」
     吉田は黙っていた。俺も、毎日キミの為に戦ってるんだけどね。上層部に睨まれながら、毎日キミを庇ってるんだけどね。
     だが、それをいちいち彼に説明することはできない。どこに上層部の目があるかわからないし、金を払われた以上はやる。プロだから。
     「チェンソーマン教会に入会していたのはキミのファンや悪魔被害者達だった。でも最近は興味本位で入る若者達が増えてきて、信者の人数は2万人を超えたらしい」
     『公安は税金を返せ!!』と書かれたプラカードが、道端に落ちている。面白い言葉だと思う。ならキミ達は、これまでに戦って死んだ公安職員の命を返してくれるのか。たまにはあの十字架の無限の葬列に赴いて、「私達のために死んでくれてどうもありがとう」と手を合わせてくれるのか。
     「大半が学生だけど、いずれは選挙権を持つようになる。それで教会へ物資の支援をする政治家も出てきたらしい。チェンソーマンの一挙手一投足は、キミが管理できるものじゃなくなった。これくらいのデモで済めばいいけど、もっと大きな争いに発展する可能性だってあったんだ」
     デンジの顔を盗み見る。デンジはまだ他人事のような顔をしている。
     「そんで?オレはなにすりゃナユタ達に会えるんだ?」
     吉田は目を伏せた。やはり、彼との会話は苦手だ。目論見通りに進んだ試しがない。
     「……キミはもう何もしないでほしい」
     「どゆコト?」
     「キミには二度とチェンソーマンにならないでほしいんだ」
     デンジは案の定、嫌な顔をした。
     「…ヤだ」
     「これからもチェンソーマンになるのなら、キミにはナユタちゃんの死体を見せる事になる」
     今度は、驚いた顔をする。情報を伝える順番は、重要だ。こうしてショックを与えることによって、本当に大切なものはなんなのか、自覚させることができるから。
     「聞いたよ、キミが普通の生活に憧れているって。チェンソーマンにならないだけでその夢が叶うんだよ?ナユタちゃんと一緒にね…これは、デンジ君が人間に戻れるチャンスなんだ」
     デンジは返事をしなかった。
     「今まで通り学校生活を送って俺が友達として遊んでもいい。家に帰ればキミを愛してくれるナユタちゃんと犬がいる。……デンジ君、人間として生きなよ。チェンソーマンにならなくても、キミはもう十分幸せだろ?」

     だって、もうキミを幸せにするために、十分な人数が犠牲になってくれただろ?

     一瞬、吉田の脳裏に子どもの声がした気がした。吉田はそれを無視した。一瞬、自分を幸せにするために、一人でも大人が犠牲になってくれたことがあったか考えてしまった気がしたのだが、気の所為だと思う。子ども相手にセンシティブな話をしているから、感傷的になったのだろう。
     デンジは項垂れていた。吉田は来たるべき言葉を待った。

     「…………………でもオレ…チェンソーマンになりてーよ…!そんでっ、みんなからチヤホヤされてえ…!」

     一瞬、吉田は唖然とした。だが、そんな筈はないと思い直した。ナユタちゃんよりもチェンソーマンになることが大切な筈はない。彼はまだ、話を理解できていないだけだ。
     「俺の話伝わってた?チェンソーマンになれば公安がナユタちゃんを殺すんだ」
     「それもイヤだ〜!!だけどチェンソーマンになれないのもイヤだァ!!」
     目の前で、彼はそう叫んだ。吉田はまたもや呆気に取られた。
     「俺は…!オレん為にデモと戦ってほしいよ〜!!」
     風が吹く。吉田はもう一度、そんな筈はないと思う。まだ彼は理解できていないだけだ。理解すれば、こんなことを言うわけがない。
     「あのねデンジ君…どちらかを選ぶ時がきたんだよ。ナユタちゃんの命か、その醜い欲望かをね」
     バッと手が挙げられた。彼は苦しそうな顔をして、Vサインしていた。
     「ふたつ…!ふたつ選ぶっ!!」

     なんだこの子どもは?

     「どっちかしか選べないんだ!」
     「どっちも!!」
     吉田はいつの間にか立ち上がっていた。そこまでするつもりはなかったのに。
     「ナユタちゃんが死んでもいいのかキミは!?」
     「デモ隊!!集合〜!!こいつを殺してくれ〜!!」
     彼はそう絶叫する。身体の力が抜けていく。今まで、彼一人を守るために身を挺した者達の指や、髪の毛先が脳裏にちらつく。こんなもののために?そして俺も、こんなもののために、安全地帯を抜け出て、いま此処に?
     口角が歪んだ。こうした予期せぬ場面では笑うしかないのだと初めて知った。いま、自分が怒っているのか呆れているのかわからなかった。だが、それでも笑みはこぼれた。
     「ここまで馬鹿だったなんて…!」
     その己の声が耳に届いた時、情感が籠もっていて驚いた。その衝撃は、岸辺が去ったときのそれに似ていた。自分のこの様な声は聞きたくなかった。


     「デンジ〜!!」


     ハッとして、顔を上げる。デモ隊の群れの中に、一人の少女が諸手を挙げて立っていた。その周りには、息を荒げた犬達がいる。
     「デンジい!!」
     「ナユタ!!」
     吉田が止める間もなく、デンジはテラス席から飛び降りる。二人は抱き締め合う。だが吉田は焦る。このままでは、二人は一緒にいられなくなると知っている。
     吉田もデッキから飛び降り駆け寄った。ナユタの向こうには、呑気な顔をした使えない部下が突っ立っていた。
     「会わせるのまだ早い!!」
     「あれ?まだだった?」
     彼はどうでも良さそうにそう答え、そっぽを向いた。そして「すげぇ人だなあ」と呟いた。目眩がする。なんでこんなのが公安にいるんだ。
     振り返ると、デンジとナユタはエヘエヘと嬉しそうにずっと抱き締め合っていた。その睦まじい姿を見れば見るほど、吉田は何故と思った。そこまで大切なら、何故なおさら先のことを考えない。物事を大局的に見ることをしない。ここまで言っているのに。
     「デンジ君いいか!?キミがナユタちゃんの命を選んで一緒に帰らせる流れだったんだ!なのにっ…!」
     面倒そうにデンジが此方を向いた。吉田の言わんとしていることをまるで理解していないその顔を見て、吉田は言葉に詰まった。
     「まあもう…いい!今回の事でわかったハズだ!キミがチェンソーマンになったら公安はナユタちゃんを殺してしまうぞ!」
     「なんだって〜!?」
     支配の悪魔が呑気な声を上げた。吉田は24時間監視しているから知っている。あの子は弱い。マキマが生まれた時から能力使用のための訓練を積んでいたのに対し、あの子はなにもしてこなかった。それに、支配の悪魔として名を轟かせたマキマが倒されたことにより、各国首脳の支配の悪魔に対する恐怖は劇的に低下した。彼女が全力を出しても、公安からは逃げられないだろう。
     「デンジ!!こいつにさ!ファッキューって言って!!早く!!」
     子どもらしい奔放な声で、彼女はそう叫んだ。吉田を殺すために他の悪魔を召喚することも、デンジ以外の誰かに命令することもない。弱いひとりの子どもだった。
     デンジはそんな彼女を抱き締め直した。
     「話は終わったな!俺達は帰らせてもらうぜ!」
     二人は吉田から顔を背け、犬を連れて歩いていく。吉田はそれを見つめる。
     「……俺の話は伝わってたのか?」
     伝わってないのか、伝わっていて尚これなのか。彼には悪魔の心臓が入れられているから、欲望の制御が難しいのか。だが、そうだとしたらどうすれば説得などできるのか。
     呆然とする吉田の肩を、男が叩いた。見下ろすと、彼は平然としていた。
     「なあ、キミ。キミさ、公安何年目?」
     彼は吉田にとって部下なのだが、年齢が上であるためなのか、そう口を利いた。
     「……何年目って……それがなんだ」
     デモ隊の喧騒は徐々に激しさを増し、もはや殴り合いのために此処にいるのかなんなのかわからなくなってくる。その中央で、部下の男は実に寛いでいた。
     「あのさ、キミすごく頑張ってるけどさ。別にいいじゃん、俺達七課が期待されてるのは魔人と武器人間を使って危険な悪魔を殺して戦果をあげることだし。あの子も悪魔なんだろ?ならとっとと上層部に引き渡しなよ」
     吉田はそのとき理解した。彼が早くにナユタ達を解放し、デンジと引き合わせたのは、彼らの行く末に全く興味がないからだと。恐らく、ナユタのごね方が喧しいとでも思ったのだろう。それで面倒になって、連れてきた。説得がどうなろうと、彼にはどうでもよかった。
     「あなたは、自分の職務がわかってないのか!?」
     思っていたよりも大きな声が出る。だが部下の男はそれも堪えていなかった。
     「俺達の職務は悪魔を殺すことだろ?悪魔なんだか人間なんだか、よくわからない子供まで守る必要はない。アツくなるなよ」
     むしろ彼は励ますように吉田の肩を再度叩く。間違えた方向に進む若者を諌めるように。そして吉田に背中を向ける。
     「んじゃ俺は帰るよ〜。公安なんて真面目に働けば働くほど、馬鹿をみるよ〜」
     吉田は言葉を失ったまま、立ち尽くしている。今日ここで説得に成功していれば、デンジはチェンソーマンになることを諦め、教会とも距離を置くことができたかもしれない。そうすれば、徐々に精神的にも立ち直っていけたかもしれない。チェンソーマンとして活躍し続けていたら、彼のトラウマじみた過去の傷が癒える見込みは永遠にない。別に、それは吉田にとってどちらでもよいことなのだけど、でも岸辺はきっとそう望んでいたから。彼の依頼を受けて自分は此処にいるから、プロである以上、一応気にかけているだけだけれど。
     吉田は自分の足元を見下ろした。運動靴を履いて、いい歳をして馬鹿みたいな学生服を着て立っていた。俺はなにをしているのだろう?なにを言っても話の通じないあの子のために、今後も命を賭けるのか。依頼されたとはいえ無理やり押し付けられた金だ、依頼者はその使い道を監視することもできない遠くの地か、あるいは土の下にいる。もう見切りをつけてこの泥舟を降りたってあいじゃないか。
     あの部下だって、お前のような五流以下に知ったような口で言われなくたって、わかっている。上層部に逆らえば、日本にいられなくなる。でも俺は、プロだからやってるだけで。別に、俺だって、あの話の通じないガキを本気で守りたいわけじゃない。だから。いや、でも。

     吉田は自分の足元を見つめて、そのまま暫く立っていた。なんで此処に立っているんだろう、と思いながら、たまにデモ隊にぶつかられながら、立っていた。























     「デンジ君、時間あるかい」
     廊下で待っていた吉田は、彼に声を掛ける。彼はスタスタ歩いていく。それに勝手についていく。
     「ねぇよ。これからタバコ拾いに行くんだから」
     吉田は一万円札を一枚差し出した。
     「奢るよ。釣り銭がたくさん余るだろうから、帰りにスーパーに寄ってナユタちゃんの分の晩ごはんも買うといい」
     金を出すと、デンジの視線はようやく吉田の方を向いた。
     「ナユタを殺すとか言ってた奴がよく言うぜ」
     「できればこっちも殺したくはないんだ。だから君にチェンソーマンになることを諦めろと言ったろ?」
     デンジは吉田を睨んでいた。そして、素早く万札を掴もうとした。吉田は腕を伸ばしてそれを躱した。
     「少し話そうよ」
     デンジの唇は、不貞腐れたように、不機嫌に突き出されていた。




     「キャラメレレ…キャラメ……」
     「キャラメリゼね」
     「それひとつ。あとここって持ち帰りできる?」
     「すみません、テイクアウトはご用意しておりません」
     「そっかぁ…今度ナユタも連れてきてやるか」
     「いいんじゃない?」
     「テメーは黙ってろ」
     注文を済ませると、店員は立ち去った。デンジは先に来たオレンジジュースを飲んでいた。
     「キミとはこの前、ちょっと話し足りなかったからさ。まだ議論の余地があると思って、色々言いたいことがあったんだ」
     「もうテメーの話は聞き終わったんだからいいだろ?またナユタを殺すとか言ったら、俺もデモ隊を呼ぶぜ」
     吉田は黙って微笑んだ。
     「そのナユタちゃんの件をさ……考え直してくれないか?」
     「ヤだよ」
     「この世界は、欲しい物を全て手に入れられるようには出来ていないんだ。ナユタちゃんのことが本当に大切なら、チェンソーマンになることは諦めてほしい」
     デンジは気怠げな声を出した。
     「俺にとってはナユタもチェンソーマンも大切だよ」
     「デモ隊の衝突を見ただろう?あの人達にも、大切なものや人がそれぞれあるんだ。キミの影響力は大きすぎて、彼らの大切なものを脅かしかねない。だから、ナユタちゃんや犬や学校生活という、目の前の幸せを大切にしてほしい。自分のためにも、周囲の人間のためにもね。公安に勤めてる俺達職員だって、大切なものはある。それを失いたくないんだ」
     デンジの目がジロリンと吉田に向いた。
     「……公安は俺がいた頃からきな臭ぇトコだった。マキマさんのことも雇ってたような組織だからな。オメーもそこにい続けたら、いつか殺されるぜ。悪魔じゃなくて、公安にな」
     眼球を囲う筋肉が硬直する。仄かに、彼に対する不快感が戻ってくる。お前ごときが、俺の心配をするなという感覚。
     吉田は頬に笑顔を浮かべた。
     「……心配してくれるのかい?」
     「テメーは俺のことを馬鹿だと思ってるみたいだから、実は俺の方が賢いってことを教えておきたかったのさ。貧しいながらナユタ達と暮らして夢も希望も持ってる俺と、公安の言いなりになって右も左もわかんねーでいるお前。どっちが幸せで賢く生きれてんだ?って話だよ」
     デンジは瞳の小さいギョロギョロとした目で吉田を見た。デンジの突拍子のなさは、しばしば周囲をたじろがせる。だがそれが、彼が周りよりも物事の本質を見ているとか、そういう証左になるわけじゃない。彼がただ常識を知らないというだけだ。だからこの社会の枠組みも殆ど見えていない。
     スイーツがテーブルに置かれた。デンジはフォークを掴むと、早速それを頬張り始めた。気持ちの赴くままに。実に幸せそうに。
     「……そうか、君は、俺にそれを伝えるためについて来たんだな。でも忠告には及ばないよ、なにが正しくてなにが間違ってるかくらい、ある程度知ってるからね」
     少なくともお前よりは。
     「公安はたしかになかなかひどい組織だよ。俺も実はあまり信用してない。でもそれは、公安が間違ったことをしてると思ってるって意味じゃないんだぜ?公安は国の組織だ。だから必要悪を実践する義務と責任がある。日本国民の健康で文化的な最低限度の生活を守るために、少数の人間を殺したり、監視したりするのも仕方ないのさ」
     デンジは今もずっと、キャラメリゼカスタードプリンを頬張りチョコレートを丸ごと刺して齧り
    、あらゆる甘味にむしゃぶり付きながら、目だけは吉田の方に寄越していた。やはり彼の眼孔は人一倍大きくて、それなのに瞳は人並み以下に小さくて、人を見つめていると、相手の眉間を射抜くような鋭さを持っていた。
     彼は生クリームを飲み込み、ベタベタの唇を動かした。
     「……それさ。誰がそう言ってたんだ?」
     「…? なにが」
     「今の、テメーの言葉じゃねぇな。誰かがそう言ってたのをどっかで聞いて、それの真似してるだけだろ」
     心臓が鳴った。肋骨の間に、冷たく重いなにかが流れた。
     「お前、なに考えてるかわからなくて気持ち悪ぃんだよ。俺はテメーに質問してるのに、テメーときたら他人の考えを答えるだろ」
     デンジのギョロギョロした鋭い目が、吉田の黒い瞳を正確に捉えていた。吉田は視線を動かせなくなった。今、彼の目から目を逸らすわけにはいかなかった。
     でも、だって、なにも感じていないんだから、仕方ないじゃないか。本当に君に興味ないし。善悪とか社会とかも、別にどうでもいいし。それに、一般的な回答で済ませることのなにが悪い?本当に自分の頭で物事の善悪を考えて勤める会社を選んでる奴なんて、この世界に殆どいない。どいつもこいつも見てるのは給料だけだ。この資本主義社会では、道徳的に重要な仕事には金は支払われない。需要の大きい仕事に金は回ってくる。それが真理だ。売れている俳優が、悪魔に殺された子供たちを保護している孤児院経営者よりも遥かにいい暮らしをしているのはそのためだ。公安のデビルハンターになるよりも、民間のデビルハンターとして弱い悪魔を殺している方が楽しく暮らせるのもそのためだ。お前がそんな純真なことを言えるのは、この社会を知らないためだ。
     そう思った。だが、監視対象の年端もいかない少年に、それを伝えるほどプロ意識が欠けているわけでもない。吉田は黙った。頭の中では散々に反論していたが、取り繕う言葉が出てこなかった。デンジはそんな吉田を置いて立ち上がる。
     「じゃあ約束通りこの一万円は貰ってくぜ。あばよ」
     金だけ取って、彼は歩き去っていく。いつも彼は、吉田の元をそうして去る。こいつと話しても仕方がないというみたいに。まるで、吉田が自己主張できるだけの自己を持っていないと、看破しているかのように。







     吉田が家に着いた頃には、もう零時だった。靴を脱いで学ランだけ脱ぐと、吉田は着替えもせずにベッドに突っ込んだ。民間にいた頃は、外で着ていた服のまま横になるなんて有り得なかった。でも今はそれが些末なことに思えるくらい、疲れていた。毎日身体が動かなくなっていく。
     (…………責任も部下も持たないで、前線で悪魔殺し続けてた方が、楽だったな……)
     部屋の明かりもつけず、そう思った。なぜあの人が現場に拘っていたのか、思いを馳せた。少し前までは、本当に悪魔を殺すのが好きなんだとか、公安を信用してないんだとか、いろいろ考えていたけれど。昇進しても、碌なことがないとわかっていたからなのかもしれない。でも、あの人の方がまだずっと、俺よりも適性があったと思う。少なくとも、人望があった。デンジ君からの信頼もあった。経験値だって人脈だってそうだった。
     吉田がこれまでの人生で身体に叩き込んできたのは、申し訳程度の社交辞令と微笑み、及び生命を殺害する方法だった。あとは何も知らない。善悪や道徳や倫理については、学校教育で上っ面しか教わってこなかった。吉田ヒロフミが、楽な民間から苦痛と死に満ちた公安に移籍しようとしなかろうと、政治家は脱税するし、民族や部落差別はなくやらないし、大衆は憶測と偏見で無責任に買い物をし選挙に投票する。そのどれもが、万人の生活に結びついており、あのひとりの青年の行く末にも影響している。吉田ひとりが頑張ったところで、世論がチェンソーマンを戯画化することも英雄視することも止められない。大衆はいつでも馬鹿だ。政府に逆らえないマスコミの言うことを鵜呑みにして、芸能人の不倫やセレブ生活、お笑い芸人の体を張った一発芸にばかり夢中になり、チェンソーマンの正体が誰かなんて本気で追及したりしない。信念を持たない政治家達は、チェンソーマンを馬鹿にすることで票を得ようとする者と、チェンソーマンを讃えることで票を得ようとする者に分かれている。誰も自分の頭で考え苦しむことを選択しない。他人から聞きかじった言葉で喋って考えるし、それが聞きかじった言葉たちの切り貼りであることにも気付かないまま死んでいく。だが、その方が、早い。早いし楽だろ。それに俺は、間違ったことを言ったり間違ったことをしてる訳でもない。
     制服を脱ぐイメージをする。脱いで、シャワーを浴びて、食事して寝る。そうするべきという一連の行為を想像する。けれども手脚が動かない。午前から夕方まで学校の彼を監視して、その後は報告書を作って、会議して、監視計画を見直して、部下の報告書を受け取って、見直して……そういう生活を、あと何日続けられるのか、数える。数えたくないと思って止める。目を閉じる。
     自分の感情は人よりもずっと希薄だと思っていた。人からも、いつもそう言われていた。お前はとりあえず笑っているだけで本当はなにも感じていないとよく言われた。実際それは当たっていたので、吉田はいつも通り微笑んでいた。でも、今は、ひょっとすると、と思っていた。感情が希薄だったんじゃなくて、自分がなにを感じているのか、ずっとわからなかっただけなのかもしれない。いま、俺は心細いのかもしれない。



























     何故、あの人に言われたままに、馬鹿正直に公安に移籍してきて、こんな危険な綱渡りをしているのか。今でもわからない。吉田ヒロフミは、自分の感情が自分でわからない。
     三船の報告書に目を通して、訂正箇所に修正依頼を書き込んで付箋を貼って、三船のデスクの上に置く。椅子の背もたれに寄りかかって肩を回すと、バキと身体の中で音がした。
     隣でカタ、カタ、と音が聞こえた。見やると、弓矢の武器人間がパソコンのキーを人差し指で、一個ずつ打っていた。まだその扱いに慣れていないのだろう、タイピングはべらぼうに遅い。
     彼女が自分と同じタイプだなどと思い上がる気はないが、僅かに類似していた。殺すことが最も得意で、あとはそうでもないということ。
     ぽち、ぽち…と、無表情にキーを押す彼女を眺めた。なんでこの女は、こんな所にいるのだろうと思った。この女だって自分と同じで、社会正義なんて持っていない筈だった。ついこの前まで中国政府の下で、甘い蜜を吸うために汚れ仕事を何でもやっていた筈で、いまは監視対象であるデンジのことも、当時未成年と知っていて平気で首を撥ねた。彼の来歴や正体など一切考えていなかっただろうし、彼を殺すことでどの様に世界の均衡が保たれ安全が保証されるのかなども、別に思考を巡らせなかっただろう。俺が彼女の立場でもそうした筈だ。俺も、頼まれたら対象の人生に思いを馳せることなく殺す。その結果として善と悪のどちらがより多く成就されるのかなど考えない。
     「なにか言いたいことがあるなら言え」
     クァンシはキーを一個ずつ打ちながら、そう言った。白い睫毛が下瞼に影を落としていた。
     「じゃあ言いますけど……それ俺が代わりに打ち込みましょうか」
     クァンシは吉田のことを横目に見た。
     「頼む」
     吉田は立ち上がり、クァンシの席に座った。書類を一瞥し両手でダカダカと打ち込んでいく。
     「速いな」
     「本当は女の子に助けてほしかったでしょ」
     「うん。でも今日はフミコはいないから」
     「デンジ君についてもらってますからね。……ひとつ聞いても?」
     クァンシは返事をしなかった。それを、吉田は了承と捉えることにした。
     「アンタ、あの人が日本を去る時、誘われなかったんですか。一緒に行こうって」
     「誘われてない」
     「本当に?」
     「何が言いたい」
     吉田は書類の内容をパソコンに打ち込み続けた。
     「アンタはなんであの人と逃げなかったのか、ずっと意味がわからなくて。武器人間や魔人の扱いがどんなものなのかは、事前にわかっていた筈だ。ここはアンタにとって古巣だろうし、わざわざ日本に戻ってきたのは飼い殺しにされたかった訳じゃないだろ」
     クァンシには速いと言われたが、吉田は少し遅く打っていた。作業を手伝っている間なら、彼女と会話する理由をこじつけずにいられる。
     「……この世でハッピーに生きるコツは、馬鹿のまま生きることだと。そう考えて、数十年それを実践してきた」
     視界の端に、クァンシが立っているのがずっと見切れている。吉田は決してそちらに視線を動かさなかった。
     「だが失敗した。そして、馬鹿でいることを拒否して行動し続けたあいつも、立場を追われて日本を出なければならなくなった。今頃は死んでるかもしれない。馬鹿でいても馬鹿でいることをやめても、私達はどちらにせよ失敗するらしい。……だから、とりあえず今度は、自分が選ばなかった方を選んでみた。それだけだ」
     あと少しで入力が終わる。
     「あいつは此処に残りたくても残れなかった」

     タンッ。

     エンターキーを押していた。吉田は椅子から立ち上がり、自席に戻る。
     「……終わりました」
     「どうも」
     「こちらこそ。興味深い意見でした」

     吉田は、実は彼女のことも、なんだか気に入らなかった。そもそも吉田が気に入っている他人なんて、この世にひとりもいなかったのだが。

























     古い男子トイレの個室に入った瞬間、吐いた。失敗した。見通しを誤ってしまった。七課の部下が八人死んだ。人員の振り分けさえ間違わなければ避けられた死だった。だが、教会が火の悪魔を取り込んでいたことは諜報から入ってきていなかった。だから、信徒があの様な殺傷能力の高い暴徒と化すことは知らなかった。戦争の悪魔の討伐も、部下には任せず自ら出向いた。なのに、火の悪魔のせいで戦争への恐怖が一瞬で増大したから倒せなかった。諜報が火の悪魔のことを掴んでいれば、全て上手くいっていた。教会を無力化しチェンソーマンを世間から忘れ去らせることができていた。重要な作戦だった。ここが日本の分水嶺だったのに、教会の諜報共が…………いや、だとしても、八人の部下の死については、己の責任だった。
     吐瀉物の臭いに吐き気を誘われ、更に吐く。作戦に失敗した。デンジを保護することはもうできない。公安が彼を正式に拘束した。もう庇いきれない。彼は解体され、悪魔としてセンターに収容される。ナユタの行方もわからない。全部失敗した。全て上手くいかなかった。
     依頼された人間を殺すのはなんともない。だが部下を己のミスで失うのは、訳が違った。保護対象を保護できずに失うのも、違った。今まで殺ししかやってこなかったから、自分は他人の命に何も感じない人間なんだと思っていた。それなのに、失敗した途端このザマである。今まで守るものも責任もなかったから平気でいられただけなのだ。自分の心は弱かった。
     吐きながら、口内に塩気を感じる。息が苦しい。泣いているのだろうか。まさか、この俺が。何人も殺して、今までなんともなかったこの俺が、今さら一丁前に人間らしく泣いているのか。
     吉田は泣いて吐きながら、あの電鋸の少年に申し訳なく思った。そして仕事を辞めたいと思った。














     少年の眠る横顔を眺めていた。壁にもたれて、何時間もその顔を見ていた。今まで、彼の顔を見ていると嫌な気持ちになったのはどうしてだろう。何日も彼を眺めて、ずっと、考えていた。すると、彼を見ていると、その後にいつも自分が過去を思い出していることに気付いた。普段は過去のことなど考えないのに、母が不倫していたこと、父が金の話をしていたこと、よくわからない間に二人とも死んでいたこと、父のちぎれた足の断面が豚肉と変わらないと思ったこと、小学校で浮いていたこと、男子のクラスメイトから何故かいつも嫌われていたこと、悪魔被害遺児に振り込まれる給付金が思っていたよりずっと少なかったこと、孤児院でも浮いていたこと。そういうことを、デンジの顔を見ているとつらつらと思い出していたことに気付いた。だから彼のことが嫌いだったのだとわかった。そして吉田は結論付けた。俺は、弱さというものが須らく嫌いで、それは自分自身も例外ではなくて、だから、俺は人間は全て嫌いなんだと思った。
     その時、吉田の嫌悪を嗅ぎつけたのか、デンジが急に目を覚ました。吉田はそれを、静かな気持ちで見ていた。
     「目が覚めたんだね」
     彼があの目で此方を見る。遺児の目である。誰にも守られないうちに守る側に立たされてしまった子どもの目である。
     デンジに、説明をする。彼は追い詰められたような表情を見せる。吉田は何故か、彼に優しい言葉をかけてみたくなる。彼がベッドから落ちる。それを見て、彼の無力さを思う。俺も無力だし、彼も無力だ。死んだ八人の部下達も、公安の特異課も、全員。
     才能も鍛錬も足りなかったから部下は死んだ。そういうことだろう。相手は悪魔ではなく、頭からチェンソーの生えた一般人だ。多勢に無勢とはいえ、一般人だった。それに負けたのだから、遅かれ早かれ、どうせ死んでいた連中だ。俺ひとりでは庇いきれないほどに実力の劣った部下達だった。だが仕方がない。一般人にしか見えない彼らを殴って刺していいのか、迷ったのだろう。良心が咎めたのだろう。良心とは、強い力を持って初めて十全に発揮する機会を与えられるものだが、彼らは力もないくせに、良心だけは一丁前に持っていたのだろう。だから割りを食う公安なんかに来たのだろう。そういう連中だったのだろう。仕方がない。
     デンジがこの現状の意味を正しく推測し、社会にとって最善の道を選ぶことができなくても仕方がない。彼は教育を受ける機会も、精神的な発育を進める機会も、PTSDを癒やす機会もなかった。だから、最大多数の最大幸福のためにどうするべきかなんて、彼に考えられる筈がない。情報もひどく限られている。彼は世界に振り回されている側の人間だ。彼が世界を振り回しすぎているのではなく、世界のほうが、彼ひとりに振り回されすぎているのだ。彼は悪くない。誰も悪くない。俺も別に、悪くない。俺だって良心を学ぶ機会や余裕など、この人生で一度もなかった。悪魔に脅かされるこの社会では、人類は皆被害者だ。
     「デンジ君……俺は猿でもわかるように説明したはずだ。もう俺がキミにしてあげられることは何もないよ」
     自分の声が遠い。なにを言っているのか、自分で聞き取れない。それでも己の腕は機械的に彼に注射針を刺していた。彼の目が淀み、意識が混濁していくのがわかる。彼の目蓋が閉じるのを見届けてから、抱き起こし、ベッドに寝かせる。重みを感じる。ひとりの命をもった人間の肉体は重い。死体は、もっと重い。何故だろう。少なくとも魂の21グラム分は軽くなっている筈の、もう命を持たない死体の方が、なんであんなに重かったんだろう。
     吉田は殺した死体を引き摺っていた子供の頃を、そんな風に振り返っていた。初めて人を殺したとき、なんだか悪いことをしてしまった気がして、上司に報告するより隠したいと思った。病室を出ると、部下たちが並んでいた。なぜ、こんな所に並んでいるのだろうと思う。それから、此処は死体を引き摺っていたあの道ではなくて病院であること、もともと此処に集合する手筈であったことを思い出した。
     「……今、また薬で眠らせた……」
     声は相変わらず遠かった。その後の会話も対岸の出来事のようで、吉田には現実味が感じられなかった。三船の発言が、如何にもなにか企みを感じるもので引っ掛かったが、もうそれを咎める気もなかった。彼女が彼女なりの方法で未だに彼を助けようとしているなら、別に止めない。見逃そう。しかし、手伝う気もない。もう吉田はできる限りのことをして、活力を使い果たしていた。















     ふと意識が戻ると、便器の中に溶けた吐瀉物が見えた。まだ本部にいたのかと思ったが、遅れて自宅だと気付いた。いつ帰ってきたのだろう。そしていつまた吐いたのだろう。
     頭の中で記憶を辿る。デンジに注射を打った。七課のこれまでの独断専行の記録を完全に抹消するため、本部に戻ってから記録の見直しをした。上層部の目を盗んで記録を一部破棄し、帰ってきた。

     (……作戦は、失敗した…………)

     また同じことを考えた。八人の部下達が死んだ。長谷川はまるでハンターの才能がなかった。佐倉はパワーがあったものの打たれ弱い性格だった。矢野は凡百程度の実力なのに態度だけは大きくて、エリート意識が鼻についた。加藤は気の良い奴だったが、やはり才能はなくて、それを自分でも理解していた。三沢は強い悪魔と契約したが、その代わりに寿命を殆ど差し出していたから、どのみち年内に死ぬ予定だった。飯田は書類仕事が早かったから、現場は諦めて事務に行くよう、以前からそれとなく伝えていた。荒川は復讐心が強く、銃の悪魔が既に拘束されているとも知らず公安にやって来た典型の新人だった。千野は貧乏で、汚い男達に抱かれて金を稼ぐくらいなら社会貢献を選ぶと言って七課に来た。川畑は才能がなくて運動神経もどちらかといえば悪くて、俺に惚れていた。
     腕時計を見る。時刻は零時を過ぎていた。着替えて寝なければ明日に差し支える。だから、眠らないといけない。ここから立ち上がって、服を着替えてベッドに横たわる。それだけやればいい。そう思いながら、吉田はまだ腕時計を眺めていた。民間にいた頃に買った品だった。若くして致命傷を負い働けなくなった時のために、価値の上がり続ける資産を持っておけと先輩から聞いて、機械式時計を買った。岸辺には言わなかったし見せなかったが、こっそり彼と同じ物を選んで買っていた。数年前、このモデルの生産が終了したのでプレミアがついた。いま売れば一千万以上の値がつく。これを狂犬岸辺の遺品だと嘯いて、二千万で売って、公安を辞める。そういう道もあると思った。



     悪魔に家族が殺されてから、金のことだけを考えて生きてきた。初めに自分に悪魔殺しの手解きをした男から彼の名前を聞き、自ら狂犬岸辺を探し出して弟子入りしたのも、もっと強くなってもっと金を稼ぐためだった。





















     「経験上、自ら俺に指導を頼んでくる奴は、身の程を知らない馬鹿か、復讐に自我を乗っ取られた馬鹿のどちらかだった。お前は前者の目をしている」

     岸辺という男は、初対面のガキを見るなりそう言った。吉田は、とりあえず微笑んだ。学校で、笑顔でいることはいいことだと習ったからだった。だが岸辺は全く笑わなかった。
     「お前の様な人間は、一度プライドを叩き折られた方が良い。その際、俺はお前の骨も結構折ると思うが、訴訟や文句は受け付けない。この仕事にケガはつきものだからな。いいな?」
     「はい」
     吉田は微笑んだままそう答えた。どんな化け物かと思っていたが、狂犬岸辺は初老だった。頬の裂けた傷を黒い糸で縫い合わせており、自動販売機よりも上背があり、コートの上からでもわかるほど鍛え上げられた肉体を持っていたが、しかしもう歳を取り始めていた。吉田は、自分よりも強い四十代男性を見たことがなかった。
     その時、顔面を殴られた。まだ吉田が構えてもいない段階だった。パキッと顔の内側でなにかの折れる音がして、吉田は驚いて飛び退き鼻を押さえた。掌を見てみると、見たことのない勢いで鼻血が溢れていた。
     「いいな?って聞いてはいって答えたんだから、構えろよ。それともお前が今まで殺してきた悪魔は、『それでは殺し合いを始めましょう』と事前に宣言してくれていたのか?」
     頭に血が上るのがわかった。吉田はまた笑って、今度は返事をしなかった。このオッサンを泣くまで殴ろうと思っていた。




     吉田が殴って蹴ってくるのを、岸辺は無表情なまま全て躱した。そしてまた吉田のことを殴った。
     「頭を使え。これは格闘技じゃない。反則は存在しない」
     そう言って、股間を蹴り上げられた。息が詰まって、吉田は倒れた。冷や汗が止まらなかった。無駄に恥をかかされたとも思った。
     金的蹴りが悪いことだと思っていたわけじゃない。でもそれでこの男に勝ったって、胸を張れないだろうくらいの気持ちはあった。
     早く立たないと、更に殴られる。そう思って、身体の震えが止まらないうちに立ち上がった。岸辺は数歩向こうで酒を飲んでいた。
     「ん。再開か?」
     吉田は殴り飛ばされ、また倒れた。フラフラなまま立ち上がったから、今度は岸辺の動きがまるで見えなかった。
     「常に勝つための算段を導き出しておけ。闇雲に立ち上がるな。相手の隙を突くためなら気絶した振りだってしていいし、泣いてもいい。俺の同情心を引いて利用することも計算のうちに入れろ。俺は涙もろいから利くかもしれない」
     立ち上がって、岸辺に蹴りを入れようと脚を振りかぶった。そしてそれを防がれ、また自分が殴られた。


     それを何度も繰り返した。日が暮れるまであと少しという頃、吉田の手足は完全に動かなくなった。






     胃の中が空になっているのがわかった。気持ち悪いが、吐くものが何もない。身体中が痛い。全部嫌な気持ちになって、吉田は手元の蟻を一匹ずつ潰していた。岸辺は黙っていなくなった。動けなくなったと気付いて、帰ったのだろう。
     頭上になにかの影が差した。目だけで見上げると、岸辺が棒アイスみたいなものを差し出していた。あの、凍らせて、折って食べるやつ。
     「腹に入れられそうか」
     吉田は暫く呆然としていたが、微かに頷いた。すると、岸辺はそれを二つに折って、折ったうちの一本を自分で咥えた。吉田は驚いた。この棒アイスを折って二人で分け合うのは、テレビで見たことがあった。でもそれだけで、本当にそう食べる人間がいるとは知らなかった。吉田はいつも、折ったら両方とも自分で一本ずつ順番に食べていた。
     岸辺は平然として吉田の隣に腰を下ろした。吉田は横目に彼を盗み見て、彼の真似をしながら中身を少しずつ吸った。シャリシャリしていた。口の中ですぐに溶けて、ジュースになった。食欲がなくても、甘い液体は飲み込むことができた。

     「筋がいい」

     岸辺が、ふとそう言った。吉田のなかで、そう言われた瞬間、時間が少し止まった。
     顔を上げて、彼の横顔を見た。砂漠のような顔立ちだった。乾いていて、しかし滑らかに整っていた。尖った鼻先も縫い合わせた頬も、少しずつ歪んでいる。あちこち怪我をしすぎたせいだろうとわかる歪みだった。だが、均整が取れていた。無精髭を生やしザンバラ髪でいても尚、二枚目の面影が隠しきれていなかった。
     「恐らく、俺が今まで指導してきた犬共の中で最も筋がいいし、今後お前を超える奴は、一人も現れないと思う」
     ひどく穏やかな風が吹いた。それだけで、身体中の切り傷や擦り傷が痛んだ。きっといくつかは消えない痕になるだろう。対して、隣に座っているこの男は無傷だった。その男は、吉田に一瞥もくれなかった。
     「お前だったら、俺が一生敵わなかった女にも一、二発蹴りを入れられるようになるかもしれない」
     この時目に映っていた景色を、吉田は妙に鮮明に覚えている。初夏らしい白い雲がいくつか青空に浮かび、地平線の色は変わり始めていた。十字架が針のように小さくなって、どこまでも、どこまでも並んでいた。この世界は自分以外のもので満ちているということを、何故かあの時はっきり感じた。風の音がはっきり聞こえたし、隣の彼から香る煙草の匂いもはっきりとわかった。
     「……それ、俺がじきにアンタを超えるってこと?」
     「俺のピークは五年前だった。後は衰える一方だ。お前がこのまま鍛え続ければ、一年で俺と互角になる。そのあと俺は弱くなり続けるし、お前は強くなり続ける。お前は俺を一年で超える」
     「…………ふうん」
     一年後、彼を泣くまで殴り倒せるようになっている自分を想像した。来年の夏まで生きようと思った。
     「それ食ったら帰れ。また明日ここでやる」
     「はい」
     「逃げるなよ」
     「逃げませんよ。一応、俺プロなんで」





















     腕時計の針の音が、微かに聞こえる。目を開くと、コチコチと、時計の針が一秒毎に動いていた。機械式は螺子を巻いてやらないといけないし、クォーツ時計より時間も不正確だった。ひどく手間がかかるので、箔が必要な場面でしか身に着けない。……着脱可能な箔など、つくづく笑える。


     もう、悪魔殺しを辞めても生きていけるだけの金はある。この職場を離れて、彼の行きそうなところを虱潰しに探して、世界中を回る。そんな自分を想像する。南国の海辺、モンゴルの草原、NYの不夜城、極北の雪景色……。海外に出たことは一度もない。旅行なんて興味がなかったし、海外移住に対して憧れも夢もなかった。悪魔のいない国なんてこの世に一つもない。人のいるところに悪魔は必ず現れる。だから、海外に逃げる意味を見出せなかった。悪魔から逃れたいならとにかく田舎に行くことだ。強い悪魔が少ない。彼もきっと、どこの外国に逃げたにしろ、田舎町に向かった筈だ。強い悪魔と都会で遭遇したら、彼は周囲の人間を守るために戦わずにいられないだろう。そしたら居場所が公安に割れる。
     彼になにか重要なことを言われた訳でもない。父性を期待していた訳でも、心から師と仰いでいた訳でもない。でも、彼が、田舎で暮らしているところを想像する。想像するために目を閉じる。公安のスーツを脱いで、民間人らしい格好で、古い一軒家に住んでいる。普通の中年男性らしくダイナーなどで食事をして、中古車に乗って数キロ先の市場まで買い物に行って、近隣の畑仕事を少し手伝って、帰ってくる。食事をして、政府と癒着しているであろう大手マスメディアの流すニュースを見て、今日も世界が改善されなかったことから目を逸らして、風呂に入って寝る。その空想を、吉田は気に入る。穏やかであれ、と思う。たとえ彼がこの世界をより良くすることに、ろくに貢献出来ぬまま退場していたのだとしても、彼の健闘に見合った穏やかさを享受できる余生であれ。


     吉田ヒロフミが正義らしきものを見かけたことがあるのは、あの男の背中だけだった。だから、悪魔の蔓延るこの世界で、わざわざ追いかけてみようかと、ちらとでも思えるものがあるとしたら、それもまた、彼の背中のみであった。


     吉田は暫く目を閉じたままでいた。自分の頭で考えるということや、決断し責任を負うことや、あえて愚かなまま生きることを選ぶ人々の狡猾さについて考えていた。それから、ゆっくり頭を起こし、静かに口元を拭った。
     金のために、悪魔だけでなく人間も殺してきた。地獄は悪魔の生まれる場所と聞くが、罪を犯した人間まで地獄へ堕ちるのは、その悪魔たちの餌となるためだろう。もう、俺は死んだら地獄へ行くと決まっている。それが罰なのだろう。なら、それはそれで構わない。命は地獄に置いてきた。そういうことにしておいてやる。
     地獄で永遠に悪魔に食われ続ける非業の死後を迎えるまで、悪魔を殺し続ける。そして、あのひとりの子どもを守る。俺が生涯を懸けてできることなど、それくらいのものだろう。
     善を選んだわけではない。これはただの、プロとしてのケジメだ。






























     目覚めた。眠い。
     重く倦怠感に満ちた身体を起こし、目覚まし時計を止める。窓の外を見ると、曇り空だった。きっと午後から天気が崩れるだろう。微かに片頭痛がする。

     嫌だと思いながら、ベッドを降りて、トイレを済ませて、歯を磨いて、着替える。六個入りで売られている安いバターロールを袋からひとつ取り出して、齧る。朝は食欲がないのだが、少しでも腹になにか入れておかないと身体が動かない。それから頭痛薬を水で流し込み、外に出る。自分が本当はなにをしたいのか考える。二度寝、辞職、休息、少し広い家。それらを、子どもひとりの命と天秤にかけてみる。天秤は、残酷なほどに大きく傾く。どう足掻いても、子どもの命のほうが重かった。
     それを今さら悲しがったりはしないことにしている。プロだから。吉田は今日もひとりの少年を守りに行く。情緒の欠落した自分に彼の心を開かせることは無理と知っていても、自分だって普通の暮らしが何なのか知らなくても、自分だって家族や友だちを持ったことがなくても、やる。刀の切っ先を組織に向けることになっても尚やる。彼のために自分が死んでも彼はなんとも思わないだろう。むしろその方が、今となっては都合がよい。余計な心的ダメージを与えずに済む。仕事は死んでもやり遂げる。そう教わった。








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    Replies from the creator

    zenryoudeyasasi

    PAST⚠シリアス 笑えるところ一個もない
    ⚠捏造
    ⚠ちょっと岸←吉ブロマンス感ありですが腐向け要素はありません カプ抜き

    17巻の表紙も裏表紙も吉田祭り♡♡いっぱいしゅきしゅき♡♡とか浮かれてたら中扉見て気絶したって話です なにあれ?
    命は地獄に置いてきた 彼が笑わなくなっていたことには、すぐに気付いた。落としたコンビニの握り飯を拾い食いし、安いハンバーガーのチェーン店に屯するだけでひどく楽しそうに生きていたのに、学校は楽しくないのか。そう思ったが、彼が笑わなくなった理由など、あまりに明らかであった。












     目覚めた。眠い。
     重く倦怠感に満ちた身体を起こし、目覚まし時計を止める。窓の外を見ると、曇り空だった。きっと午後から天気が崩れるだろう。微かに片頭痛がする。
     嫌だと思いながら、ベッドを降りて、トイレを済ませて、歯を磨いて、着替える。六個入りで売られている安いバターロールを袋からひとつ取り出して、齧る。朝は食欲がないのだが、少しでも腹になにか入れておかないと身体が動かない。それから頭痛薬を水で流し込み、外に出る。電車は混むし彼も乗らないから使わない。徒歩で通学する彼のために、吉田もまた徒歩で学校に向かう。
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