【イルアズワンドロ】読書 本を読む、というのは実は長いこと苦手だった。
幼い頃からちゃらんぽらんな両親に連れ回されてろくろく学校にも通えなかったし、家に「本」などというものが存在しなかった。最低限の読み書きは生活をする中で必死に身につけたけど、それもよりたくさんのお金を稼ぐためだった。
中学を卒業するかしないかくらいの頃には、ついに両親は失踪してしまった。でも、むしろその方が有り難くて、親から解放された僕は適当な街に根を下ろして、アルバイトを渡り歩きながら定時制の高校に通った。それでなんとか、通り一遍の常識を身につけた。――それが、僕が人生で「学び」というものと向き合った出来事の全てだ。この人生でまともに読んだ本なんて、高校の教科書と、アルバイトで漫画家さんのアシスタントをしていた時に読んだ、その漫画家さんの作品くらい。
それが、どうして今こうして必死に、暇さえあれば本を読んでいるかと言えば、文芸誌の編集部に配属されたからだった。
高校に通い始めたばかりの頃、アシスタントをしていた漫画家さんの連載が終わってしまって、収入を断たれてしまった僕を、漫画家さんが編集部に紹介してくれて、その伝手で、小さな出版社の、少年漫画誌の編集部で下働きのバイトを得た。そのまま下働きをしながら高校に通って、卒業後、そのまま出版社が雇ってくれることになったのは良かったが、少年誌の編集部の編集者は足りている、ということで、文芸誌に配属になったのだった。
――そんな訳で、業務の合間に暇さえあれば本を読むようになった。はじめは、文芸誌の編集者なんだからこれとこれとこれとあれとそれとどれとくらいは読んでおけ、と編集長に出された課題図書を齧り付くようにして読んだ。最初のうちは全然何が書いてあるのか分からなくて、仕事、仕事、と思いながら読むばかりだったけれど、段々物語を楽しむコツのようなものが分かってくると、少しずつ本を読むのが楽しくなってきて、今は自発的に、暇さえあれば何かしら読んでいる。
そう、ちょうど今、担当の作家先生の原稿が上がるのを、先生の部屋で待たせて貰っている――待たされている、とも言う――時なんか。
僕が担当しているアリス先生は、学生時代からあらゆる新人賞を総ナメにしてきたという、まさしく天才作家。デビューから数年した今でも、書く作品書く作品、次々とヒットする。
どこの出版社も喉から手が出るほどアリス先生の原稿が欲しいだろうに、何故かアリス先生はあるときから、僕が担当じゃなきゃ仕事をしない、と言って、本当にうちでしか書かなくなってしまった。僕とセットでの引き抜きの話はしょっちゅう来るけど、苦学生だった僕の世話をあれこれ焼いてくれた恩があるから、今の会社を辞めるつもりも無い。
アリス先生には、ちょっとだけ〆切を破る悪癖がある。と言ったって、十時までに下さいね、と言っておいて十時に原稿を取りに行くと、後二時間くらいだからそこで待っていろ、と言われて、待っていれば本当に二時間で上げてくれるので、それほど困っている訳じゃないんだけど――でもそれで、じゃあ余裕を持って十二時に取りに行きますから、十二時までに上げて置いてくださいね、と言ってもやっぱり、十二時から二時間ほど待たされるから不思議なものだ、と、あるとき同僚にこぼしたら、「作家とは、そういうものだ」で済まされた。そう言うものらしい。
というわけで、僕は今回も、アリス先生には本当の締め切り時刻の三時間前を伝えて、その時間に部屋にお邪魔した。そしてやっぱり、あと二時間ほどで終わるからと言われて、アリス先生の書斎の片隅、いつの頃からか用意されていた僕用の椅子に腰を下ろして、持ってきた文庫本に目を落としている。まだ書店の掛けてくれたカバーが付いたままの、新品ほやほやの本だ。
繊細な描写を通して、主人公が見つめて居る世界そのものが瞼の裏に浮かんで見える。主人公と一緒に海辺の街を旅しているような気持ちになりながらページを繰っていると。
「――くん、入間くん」
意識の中に、誰かの声が割り込んできた。
「原稿は要らないということで良いのかな」
「!!」
アリス先生の声だ、と気付いて僕は慌てて本を閉じて顔を上げる。すると、すぐ目の前にちょっと不機嫌そうなアリス先生の顔があった。
整っている、などという言葉では到底足りない、完成された顔。白磁のように艶めいた肌、色素の薄い髪、目元に影を落とすほどに長い睫――何度見ても慣れない。直視してしまう度に心臓が煩く鳴る。
「すっ、すみません、すっかり本に気を取られて」
「どうやらその本は、私の原稿の行方より面白かったらしい」
アリス先生は片眉を器用に上げてみせると、すっかりプリントアウトの済んだ原稿をひらひらと振って見せた。プリンターが動く音にも気付かないくらい、本に熱中してしまっていたらしい。
僕は慌てて立ち上がって、アリス先生の手にしている紙の束に手を伸ばした。が、ひょい、とその束は高いところへと逃げていく。僕より頭ひとつくらい背の高いアリス先生に、手を伸ばして掲げられてしまえば、僕の手は絶対にそこへ届かない。
「げんっ、こうっ、くださいっ!」
ぴょこぴょこ跳ねて手を伸ばしてみるけれど、アリス先生はつーんとした顔のまま、器用にひょいひょいと原稿の束を僕の手の届かない所へ動かしてしまう。
意地悪! ……って、思うけど、抑も、アリス先生から原稿を貰う、という一番大切な目的をそっちのけに本を読んでいた僕が悪い。
「……仕事中上の空になってしまって、すみませんでした、お願いですから原稿を……」
しょんぼりと頭を下げてから、アリス先生の顔をしたから見上げると、アリス先生はその綺麗な目をすうっと細くして僕を見下ろす。
うう、これは、相当不機嫌――
「仕事が疎かになるほど面白かったか、その本は」
「……はい」
素直に答えると、アリス先生の眉間に深い皺が寄る。えっ、なんで!?
「ほう。誰の本だか知らないが、君はその作家がお気に入りらしいな」
アリス先生の口元が、ちょっと嫌味っぽい笑みの形につり上がる。そんな表情がまた、似合ってしまうんだから始末に負えない。
……と、いうか、もしかして、アリス先生が不機嫌なのって。
「……あの、もしかして、僕が他の作家の本を読んで、楽しそうなのが気に食わないんですか?」
恐る恐る聞いてみると、アリス先生の目がカッと見開かれて、目尻の辺りが俄に赤みを増す。
「ッ――当たり前だ! 他の作家の方が面白いなどと担当に思われては作家として――」
「あの、これ、アリス先生の本です……けど」
僕が、手にしていた本のブックカバーを外して先生に見せる。僕が担当になる前に出た本だ。
「これだけ、まだ読んだことがなくって――あっ、すみません、担当としてとっくに読んでるべきですよね……うっかりしていて……ごめんなさい」
余計怒らせてしまうかと思って慌てて言い訳を並べ立てようとして、でも中途半端な言い訳はアリス先生を余計に怒らせるだろうから、素直に謝って頭を下げる。
けど、暫く待っても、アリス先生からの返事はなかった。
「……?」
恐る恐る顔を上げると、アリス先生は――なんとも言えない、複雑そうな顔をしていた。目元は怒っているけど、口元は笑っているような、そんな顔。
「……先生?」
「……なら、いい」
「え?」
「……私の本を読んでいたのなら、夢中になっても仕方が無い」
ふん、と鼻で笑うみたいにして、アリス先生は原稿の束をこちらに差し出してくれた。
なんだかどうやらちょっと、上機嫌らしかった。