それから2日後、屋上での出来事からちょうど1週間後、尾形は何事もなかったみたいに登校してきた。
「なあ」
放課後、初めて尾形が僕に話しかけてきた。というか朝からずっと視線を感じていたので、何か用があるんだとは思っていた。だからわざと社会科準備室までちんたら歩いてやったんだ。
「廊下でいい? 中に入る?」
社会科準備室の方を顎で指せば、尾形は僕を差し置いて勝手に中へ入っていった。
「勇作さんと話しただろ」
いつも僕が使ってる椅子にどかっと腰掛けて僕を睨みつける姿はチンピラみたいだ。
「勇作さん? ああ、花沢のことか。なに、勇作さんって呼んでんの? 勇作でいいじゃん弟なんでしょ?」
「花沢ホールディングスの御曹司を呼び捨てにできるほど俺は偉くないんでね」
尾形はオールバックになっている髪を撫で付けた。はらり、と髪が一房落ちる。
「クソ、梅雨入りしてねぇくせにじめじめしやがって」
「坊主にすれば? 僕とお揃いだよ」
尾形は僕の提案をシカトして「勇作さんが」と話を戻した。
「勇作さんが話したことは全部忘れろ。俺も学校でああいうことはしないようにする。だから俺にも関わるな」
「へぇ、どういう心境の変化? 別にお前が学校で誰とどんなプレイしようと僕が文句言ったことないと思うけど」
この教室を使わないでくれれば、コイツがどこで誰とどんなプレイをしようと僕は興味がない。
「太客を捕まえたからもう金には困らない」
「太客?」
「しかも定期だ。毎月決まった金が入ってくる」
フン、とドヤ顔で踏ん反り返る尾形は滑稽だ。それ、何の解決策にもなってないから。
「それ、花沢にも言った?」
花沢の名前を出すと、尾形は分かりやすく動揺した。
「アイツには関係ない」
「花沢には言えないのか? お前が兄と慕う尾形百之助の体は月数万円で知らねーおっさんにヤられ放題なんだってよ」
尾形の目がかっぴらいたと思ったら胸倉を掴まれていた。こめかみに青筋が立っている。
「本来、子どもが体売って自分の学費を用意するなんておかしいんだよ。それを容認してるお前の親は親じゃない。お前だってわかってんだろ?」
「俺の親はあの人しかいない!」
僕の服を掴む尾形の手に力が入る。
「……俺が勇作さんに勝てれば母さんは笑うんだ。お前は母さんの誇りだって喜んでくれる。俺の頑張りを褒めてくれる人は母さんしかいない……母さんに見捨てられたら、俺はひとりぼっちだ」
「でも死にたいほど辛いんだろ。お前がそこまでしなきゃ愛してくれない母親なんて、この先お前の足を引っ張り続けるだけだと思う」
尾形の手から力が抜けて、だらんと落ちた。
「お前に覚悟があるんだったら、僕に考えがある」
「……いや、いい。自分のことは自分で何とかする。先生を巻き込みたくない」
「突然だけど、僕はお前のことを割と気に入ってるよ百之助」
尾形が驚いた猫みたいな顔をする。
「え、な、名前……」
「花沢はずっとお前のことを心配してるけど何もできないって自分の無力さを嘆いてる。高校生だからそれは仕方ない。でも僕は大人だから今すぐお前を連れ出してやれる。お前が全てを捨てる覚悟があれば、の話だけどね」
「なんだ、それ……悪魔の契約みたいだな」
退学届を準備しておくこと、2度と家には帰れず、母親にも会えない可能性が高いこと、持って行く荷物は最小限にすること。
「あ、あとこの間の写真残ってるでしょ。ちょーだい」
スマホをポケットから出して尾形に向かって突き出す。尾形は何の話だととぼけた。
「屋上でお前が撮ったでしょ、僕らのツーショ」
「あんたに消されたからない」
「バックアップ取ってることくらいお見通しなんだよ。いいから寄越せ、コピーをくれればいいから」
尾形は渋々僕のスマホに写真を転送した。
「うーん、まぁリアリティがあっていいかな」
「は?」
「ううん、なんでもない!」
僕はスマホをポケットにしまった。
「本当に俺のこと連れ出してくれるのか」
「本当だよ。ただし荒っぽい真似するから穏便に、とはいかないけどね。それに、助けたらその後は僕の言う通りにしてもらうから。こんなことすぐには決められないと思うし、決心したら連絡を――」
「助けてくれ」
真っ暗な瞳が僕を見つめていた。
「先生に言われたことは何でもする、約束する。だから俺を連れ出してくれ」
尾形に怖がっている様子はなかった。ただ静かに決意を固めたのだとわかった。
「やっぱりやめた、とかできないからね」
「わかってる」
右手の小指を差し出す。
「指切りげーんまーん」
尾形の小指が絡む。
「うそつーいたらー針千本飲ーます」
指切った。
「明日、登校したら駐車場に来て」
首肯した尾形の小指から自分の小指を抜いた。
「これからよろしくね、百之助」
「だから、なんで名前呼び……」
「だって僕と百之助はこれからずっと一緒だから。あ、僕のことは『時重さん』って呼んでいいよ」
「呼ばない」
つん、と顔を背けた尾形が小さな声で「『呼べ』って命令すればいいだろ」と言ったので、僕は首を横に振った。
「百之助が呼びたくなったら呼んで。いつまでも待ってるから」
「……変な奴」
百之助はそう言い捨てて教室を出て行った。
「さてと、忙しくなるなぁ」
今夜は眠れないかも、と遠足の前日に寝付けない子どもみたいに心が躍っていた。
デカいリュックを背負った百之助が真っ青な顔をしてたから、腹を抱えて笑ってやった。笑い事じゃねえ!と聞いたこともないようなデカい声で怒られた。
「朝から元気だねぇ百之助。その顔は『見た』って感じ?」
「見たも何も、昇降口にあの写真があったら全員見るんだぞ!? あんた教師できなくなるんだよ、わかってんのか!」
「わかってるよ。言ったじゃん、荒っぽい真似するって。まあとりあえず乗りなよ、長旅になるから運転しながら説明するさ」
百之助は納得いかないという顔をしたが、後部座席にリュックを投げ込むと助手席に座った。
「それじゃあ、新たな百之助の人生に向けて、しゅっぱーつ!」
僕は昨日のうちに私物をまとめ、引き継ぎ資料を作って退職届を準備した。それから百之助からもらった画像を使ってチラシを作った。百之助の唇から下と僕のアゴから下が写っている画像と、教師と生徒の淫行を仄めかすような文章。告発文だ。それを大量に刷って昇降口と職員室に貼りまくった。貼ったのは今朝の話ね。職員室は大騒ぎになり、どうやって握り潰すか考えている校長と教頭のところに僕は退職届を差し出した。
「それじゃあアンタが疑われるだろ」
「違うね、校長たちはあの写真の人物を僕ということにしたかったんだ。真実なんてどうでもよくて、起こった問題に対して適切に対処しましたと示せることが大事なんだ。だから退職届もすんなり受け取ってもらえたよ。お前も同じ日に退学したから、あの写真は僕と百之助だって言ってるようなもんだよね」
でもわざと画像を粗くしたから、知ってる人が見ても僕と百之助だとは断言できないと思うよ、と言いながらアクセルを緩める。料金所を通過し、新潟方面へと向かう。
「俺たちはどこへ向かってるんだ」
「僕の実家だよ、他に頼れるところないし」
「なんで俺のためにそこまでしてくれるんだ」
百之助の声が震えている。
「真っ暗な海の深ーいところで溺れてるやつを助けるには、上から手を伸ばしてるだけじゃダメなんだよ。一回同じところまで落ちて、そいつの手を掴んでから引っ張り上げないと」
そのまま一緒に溺れるかもしれないけどね、とは言わないでおいた。お前となら溺れて死んでもいいと思ってる、という言葉も飲み込む。
「少し遠回りをするけど、必ず高校を卒業させるって約束する。大学に行くなら費用も僕が出す」
「高校も大学も行かねえ、すぐに働く」
「お前は優秀だよ、だからきちんと勉強してこい。それから働けばいい」
「っ、だから! なんで、先生は……俺にそこまでしてくれるんだよ……」
自分の本当の気持ちを告げようか、実はずっと迷っていた。相手は高校生、まだ未成年だ。
「僕はお前のこと割と気に入ってるって言っただろ。お前の18歳の誕生日になったら、改めて僕の気持ちを伝えるから」
百之助が静かだ。ちらっと助手席を見ると耳まで真っ赤にした百之助が口をパクパクさせていた。
「それって……いや、俺が自意識過剰なのか……?」
混乱してる百之助が面白くて、ぶはっと吹き出せば百之助が笑うなと脇腹を殴ってきた。
「百之助が想像してるので間違いないよ。18歳の誕生日はさ、夜景の綺麗なレストランに連れてってやるからな」
「はいはい、期待しないで待っててやるよ」
寝る、と言うと百之助は窓の方に顔を向けてしまった。
「早速休憩所行こうと思ってたのに。まあいいや、着いたら起こすよ」
車の流れに乗って高速をスイスイ進んでいく。これなら予定より早く実家に着きそうだ、と思っていたらふいに百之助の声が聞こえた。
「ときしげさん……俺も、好き」
事故らなかった僕を褒めてほしい、っていうかそれどんな顔して言ったんだよ百之助!
愛の逃避行なんて言えば聞こえはいいけれど、僕のやったことはただの誘拐だし僕も職を失った。それでも百之助をすぐにあの母親から引き離すにはこれしかなかったのだと自分に言い聞かせる。
退路を断たれた僕と百之助の旅路は、けれど不思議と明るかった。