わたしのすてきな夢 3『やりました!』
立香は歓声を上げた。
『五百バズですよ!』
しかし以蔵は現実を知っているから諌める。
「漫画で五百らぁ、珍しゅうもないですき」
イラストで『バズった』と言われるには、最低でも一万はいいねがついていないといけない。
以蔵はそんなにいいねをもらったことがない。コミックスの表紙イラストを発表した時でさえ、千いいね程度だった。
(しかもほれも、わしの実力でもろうたわけやないきのう……)
けれど立香は、興奮を抑えない。
きっと頬を赤くして、目をきらめかせているだろう――と考えてから、
(わしはこん人の顔も知らん)
と、当たり前のことに思い至る。
『わたしは漫画やイラストのことはわからないですけど、このブランドを担当してから五百いいね行ったのは初めてなんです!』
今回以蔵が描いたのは、幼児向けのボディクリームのPRした四ページの漫画だった。
赤ちゃんほど肌が弱いわけではない、けれどまだ刺激的な成分や香料は早すぎる。そんな子向けの商品だ。
双子の妹・まいんちゃんがお風呂上がりにぐずるのに、パパは困り果てる。しかしママがどこからかボディクリームを持ち込んで無香料・ワセリン配合をアピールする。
兄・ひろむくんもピカピカの肌になって、お風呂に入るのを楽しむようになった。
最後の大ゴマでは、一家四人が満面の笑顔をこちらへ向ける。
リアルすぎずデフォルメしすぎない、むちむちの幼児は、以蔵が商業では描いたことのないタイプのキャラだ。
元気はつらつなママと、優しげで家族を愛するパパ。
理想的すぎるかもしれない。
『でも、漫画の中ぐらい理想にあふれていてもいいと思うんです! みんな現実がつらいのはわかってるんですから!』
立香はそう言い切った。
そんな言葉に従って描いた結果の五百バズだ。
以蔵はモニタに向かって頭を下げる。
「まっこと、今回は藤丸さんに声ぇかけていただいてよかった思います」
『そうですね、土井先生と出逢えて……でも!』
立香は決然とした声を出した。
『まだまだ土井先生の快進撃は続きますから! まだ紹介する商品はあります。ミストウォーターに日焼け止め、哺乳瓶消毒セット。もっとたくさん土井先生とお仕事するんですから』
さらっとした発言内容に、以蔵は目を見開いた。
「藤丸さん、わしとまた、契約を……?」
『ええ! わたしはもっと土井先生の漫画が見たいし、数字を出したから上が何か言うとは考えづらいし、問題なく次からも契約できると思います! それとも土井先生、もう次の仕事決まっちゃいましたか?』
語尾が少しだけ弱まる。
以蔵は反射的に首を振った。
「……いや! まだ先んことは考えちゃぁせんですき、お仕事、請けさいていただきます!」
営業をかけながら、スポットのアシスタントも続けている。もちろん、得るものも多い。
けれど、歳下の売れっ子へ向かって卑屈になってしまう自分を見つけるのは精神衛生上よくない。
それに――
『次はパウダーにしますか? 一年中使うものだし。でもお風呂上がりが続いちゃうな……』
「ほいたら、日焼け止めはどうです? 夏向けのと冬向けのを。今は冬の紫外線もえずい言いますろう?」
『いいですね! 上にかけ合ってみます』
このにわか編集者と作品を煮詰めて形にして、歓喜の声を聞くのが楽しみになっている。
もちろん持ち込みやコミカライズの編集が優秀でなかったわけではないが、天狗の鼻を折られても『天才』だった自分を忘れられない以蔵は、やはり新鮮な褒め言葉に弱い。
『……ところで土井先生、わたし気になるリプを見つけて』
「何ですか」
『ママってそんなにエロいですか? ジーンズだしβっぽいし普通に健康的だと思うんですけど』
非オタクのまっとうな疑問に、
(……これやき! オタクは!)
全年齢向け(とりわけ、小さな子のいる家庭向け)のコンテンツにいやらしい目を向けるなとは言わないが、せめてその劣情を隠せ。そこは誰が見ているかわからない路上と同じだ。
オタクコンテンツに純粋な立香へどんな言葉をかけていいかわからないから、拳を握るだけにした。
◆ ◆ ◆
『土井先生! ECサイトでおしりふき在庫切れですって!』
『ママYoutuberがリツイートしてくれて!』
その後三度PR漫画を描き、やりとりを重ねながら立香は反応を教えてくれる。
最初のコミカライズはそれなりの知名度の作品で、次の仕事は火がつく前に頓挫したから、以蔵はこれほど自分の作品が読まれている感覚を味わったことがなかった。
おまけに、あらゆる手段でこっそりエゴサしたら、二次創作を描いてくれている人を見つけた。ティーチいわくあまり見すぎるとげんなりするものらしいが、初めての体験は以蔵の胸をいっぱいにした。
まだPRの仕事と『漫画家・土井鉄蔵』の名前を重ねる者はいないが、下積みを重ねれば見つけてもらえるかもしれない。
四作目のミストウォーター編を納品し、
「今回もお疲れ様でした、ありがとうございます」
『いえ、こちらこそ――って』
立香の咳払いが、ヘッドセットからステレオで聞こえた。
『あの……土井先生。今度リアルで打ち上げしませんか?』
それは以蔵にとっては意外な言葉だった。
「打ち上げ?」
『はい。頑張ったんですから、一軒くらいならバチも当たんないじゃないかなーって』
「ほうですろうか?」
『土井先生に対面でお礼を言いたいんです。わたし、実は今までこんなに達成感のある仕事したことなくて……』
本人は弱気なことを言うが、声と口調からは三十には行っていないだろうという直感を覚える。
「藤丸さんなら、今後いくらでもえい仕事ができるがやないですかえ」
『お心遣いまで、ほんとにありがとうございます』
「ですき、ほがぁに気ぃ遣わいでも」
『呑み代なら経費から出ますから』
あまり断るのもかえって失礼だろう。
「ほいたら、いつがえいですかえ?」
『わたしは本当に、土井先生の都合のいい日にちで……お店取るんですけど、土井先生はいける口ですか?』
「ザル超えてワクですわ。高知の人間ですき」
『やっぱりそっちの方ですよね! 「こじゃんと」とか意味調べたんですよ。四国かぁ……って』
「言うちゃぁせんでしたか」
『最初にお国言葉だなって思ったんですけど、仕事の前にそんな話したら失礼だなって思って』
今なら聞けるということか。
「藤丸さんはどこながです?」
『あのですね……』
何ヶ月もひとつの話を練ってきて、連帯感が生まれていると思う。だから、こんなくだらない話もできる。
コミカライズの編集の出身地なんて、気にしたこともなかった。
「あこの名産、わしも好きですわ」
『わたしも大好きです! で、打ち上げ、来週の木曜で大丈夫ですか?』
「ぜひお願いいたします」
『わたしも楽しみにしてます! それではまた』
通話を切った以蔵は、ぐるりと首を回した。
「打ち上げ……のう」
仕事場と住居を兼ねた2DKの、プライベートルームにあるハンガーラックの前に立つ。
最初のコミカライズが完結した時、担当編集は三人のアシスタントも呼んで飲み会を主催してくれた。
その次の仕事で編集と会ったのは、家に菓子折りを持って来て頭を下げられたのが最後だった。
最初の飲み会には担当だけでなく、編集長も同席した。全部会社持ちと言われたので、四人とも上機嫌に飲んだ。
ところで、今回この仕事で以蔵が接触しているのは立香だけだ。
立香の上司なども来るだろうか。以蔵にとっては初対面以前の相手だが。
(……いんや、相手はαかもしれんとはいえ女じゃぞ? 男の作家と二人きりにらぁさせんろう)
同時に、どんな服を着て行けばいいか悩む。
普通に飲むなら普段着でも構わないだろうが、何しろ相手は仕事の発注元だ。あまりラフな恰好だと色眼鏡で見られないだろうか。
いや、立香は以蔵が漫画家であることを知っている。あまりかしこまった姿では逆に気を遣わせたと恐縮してしまうかもしれない。
今後も円滑に仕事を進めていかなければならないのだ。なんとか意図を読まなければ。
パーカー、ジャケット、スーツ――一つずつ目視しながら、まだ見ぬ担当の隣を歩く自分を引き寄せようとした。
◆ ◆ ◆
書店のなろう系書籍売り場前で待ち合わせることにした。
なぜそんなことになったかと言うと――
「土井先生ですか?」
サルエルパンツにエスニックなジャケット姿で書棚の前に立っていた以蔵に、聞き覚えのある涼やかな声がかけられた。
振り向くと、一人の女がいた。
以蔵より十五センチほどは背が低い。大学を出たばかりのようにも見えるが、童顔なのかもしれない。
オレンジ色の髪を肩まで伸ばし、前髪を残してハーフアップにしている。ファッションは清潔なオフィスカジュアルだ。
顔は特に芸能人に似ているなどではないが、整ったパーツがしかるべき場所に収まっている。
(たまるか……勝ち組やいか……)
「……土井先生ですか?」
「……すみません、返事忘れちょりました。土井です」
「よかった、お会いできて! 藤丸です」
笑うと、夏の花がいっぺんに咲き誇ったように見える。
(たまぁ……)
絶え間なく湧き上がる感嘆詞を止めるために咳払いをする。
「ゆっくりお話したいですけど、その前に……土井先生のおすすめってどれですか」
以蔵は立香を女性向けレーベルの棚の前に手招きした。
「あのコミカライズが好きなら……これらぁえいかと思うたがです」
書棚から引っ張り出して、立香に見せる。
乙女ゲームのプレイヤーだった主人公がゲーム内の悪役令嬢に転生して、己の悲惨な末路を避けたくてゲームの舞台から逃げ出す。
そこで出逢った猟師と恋に落ち、ラッキースケベを重ねて肌を重ねるカウントダウンが始まる。
しかし猟師は森の入口から現れた屈強な男たちに取り押さえられ、連れ去られる。
アウトローな経歴だったのだろうか……と令嬢が心配していたら、実は猟師は悪役令嬢の住んでいた国の敵国の王子だったとわかった。本来は主人公と結ばれるはずだった王子がその前に悪役令嬢と出逢ってしまい――
という恋愛色の濃いファンタジーだった。
身を守るために家出して、身分違いの恋に苦しむ悪役令嬢は、以蔵が描いたコミカライズの主人公に惹かれていた立香に合いそうだと思った。
立香は以蔵の手から一巻を受け取り、ぱらぱらとめくる。
「挿絵多い……イラストも可愛いですね……」
「投稿サイトなら挿絵はないですけんどタダで読めますき」
「いや、買います」
立香は迷いなく言った。
急に以蔵の責任感が大きくなった。
「試し読みもせいでざんじ決めるがは……」
「わたし、紙の本の方が好きで」
「まぁ……ほいたら……」
立香がこの本を買っても、以蔵の懐は暖まりも寒くもならない。本人がいいと言っているのだ。
一階のレジで会計を済ませる立香を待つ間、以蔵は平積みになった本の表紙をチェックする。
先日立香とスカイプで打ち合わせをしているうちに、雑談になった。
『土井先生、今どんなことしてるんです?』
立香は一度言葉を区切って、声に照れをにじませた。
『土井先生がいつまで弊社とお仕事をしてくださるのかなって……』
どうしてそこで照れるのかがわからないながら、以蔵は答えた。
「いわゆるなろう系の編集部にはようアピールしちょります。投稿サイトの作品見て、これコミカライズするから声かけとうせ、らぁ言うたり。あとは持ち込みの漫画を仕上げて。藤丸さんが仕事くれますき、ちっくと安定して描かいていただいちょります。あとコミッションも」
『コミッション?』
「企業の仲立ちで絵師に絵ぇを依頼するシステムです。絵ぇを何枚かサンプルに出して、わしを気に入った人がこがぁなキャラ描いとうせち依頼して来るがです」
『へぇ……』
「一次創作――ほん人が自分で考えたキャラを描いてほしい言う場合は、原案や設定もいただきます。自分にない発想がさいさい来ますき、勉強になります。装備品らぁもほんまにヨーロッパにあったもんを参考にしちょって、こがぁなんがあったがかと」
『……あのですね、土井先生』
立香は食い気味に声をかけてきた。
『今度の打ち上げの前に、土井先生のおすすめを教えてくれませんか? 小説でも漫画でも。特になろう系っていうのは土井先生とお仕事して初めて知ったから、何もわかんないんです』
断る理由がなかったから、ターミナル駅前近くの書店ビルのライトノベル棚前で待ち合わせることにした。
土井鉄蔵がもともとファンタジーの仕事をしていたから、リップサービスでいろいろ聞いているのだろうと思っていた。
しかし、実際に勧められた作品を買うということは、本当にそれなり以上の興味を持っていたのか。
(わからん……)
立香は以蔵を飲食店ビルの四階の沖縄居酒屋へと導いた。
「土佐居酒屋で実家を懐かしむってのもいいかと思ったんですけど」
「大丈夫です、まだほがぁに去ぬりたい思うちゃぁせんです。沖縄料理は久しぶりですき」
「そうなんですか」
予約していた席に通され、立香は四人席の奥を以蔵に勧めた。お通しを運んできた店員に、沖縄産の地ビールをグラスで二杯注文する。
「ちょっと遅くなりましたが……わたくし、こういう者です」
立香はかばんのポケットから名刺入れを取り出し、以蔵へ渡した。
ここ三ヶ月ほど以蔵へギャラを振り込んだ広告代理店のロゴが描かれている。
以蔵は中央に書かれた名前の横に添えられた肩書きを読む。
「ディレクターさんながですか」
「ヒラの言い換えです」
そう言って笑う立香は、音声通話でのやり取りと同様に有能そうな印象を与える。
「ざんじ出世されますろう、わしを使うちゅうみたいに、いろんなもんのえいとこを見つけて」
「やだなぁ、土井先生に褒められると本当にそうなるみたい」
「ほいたら、わしも」
以蔵も、最近ほとんど使っていなかった名刺を机の引き出しから引っ張り出してきていた。
紫ベースの色合いは、土井鉄蔵のイラストを見たデザイナーが提案したものだ。左側でオリジナルキャラクターのうさ耳少女が見得を切り、右側に名前が置かれている。
「この子、ポートフォリオでも一番上にいましたよね。お気に入りなんですか?」
「高校ん時に、初めて考えたキャラながです。こいつを主役にした漫画を漫研の部誌に載っけて、こじゃんと褒められました」
「高校時代から創作続けてるんですね!」
「描くだけなら、小学の頃から」
「すごい!」
ビールが来たので、二人それぞれ右手にグラスを持つ。
「えー……そしたら、土井先生の洋々たる前途に」
「なんですかほれは……藤丸さんの輝く未来に」
「乾杯!」
グラスを合わせ、喉を鳴らしてビールを飲む。普通のビールよりも苦味がなくてさわやかな味がするのは気のせいだろうか。
「いやー、ようやくお会いできましたね!」
おつまみを何点か頼んだ立香は、上機嫌に言う。
「ここしばらく、社の人間以外とでは一番話してたのは土井先生ですから」
「大げさですのう。わしはアシに入っちょった漫画家の先生と喋っちょりました。そもそも、わしも仕事の人間やないですかえ?」
「まぁそうなんですけど、気分の問題です。漫画家さんならお顔の写真くらい上がってないかなぁとか思って検索したんですけど、なかったですね!」
「ほがぁなインタビューらぁは売れんと話も来んですき。SNSじゃ絵ぇは上げちょりますけんど顔は出しちょりません」
「わたし土井先生のことフォローしちゃいました」
笑顔を改めて正面から見れば、金色の瞳を美しく感じる。
挫折したことなどないのではないか、と陰キャは言いがかりをつけたくなってしまう。ひがみ根性は醜い。
ソーミンチャンプルーや海ぶどうなどをちみちみと食べながら、互いの仕事の話などをする。
『広告代理店』という、名前を聞いたことがある程度の職種のことを、立香はざっくりと教えてくれた。雑用のような仕事を率先して引き受けるのは体育会系的だし、土井鉄蔵を見つけるような感性を使う仕事もある。
立香も漫画家の話に耳を傾けてくれる。在宅アシスタントがメインになって、かけ持ちが容易になったことに、立香は目を見開いた。
「じゃぁ、トキワ荘なんかはもう過去の話に……」
「なんですかトキワ荘って。わしらん親が読んじょった先生方の話やいですか。どういてトキワ荘らぁ知っちゅうがですか」
「なぜか家にあって……最近の漫画はないんですけど、その辺は充実してて」
「ほぉ」
そんな話をしているうちに、百二十分が経った。
まろやかでいてパンチもある泡盛をすすっていた以蔵は、店員の言葉に顔を上げた。
「あっちゅう間でしたのう……」
「はい、お会いできてよかった!」
「どうします、河岸ぃ変えますかえ」
「いえ、経費は一次会の分しか下りないので」
「ほうですか」
残念に感じている自分を見つける。
(……ほいたら)
「藤丸さん、もう遅いき送っちゃります」
「遅いって、まだ八時じゃないですか」
「もう八時です。女の一人歩きは物騒ですき」
「そんなに若くないのにな……」
「若うのうないですろう。仮に若うのうたちほがぁなもんは性犯罪者には関係ありません。わしと仕事して何ぞに巻き込まれたらづつのうなりますますき」
できる限り真面目に接しようとしていた以蔵を見て、金色の瞳がどんよりとした光を放った。
「じゃぁ……お願いしようかな」
立香は伝票を持って立ち上がった。
会計を済ませ、領収書を長財布に収めた立香と一緒にエレベーターに乗る。
五人も乗ればいっぱいになるかご内で、
(えいかざするのう……)
と思いかけるのをかき消す。
(ほがぁに意識するがは非モテじゃ自己紹介しゆうようなもんじゃき……藤丸さんはただ仕事じゃきわしにようしてくれゆうがはわかるろう……)
手がもぞもぞするから、後ろ手でそれぞれの手首を掴む。
送って帰って、帰宅の挨拶をして寝て起きたらターン終了だ。明日からはまた仕事の話で盛り上がれる。
自分から送ると言っておいてこんなことを思っているのは滑稽だが、立香が危ない目に遭うのも見たくない。
二人は高級住宅街として知られる駅で降りた。
「こがぁなランク高い場所に住んじゅうがですか」
「いえいえ、うちは賃貸で、そんなに新しくもないですから」
最近改修されたと思しい改札を抜け、五分も経たずに立香は足を止めた。
白タイルのマンションは確かにそれほど築浅ではないようだが、掃除がよく行き届いているのはエントランスを外から見ればわかる。それに、これほど駅近なら家賃も相応にかかるだろう。
(たまるか……まっこと勝ち組じゃ……)
家の場所も忘れよう。
そう思った以蔵のジャケットの裾を、立香はつまんだ。
「土井先生……」
「どういたがですか」
「その、上がっていきませんか」
「上がるち……」
以蔵の頬ははこわばる。
「ダメですよ。誤解されます」
「誤解じゃない、って言ったら……?」
ぶわり、と立香から人の上に立つ人間のオーラが湧き出た。
(やっぱり、αじゃ)
αの人間が性的に相手を求めるなら。
突然苦くて渋い、刺々しい感情があふれる。
ここに来るまでふわふわと抱えていた、柔らかい落ち着かなさは霧散した。
「――おまん、わしがΩに見えるがか!」
周囲の沈黙を思いやることもできず、叫ぶ。
立香はそんな以蔵に首を傾げた。
「土井先生、Ωだったんですか? そんな匂いしませんでしたけど」
「え……」
その落ち着いた口調に、怒りの向け先がなくなる。
自分がΩだと思われることを侮辱的に感じてしまった――という事実を突きつけられ、己の内側に巣食う差別感情を意識させられる。
(わし、こがぁな……人間じゃったか?)
愕然とする以蔵をよそに、立香は不思議そうに言う。
「抑制剤がよく効いてるとか?」
問われて、意識を目の前に戻す。
「いや、違うき。わしはβじゃ、Ωやない」
「ですよね!」
ぱっと笑った立香だったが、すぐに視線を落とす。
「わたしがαだって、わかっちゃいましたか?」
「鼻で嗅ぐかざはわからんけんど、いかにもαじゃっちゅう人間は雰囲気でわかるもんじゃ」
「そっか、わかっちゃうんですね……でも、上がってくれたら嬉しいです」
「待ちや、おまさん。言うたろう、わしはβじゃち。わしを抱いたち子どもはできん」
「その、です、ね……逆で……抱いて、くれま、せんか?」
「抱く?」
言葉が脳の上っ面を滑った。
「抱く……?」
「はい。βの土井先生が、αのわたしを」
立香は先ほどよりほんの少し強い力でジャケットの裾を引っ張った。