きみは星の子。まとめ六話から第六話 段落――クギリ――
逆ドッキリ。ようは、キースを驚かせてその隙に向こうがでっちあげたという言質を取ろうという発想なのだが、この作戦では囮となる一騎と、驚かす係の来主と、言質を引き出す役の甲洋のチームワークが要だ。
「とりあえず、楽屋、それと控室は絶対として、病院のときは一騎を追ってたのか、あらかじめ総士の妹さんを張ってたのかっていう謎が残るな」
ファンからの差し入れ、有名洋菓子店のクッキーをお茶うけに、控え室で休憩をとりながら作戦会議をする甲洋と一騎だったが、ふいにあることに気づき、一騎が目を見開く。
「そういえば、キースさんが俺らを張ってから、総士の周りに不審物がなくなった」
「……ふーん。まあ、仕込むときにかち合わせたらマズイだろうな。普通に」
と、甲洋は相槌を打った直後、一騎と目を合わせる。
「キースを捕まえたら、例の不審者に繋がる」
甲洋がその可能性を口にすると、一騎は晴れやかな表情で同意した。
「そうだ」
羽佐間モータースのカノンと洋子の解析の結果、盗聴器は市販のものではなく、極めて高性能なものだが手作りのものだということが判明した。
さらに、興味深いことに、声の周波数で内容を記録するという特殊な加工が施されており、口論になったときの音声や、意見が衝突している場面の音声のみが収録されていたという。
母娘の話では、仲間割れを狙ったものではないか、という見立てだった。人気グループのあいだのことか、マネージャーあるいは事務所とのことかまではわからないが、下世話な下心というよりは策略的な意図のほうが強いだろうと聞き、一騎はほっとした。
自分の大切なひとが、そういう目に晒されるのは耐えがたい。仕事であれば、本人の意志なども含めて考えるが、ただ一方的な感情のために皆城総士を消費されるのは我慢ならなかった。
「とにかく、こっちとしては、ドアの正面にカメラを置くことと、ボイスレコーダーを各自で持ち歩いてもらおうと思って」
これも羽佐間母娘の作品なのだが、細身のサインペンのインク部を半分ほどバッテリーと入れ替え、柄がわにマイク機能を搭載したものと、机上に載るサイズの犬の置き物の中へ暗視スコープ機能も含めた録画用カメラを取り出し、彼は犬の置物型のカメラを、ドアに面した位置に置く。
「すごいな……お前の人脈ってどうなってるんだよ」
「あー、まあ秘密っていうことで」
一騎のアイドルらしい誤魔化し方に、甲洋はふっと笑い、自分のものと来主のぶんのサインペンを受け取る。
「総士のは、一騎が渡しといて」
「ああ」
はじめからそうするつもりだったと彼は笑い、自分の荷物をもつと甲洋と情報交換をした足で、総士が雑誌記事のインタビューを受けているというスタジオまで移動する。
「……」
視線も気配も感じないことを確認してから廊下を進めば、やがてスタジオ内の声が漏れ聞こえる位置まで着いてしまった。しかし、彼はそこから先に足を踏み入れるべきかためらう。
というのも、質問内容が一騎のあの捏造記事について、総士の意見が欲しいという内容だったからだ。このタイミングで入ってしまったら、本人がいたから発言をかえたと疑う者も出てくる。仮にここで一騎がスタジオに入ったとしても、総士の意見が左右されることはないのだが、物事を捻じ曲げて考える者や、二人の信頼関係を知らない他人からすれば、総士の本心などわかりようがないのだ。
「あれが捏造だと分かる前、僕と一騎は同じ病院で、知人のお見舞いをしていました。お見舞いに行こうと決めたのは当日のことですし、一騎が僕の前から姿を消したのもごくわずかな間です。つまり、状況的に時間のかかる密会ではなかったはずですし、彼が僕やマネージャーのいるそばでそういうことをする人間には思えませんでした。つまり僕は、あの記事をはじめから疑っていたのです」
「一騎君が、女性と近い位置にいたことについては」
「その女性は、一騎の幼馴染の一人で、お身内が同じ院内に通っているらしく、差し入れを渡していたそうです。位置的に映り切ってはいませんが、実際は紙袋を渡していたと本人が証言していました。その証拠に、カメラのアングルがかなり不自然であることが挙げられます」
「なるほど、では、総士さんの所見とご本人の証言から、記事は捏造であると」
「はい。しかし、僕らが潔白を証明しようと、お互いを信用しあっていても、それを疑いの目で見続ける人がいるのも事実だと思います」
「そうですね」
「ですが、僕は彼を信じ続けます。出会ってから一緒にいた時間こそメンバーの誰よりも浅い彼ですが、業界について学ぼうという姿勢や、レッスンへのまじめに取り組む態度、そして彼をスカウトした僕を信じてついてきてくれる姿。それらが彼のまっすぐな性格と、まじめさを表しているのは、関係者のなかでは有名な話です。それに、彼が誰かと一緒になるとしたら、事前に僕が知らないはずがない」
「それは、もし一騎さんが誰かと交際を始める場合は、第一に総士さんへ報告するということですか?」
「はい」
「すばらしい信頼関係ですね。では、次の質問です」
と、そこまで聞き、肩の力を抜いた一騎は、苦笑しながらインタビュアーが総士本人についての質問を二つほどするのを待ってからスタジオへ足を踏み入れた。
すると、一騎の姿を機材の向こうに捉えた総士の瞳が一瞬だけ円くなり、やがて愛おしい存在を見つめるかのように、普段は引き締まった怜悧な美貌が綻ぶ。
「カメラッ!」
「わかってる!」
そんな声があちこちで上がり、総士の不意打ちの微笑みに、数名がくらりと身を揺らめかせた。それほどに破壊力のある笑みだったのだ。
「突然なにを見て」
などというささやきが聞こえ、皆が一斉に総士の視線の先を見つめる。すると、突然注目の的になった一騎が頬を赤らめ、困ったような表情で総士に向けてかるく片手を上げていた。お邪魔します、あるいは挨拶を伝えるかのような仕草だ。
「あ、すみません。俺のことは気にせず、どうぞ」
ざわざわと、スタジオ内がざわめく。あわてて監督が一時休憩と声をかけたことで、取材は一度とまり、真っ白なソファから総士が立ち上がる。すると、座っていてもわかるほど長い脚が上質な革靴ごと床につき、ダークグレーのスーツに、亜麻色の髪をなびかせた美丈夫が迫ってくる姿に、一騎はつい見惚れてしまう。
その男は、みずからの恋人なのに。
なんど見ても見飽きることのない魅力を備えた彼が、一騎の正面へ来たところで、ようやく彼は夢から覚めたようにはっとする、
「ごめん。邪魔しちゃって」
「いや、どうせ昼休憩の時間だ」
総士の背後では他のスタッフやインタビュアー、編集者とおぼしき人や、いろんな関係者が伸びをしたり、ふたりの様子を覗き見ながら、ランチをどうするかという話をしていた。
「そっか、なら良かった」
周囲の視線がいまだ自分たちに向けられていることに居心地悪そうにする一騎を、総士が興味深そうに見た。
「……なんだよ」
「いや、アイドルなのに、この程度のギャラリーに緊張するなんて、まだ可愛らしいらしいとおもってな」
「かわっ」
「さて、場所を移すか」
面食らった一騎の手を引き、歩き始めた総士は、スタジオの隅に控えていた立上へ預けていた貴重品の入ったバッグを受け取り、薄暗い室内から廊下へ出た。
「どうした不満そうだな」
「かわいいなんて言われて、喜ぶわけないだろ」
むすっとした様子の一騎を横目で見て、総士が自分の口もとへ指を添えた。数秒、なにかを考える素振りをする。
「総士」
「僕は」
訝しげな声と、数秒ずれて総士がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お前に、可愛いと言われるのが、さほど嫌ではない」
「え」
彼の横顔は、ほぼ亜麻色の髪に覆われている。
「それが、お前なりの褒め言葉であることをわかっている」
総士の節ばった長い指が、髪の結び目を解いた。一騎の手を引いているのとは逆の手で、だ。シャンプーの香りが弾ける。それに、微かな汗の匂いが漂い、一騎の鼻先をくすぐった。それは、彼の好きな香りだった。
「それに……可愛いと口にするときのお前の表情を、僕は好ましく想っている」
「う、あ」
一気に顔を紅潮させた一騎が、喃語のように意味を持たない言葉をもらす。
「そうだな。お前が僕に言うのと、おそらく同じくらいに、僕はお前のことを可愛らしいと想っているよ」
自分の中の気持ちを声にするために総士が連ねた言葉たちが、一騎の鼓膜から脳までを甘く満たした。
「……そうしぃ」
弱ったような声で名前を呼ばれ、総士が足を止めて、恋人の顔を見た。
「いま、すごくキスしたい」
熟しきった桃のように頬を染め、喜びに目を潤ませてのおねだりに、総士の理性が数秒だけ揺れる。
「だめだ」
「しってる」
「だったら」
「ハグは」
「あとでな」
「じゃあ、手を繋ぐのは」
「……ひとが来たら解くが」
「いいよ。それで」
言葉で返事をするよりも、今はただ、この恋人が自分のパートナーであるという実感が欲しくて、触れたくなった一騎。
しかし、現実的には彼の望みはすぐには叶えられず、彼はもどかしさを感じながらも、掴まれていた手が離れるのを待って、自分のとは大きさも形も違う総士の手をとった。
「なあ、そろそろ良いんじゃないか」
一騎の声のトーンがやや下がった。頬の熱はいまだ冷めないようだが、真面目な話をするのだと気配が語っている。倣うようにして、総士も自然と声をひそめた。
「なにがだ」
「泳がせてた魚を釣ろうと思ってさ」
「……正気かあれだけ餌をチラつかせても釣れなかったんだぞ」
仕事帰りでオフの前夜に続けていた総士との変装デートもとい夜の散歩。しかし、それでも一向に釣れなかった相手を釣るという一騎に、総士は訝しがる。
「ネタならあるさ。むしろ、作るから」
これは一騎が父である史彦へ、秘密裏に頼んでいたことなのだが。週刊アルヴィスのほうでも一騎と総士の熱愛報道を狙っているという噂を、同じ出版社の記者の何人かを使って流し、キースを焦らせることで、こちらへおびき寄せるという流れを作る。
今までキースが慎重になっていたのは、誤報という前例を作ってしまったせいでなのだが、キース本人の性格からしてずっと2人の隙を狙っているのにもそろそろ焦れているはず。
さらに、競争相手が現れれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「自信があるようだな」
「うん。じつは、協力してくれるひとがいて」
「なに初耳だぞ」
「ごめん。このまま、お前とふたりで片付けるのが一番いいんだろうけど、ずっと貼りつかれているのも嫌だったから」
「……その協力者は信用できるのか」
「ああ」
「だったら、いい。僕も、そろそろ煩わしいと思っていたんだ」
アルヴィスの手を借りるのは最終手段にしようとおもっていた一騎だったが、ふたたび蒼生に会ったことで考え方に影響を受けていた。
「あとな、お前の安全を優先しようと思ったんだ。それに俺、お前の作ったシチューが食べてみたいからさ、記者が張り付いてたら家にも行けないだろ」
「ちょっと待て。なぜ僕が料理をできると」
「……蒼生に聞いた。あいつ、カフェでバイトやっててさ、そこでお前が教えたシチューを作ってたんだ」
「あいつは」
照れくさそうにしながらもぼやく総士に、一騎がやわらかく微笑む。
「俺、総士が作ったのを食べてみたいな」
「蒼生が作るものと変わらないさ。あいつは、僕の作り方を忠実に再現している」
「そうか隠し味とかはないのか」
「そこも含めて伝えたよ」
ふいに一騎が足を止めて、総士の顔を覗き込む。
「なんだ」
「……入れてくれないのか愛情」
「っ」
確かに、それは総士にしか用意できない最高のスパイスだった。
「なあ」
おもわずうろたえた総士の顔を、写真撮影で仕込まれた上目遣いで見上げつつ、一騎がいたずらっぽい表情をする。
「うっ」
「総士」
「わ、わかった。そ、それは確かに、僕にしか作れない物だからな。仕方ない。全部片付いたら、やってやるさ」
「ああ」
自分のリクエストを約束して上機嫌になった一騎が歩き出すも、遠目に人影を見つけた総士が手を離した。一瞬だけ一騎の表情が曇る。しかし、彼は仕方ないとでも言いたげにして、総士と肩を並べて廊下を渡った。
エレベーターへ入り、下の階へ行こうとした2人だったが、そこでハプニングが起こる。
「地震」
「うわっ」
強い揺れでバランスを崩した総士を、一騎が抱き寄せた。2台分のスマートフォンの警報ブザーがバイブ音とともに鳴り、2人を載せた匣が停まった。
「しかも、停電してる」
灯りが消えた密室で密着している状態に、互いの存在を意識しそうになるのを抑えていた2人だったが、総士がエレベーター内の連絡先へ確認したところ、復旧に時間が掛かるということが判明し、彼らは息をつく。
「このエレベーターって、カメラあったっけ」
「あった。……だが、暗視モードはついていないタイプだったはずだ」
「そうか」
手探りで総士の頬や鼻梁、それから顎を、一騎の指が這い、そっと引き寄せる。
「んっ」
くぐもった声をこぼす総士に目を細め、一騎のもう一方の手が、また恋人の指へ絡んだ。
「ぁっ」
相対する5本ずつがより合わされ、余った長さの分が、総士の手の甲を愛撫する。血管と骨格の凹凸すら慈しむように、微かな特徴の一つひとつを確認しながら触れられ、総士の下腹へ熱が灯った。
口づけが深まり、呼吸が荒れはじめる。
粘膜と表皮の感触を唇と舌それに指先の感触で味わいながら、一騎は総士の背をエレベーターの隅の壁へ押しやる。すると、備え付けの手すりが、総士の腿を後ろから押し上げ、自然と彼の昂ぶりが一騎のそこと衣服越しに重なった。
「っは、もう、やめ」
「んっ」
切なさが滲む声に官能を刺激されながらも、一騎は名残惜しさを覚えつつ離れる。
「……ごめん、急だったな」
「ぃ、いや、僕も拒みきれず」
「これ以上のことはしないから、もうちょっとだけくっついていてもいいか」
「かまわない」
衣擦れの音と、トントンとなにかを叩く音がして、総士は腰を下ろした。それから一騎が手を引くままに、肉付きの薄い膝へ、引き締まった臀部を載せる。
「これ、見つかったらアウトだな」
「自分からしておいて言うセリフか」
「たしかに」
そこで2人は吹き出し、額と額をあわせた。
「あれだな。もうちょっと一緒にいられたら、落ち着くとおもうんだ」
「ほうそれは、僕に飽きるということか」
「そんなわけないだろ。違うよ。普段抑えてるから、ギリギリまで触りたくなるけど、もう少し慣れたら余裕とかも出るかなって」
試すような口ぶりに、一騎が一息にまくし立てた。
「一理あるな。抑圧されているから溜まるというのは説得力がある」
「溜まるってそんなストレートに言ってないだろ」
「だが、そういうことだろう」
「だ、けど」
「恥じることはない。僕もそうだ。それに、いい加減、お前に流されてばかりなのも、なんとかしたいと思っていた」
「総士」
「っふ、余裕がほしいのは僕の方だ」
自嘲気味につぶやいて、総士が一騎の髪を指先で梳く。
「こんな姿、とてもファンには見せられないな」
「見せるなよ」
「嫉妬か」
「わるいか」
「いいや」
ゆるりと頭を振った総士の髪が、一騎の頬をかすめた。
「総士」
「わかっているさ。僕の余裕を奪うのはいつだってお前なのだから、前提からしてその仮定自体がおかしな話だ」
ドアのそばに取り付けられている受話器が鳴った。おそらく、業者からのものだろう。それを総士がスマートフォンの灯りであたりを照らしながらとる。
結局、2人が救出されたのは2時間後だった。当然ながら昼休憩を取りそこねた彼らはスケジュールをずらし、一騎の作ってきた弁当を味わう余裕もなく掻き込み、各自の収録場所へ戻っていった。
総士はその時に申し訳無さそうな顔をしたが、一騎としては残さずに完食してくれたので、あまり気にならなかったらしい。
「さて」
一騎は、総士と以前に演じた舞台の台本を取り出し、その表紙を撫でた。
「吉と出るか凶と出るか……って言うんだっけ」
事務所の都合で、作中ではカットされてしまったシーンをやりたい。
一騎が立上とともに事務所の社長ほか責任者たちへ事情を説明したうえで、原作者や舞台監督へ申し出たところ、向こうもノリ気だったことや、最終的には一騎の粘りがちで事務所の責任者たちの許可をもぎ取ったことを思い出し、彼は頬を緩めた。
「ド肝を抜いてやる」
大切な人たちが誰も傷つかないかわりに、たった一人を追い詰めることになるけれど、一騎はその相手の強かさやたくましさを知っていた。きっと、この件でキースが記者を引退しようとも、彼女ならば次の色を探せるだろう。
だからこそ、容赦はしない。
だって彼女は、自分と大切なパートナーの平穏や周りさえ巻き込もうとしているのだから。
「さて」
主役に声をかけなければ。
一騎は総士へメッセージを打ち、ドアのほうを見た。今は気配も視線もないけれど、次はどう出てくるか。
彼は気を引き締めて、総士へ渡しそびれたペンをポケットのうえから撫でた。
「真壁さんそろそろ始めますよ」
スタッフの掛け声に応じて、瞬時に笑みをかたどり、一騎は照明の当てられたセットへ向かってあるき出した。
「これは」
「甲洋たちにも同じのを配ったけど、ボイスレコーダーの機能がついてるから、いざとなったら証拠を録音しといて」
「どこでこんな物を」
「知り合いの人から」
「……いったいお前の人脈はどうなってるんだ」
「甲洋にも訊かれたよ、それ」
「だろうな」
総士が、鼻を鳴らした。
「総士」
「我ながら、自分の器の狭さが嫌になるよ」
車椅子の座面に腰掛け、前を向いた総士の顔は一騎の位置からは見えない。路肩へ車輪を寄せ、足でロックをかけ、一騎が総士の正面へまわり込む。そのままではサングラス越しの表情を伺えないので、彼は躊躇なく片膝をついた。
私服のチノパン越しにアスファルトの感触が伝わって、若干膝が痛むも、それをおくびにも出さないようにして、視線を合わせる。
「お前のことで、僕が知らないことがあるのが、不安でしょうがない」
じっと耳を傾けて、総士の一挙一動を観察する一騎の頬に、総士の手が触れた。そのまま、両頬を左右の手が包み込み、頬骨の輪郭を指先が優しくなぞる。
「たとえ、僕のためだとしても、お前が何かを隠していることさえ嫌なんだ」
「なんでそれを」
ふっ、と総士がゆるやかに笑う。
「わかるさ。どれだけ僕がお前を見ていると思ってるんだ」
ついと、人差し指と中指が、頬をすべり、耳朶をやんわりと挟み込んだ。
「んっ」
一騎が息を呑む。不意の刺激に目をつむっているようにも見えるが、耳が弱いのを知っている総士からすれば、一騎の反応にはもうひとつの意味があるのを分かっている。むしろ、総士はその反応を狙っていた。
「一騎、お前の優しさはときどき独りよがりだな」
二本の指の間で、薄い皮膚が擦れ、やわらかな部分が揉まれる。
「そう、し」
一騎の顎が、総士の膝頭へ載せられた。よく躾けられた大型犬が、飼い主の膝へ甘えるような態度だ。
「いつか、僕にもお前の協力者のことを紹介してくれ。だって、僕の身内は紹介したんだから、こちらだけに伏せられているなんて不公平だろう」
「ん、わかった、から……耳、もうやめてくれ」
一騎がむずがり、頭を揺らすが、顎があたらないようう加減されているせいで、総士の膝へ頬ずりをしている格好になる。
シチュエーションが夜間の公園ということもあり、青年が車椅子ユーザーの恋人へ甘えているようにしか見えない。しかも、ジーンズのうえで閉じられたチュニックワンピースのせいで、遠目からは総士の姿は女性のようなシルエットに思える。
「いやだ」
「ぁ」
総士の小指が一騎の左右の耳孔へ侵入し、より敏感な薄膜をくすぐる。きゅっと、一騎の眉間に皺がより、街灯の薄明かりでもわかるほど頬の色が変わった。
「このくらいのお仕置きはいいだろう」
「っぁ」
聞こえづらい状態なのに、的確に一騎のうちに潜む官能を刺激する言葉に、とうとう彼はうつむいた。そうすると、布地越しに熱い吐息が総士の膝頭から内腿に掛かる。
「っふ」
予想外のことに総士が息を詰めた。しかし、負けず嫌いな彼は唇を噛んでそれに耐え、一騎が切なそうな声で制止を求めるまで、指の動きを止めることはなかった。
夜の散歩を兼ねた囮作戦にターゲットが釣れることはなく、いよいよ一騎と立上が主導になった2つめの作戦を頼りにするしかない状況になったところで、彼は総士にその作戦の概要を説明した。
ギリギリまで一騎が総士に相談しなかったのは、もし夜の囮作戦で釣れた場合を考慮してのことと、総士から怒られる可能性があったからだ。
「あのさ……やっぱ、怒った」
一騎が恐る恐る尋ねる声に帰ってきたのは、とても大きなため息だった。
「怒ったというより」
両手を自分の頬から口もとにあて、総士が蚊の泣くような声で続ける。
「カットしたシーンって、アレだろう」
「そうだ」
「アレをやるのか。僕と、お前が」
「ああ。……順番がちょっとおかしくなるけど、お前と一緒だったら俺は何だってできる気がするんだ」
「べつに、できないとか、したくないとかじゃない。僕だって、お前となら、って思っているただ、恥ずかしいだけだ」
「ふっ、ふふ」
「わらうな」
「だって、それこそ、同じだろ俺だって恥ずかしいよ。かなり特殊な状況だし。良いんじゃないか痛み分けってコトで」
「痛み分け……言い得て妙だな」
無意識に身を乗り出しながら話していた総士の肩を、車椅子の背もたれへ戻してやりながら小首をかしげた一騎に、ようやく総士が折れた。
「良いだろう。お前の相手も、あの役も僕にしかできない事だからな」
皆城総士からは、やはり不敵に強気な台詞が似合う。
一騎は憧れと自分の恋人を誇らしく想う気持ちで目頭が熱くなるのを感じながら、静かに頷いた。
それから一週間後、ライブ会場。個人曲、デュエット曲と彼らがみずからのファンのみならず、会場全体を虜にして、盛り上げたあとの熱気の静まった会場の中心で、寄り添っている影がひとつ。
否、影は途中からふたつに別れていた。
仲睦まじくというよりは、情熱的に抱き合っているのがわかるほど、彼らは密着している。
お互いの耳もとへ交互に唇を寄せ、何かを囁やき合っているのだが、片方は耳が弱いのか、あるいは相手の美声に腰が砕けそうになっているのか、ときおり身をのけぞらせそうになっている。
しかし、その相手の腕がおもいのほか逞しいのか、逃げることは叶わないらしい。
やがて、片方――長髪の男の後ろ髪に、ボブヘアーの青年の指先が絡んだ。その五指が頭頂から襟足までを、一度も引っかかることなく梳き、一房だけをたぐり寄せると、ボブヘアーの青年がそのしなやかさな毛先へ恭しく口づけた。
いかにも芝居がかった仕草だが、長髪の青年がそれに動じた気配はなく、彼らの甘やかな雰囲気は濃密さを増していく。
やがて、2人の唇が重なった瞬間、出入り口の扉付近で人影が動いた。そして、一騎と総士がそちらへ向かう前に、警棒を構えた長身の警備員2人が、その影の行く手を阻む。
「逃さないよ」
「まったく、4人グループだっていうのに……この頃は一騎と総士ばっかりで、さみしいな」
「お前たちは」
人影もといフリーライターのキースが声を荒げた瞬間、警備員に変装した甲洋と操の背後から白いフラッシュが焚かれる。
「よお。トクダネは戴いたぜ」
「溝口っ」
タンクトップ姿の筋骨隆々とした角刈りの男性と、赤みがかった茶髪にワイルドな印象の美女が向かい合う。しかし、男性のほうが余裕綽々であるのに反して、女性のほうは歯茎を剥き出しにして警戒心をあらわにしている。
「舞台の打ち合わせ現場に、記者が乱入ってな」
「舞台打ち合わせ何を寝ぼけたことをっこいつらは」
「はい、カット〜」
間延びした声と、カチンコが小気味よく鳴る音がした。溝口の背後からだ。
ミルクティー色の髪をオールバックにまとめ、プロデューサー巻きにしたカーディガンを羽織った青年とカメラ機材を抱えた青年。それから、立上芹と西尾里奈がそばに控えていた。
「何なんだっお前たちは」
「おいおい、随分ご挨拶じゃないか。かつてはアイドル、今は売れっ子監督、堂馬広登いちおう、そいつ等の先輩だぜっ」
「マネージャーの立上芹」
「同じく、マネージャーの西尾里奈」
「里奈の弟でカメラ担当の西尾暉」
キースが肩を跳ねさせた。状況は多勢に無勢。これ以上ないほど、一騎と総士に有利な舞台が出来上がっている。しかも、週刊アルヴィスの専属記者である溝口に顔を撮られ、状況証拠・物的証拠ともに揃ってしまった。
「キースさん」
「真壁一騎っ」
背後から名前を呼ばれてキースが振り向けば、2人の記者、改め、アイドル兼記者が向かい合う。そこへ、総士が訝しげな視線を向けた。
「もう、やめましょう。こんなことをしても、誰も幸せになれない」
「お前がっそれを言うのかっ」
周りが間へ入る隙もなく、キースが一騎へ飛び掛かる。まるで野生の虎のように俊敏な動きと鬼気迫る勢いに周りが固唾をのむなか、溝口だけが冷静に彼らを観察している。
避けることなく、キースにマウントを取られた状態で、一騎はまっすぐな目を向けた。
「あなたが俺を恨んでいるのは知っていた。けど、それは俺の周りの大切なひとたちを巻き込んでいい理由にはならない」
「……ハッようやく思い出したのかい」
「はい」
爛々と光る双眸が一騎を睨む。
「ダスティン・モーガンとビリー・モーガン兄弟の件ですよね。あの記事を書いたのは、俺でした」
「あの記事のせいでダスティンとビリーはっ」
一騎がアルヴィスの記者として、溝口と共同で紅音の件を調べていた頃、ビリー・モーガンという青年と知り合った。場所は、病院の待合スペースでだ。彼は、自分の置かれた状況や、彼の兄についての事で深い後悔を抱いていた。
『俺の代わりに仲間が死んだんだ』
と、出会って間もない一騎へ告げた彼は、軍部での情報操作によってビリーが配属されるはずの紛争地帯で戦友が亡くなったのだと明かした。
ビリーはその件で心を病み、病院へは向精神薬や睡眠薬をもらいに通っているのだと続ける。故郷ではなく日本の病院へ通っているのは、彼の国では当時のことを鮮明に思い出してしまうからだと。
「ビリーは、自分の罪を償いたいと泣いていた。兄がしたことも」
「だとしてもだとしてもだっあたしにとっては、数少ない仲間だったんだ」
一騎の声はどこまでも凪いでいて、それがキースの怒りをさらに煽る。
「ダスティンには、ビリーが唯一の血縁者だったんだあとはもういない。たった一人の家族だったんだよ」
そこではじめて一騎の瞳に揺らぎが生じた。キースが拳を振りかぶる。一騎は微動だにせず、ただ自分へ馬乗りになった女を見上げている。
「ストップだ」
そこで動いたのは溝口だった。素早く駆け寄り、キースの腕を掴み、捻り上げる彼によって、一騎のうえから女性1人分の重さが退く。
「……溝口さん」
「お前は間違っちゃいない。ダスティンの気持ちも、身内への愛情なんだろう。けどな、誰かが身代わりになるっていうなら、同意がないのは筋が通らねえ。ビリーの代わりに死んだそいつ、まだ生きる予定だったらしいぜ。結婚の予定もあったんだと。これも、ビリーから聞いた話だけどな」
キースの身体から力が抜けてゆく。
「俺たちはな、情報を売るし、ときには面白おかしく脚色もする。けどな、完全な私怨で個人を貶めるためのを書いたら、それは単なる外道だ」
「溝口さん」
「おう。あとは任しとけ」
片手でキースを引っ張り、颯爽と去っていく彼を視線で見送ると、一騎は自分のほうをじっと見つめていた総士へ気の抜けた微笑みを向けた。
「ごめんな。心配かけて」
「馬鹿が」
真四角の踊り場で仰向けに倒れたままの一騎へ、総士が手を差し伸べる。その手を一騎が掴むと、彼は力いっぱい引き上げた。
「ぅわっ」
一騎がたたらを踏むも、総士はそんな恋人をしっかりと抱き寄せて支える。
「帰ったら反省会だ」
そう宣言する総士に、一騎の眉がへにょりと下がる。しかし、彼は恋人の背後で自分たちを見守り、あるいは呆れたようすで伺っている協力者たちへ小さく頭を下げた。すると彼ら彼女らは一様に背を向け、出入り口へ向かっていく。
あとに残された2人は、気持ちが落ち着くのを待って、掴んだ手を握り直した。それから、建物を出ると一台のタクシーを呼び、地理的に近い総士の家へ向かう。
「さすがに今夜はシチューなんて用意できないぞ」
「いいよ。ようやくお前と一緒に寛げるんだから」
運転手は、後部座席の美男ふたりのやり取りに白目むきそうになりつつ、カーナビの液晶画面を睨んだ。
第七話 予兆――マエブレ――
キース・ウォーターの一件のあと、一騎と総士がそれぞれ襟もとと胸ポケットへ仕込んでいたボイスレコーダーを回収し、関係者含めて名前を呼んでしまった部分へ規制を入れたりなどの処理を施し、例の捕り物劇の写真も同様に目線などの処理をされた状態で、映像はボイスレコーダーの音声と合わせて・画像はアルヴィスの記事として世間を賑わせた。
あくまで個人を特定するような情報はこそいだのだが、キースの存在は業界では有名だったので、彼女はもう記者には戻れないだろうと思われる。
総士と一騎が、あのときに意味深長に囁やきあっていたのは以前公演した舞台の台詞で、それをスクープだと勘違いした記者が、他のスタッフが不在時に彼らを撮影してしまったという事情がそれぞれの媒体に補足されていた。
「は~、それにしても驚いたね。一騎ったら、本気出せば逃げられたはずなのに逃げないし」
「アレは、アレで正解だったよ。さきに向こうが手をあげたっていう状況証拠ができたから、溝口さんが抑えに行ったのもセーフ判定になったし」
「さきにおさえたら、溝口さんのほうが暴行をくわえたっていうことになりかねないからな」
「そういうの狙ったわけじゃないけど、あのまま殴られても仕方ないなって思ってたし」
「お前は」
しれっとした態度の恋人に、総士は自分の額を抑えた。
「けど、結果オーライだったし、みんなに大きい怪我もなかったし、よかったじゃん」
「あのまま舞台稽古っていうていで進めてったら濡れ場があったけど、さすがにそこに行くまでに記者のひとが動いてくれたしね」
来主と甲洋の助け船に、一騎がほっと息をつく。
「そうだな。といっても舞台が前提だから、本番はゆったりした衣装でぼかすし、昨日もしあの人がギリギリまで動かなかったら、監督たちに頼んで抑えてもらう予定だったよ」
「初耳だぞ」
「だって、総士のそういうとこ、俺以外に見られたくないし」
「っ」
ぽっと音がしそうなくらいの勢いで真っ赤になった総士に、一騎がやわらかな笑みを向ける傍らで来主と甲洋が肩をすくめる。
数分そのままの空気だったものの、さすがに耐えきれなくなったのか甲洋が席を立った。気分転換がてら、お茶の用意をするらしい。
「あ、すまない」
「ありがとう」
「ありがとー」
コーヒーをふたつにカフェオレをふたつ載せたトレーに、差し入れのお菓子をあわせてサーブした甲洋にそれぞれがお礼を言って、カップをとる。
「あ、このサブレおいしい」
「……ほんとだ」
来主が嬉しそうな反応をすると、つられて手を伸ばした一騎が、焼菓子を咀嚼して飲み込んでから頷いた。
「今日は、深煎りなんだな。コクと苦みが濃くて、舌触りもいい」
「ああ、焼菓子がいっぱいあったから、濃いめのをチョイスしてみたんだ。カフェオレにもしやすいし」
「なるほど」
総士は、一騎へサブレの甘さをたずねてから一枚かじる。
「甘さ控えめでバターと塩気がほんのりしておいしいな」
「甲洋と総士宛てのは外れないからな」
頬をほころばせた総士へ複雑そうな表情を向けながら、一騎が焼菓子の入っていた箱をつつく。ちなみに、来主へはカラフルな砂糖菓子や一騎へは素朴な味わいの菓子折りが届くので、その都度甲洋がコーヒー豆や茶葉をチョイスしている。
こまやかな気配りのできる彼にいまだ浮ついた話がないのは、あしらい方さえスマートだからだろう。
「一騎ってば、またお菓子に嫉妬してる〜」
「お菓子に」
来主の言葉に、総士が反応した。
「一騎ってさ」
「来主」
「お茶くらいゆっくりできないのか」
席を立ち、慌てたようすの一騎を甲洋が窘めると、一騎は席に座り直した。自分の関心事を遮られ、唇を尖らせた総士だったが、来主のそでを引いて「あとで教えてくれ」と耳打ちすると、来主がにこりと笑った。
「あ、ドタバタしててアレだけど、一旦の幕引きにはなったし、約束してたやつをしない」
「約束」
総士以外のふたりが、甲洋の言葉にうなずいた。
「賛成」
「ああ、このところ気を張ってたからな。良いんじゃないか」
「お前たちは知っているんだな」
またもやムッとした総士に、一騎が説明する。
「仲間はずれにしたわけじゃないけどさ、スキャンダル事件が落ち着いたら、みんなで出かけようかっていう話をしてたんだ」
「ほう僕を差し置いておいてか」
「拗ねるなって。まだ具体的なことは決めてないし、総士も一緒に行けるようにスケジュールも調整してもらうから。そうだな、せっかくだし、総士にも計画を考えてもらおうか」
甲洋が助け船を出すと、総士は目に見えて喜色満面の笑みをたたえた。
「ああ」
その後、具体的な予定は総士と甲洋に任せ、一騎と来主は買い出し班ということで、ざっくりとキャンプ用品や必需品を揃えに行くことにした。事務所の許可を総士と甲洋の説得によってもらったうえで、だ。彼らに与えられた時間は4日間。キャンプは最長で3泊4日できる。
「なんだか、ワクワクするね。今まで、総士も甲洋も仕事のイベント以外はあまり乗ってくれなかったから」
来主の言葉に、一騎は苦笑する。
「ふたりとも落ち着いてるからな。趣味が、読書とチェスとか釣りだろあのふたりがチェスとかで対戦してるのはわりと見るけど」
「あれね。ふたりとも頭いいし、差すのもはやいから、俺じゃ相手になれないし」
「わかるよ。俺なんて、ルールすら覚えられないし」
「あはは、一騎はどっちかっていうとスポーツとか動くほうのゲームが得意だしね」
「そうなんだよな~。総士と一緒に居るのも、甲洋と話してるのも落ち着くし、ゆっくりしていられるから好きなんだけど。向こうがさ、俺なんかの相手をしてるの、退屈なんじゃないかって思うときがあって」
「……そっか。うーん、上手く言えないけど、退屈なんかじゃないと思うよ。ふたりとも一騎のことを好きだし」
「嫌われてはいないのは分かってるさ。……あ」
「なに」
「来主も運動は嫌いじゃなかったよな」
「え、うん」
ホームセンターへ向かう道すがら、バッティングセンターの看板と緑色のネットを見つけ、一騎がいたずらっぽく笑った。
「帰りに、ちょっとだけ寄り道するか」
突然の提案だったが、好奇心を刺激された来主は、運転手の魅惑的なお誘いに反射的に頷く。
「うん」
やがてホームセンターで炭や網、飯盒、大きなクーラーボックス、2リットル入りの水のボトルをダンボール二箱分、などなどそこそこかさ張る物をリストに従って購入し、ふたりはちょっとした寄り道をすることにした。
「わぁ」
「来主は、こういうとこははじめてか」
「うんゲームセンターだったらちょっとだけ連れてきてもらったことあったけど」
「ふーん」
一騎がさきを歩くと、まわりをキョロキョロ見回しながら来主が後ろをついていく。ときどき振り返ってはそれを確認し、一騎は自分に弟がいたらこんな感じだろうかと、温かい気分になった。
十数分。たったそれだけの時間であっという間に上達して、速い球を打てるようになった来主の姿に、一騎は驚きつつも一緒になって喜んだ。
「たのっしー」
「他のもやってみるか」
「うん」
バッティングマシーンのみではなく、テーブルホッケー、リズムゲーム、格闘ゲームなどの台が並んでいる店内だが、やや年季がはいっている影響か、客層は20代後半から中年男性が多く、アイドルであるふたりに見向きもせずに、それぞれが自分のしていることに集中していた。
「お」
「よしっ」
「どうだ」
「うわっ」
対戦型のゲームではお互いを追い詰め、交代で遊ぶものでは応援しつつ一緒に楽しみ、ふたりは1時間あまり遊んだあと、自販機のアイスを食べてから総士と甲洋が待つ事務所へ戻った。
「ずいぶん、ゆっくりだったな」
買い出しに向かう前と同じ部屋に居た総士と甲洋は、将棋を差していたようだったが、一騎と来主に気付いた総士が冷ややかな声で指摘する。
「ちょっとな」
寄り道、それも遊んでから帰ってきたと白状したら怒られるだろうかと、一騎と来主がアイコンタクトを交わす。それすら面白くないようで、総士は席を立ち、つっけんどんな態度で、一騎に買い出しの際の領収書とレシートを出すように言った。
ざっと品目と金額へ目を通すと、総士はその2枚をクリアファイルへしまって、品物は買い出し時に事務所で借りたワゴン車の中へ入れたままでいいと伝える。
「え、いいのかクーラーボックスとか網とか、一回洗いたかったんだけど」
「あとで僕が洗う。それと、立て替えてもらった分を割り勘にするから少し待て」
「……わかった」
なぜ総士が不機嫌になったのかわからずに困った様子の一騎に、甲洋が苦笑する。
「甲洋」
「はいはい」
総士がスマートフォンの電卓で出した金額にあわせて、総士と甲洋と来主が一騎へお金を手渡した。
「たしかに」
きっちりと確認し、おつりを来主へ渡し、受け取った分を一騎が自分の財布へしまう。
「スケジュールの調整上、行くとしたら一週間後だな。集合場所は最寄り駅から15分の東口パーキング。持ち物は2日分の着替えやタオルを各自で。調理器具や釣り具、寝袋などのキャンプ用品などを持って行く場合も同様に」
「運転は一騎」
「いや、交代だ。僕と甲洋もやる」
「、総士が」
「なにか不満でも」
「だって総士の運転荒っぽいんだもんヤカラだよ、ヤカラ」
来主の言葉に、総士の目尻が釣り上がる。
「誰がヤカラだ」
「まあ、総士の運転が荒いのは事実だけどね。来主は来主でスピード狂だし」
「それはホントか、甲洋」
「信じられないなら、体験してみたらいいよ。俺としては、酔い止めと袋を持ち物に加えておくことをオススメするよ」
普段、冷静であまり冗談を言わない甲洋が真顔でそう言った。その時点で、信憑性はかなり高い。一騎は忘れないうちに、スマートフォンのメモ帳アプリに、酔い止めと袋を記入した。
「でも、ロングドライブになるだろうから、どこかのタイミングで運転は代わるべきだと思うよ」
「そんな遠くに行くのか」
「せっかくだし、俺たちのことを誰も知らないとこに行ってみたいだろ」
言葉どおりに受け取るならば、首都を離れ、アイドルとして認知されていないくらいの場所へ行こうという意味を指しているのだろうが、甲洋の台詞にはどこか意味深長な響きがあるように(それでいて、どこかで聞いたようなおぼえもあるのだ)思えて、一騎は眉間にシワを寄せた。
「一騎」
ふいに、総士が一騎の顔を覗き込んだ。
「うわっ」
「大丈夫か」
「だ、大丈夫」
「なら良いが。お前は、たまに心ここにあらずといった感じになるから」
「大丈夫。ちょっと、デジャヴュだと思ってさ、ぼうっとしただけ」
「デジャヴュ」
「いや、気の所為みたいだから、いいよ」
「そうか」
腑に落ちないと顔面に記しながらも、無理に聞き出そうとしない総士。それから彼は、ゆっくりと瞬きをしてから俯いた。
この時に、総士の不安に気付けていたらと、後に一騎は後悔する。
「きれいな湖畔のある山に行こう。じつは格安で借りれる別荘もそばにあるんだ」
「だから長めの休暇を申請してたんだなたしかに別荘が近いなら、風呂とかトイレとかも安心だし」
「そうだね雨とか雷きてもテントとか車のなかでじっとしてるより良いかも」
甲洋の言葉に、一騎と来主の表情が晴れる。
「とはいえ、移動中や不慮の事態に備えて、水などは多めに買ってきてもらったというわけだ。いちおう、一泊めはテントで野宿、二泊め、三泊目は別荘を借りようという予定になっている。ちなみに別荘の所有者は僕の義姉……一騎は会ったことがあるな」
説明のあいだに挟まれた言葉に、一騎は以前の皆城総士狂言誘拐事件のことを思い出す。
あのとき、意思の強そうな眼に眼鏡をかけた猫っ毛の女性がいた。
「ああ、あの人か」
「総士の家族か、モデルの妹さんには会ったことあったけど、他のひとには会ってないな」
「そうだったか」
「ああ」
総士が口もとへ指を添える。
「色々と事情があったからな、あまりひとに紹介しないようにしていたんだ。しかし、甲洋と来主だったら信用もできるからな……こんど紹介しよう」
「あ、俺は蒼生には会ったことあるよ一騎と一緒にご飯食べに行ったら、そこでバイトしてて」
「そうか」
総士が鋭い眼差しで、一騎を流し見た。
「な、んだよ」
「べつに」
「……話をもどそうか」
どことなく不穏な気配を感じて、軌道修正をした甲洋に内心でほっとしながら、一騎は総士のほうから目をそらす。
「さて、ここからは一騎と来主にも意見を聞きたいんだけど、食材とかメニューをどうするか悩みどころなんだよね。1日目はバーベキュー、2日間はスープとパン、カレーライス、3日めは川魚を釣ったりして焼くかってざっくり考えているんだけど」
「そうだな、じゃあ」
一騎は自分の得意分野で計画に関わることができることと、来主は自分の意見を求められたことに嬉しさをおぼえ、彼らの意識はすっかりそちらへ向いてしまった。
そのあいだも総士の機嫌は一向にもどらず、彼は一騎と来主の横顔を伺っては、もやもやとした気持ちを抱え、席を立つ。
「総士」
「ちょっと歩いてくる。十分そこらで戻るから、そのまま話を進めていてくれ」
「あ、ああ。かまわないけど大丈夫かこないだは一騎の件だったけど、お前も狙われないという保証はない」
「心配しすぎだ」
肩をすくめ、総士は首を振った。それから物言いたげに手を伸ばした一騎のほうを冷ややかに一瞥し、ドアへ向かってしまう。
「あ」
「今は、すこし一人になりたい」
「……わかった」
そのまま廊下に出た総士の背中を不安そうに見守る一騎の横顔に、甲洋はため息を漏らす。
「お前も大概だけど、総士も結構アレだよな」
「アレって」
「そこは俺が言うことじゃないから」
本人たちが気付くべきことをわざわざ指摘するほど野暮ではないと、甲洋は本心を隠して曖昧に微笑んだ。ちなみに隠した本心はもう一つあって、この無自覚バカップルに巻き込まれたくないというのもあった。
深刻なトラブルであればメンバーとして、友人として手を貸すつもりだが、もう手助けもいらないほど愛し合っている彼らには必要以上に関わる気はないのだ。そんな甲洋とは逆に、来主は彼らの恋路に興味津津なようだが。
「なんだよ、それ」
一騎が頬を膨らませるさまを尻目に、甲洋は冷めた飲み物を飲み干すと、人数分のカップを回収し、シンクへ運んだ一騎のそばには、心配そうに彼を見守る来主だけが残る。
ところ変わって、廊下。
「やあ」
気安い素振りで、片手を軽く上げて挨拶してきた青年に、総士は苦虫を噛み潰したような顔を向けた。
「ひどいなあ、そんなに僕のことが嫌い」
露骨な感情表現に対して直球に尋ねる彼へ、総士は厭味ったらしい返事をする。
「好かれるようなことをされた覚えがないものでな」
イドゥン。
ベノン芸能プロダクションのマネージャーであり、総士の過去を知る人物でもある。
情報が漏れたわけではなく、こちらは総士の父である公蔵のもとで、秘書のうちの一人として故人をサポートしていた時期があったので総士の素性を把握していたというわけだ。
芸能界入りをして間もない頃の総士に、過去を公表し、薄幸の美少年というキャラクターでベノンへ移籍しないかと持ちかけたことも重なり、彼はイドゥンへ対して苦手意識を持っていた。
「それは残念。君にはぜひこちらのグループで華を添えて欲しかったのだが」
ベノンの花形といえば、圧倒的な実力で構成されたアーティストグループだが、そのうちの一人が産休に入るということで活動休止の方向も視野に入れているとの情報もあった。
オーディションで随時メンバーを募集しているものの、代役たりえる者がまだ見つからず、結果は芳しくはないのだろう。このままメンバーが産休に入ってしまった場合は、活動休止だとも聞く。
「なぜ僕に歌唱力なら一騎のほうがあるだろう」
「言っただろう華を添えて欲しかったと。真壁一騎は清潔感と儚さ、たまに見せる可愛らしい笑顔が好評らしいが、うちが求めているのはそういうものじゃない。しかも、ボーカルはもう足りている。紅一点のキーボードが抜けるんだ。わかるだろう彼ではなく君が欲しい」
一騎が楽器を扱ったことがないというところを不安要素に挙げられるのは理解できた。しかし、自分の恋人には華がないともとれる言い回しに、総士は苛立つ。
「さっきから」
「おっと」
総士が声を荒げるよりさきに、彼の体が後方へ『引き寄せられた』。総士が驚いた猫のごとく、目を見開く間に、彼の肩口を男の腕が包み込む。
総士の鼻先へ、彼が一番好ましいと感じる香りが漂った。誰が自分の背中へ密着しているのかを、彼は見えなくても確信できる。
「一騎」
「ずいぶんとオーバーリアクションだな。そんなだから疑われるんだよ」
「うるさい。それと、距離が近すぎる」
端的な言葉で威嚇する一騎を、イドゥンがせせら笑った。
「君は、総士のなんだまるで彼の保護者気取りじゃないか」
「ちがう。俺は、俺は……」
言葉に詰まった一騎の袖口を、総士が握った。
関係を明確に伝えたくても伝えられないもどかしさ、苛立ちを、この瞬間のふたりは共有していた。
「また会おう、総士。次はいい返事を期待しているよ」
「僕は会いたくない」
「きっと会うさ。この世界は、広いようで狭いんだから」
そこで忌々しそうに舌打ちをした総士へ手を振り、イドゥンはふたりへ背を向けた。
「何だったんだよ、あいつ」
不快感をそのままおもてへ出した一騎の腕をやんわりと自分の肩からはがしながら、総士が簡潔に説明する。
「別の芸能事務所のマネージャーだ。僕を引き抜きした来たみたいだったが」
「させない」
「ああ。僕も、その気はない」
くるりと、総士が一騎の立つ方へ振り向いた。
「……戻ろうか。今は、楽しいことを考えていたい」
「そうだな」
一騎はイドゥンと総士の繋がりに、本人が説明した以上の因縁を察しながらも、この場は恋人の言葉だけを信じることにして、来主たちが待っている部屋のほうへとふたりで戻ることにした。
第八話 草枕――タビ――
ベノンが誇る実力派グループ【プロメテウス】
ケイオス、マリス、レガートそして紅一点でありレガートのパートナーであるセレノアで構成されるこのグループは、尖った歌詞とその独特な雰囲気を力強く、ときに切なく表現するレガートのドラムとセレノアのキーボードがあってこそ成り立っていた。
ルックスと歌唱力、キャラクター性でケイオスとマリスが表の顔を張り、レガートとセレノアがそれをサポートする。
そんな完璧な配置があってこそプロメテウスはグループとしての強み、お互いの持ち味を出し切りつつ、バランスを保っていたのだ。つまり、欠員が出るということはそれが崩れることを意味していた。
総士は、一騎の隣もとい助手席から、次第に濃くなっていく緑を見やりつつ、イドゥンに打診された内容について考えていた。
考えたくてそうしていたのではない。なにかが引っかかる気がして、その漠然とした勘が彼の思考をそちらへ向けたのだ。
「総士」
「なんだ」
フロントガラスの向こうをまっすぐに見つめながら、一騎が総士へ声をかける。
「そろそろ酔い止めが効いてくる頃だろうから、運転を変わってもらえるか」
「ああ、かまわない」
「じゃあ、もう少ししたら路肩に寄せるな」
数分後、一騎と総士が席を代わり、総士がハンドルを握る。それから、長身に見合った甲高の足がアクセルに載せられた瞬間、動物が威嚇するかのような唸りが響き、一騎は頬を引き攣らせた。彼の体に緊張が走る。
どの方角から襲われるか想像もつかないものの、自分の隣にいる愛しい男を守ろうと歯を食いしばった瞬間だった。急な加速による圧力が、一騎の三半規管を揺らした。
「ぐっ」
その時になって一騎は悟る。
さきほどの獣の唸りに似た音は、総士の操る車から発されていたことを。後頭部と背中および座面に接している部分すべてが、隙間もないほどくっつき、背面とシートが一体化したような錯覚をおぼえながら、一騎は衝撃に備えた。
「お前の性能を見せてみろ」
低く発せられた台詞に、一騎の肌へ鳥肌が立つ。思わず一騎はメーターパネルを確認した。あと僅かでトップスピードに達する。
「っく」
止められない。
彼は総士の悪評高いドライビングテクニックが事実であったことを全身で感じながら、一騎はあらかじめ警告してくれた来主へ心のなかで感謝をした。
声になど出せない。理由は言うまでもなく、急加速・減速・カーブとレーサーに例えるには荒っぽく攻めた走りをかましている総士のせいだ。下手をすれば、舌を噛むくらいでは済まないかもしれない。
ヤカラ運転
言い得て妙だと、一騎は納得した。暴走族あがりだと言われたら信じてしまいそうなほど、総士の横顔は獰猛な気配をまとった笑みを浮かべている。車を限界まで駆り、その跳ね馬さながらの暴れようを支配することに彼が悦を感じているのは明らかだった。
もしこれをデートの時にされたら……吊り橋効果まっしぐらだろう。
下手をすると、ムードも階段もすっ飛ばして生存本能のままに身体を重ねていたかも知れないと、一騎はあの日運転をかって出た自分の英断に胸をなでおろす。
「死ぬかとおもった」
総士が高速道路のなかばからパーキングエリアまでを担当する間、車内は沈黙につつまれ、あの来主でさえ顔を青くしながらシートベルトを握っていた。
「と、とりあえず、休憩しよう」
「そうだな」
ペットボトルの飲み物を一気飲みし、来主と甲洋がそれぞれ自分のタオルで目もとを覆った。各自で酔い止めを服用していたのだが、素人目でもわかるほど彼らは真っ青な顔をしている。もし酔い止めで緩和していなかったら、という仮定を想像するだに恐ろしい。
「総士」
シートベルトを解除して席を降りた総士へ不安そうに声をかけた一騎へ、総士が苦笑する。
「ただトイレに行くだけだ」
「そ、そうか」
気まずそうに顔を背けた一騎だったが、ここしばらくの状態を振り返り、総士を一人にさせてはいけないと考え直す。
「一緒に行くよ」
「女子じゃないんだから、ひとりで大丈夫だ」
眉根を寄せた総士に、彼が変装用に掛けていた伊達メガネが僅かにずれる。
「ここは警備員もいないし、何かあったらって心配するのは仕方ないだろ総士は、その……綺麗だし」
「き、綺麗なんて……それを言うなら、お前は笑うと可愛らしいし」
途中までは黙って聞いていた後部座席のふたりだったが、体調不良のときに、その原因たる男が醸しはじめた甘い空気を裂くように甲洋が咳払いをした。
「あ」
「……仕方ない。トイレは男子トイレの個室を使うから、ついて来なくても大丈夫だ。用を足したらすぐに戻るとも約束しよう」
「そうか、だったらまだマシかな」
プライバシーのない小用のスペースよりは囲いがあるだけマシだろうと、ようやく一騎が引き下がる。
「まったく、どこまで過保護なんだか」
ドアを閉めた総士に続いて、一騎もシートベルトをはずし車を降りたのを見送って、甲洋が吐き捨てた声に、ふたりが気付くことはない。
「待たせたか」
「いや」
キャンプだというのに有名ブランドのハンカチで手を拭いながら歩いてきた総士は、一騎がドリンクの入った袋を下げているのを見とめて声をかけた。
「そちらは」
ドリンクスタンドの店員らしき、エプロンを巻いた色黒の男が一騎の肩に手を置いているのを、持ち物の次に指摘したのは、総士なりに『猶予』を与えたつもりだったのだが、そのあいだも店員が一騎に触れていたので、総士の機嫌が一気に下がる。
「あ、これを買ったドリンクスタンドの店員さん」
「見ればわかる。僕が言いたいのは、どういう経緯でお前の肩に触れているのかということだ。まさかこの短時間で友人になったわけでもあるまい。お前の口下手ぶりは僕がよく知っているからな」
わざわざ厭味ったらしく、回りくどい言い回しで『馴れ馴れしくも、連れに触れるな』と釘を刺し、総士が一騎の腰を抱き寄せた。
「うわっちょ、こぼれるだろ」
「問題ない。僕にとっての優先順位はお前だからな」
「わっ」
惜しげなく告げられた甘い台詞に、一騎の頬が染まる。そもそもこの男は、総士のファンであったのだ、それが紆余曲折あって同じアイドルグループへ入り、恋人関係になれた。
つまり、惚れたのも一騎のほうがさきで、遥か雲の上の存在だった総士に気にかけられているというだけで気持ちが浮ついてしまうのも仕方ないのだ。まさに惚れた弱みである。
「あらら~、でもお兄さんも美形」
「なにをするっ」
「あ、こらっ」
総士のVネックの合間からかすかにのぞく胸筋に指を差し入れた男に、一騎が慌てる。
「こ、こいつは、俺のだからそ、そういうの、困るんでっ」
肩をつかんでいた手をおざなりに払い、彼は総士の手を掴み、とっくに支払い済みだったドリンクを片手に、甲洋たちが待っている車へ向かった。
「一騎、一騎……大丈夫だ。追われてはいない」
途中で総士が声をかけるも、その手首を掴む力は強く、恋人関係というよりも、連行されている犯罪者はこんな感じだろうかと、頭の片隅で想像してしまう。
「俺でもまだ触ったことないのに、あんな、あんな、ぱっと出のヤツが」
「落ち着け」
「落ち着いてるよ。これはイラついてるだけ」
「だから」
総士が手首を苛む握力に顔を顰めながら食い下がるも、一騎は車の側に行くまで総士の手首を解放することはなかった。
「ぁ」
手を離されたあと、自分の右手首にしっかりと一騎の指のあとが巻きついているのを確認し、総士は息を呑む。しかし、気が立っている一騎は気付かないらしい。
ふつうの価値観の恋人であれば痕が残るほど強く握られれば怒ったりもするのだろうが、総士は違った。彼は一騎につけられた目もとの傷でさえ愛しむ男なのだ。現に、手首の痕を、目もとを綻ばせて撫でていた。
「総士」
「なんでもない。それより、そのドリンクは」
「あ、果物だったらさっぱりするかと思って買ってきたんだけど」
「さっすが一騎」
いまだに彼が持ったままの包みを、総士が指摘すると、来主が嬉しそうに笑って後部座席のドアを開けた。とはいえ、まだ彼の顔色はあまり良くない。一騎が渡したジュースを受け取って、喜びながら飲む来主を横目に、甲洋もドリンクを選ぶ。
「ありがとね、一騎」
「ああ、いや」
包み座席に置いて、あいた手で一騎は自分の頭を掻いた。
「僕もひとつもらおうか」
「あ」
「なんだ」
「いや、いいけど」
総士が残った2つのうち、ひとつを取ろうとすると一騎が複雑そうな顔をする。
「言いたいことはわかるが、せっかくお前が僕らのために選んだんだ。無駄にはしないさ」
「うん」
へにょりと眉をさげてしまった一騎の頭をあやすように撫で、総士がドリンクに口をつける。
「うん。さっぱりしてるな」
「……」
「なんだ、その顔は」
「ずるいよ、おまえ」
そう言いおいて、一騎はするりと運転席へ乗り込んだ。残す距離はさほど多くはない。それに、総士の運転でかなり消耗している2人はもとより、総士にまた運転させて、後部座席の彼らにトドメを刺させるわけには行かなかった。
「お前は、僕の運転で酔わないんだな」
「うんああ、さっきのか」
「なにかコツでもあるのかだとしたら、後ろの2人のために聞いておきたいんだが」
「あ、それ気になる」
「うんうん」
「そうだなあ、コツっていうか、ちょっといろいろあって喧嘩決闘よく挑まれてたからかな。たまに容赦なく痛めつけようとしてくるヤツもいたし、気を失ったらどうなるか考えたくなかったからさ、意地みたいな感じかな。揺れとか回転とかは、掴まれたり投げられたりとかされるうちに慣れたし」
「……どう思う僕の運転よりコイツのほうがよっぽど『やんちゃ』だぞ」
総士の呼びかけに、背後の2人が唸る気配がした。
「どっちもどっちかなぁ」
「2人揃ってたら、一区画穫れてたかもね」
「区画……」
「マンガみたいだね腕のたつ喧嘩担当と、頭脳派で逃走を手伝う相棒」
「みょうに具体的な例えはやめろ」
「アハハッ良いかもしれない。ちょっと読んでみたいかも」
「甲洋まで」
「ん〜、そこまで言われると、面白そうな気がしてきた。もしそういうドラマとかの話が来たら指名し合うか」
乗せられたのもあるのだろうが、さきほどの不機嫌さをおさめて弾んだ声で尋ねてきた一騎に、総士は頷く。
「ああ、そういうのだったら、たしかに面白そうだ」
「だろ総士とだったら、なんでもできる気がするし、何だって楽しいんだろうけど」
「一騎」
甘い雰囲気が漂い出したタイミングで、甲洋が茂みに隠れかけた看板を指差す。
「おっと、そろそろだな」
「え、もうなのか」
「右手に見える看板があるんだけど、道幅がちょっと狭いから気をつけて」
言われて、一騎がそちらを向くと、アスファルトの道から右手にかけて、道ができていた。多少の凹みはあるものの、最低限の整備はされているようで目立つ窪みは見当たらない。
「わかった。けど、ちょっと揺れるかも」
「総士の運転に比べたら全然」
「かわいいモンだよな」
「お前たち」
こんな時だけ仲のいい2人に総士はもはや呆れ返って、背もたれへ背中を預けた。
看板のあった位置から十数キロほどすると、美しい湖畔をまえに、開けた場所があらわれた。
「うわあ、綺麗」
「ほんとに」
「こんなに綺麗な湖がまだあったんだな」
「……ああ」
これだけ澄んだ水辺であれば、釣りにしろ、水浴びにしろ安心して楽しめそうだと、全員はその美しい碧色にしばし見惚れた。
「さて、今のうちにテントを張ってしまおうか」
「そうだな」
「じゃあ、重石を兼ねて使う分の荷物も下ろそう」
総士と甲洋の指導のもと、一騎と来主も動き、全員で協力して2人用のテントをふたつたて、それぞれに荷物を入れる。
「うん、いい感じだ」
「甲洋、コンロとかは中間くらいで良いよな」
「ああ、使いやすくて安全な位置なら大丈夫だ。ところで、お前、釣りに興味はあるか」
「んー、やったことないけど気にはなる」
「そうか、今日はもう無理だろうけど、明日とかに一緒にやるか」
「……釣り竿って何本あるんだ」
「え、2本あるけど」
「そしたら交代でやるのも楽しそうだな。俺、釣りの才能ないかもしれないし、そしたら代わったほうが良いだろ」
「べつにそこまで責任感持たなくても……いちおう食材はあるんだから、釣れなくても困らないし」
「そうか」
「天気の影響とか運要素もあるしな。釣りの成果だけに頼るのは心もとないから、余裕を持って準備してあるよ」
空を見上げた甲洋にならって、一騎も頭上を見上げた。
「なるほどな」
そうして、甲洋と釣りの約束をして離れた一騎だったが、今度は藪の中から走り出てきた総士に驚く。
「どうしたんだ」
「来主がいないんださっきまで、一緒に小枝や枯れ葉を集めていたのに」
緊張感に顔をこわばらせて慌てる総士の姿に、一騎も胸をいためつつも、彼らは甲洋のところへ戻って事情を説明してから3人で来主を探すために、日が傾き始めた藪の中へ足を踏み入れた。
「来主ー」
「どこだ」
「……すまない。僕が目を離したばかりに」
自分を責める総士の手を、一騎がそっと握る。
「まだ何があったかわからないし、無事の可能性だってある」
「甲洋の言うとおりだ。それに、来主は足も速いし、反射神経もかなりいい。よっぽどの事がなければ大丈夫だ」
「ふたりとも」
客観的な意見と論拠を聞いて、総士悲観的な気持ちが少しだけ軽くなる気がした。
「ありがとう」
「……ちょっと待ってくれ、これ」
ふいに一騎が足を止め、自分の足もとを指差す。
「これは」
総士と甲洋が息を呑んだ。
明らかに人間のものではない足跡が、彼らの向おうとしていた方角へ伸びている。しかも、途中で引きかえしたかのように、U字型にだ。
「なにかを見つけて引きかえしたようだな」
「驚いて帰ったのかもしれない」
「……」
一騎の手を握り返す総士の手から、冷や汗が滲む。一騎はそれを黙って握ったまま、足もとから顔をあげて、藪の奥の暗がりを睨んだ。
「行こう」
「そうだな。完全に日が暮れるまえに」
「ああ、もし発見が遅れれば、来主が無事だったとしても衰弱している可能性だってある」
そこで彼らは顔を見合わせて、深く頷いた。
そして、一歩踏み出し、獣道へと進み入る。
それから十数分ほど歩いたさきで、甲洋が足を止めた。
「甲洋」
「あれ」
甲洋が藪の先に見えた川を指差す。そこには、大きなぬいぐるみに身を預けて寛ぐような姿で、野生の熊の膝に乗った来主がいた。
「え、え」
あまりに現実離れした光景に、総士が混乱するも、一騎と甲洋がアイコンタクトを交わした。総士の手を離してから、彼は、熊を驚かせたり刺激しないよう、音を殺しながらゆっくりと正面へ回り込む。
「来主」
「あ、一騎」
ぴょんと、来主の脚が上下に跳ねた。その動きに、熊が瞬きをする。一騎の視線と、四つ脚の巨獣の視線が交わった。
「く、来主、その熊は」
「えへへ、可愛いでしょ〜小枝拾ってたら会ったんだ。で、素敵なところへ連れてってくれるって言うから、ついてきちゃった」
「素敵」
「よく見てほら、魚がいっぱい」
「うわ、すごいな。これ、鮎か」
「すごいでしょ〜この子が教えてくれたんだ」
猫以外の動物の考えがだいたい理解できるという特技を持っている来主だが、まさか熊とも意志疎通ができるとは、と一騎は肩の力を抜く。
「俺や総士たちが近づいても大丈夫か」
「うんちょっと待ってね」
熊の前足の肉球と手のひらをあわせながら来主が、これから自分の友だちが現れるが、決して敵対することはないと説明すると、熊は一騎へつぶらな目を向けた。
「うぐっ」
ニュースなどで野生の熊=凶暴な印象が刷り込まれていたが、来主のそばにいる熊からはその片鱗も伺えない。それどころか、黒目がちの眼やずんぐりとしたフォルムに、一騎は可愛らしいという感想を持った。
「じ、じゃあ、呼ぶぞ」
「うん」
「来て大丈夫みたいだ」
一騎が、自分たちを不安そうに見守っていた総士と甲洋へ手招きすると、彼らは警戒したままゆっくりと歩み寄ってきた。
「うわ、ホンモノだ」
「すごいな。よく無傷で……だが、帰ったら説教だからな。なんだ、その顔は。この僕を心配させたんだから当然だろう」
「うっごめんなさい」
「なにもなくて良かったけど、次はちゃんとひと言言ってからにするんだぞ」
総士と一騎が交互に来主を叱るのを見つめつつ、甲洋がつぶやく。
「子育てしてる……」
「こんなに大きいこどもはいない」
「総士がほしいなら、養子をとろうかとは思うけど、さすがに来主は」
「どうどう、ジョークだよ」
熊のほうを気にしながら総士をなだめる甲洋という姿も珍しく、一騎と来主がくすりと笑う。
「あ、どうせだし記念に動画でも撮るか野生の熊なんてそうそう遭わないし」
「そうだな、せっかくだし」
言い出しっぺの一騎が、来主と熊へスマートフォンのカメラを向けると、にこりと笑った来主へ熊がいっそう顔を寄せた。
「わ、すごい仲良しなんだな」
「心が通じ合っているのがよく分かる」
「ああしていると、かわいいところもあるんだけどな」
すっかり甲洋まで保護者のような目線で一人と一頭を見守り、ついに総士と甲洋まで自分のスマートフォンで来主と熊を撮影しはじめた。
「これ、良いかもしれない」
数分後、熊が仕留めたらしき魚を貪りはじめるまで動画を撮り、どことなく満足した様子の一騎と総士それから甲洋はほのぼのとした心地で、テントまで戻った。
「あしたは釣りをしようと思っていたんだけど、さっきの熊が教えてくれたとこで鮎を獲ってもいいかもな」
「釣り楽しそうだね」
「ほう、思わぬ穴場も教えてもらったからちょうどいいな」
「甲洋が釣り竿2本持ってきてるらしいから交代で借りよう」
「良いのか」
「ああ、これで釣りの楽しさとか伝われば、オフのときに付き合ってもらえるかもしれないし」
「フッ、ちゃっかりしてるな」
「こういう理由があったほうが、お前は納得するだろ」
「……」
「わかりやすいよな。そういうトコ」
考えを把握されていたことが気恥ずかしいという思いと、少しばかりの悔しさに複雑そうな表情をした総士を甲洋が笑う。
「さて、明日のことも重要だが、まずは今やるべきことをしよう。総士と来主に任せていた小枝集めとかな」
「あ」
甲洋の抜群の記憶力は、トラブルに巻き込まれたあとでも有効だったらしく、来主と総士に鋭い指摘を入れた。
「すまない」
「いや、もういっそテントまでの道で全員で拾っていこう。そのほうが早いし、量も持てるだろ」
「……そうだな。手伝ってくれるか」
「もちろん」
「総士の頼みごとなら」
「ブレないなあ」
総士と一騎のやり取りに甲洋がぼやくも、彼らにはその声は届かない。
結局、全員で小枝を小脇にかかえてテントのところまで戻り、焚き火を起こして……と下準備を整え、それからさらに夕飯の支度などをしているうちに、空の色は鮮やかな橙色から薄紫、群青へと変わっていった。
「夕暮れって、こんなに綺麗だったんだね」
焚き火を興味深そうに見ていた来主は、空の色の変化を追いそびれたことを悔しがりながらも、澄み渡った大気のなかで輝きを際立たせる星星を見上げていた。
そんな彼の鼻先を、なんとも食欲をそそる匂いが刺激する。
「うっ」
匂いの記憶を辿って、口内が潤い、腹が鳴った。
「これが食テロ。覚えた」
「何を言ってるんだあ、そうだ、盛りつけ手伝ってくれ」
「任せて」
みんなで集めた小枝から舞い上がる火の粉に魅入ったり、山の外気で冷えはじめた指先をときおりかざしたり、そうこうしてる間に一騎と来主が、それぞれ皿の乗ったトレーを総士と甲洋のもとへ運んできた。
「ありがとう」
「いや、総士は今日かなり大変だったからな」
運転を変わってもらったことではない。来主のことを心配しながら探していたころ、彼は責任感や仲間の安否のことでパニックになりかけていた。そんな彼を気遣うのは当然のこと。
「わるいな」
ぽつりとこぼして俯いた甲洋に、一騎は穏やかな表情を向ける。
「気にするなよ。甲洋も車酔いがさめてない状態で、来主を探しに行ってくれたし」
「どうして、それを」
「なに」
「えっそうだったのごめんね、甲洋」
「……だって、歩き方がおぼつかない感じがあったし。でも、ひとりにするのも危ないのと、来主を探しに行くなら人手は多いほうがいいかと思って、結局一緒に来てもらったから」
むしろ、一騎はそのことに対して罪悪感を感じていた。
「バレてたのか。……なんだか、気恥ずかしいな。でも、実際ひとりで残るよりは良かったのかもしれない。知らなかったとはいえ、熊がいたんだからな。イノシシとか他の動物だって存在するかもしれないし、こういう山中だとスマホの電波も不安定だろうから、って」
「しまった」
「え、なにどうしたの」
「ふたりして、どうしたんだ」
「……なんで俺らはスマホで連絡を試さなかったんだろう」
「ああ、ほんとうにな」
甲洋と総士の指摘と反省に、残りのふたりもハッとした。
「たしかに」
「あー……」
「まあ、それだけ慌ててたんだろ。俺も総士も実際、そこに思い至らなかったんだからお互い様っていうか」
「だが」
「ま、いいじゃない。結局、無事だったし」
「そうだな。けど、次からは連絡したり、ひとこと言ってくれよ、来主」
一騎のその言葉で、総士と甲洋は来主へお説教する予定だったことを思い出す。しかし、彼らもスマートフォンの件で反省していたため、来主だけを叱るわけにはいかず、一騎のセリフをなぞるように、彼らがどれだけ心配したかということと、次回はきちんと連絡することを約束させ、すこし冷めてしまった料理を苦笑しながら食べはじめた。
いつもとは違った環境、メンバー全員が揃った食事、それらが料理の味を引き立て、椅子代わりにした倒木のもと、彼らの膝がこつこつとぶつかる。
食事の合間にする他愛ない話に笑うと、距離感がつまっている分、彼らの膝どうしがぶつかってしまうのだ。
そうして和やかな時間は流れ、熱湯でざっくりと皿をすすいだあと、就寝の準備をして、彼らは2人ずつテントへ入っていった。
一騎と甲洋。総士と来主の組み合わせで。
ほんとうは、4人で入れるものを選ぼうとしたのだが、そうするとテントを展開する手間やテント自体がかさばるということで却下になった。グループ分けは、一騎と総士の希望でふたりの寝床を分けたいということを聞いていたので、甲洋と来主が彼らの要望を承諾したかたちだ。
交際を始めてからお互いを意識してしまって、夜中に一緒にいたらおかしな空気になってしまいそうなことと、もしそうなってしまったら甲洋たちに申し訳ないという気後れ。
現実的な問題としては、出血多量や不衛生な環境下での感染症・炎症などが起きてしまった場合に対処しきれないということで、キャンプの予定が決まった日の中に一騎と総士が話し合って決めたことでもあった。
寝袋のなかで来主の健やかな寝息を聞きながら、総士はスマートフォンのキーボード面をタップする。
『今日は、ありがとう。いろいろと大変な一日だったが、お前と一緒に思い出を作れて楽しかった。こないだのいちご狩りデートも楽しかったが、みんなでというのも、案外わるくないものだな。明日もよろしく』
数分後。
『お礼を言うのはこっちのほうだ。正直、キャンプの計画に総士がのってくれるかあやしかったから、もしだめならバーベキューとか日帰りでもいいかなって思ってもいたけど、総士が来てくれてよかった。俺も、お前と思い出を作れて嬉しいよ。みんなでオフを楽しむっていうのも新鮮で良いよな。ああ、明日は釣りとかも楽しみだし、一緒に料理をするのも良さそうだよな。ワクワクしちゃうけど、ほどほどで寝ることにするよ。おやすみ』
「〜〜っ」
総士は、足の指をもじもじとさせながら、ニヤけかけた唇を噛み、返事を打つ。
『ああ、おやすみ』
とても簡潔な返事だった。饒舌な一騎に対して、総士の返事は味気ない。しかし、それが照れ隠しということを一騎はもう既に理解している。
「きっと、今ごろ真っ赤なんだろうな」
一騎は頬を綻ばせて、寝袋ごと寝返りを打った。薄い綿と化学繊維の向こうから、草や土の匂い、風の音が伝わってくる。
いつもより近い距離にいるのに、あと数歩の距離で会えるのに会えない恋人を想い、一騎は目を閉じた。
明日も、楽しい思い出を作れるように。
第九話 泥濘――メロメロ――
「一騎〜、朝だぞ〜。……ん」
一騎と甲洋のテント。早朝だが料理担当の相方を起こすべく、甲洋が声をかけるのだが、一騎の手もとへあったメモ帳とペンを見つけ、彼は口をつぐんだ。
『金糸雀』
黄金色の波の向こう
地平線の彼方
黄昏時に見える一番星
きらきら眩しくて
とても淋しそうで
手を伸ばすけど
足元の脆さに怖気づいて
なんども試しては
手を引っ込めた
あの日 俺は
なにを手に入れたかったんだろう
きれいなものに
憧れただけだったのかな
ただ 自分と同じような孤独を
そこに重ねてただけだったのかな
地上波の液晶の向こう
生まれ育った島のさき
あの星と同じきらめきを見つけた
どきどき胸が鳴って
すごく惹かれた
手を伸ばしたって
届かないこと
わかってたのに
なんども夢見た
あの時 俺は
たしかに目指してたんだ
この場所を
憧れただけじゃなくて
手に入れたくて
自分とは違う存在に惹かれて
繋がりたいと 思ってしまった
カレンダーを120回とすこし
めくって ちぎって
奇跡的な運命のさきに
ようやく届いた手を
今は強く握りしめて
君の隣で歌うよ
「新曲の歌詞かな総士のよりポジティブだし、作ったのはまさか一騎かふーん、わりといい内容だな。相手の顔がチラつくのがネックだけど」
リズムをとるのに、文字数や言い回しをいじれば歌えるだろうかと算段をたてながら甲洋は頬を綻ばせた。
一般からいきなりアイドルになった一騎の特殊な立ち位置と総士への純粋な憧れが、歌詞のなかで強いメッセージ性を示している。ラブソングと見ることもできるかもしれないが、隣に立てることへの喜びのほうが勝っている印象なので、湿っぽさはなかった。
「一騎がメインの曲になるだろうな」
甲洋は、内心複雑なおもいで彼の寝顔を見下ろした。童顔よりの顔立ちのせいか、本人いわく母親似のせいか、中性さのあるかんばせは無防備で、庇護欲をかきたてる。同性であるという事実を差し引いても。
魅力とは、そういうものなのだろう。
漠然とそんなことをおもいながら、彼は一騎の肩を揺さぶった。
「ん」
「朝だぞ」
「ああ、甲洋か。おはよ」
「……あからさまにガッカリするなって。おはよ」
「ガッカリとまでじゃないけど」
「うそつき」
「ぅあっ」
起こした相手の顔を見るやのしょんぼりとした顔の一騎の鼻先を、甲洋の指先がはさむ。
「さて」
ゆっくりと指を離し、甲洋が一騎へ背を向けた。
「支度ができたら来いよ。さきに火を用意してるから」
「ん。わかった」
甲洋に起こされた直後は頭が回らなくて気付かなかったが、一騎は自分の手のなかにあるメモ帳の存在をおもいだして慌てる。中身はきっと見えていただろうに、それを指摘しない友人の優しさが嬉しい反面でやはり恥ずかしさもあって、彼は大きくかぶりをふってから身支度を整えた。
気持ちがどうあれ、時間は流れていくもの。
恋人のためにも朝食を早く用意してしまおう。メモ帳の件を一旦頭の隅に追いやり、彼は甲洋につづいてテントを出た。
そして、朝食後。また使うであろう薪がわりの小枝の採取を兼ねた探索をし、総士は昨日は余裕がなくて発見できなかった草原に蝶の群れを見つけ、無我夢中でスマートフォンのシャッターを連射していたが、そんな彼の姿を一騎がレンズ越しに眺めていることには気付かなかった。
「ふふ、これなら乙姫と織姫が喜んでくれるだろう」
いろんなアングルからシャッターを切る関係で、ところどころ服を汚しながらも満足そうな総士の頬や髪についた泥や木の葉を優しく払ってやり、一騎が微笑む。
「いっそ、水浴びでもするか気温も高いし」
「そ、そうだな」
すっかり身なりを忘れるほど熱中していたことに照れながら、総士が頷く。
今度は薪をしっかりと採取して、それを置いてからふたりはテントへスマートフォンなどを残し、下着とシャツ一枚の姿で湖畔に足を浸した。
「ちょっと冷たいか」
「だが、風邪をひくほどではないだろう」
「総士が大丈夫なら」
「僕は大丈夫だ。むしろ、大人になってからこういう機会はなかなか無かったから楽しい」
「そっか。ところで、泳ぎは」
「わりと得意な方だ」
「なら、もう少し深いとこ行っても大丈夫だな」
角の取れた砂利を踏みながら、水の抵抗を感じさせない足取りで進んでいく一騎に総士もついていく。はじめは足の裏が浸る程度だった水かさが、膝をこえ、腿部をこえ、やがて腰を濡らし、鎖骨のあたりまで迫る。そこで一騎は進むのをやめた。
岸辺への距離は7メートルあまりだろうか、遠目から見た水色から、中心部に至るまでに突然深くなっているところがあるのかもしれない。などと推測しながら、総士は振り向いた一騎の向こうの、水底の暗がりを睨んだ。
「どうしたんだよ」
「それ以上進むのはやめておいたほうが良さそうだ」
総士は自分の知っている真壁一騎は、彼のごく一部なのではないかと、一騎の心のうちには、総士の知らない深淵があるのではないかと思う時がある。
底の深さの知れない、この湖のように。
そんなことを考えていたときだった。しなやかで、もそもそとした感触が総士の足首に巻きつく。
「っ」
「総士どうしたんだ」
「足に、なにかが」
馴染みのない感触は、異質なものにおもえて、総士は嫌悪感をあらわにした。
「ちょっと見てみる」
そう宣言し、一騎が総士のそばで湖面に潜り込んだ。わずかな時間のうちに、あの異質な感触のなにかが、総士の足首から外れると同時に、一騎の指や爪がかすった。きっと故意ではなく、あれを外すさいに触れたのだろう。
「……水草だな」
「そうか、ありがとう」
海藻にも似た細長くて細かい葉の繁ったそれを目の前にかざして笑う一騎に、総士はほっとする。
「ここ、ほんとに綺麗だから一緒に潜ってみないかさっきちょっと遠くに小魚の群れも見えたし」
「ああ」
小魚の群れにはあまり興味がなかったが、せっかく自然の中にいるのだから満喫してしまおうと考え、総士も全身を水面に沈めた。
一騎の言うとおり、湖のなかは綺麗だった。肌にあたる淡水はまろやかさのある水質で、足もとの砂利が透けて見えるほど透明度が高い。
水中には倒木などもあり、その周囲に小魚の群れがいた。朽ち果てたものが、次の生命のためになる。普段はあまり意識していなかった循環に、総士はかすかな切なさと愛しさを感じた。
「」
ふいに手首を捕まれ、総士が身を強張らせるも、すぐそばで微笑んだ恋人の顔に、彼は早々に脱力した。
力の抜けたからだを好都合とばかりに、一騎が泳ぎはじめる。両脚の推進力だけで進むわりには力強い動きに、彼は目を見張った。まるで、巨大な海洋生物に曳かれているかのように、周りの生き物が道を開け、2人の行く先を見ていた。
捕まれた手首の力も一切ゆるむことがなく、触れられているはずのそこから伝わる温度はほぼ同じなのか、総士の肌によく馴染んだ。
さながら、一つの生き物になれたような充足感を得ながら、過ぎ去っていく景色を慈しむ総士だったが、やがて息苦しさを感じて蒼碧の天井を目指す。一騎もまた総士の動きにあわせて浮上した。
「っぷは」
「っ、ごめん、つい夢中になってた」
申し訳無さそうに眉根を寄せた一騎の頭に、総士が手を置く。
「いや、楽しかったから詫びることはない。言っただろう泳ぎには自信があると。現にいまも、自分で上がったんだ」
「ああ、気を付けるよ」
「……さて、来主たちは川で釣りを楽しんでいるだろうから、ふたりだな」
「そういうコト、言うか」
総士の意味深長な微笑に、一騎が困惑した表情をするが、その目は情熱を宿していた。
「さっきの仕返しをしようか。それで相殺だ」
一騎が掴んだ手首を、やんわりとはなしながら、今度は総士のほうから一騎の手を繋いだ。しっかりと五指を絡み合わせて、一部の隙間もないほど手のひらをくっつける。
「……どうぞ」
一騎はぶっきらぼうな返事をしつつ、あわさった手に視線を落とした。リードを握られている安心感と、総士に余裕を崩される気恥ずかしさが、彼の頬を火照らせる。
総士が岸へ背を向け、一騎の腰をもう一方の腕で抱えた。一騎が目をつぶる。それを合図に、総士は仰向けになった。腹の上に乗った一騎の重さも合わさり、ふたりはゆっくりと水底へ落ちてゆく。途中、総士が身をよじり、一騎に口づけた。
それを受け入れ、口内に侵入してきた舌先を甘咬みした一騎へ、総士が目をすがめた。
ふたりのあわせからこぼれた気泡が、静かに降り注ぐ陽光に煌めく。
美しい景色のなか、ふたりは魚の交尾のように身を擦り寄せ合い、互いの酸素を奪いながら唇をかさね続けた。そのまま息が続くかぎり、総士の背中を一騎の指が這い、総士は自分の腕に力を入れた。
亜麻色の髪と、烏の濡羽色の髪が一部もつれあう。
やがて息継ぎのためにふたりが同時に水面を目指したが、目が合うとともに、僅かばかりの酸素を含んでまた水面下へ戻る。
どれくらいの時間、それを繰り返していただろう。総士から誘ったものの、すっかり夢中になっていた一騎によって、彼らは半端に昂った状態で水からあがった。
「一騎、ひとつ提案があるのだが」
髪から絶えず滴る水を絞りながら、芝生に腰掛けた総士が声をかける。
「なんだよ」
テントから自分のタオルをもって駆け戻った一騎が、それを総士へ手渡しつつ聞き返した。
長い腕が、一騎の襟周りを引き寄せる。そして、目の前に真っ白な耳が見えると、総士は囁いた。
「帰ったら、続きをしよう」
「」
なんの続きかは、聞かなくてもわかった。
「そうだな。俺も正直言うと限界だった」
気持ちを打ち明け合って、心もすっきりとしたふたりはそれぞれのテントで体を拭きながら着替えを済ませると、甲洋たちに合流するべく、そこを離れた。
「うわあ……なんていうか、シュールだな」
「ああ」
2人と1頭が川に入って鮎を網あるいは素手で掴もうとしている構図は、なかなかにインパクトが強かった。
「これも撮っておくか」
「そうだな、あんなに表情が出てる甲洋も珍しいし」
一騎と総士が藪の影からスマートフォンのレンズを向けるが、誰も気付かない。彼らは熱中しているのだろう。
「総士も撮るのか」
「僕が撮ってはだめなのか」
「ダメとかじゃないけど、昨日から意外だったっていうか」
「べつに良いだろう。友人と泊まり込みで出かけるのも、思い出を作るのも、僕にとってははじめてのことなんだから……浮かれている自覚はあるが、やましいことをしている訳でもないんだ」
「そっか」
しばらく撮影をしながら、甲洋や来主それから熊を見守っていた彼らだったが、タイミングを見計らって一騎が来主へ声をかける。
「捕れたか」
「うん」
「まあまあ、かな」
満面の笑みで応じた来主とは逆に、甲洋は渋い顔をしている。網を使っているわりに、手づかみの来主と熊に捕獲量が負けているのが納得いかないらしい。
「ちなみに、あっちの湖に潜ってみたけど、あまり大きい魚はいなかったぞ」
「マジか」
「本当だ。僕と一騎ふたりで確認した」
「えっあっちで水遊びしたのっいいなぁ~」
来主が掴みそこねた鮎が跳ねた。それを熊がすかさず口でキャッチする。
「踊り食い……」
「すごい反射神経だな」
「ナイスキャッチ」
「まだ借りる予定だった別荘のほうは調べていない。もしかしたら、そっちに大物がいるかもしれないだろうそう落ち込むな」
「ああ、ありがとう」
「小さいと、落ち込むものなのか」
「そういうわけじゃないけど、やっぱり獲るなら大きい方が楽しいだろ」
「ふーんうまいなら、どっちでも」
さきほど総士に、小魚の群れがいると嬉しそうに報告していた一騎だったが、どうやら彼の中では観賞用の魚と食用の魚の線引がはっきりしているらしい。そんなささやかな発見をして、総士は小さく笑った。
「はいはい俺はね、珍しいのとか、綺麗なの見たいから、そうゆうの釣りたい」
「それも良いな。海や秘境じゃないから未知の魚と遭遇する機会は少ないだろうけど、これだけ綺麗なとこだったら絶滅危惧種とかはいるかもしれない。でも、魚が弱る前に海へかえしてやるんだぞ」
「はーい」
来主の主張に、珍しく甲洋が同意した。そして、生き物を扱ううえでのことを注意されながら来主も神妙な返事をしている。普段はあまり見かけることのない場面に、総士は目元を綻ばせた。
「さて、せっかくの釣果だからな。鮮度がいいうちに戴こうか。もう小枝は拾ってあるから、テントのところまで行こう」
「そうだな。それに、気温が高くても、濡れた服でそのまま居るのはあまり良くなさそうだ」
総士と甲洋の掛け合いに、一騎と来主が頷き、甲洋のクーラーボックスに獲物を詰めていく。全部で12匹。サイズは小ぶりなものから大きめのものまでまちまちだったが、それも醍醐味だろう。
「じゃあ、俺と来主は先に戻って準備しとくから」
足の早い2人のうち、一騎が言うと、来主はおもむろに足首や関節部を伸ばした。
「魚は一騎が持ってね。そのほうが、安定感がありそうだし」
「わかった」
甲洋が釘を刺す声に笑って、一騎がクーラーボックスを抱える。氷は、昨日のうちに溶け切っているので、魚といっしょに水が入っていた。
しかし、その重さを感じさせない足取りで、一騎はもと来た道を駆け戻っていく。その数分後、来主は熊に挨拶をすると走り出した。ちなみに熊が、来主が挨拶をすると早々に去ってしまったのを見ていた甲洋と総士は、複雑そうな顔でお互いに肩をすくめる。
「なんだかな」
「まあ、穏便に済んだだけ良かったじゃないか」
そんなことを言いながら、2人はゆっくりと来主のあとを歩いた。
彼らがつく頃には、火の準備は済んでいて、枝を洗ったり炙ったりして適当に消毒した串に刺さった鮎が六匹火の周りを囲っていた。
「あ、もうちょっと待ってくれ。まだ火のとおりが甘いから」
「わかった」
「内蔵を抜いてあるのか」
「苦いって聞いたから、抜いてって頼んだんだよ」
「好き嫌いが別れるからな。まだ半分あるから良いだろ」
「なるほど」
「で、甲洋と総士はどうなんだ」
「俺は大丈夫だけど、内蔵つきは1、2匹でいいかな」
「僕は、とりあえず一匹ずつ食べてから考える」
「そうだな。味比べしてみるのもいいかもしれない」
ひとり四匹ずついきわたるので、第一弾が焼けた頃に一匹ずつとり、満面の笑顔になった来主と自然の旨味に感動したようすの総士へ二匹目を配り、一騎は自分のぶんを食べるまえに、第二弾を用意した。
「わるいな、甲洋」
「いや、大丈夫だよ。あんなに美味そうに食うの見たら、譲りたくなるし」
絶妙な塩加減と鮎の仄かな甘み、淡白なコク、かすかな川の匂いが、さっくりと焼けた薄皮の下からほろほろと広がっていく。
少し冷めてしまったそれを噛りながら、一騎はみんなが喜びながら食べる顔を満足そうに見守った。
「あ~、美味しかった」
「シンプルだが、こんなに美味しいものなんだな。やっぱり素材が良いのか」
「素材もだけど、焼き加減も良かったよ。あんまり火を通しすぎると硬くなるし、内蔵もさらに苦くなるしな」
「来主と甲洋が、良いのをとってきてくれたからだよ。次は、俺たちも頑張らないとな、総士」
「ああ」
素朴な料理こそ、素材の鮮度が命だと言い、次回に向けてやる気を見せる一騎に、負けず嫌いの総士も同意する。
「さて、食べ終わって火の始末をしたら別荘へ行こうか。まだ11時だし、朝食後に軽く食べたから、昼は少し遅れても大丈夫だろうからな」
「そうだな」
「別荘ワクワクするねっ実はトランプ持ってきてるんだ。あとウノとか」
「やっぱりな。なにかしら持ってくるだろうとは思っていたが、なかなか良いチョイスだ」
「せっかくだから、みんなでやるヤツのほうが良いでしょそれに、姉ちゃんたちからお泊りのお約束って聞いたし」
「姉ちゃんたちまて、姉がいたのか」
「『たち』ってことは、ひとりじゃないんだな」
「うん。翔子ねえと、カノン」
「翔子とカノンじゃあ、遠くで暮らしてる姉弟って、お前だったのか」
来主が、サラリと打ち明けた家族構成に、ざわつきが起きるが、なかでも一騎の反応が彼らの興味を引いた。
「え、でもこないだ翔子やカノンの映った画像を俺のスマホで見たときは、姉だなんて言ってなかったよな」
「画像……まさか、あの集合写真に居た美女たちのなかに来主のお姉さんがいたのか」
食い気味に身を乗り出す甲洋に、一騎が一歩引いた。
「うん。黒髪ロングの子とストロベリーブロンドっていうのかなピンクっぽい髪の」
「」
「甲洋」
「どうしたの」
甲洋を心配そうに見る一騎と来主だが、彼らの肩を総士がそれぞれ叩く。
「そっとしておいてやろう」
少々不器用な総士にさえわかるほど、甲洋の表情は雄弁だった。
「一騎は、幼馴染みって言ってたけど、そしたら来主だけ別に住んでるのは理由があるのか」
「あー...…姉ちゃんたちもだけど、俺たち全員養子なんだ。でも、俺は翔子ねえの入院代を稼ぐためにアイドルデビューしちゃったから、一緒に住むとイロイロめんどいかなって。一騎が知らなかったのは、俺の存在をなるべく秘密にしといてって姉ちゃんたちに言ってたのと、4年前に俺は養子になったから一騎と島での面識がなかったんだよね」
「そうだったのか」
ようやく謎が解けたとともに、複雑な背景を知ってしまったとため息をついた一騎に、来主が微笑んだ。
「一騎と一緒に遊べなかったのは残念だったけど、今は姉ちゃんの病状も安定してるし、家族に恵まれたなって思ってるから。それに、姉ちゃんたち、マシンの設計とか修理とかもできるし、かっこいいんだよ」
「うん。……そうだな」
設計士としての翔子、整備士としてのカノンを知っている一騎は深く頷く。
「そういえば、あのときの画像、スキャンダルをでっち上げられたときの相手の子とも似ていたな」
総士が少し前のことを思い出しながら一騎に詰め寄ると、甲洋もそちらへ意識を向けた。
「ああ、うん。翔子……カノンと来主の義姉で、持病を持ってる子なんだけど、その翔子があの病院に入院してたみたいで。ほら、前も説明したけど差し入れを渡してるトコを変なアングルで撮られたって」
「」
「甲洋さっきからソワソワしてるけど、どうしたの」
「え、あ、いや、そうだ一騎も被害者だけど、そのカノンっていう子も巻き込まれた当事者なんだから、お詫びに」
「それなら、謝りに行ったぞ」
「いつのまに」
「いや、あのデッチ上げ騒動が片付いてからだけど。っていうか、さっきから甲洋はどうしたんだなんか、おかしいぞ」
恋愛面に対して抜群の鈍さをもつ一騎が怪訝そうな顔を甲洋へ向けるが、この中で観察眼のいい総士は甲洋の心情に気付いていて、珍しく感情を揺らしている彼を面白がっている。
「普通だよ」
ポーカーフェイスでも憂いを帯びた微笑でもなく、どこか少年のように初々しい反応がかわいらしいと思いつつ、総士は甲洋がへそを曲げないギリギリのところで、助け舟を出した。
「だが、僕からも謝罪をしたいから、こんど予定などを聞いておいてくれ」
「なんで総士が」
「同じグループだろうそれに、僕が女性だったらこうはならなかった」
「女性だったら、か」
総士の面影を残しつつ、女性の魅力をもった姿を想像しそうになって、一騎はカッと頬を染めた。それから邪念を振り払おうと頭を振る。
「そ、そんなに思い詰めることないだろ。……わかったよ。カノンにも聞いておく」
一騎の返事に、総士が意味深長な顔つきで甲洋を見やった。すると、とっくに自分の気持が相手に筒抜けであることを悟った甲洋が唇を噛む。
そんなこんなで、彼らは和気あいあいとした雰囲気で火の始末と片付けを済ませ、来主と甲洋が水浴びがてらの水中散策を楽しんでから、別荘へと移動する流れになった。
「んーほんとにいいトコだね。水中撮影できるカメラとか欲しくなっちゃうくらい、湖のなかも綺麗だったし」
「まったくだ」
ご満悦な様子で陸に戻ってきた甲洋と来主へ、総士と一騎がそれぞれタオルを手渡す。
「さんきゅ。じゃあ、ちゃちゃっと着替えてくるよ」
「オレも〜〜」
ふたりが着替えに行った頃合いを見計らって、一騎が総士に耳打ちする。
「さっき、あんなコトしたなんて言えないな」
「っう゛」
瞬時に頬を紅潮させ、うつむいた総士の両肩に手を載せ、一騎は無防備な肩甲骨のあいだへ、鼻先を擦り寄せた。
淡水のやや独特な匂いと、汗のほのかな匂いが混ざっている。好みが別れるだろうそれを、一騎は愛おしく感じながら呼吸をした。
第十話 音律――メロディ――
彼らは手分けして片付けを終わらせ、別荘へ移動すると、テントのペアに別れて各部屋を掃除した。
管理人があらかじめ水回りなどを確認してくれていたのか、水道から出た水はサビを含まない状態で、総士はほっと息をつく。
この別荘を手配してくれた姉、蔵前果林に内心でお礼をしながら、自分の幼児期以来に訪れた場所に総士は目を眇めた。
さきほどの地点から離れたものの、別荘のそばにはあの湖があり、その湖面の色が緑みをつよく帯びていることから、あちら側よりも深いことがうかがえる。
「なるほどな。これだったら、確かに大物が居そうだ」
総士の横から湖面を見た甲洋が、弾んだ声をあげた。
「たしか、ボートも一艘あったからそれを使っていいぞ」
「ほんとか」
「好きに使ってくれ」
自然が心の緊張をほぐすのか、このキャンプに来てから、みんなが反応を偽ることなく出していて、総士は改めてこのキャンプにグループ全員で来れたことを嬉しく思った。きっとこの小旅行は絆を深めてくれるはずだという予感もする。
「今日は野宿じゃないから手間も少ないし、全員で移動してもいいかもな」
そう言った一騎に、総士が頷く。
「そうだな。掃除したときにシーツも洗濯して、薪のストックも浄水設備も確認済みだから大丈夫だろう。この人数だから、役割を分担できて良かった」
「やったじゃあオレ、この周りを歩いてみたい」
「散策も大事だな」
「とか言って、良いかんじのシロツメクサの茂みで昼寝とかするつもりなんだろう」
「え、どうしてバレたの」
「空が綺麗だったから」
来主の考えを読んだ一騎に、言い当てられた本人が頭を掻く。
「……いいだろう。せっかくのオフなんだ。のんびりしてもバチは当たらない」
「わるくないな。たまには」
てっきり反対されるかと予想していた来主は、口々から賛同する彼らに向け、とびきりの笑顔に見せた。
「ああ惜しい」
「どうした」
「今の、カメラ向けてたら、良いのが撮れそうだったのにって」
「……なんだか、やたら撮影にこだわるな」
総士の指摘に、一騎は苦笑した。
「立上さんや堂馬さんが、キャンプ中の写真や動画をあとで編集して、なにか作るらしい。で、良いのができたら、またこういう連休をくれるってさ」
「いつのまに」
「えー、言ってくれたら良かったのにー」
「だって自然体のが良いって言うし、言っちゃうと甲洋や総士は、いつもと変わらないだろそしたら、つまんないかなって」
「……」
眉根を寄せる総士の背後で、来主がコクコクと頷く。
「たしかにせっかくなら、普段と違うふたりを見せたいよね」
「だよな」
額に手を当てて、日の当たる窓辺のそばにあったソファへ、総士が座り込む。その隣に、甲洋が腰を下ろした。
「でネタばらしをしたということは、もう気の済むものは撮れたのか」
「撮れたけど、やっぱ集合写真とかも欲しくなったからネタばらししたっていう理由もある」
はにかみながら白状した一騎を、総士が片手で呼び寄せる。なんの疑いもなく、総士の傍に寄った一騎の頬に、総士の指が伸びた。
「っ」
「ほう、意外と伸びるものだな」
意地の悪そうな笑みで一騎の頬をつまみ、引っ張る総士に、一騎がうろたえる。小さなイタズラをした子どもにするような、軽やかな罰に面食らったらしい。
「そ、うし」
「ん」
「これ、やめてくれないか」
ふたりのやりとりを興味深そうに近付いて観察していた来主に、一瞬だけ一騎の視線が向けられる。
「恥ずかしいか」
「当たり前だろっ」
「そうか、なら良い。じゃないと、罰にならないからな」
そう言って、くすくすと笑い出した総士の表情に、一騎は見惚れ、少しの間だけ来主のことを忘れてしまう。
すると、ふたりの傍でフラッシュが焚かれた。
「来主っ」
「えへへ、仕返し〜。熊さんと話したり、魚の捕り方教えてもらってるとこ、総士にも一騎にも撮らせてあげたんだから良いでしょ」
「なるほど、一理あるな。だったら俺も、近いうちに仕返しするかな」
「甲洋まで」
「たしかに撮ったのは僕たちが先だからな、ふたりの主張は正しい」
「……まあ、パパラッチとかじゃないから、あまり変なのは撮らないだろうけど」
ふたりは、諦めまじりに顔を見合わせ、総士は一騎の頬を手放した。
「さて、陽が高いうちに散策をしようか。今日は、シャワールームもあるから水遊びのあとに風邪をひく心配もないな」
電波こそあまり良くないものの、薪の暖炉と石油ストーブ以外のものは屋根の太陽光パネルで集めたエネルギーが用いられているので、風呂のために火をわかす手間もない。
「さんせーい」
「同じく」
「ちょっと待ってろ、水筒を用意してくる」
昨日より、少しだけ気温が高くなりそうだと、全員の水筒を持って台所へ向かった一騎に、残りのメンバーが苦笑する。
「あいつ、保護者みたいだな」
「お母さんみたい」
「お母さん……」
総士が困惑しながらオウム返しに呟くと、甲洋と来主は少しだけバツが悪そうな顔をした。
「あ、でも悪い意味じゃないよ家庭的みたいな」
「そういうこと。ちょっと心配性で世話焼きかもしれないけど、総士が不満とかないならそれで良いんじゃないか」
「あ、ああ。そうか、お前たちからしたら一騎はお母さん枠なのか。僕から見たら、すぐにでも嫁いできてほしいと思っているのだが」
「ねえ、さらっととんでもないコト言った自覚ある」
「なにかおかしいことを言ったか」
「ダメだこりゃ」
3人がもそもそと雑談をしているうちに、一騎が人数分の水筒を抱えて戻ってくる。
「なんだよ」
その3人が先ほどの話のこともあって一騎から顔を逸らすが、水筒を渡すというていで、一騎は一人ずつ顔を覗き込んでいく。しかし、その無言の圧力にも屈しないので、結局は彼らの態度について探るのを保留にする。
「水筒ありがと」
「すまない」
「ありがとー」
飲み物に関してはお礼がかえってきたので、悪口の類ではないのだろうと溜飲をさげ、一騎はいつも通り総士の隣についた。
そのまま彼らは別荘から離れて林の中を歩く。
「そういえば、来主」
「え、総士がオレに話しかけてくるなんて珍しいなに」
わくわくとした雰囲気をあらわに、来主が総士の方を向く。
「あ、いや。実は、知人からある写真展のチケットを貰ったんだが、余ったからいるかと思ってな」
「写真展」
「『このアオの果て』というのだが、空の写真を集めたイベントで、プロカメラマンのものも、アマチュアのも飾られているらしい」
「空」
「どうだ」
「行きたいえ、いいの一騎とか、妹さんとか」
「そっちはもう確保してるさ。それでも余ったからな。主催としてもギャラリーを多く呼びたいらしい。甲洋もどうだまだあるから」
「俺も良いのかじゃあ……って、ペアチケットになってるけど」
「ああ、だから1枚で2名まで入場できる。来主のお姉さんはふたり居たな」
「うんあ、カノ姉も、翔子姉ちゃんも興味あるかも、でもオレのだけだとふたりは連れてけないな。オレは絶対行きたいし」
「……総士、おまえ」
「ふふふ、一騎のこともあったから、僕からのお詫びだと伝えてくれ。帰ったらふたりにチケットを渡すから、当日待ち合わせをするなりして行けばいい」
「あー、うん。ありがと」
「やったこれでみんなで行ける」
はしゃぐ来主と、はにかみ笑いを見せた甲洋に、総士は穏やかな笑みを向けた。
「なんか、ずっと引きずってるな。俺のせいで、ごめん」
頭をかきながた肩をすくめる一騎の背中を、総士が手のひらで軽く叩く。
「気にするな。口実だ。飲みに行くのに、大人が言い訳を毎回用意するようなものだ」
「口実」
「あとで教えてやろう」
ふふふ、といたずらっぽく微笑んだ総士に、一騎が目を瞠る。
「う、うん」
「さて、せっかくだから景色も楽しむか。む、あの雲、クラゲのような形をしているな」
「え、あ、ほんとだまるくて、細長いのがひょろっと生えててそれっぽいかも」
「え、どこどこ」
「うわ、マジか。積乱雲の下に薄い雲がまばらにあって……って、あの雲こっちに来てるぞ」
「あまり歩けなくて残念だが、戻るか」
「そうだな」
「あ、ちょっと待って」
来主が空へ向けてスマートフォンのカメラを構えた。
「えへへ、戦利品」
「まったく、お前は」
甲洋が苦笑する。それは総士や一騎にもうつり、彼らはにわか雨が降りはじめた空のした、別荘を目指して走った。
「あーもう、全員濡れネズミだな」
「仕方ない。山の天気は変わりやすいと言うしな。シャワールームが2人ずつ入れそうなのが救いか」
普段から楽屋も一緒なので、全員がバサバサとシャツを脱いでいく。それから彼等は2人ずつシャワーを浴びることになったのだが、そこで一騎の反撃がはじまった。
「総士って、意外と胸板厚めだよな」
「あ、こらっ」
「さっき、シャツの上からでも乳首目立ってた」
「おいっ」
「静かにしないと、バレるぞ」
来主と甲洋は、ふたりの前に浴び終えてキッチンで昼食の支度に取り掛かっているが、トイレなどでこちらへ近付く可能性もゼロではない。
「っ」
泡をまとった指が、総士の背後から伸ばされ、一騎が気にしていたそこに触れる。
「……意外と敏感なんだな」
「よせ」
触れた瞬間に肩を揺らして、脚を閉じた総士にかえって煽られそうになりながら、一騎はそれ以上胸を触るのをやめた。
「続きは、帰ったらだろちゃんとわかってるよ」
そんなことを言いながら、ボディタオルにボディーソープを垂らして泡立てる。
「ほら、背中洗ってやるからじっとしてろ」
つい数分前の戯れで、警戒されてしまったことに苦笑しながら、一騎は総士の髪を右肩から前へ垂らし、自分よりも広い背中を絶妙な力加減で擦った。
はじめは、首をひねった状態で、じとりと一騎の挙動を監視していた総士だったが、自分ではなかなか届かない肩甲骨のあたりを擦られると、心地よかったのか嘆息する。
「総士は、体かたいからなぁ、洗い辛いだろ」
「ああ」
ふいに、一騎の手が止まった。
「一騎」
「次は俺の背中も洗ってくれよ」
「そ、そうか」
「もっと背中掻いてほしかったのか」
「……」
「お前って、変なとこで素直じゃないよな」
「んっ」
総士が心地よさそうにするのが嬉しくなった一騎は、相手が止めるまで肩甲骨のあたりをボディタオルで掻いてやった。
「ほら、こっちへ背中を」
「総士」
不自然に途切れた言葉に違和感を感じた一騎が声をかけると、総士の手が予想外の動きをした。
「った」
「ふふ、イタズラをされたからな」
無防備に向けられた、白くて引き締まった尻を、子供を叱るときにするように叩いたのだ。
「そりゃ、わるかったけどさ」
「つい叩きたくなる尻だったからな。お前が、僕の胸を弄ったのと同じだ」
「いや、違うだろ」
「さて、今度は僕が洗ってやる。じっとしてろ」
「……あまり力むなよ」
「大丈夫だ。任せろ」
「っちょ、まて、待て脇腹は、ふっ、あははははあっこら、っひ」
わざとくすぐるような弱さで脇腹を掠められ、一騎が声を上げて笑う。もう先ほどの艶っぽい雰囲気は消え、浴室内では大きな子どもがふたりじゃれ合うような様子になっていた。
「ずいぶん楽しそうだったな」
風呂上がりに、甲洋がふたりへ向けたセリフに、水を口へ含んでいた総士が咽せる。
「っごふ」
「なんだよ。変なこと言ったか笑い声が聞こえてたから言っただけなんだけど」
「いや、うん。変じゃないよ。ちょっと『なかよし』してただけ」
「総士はどうしたんだ」
「あー……恥ずかしかったんじゃないかあいつ照れ屋だから」
「ふーん」
「なんだよ」
「今夜、ちょっといいか」
「たぶん大丈夫だけど」
「じゃあ、夕食後に」
「わかった」
「何だったんだ」
「総士……落ち着いたか」
「ああ」
咄嗟に取り乱したのが恥ずかしいのか、顔を顰めた恋人に一騎は苦笑する。
「ごめんな。今夜は時間を作れるかわからない」
「べつに」
「こうなるって分かってたら、もうちょっと」
「その話はもういい」
「うん」
「昼食が冷めてしまう前に行こう」
「お前、その髪は」
「どうせドライヤーを使っても時間が掛かるからな」
総士の背面で結ばれることなく背中を覆う甘茶色の髪は、まだ水分を含んでいるものの、美しい艶を放っている。
「そっか」
「ああ、どうせだからお前に乾かしてもらうかな」
「え」
「お前のほうが時間が作れるかわからないなら、僕の時間を分けたらいい」
「わかった」
ささやかな約束をして、ふたりはリビングへ向かう。その足取りは、軽かった。
食後、各自で皿洗いをして自由時間になると一騎は約束どおりに、総士の髪を乾かすため、洗面所からドライヤーを持って部屋を訪れた。
「さあ、はじめてくれ」
「え、そこでやるのか」
「言っただろう時間が掛かると。この椅子では腰や尻が痛くなりそうだからな」
ベッドに腰掛け、膝を組んだ状態の総士に誘導されるまま、延長コードでドライヤーをコンセントに繋ぎ、一騎は彼の背後に回る。
「これって、温度とか風圧どれくらいでやるのが良いんだ」
「真ん中くらいで大丈夫だ。今日は、湿度が高そうだから、あまり低いのでやると恐ろしく時間がかかってしまう」
「ふーん」
念のためにドライヤーの設定を聞いてからスイッチを入れ、一騎は片手で総士の髪を持ち上げながら温風をあてた。
「ふぁ」
「眠いのか」
「ん。なんだか、お前に触られていると気が抜ける」
「何だよそれ、風呂場ではあんなになってたのに」
「うるさい。それとこれとは別だ。なんというか、今はそうだな、リラックスするというか」
「そうか」
絡まりひとつない髪が水分で房になった毛先を、ゆっくりと梳きながら返事をする一騎は、総士が次第に前に傾いているのを察して肩を掴む。
「一騎」
「眠いなら寝てていいけど、そっちは危ないからな」
立て膝の状態で座していた姿勢から、やや後退して胡座をかき、膝のうえに総士の頭がくるように引き寄せ、まだ乾いていない部分を扇状に広げる。
「これで安全だな」
「……」
前髪が額からずれ、真上に見える一騎の顔を見上げながら総士は言葉を失う。彼の頭の中では、今の状態が日頃のご褒美のように思えた。こんなに近い距離で、恋人が優しく触れてくれるということ事態がレアなのに、普段は仕事をしている時間に甘やかされているという特別感もあって、彼『こんなに幸せで良いのだろうか』という疑問を抱いていた。
「かずき」
「なんだよ」
「夕食の仕込みの時間になったら起こしてくれ、手伝うから」
「わかった」
しかし、総士は自分のなかに浮んだ疑問を、今だけは考えないことにして、自分の頭を載せた膝へ頬ずりをして目を閉じた。
そんな彼を見下ろし、慈愛の表情を浮かべた一騎だが、その内心では恋人へ対する想いが荒ぶっていることなど、総士が知る由もない。
いつぞや総士が、一騎のことを褒めちぎり惚気けた事があったが、一騎にはそんな話をする相手がいなかった分、彼ひとりの胸のうちに留まっている。
口を噤んだふたりの代わりに、ドライヤーのモーター音だけが部屋に響く。総士は早々に午睡に堕ちたようで、静かな寝息をたてていた。それを見守り、一騎は自分の中に溜まっていく愛情を感じていた。
「[rb:黄金色 > きん]]の波の向こう、地平線の彼方。
黄昏時に見える一番星。きらきら眩しくて、淋しそうで」
そっと歌を口ずさむ。まだ未完のラブソングを。
「手を伸ばすけど、足元の脆さに怖気づいて。なんども試しては、手を引っ込めた」
あの日と同じ心を今も持っている。
総士に憧れていた時期、そしてステージ上では隣に立っている現在。もっと総士の傍に行きたい。その心に寄り添いたいと願うのに、現実は理想通りに行かなくて。
せっかく手に入れた今の立ち位置だって、ちょっとしたことで揺らいでしまう。
そんな不安や憧れや自分の気持ちを全部込めた、愛の歌。たった一人げ向けた、嘘偽りのない心。
「一騎」
ドア越しに聞えた甲洋の声に、一騎は総士の寝顔から視線をずらす。もう総士の髪は乾いていた。ドライヤーを切り、彼は返事をする。
「……今行く」
壊れ物を扱うように慎重に、一騎は自分の膝から総士の頭をどけた。とうに乾いた髪が、絹糸のような艶を放ちながらシーツにこぼれる。
「総士は」
「寝てる。なんだか、気が抜けたみたいだ」
「そうか」
「何かあったのか」
「いや、歌声が聞こえた気がしたから」
「あー、うん。まだ未完のだけど」
「実は、俺が話したかったのはその事なんだ」
「ここだと総士が起きるかもしれないから移動しよう。来主に聞かれてもいいなら、リビングでもいいけど」
「来主だったら大丈夫だ。」
「わかった」
それから彼らはリビングへ移動する。
「で、あの歌がどうかしたのか」
「実は、あれを新曲にしようと思って」
「曲は総士が」
「実は総士も伸び悩んでいるみたいでさ、一回方向転換も兼ねて色々とアイデアを出し合ったりしたんだけど、この頃も色々あって集中できないみたいで」
「……」
見に覚えがある話に、一騎は渋面を作る。
「お前を責めてるわけじゃないよ。あれは、逆恨みだった。ただ、総士が竜宮島へ一人旅したのもそれがあったし、お前が入る前からの問題だったんだ。けど、いい加減新曲を出さないと時期的にまずいから」
「それ、総士に言ってからのほうが良いんじゃないかプライドが傷ついたりとか」
「いや、言わない。あえてぶつけるんだよ。あいつの殻を破る為に」
「殻を破る」
「ああ。今まであいつのライバルは、プロメテウスだけだった。だから、そっちを意識して対立するようなイメージを目指していたんだ。だから、視野がグッと狭くなってしまった」
「他のアーティストを考えていなかったってことか」
「ああ。話題になったものは一応聞いたりはしただろうけど、それからこぼれた物はまだのはず」
「……俺の歌が、あいつの為になるのか」
「ああ。きっと。これは、総士が今まで書いたことのないジャンルだからな」
女性ファンが喜ぶようなロマンス物ではなく、主題歌のように特定の作品をイメージしたものでもない。ましてや、アイドル楽曲のジャンルとしての華やかさからも遠い。
しかし、そこには可能性があった。
総士が嫉妬して、それを越えたものを作ってきてくれるだろうという可能性が。
「わかった。俺、その歌をちゃんと作るよ」
「ありがとう」
ふたりの手が、握手の形で重ねられる。
こうして、一騎は総士に言えない秘密を1つ増やした。
第十一話 虚飾――ウソ――
「ぅし、そうし」
「ん」
はじめは優しい声で、しだいに声量が大きくなりながら総士の名前を呼ぶ。それでも心地がよかったもので、総士がいまだ寝ぼけていると、ついに肩を両手で揺さぶられ、彼はとうとう目を覚ました。
「ん、おはよう」
「おはようって、4時半過ぎだけどな」
クスクスと笑った一騎にムッと唇を尖らせながら睨む総士だったが、いつの間にか隣のベッドで眠る来主の姿に気付き、息をついた。
「いい夢は見れたか」
そう尋ねる一騎に、総士は目を擦りながら答える。
「よくわからない。ただ、ずっと眠っていたくなるくらい心地いいと感じたのは覚えているが」
「そりゃ大変だ。総士がずっと寝たままだったらグループ活動もできないし、みんなも心配するし」
「お前はお前は心配してくれないのか」
のそりと身を起こし、ベッドに片手をつく形で一騎の顔を覗き込んだ総士。その精悍な頬のラインに一騎の手のひらが添えられた。
「心配するよ。当然だろ。……でも、どうして良いかわからなくなる。たぶん、生きる楽しさを感じられないまま、お前のことだけを考えて生きていくよ」
どこまでも澄んだ少年のような瞳が翳り、髪色とおなじ色味の睫毛が伏せられる瞬間の憂いに、場違いな色香を感じながら、総士は口を開く。
「ばか。お前を置いてなんか逝かないさ。危なっかしくて仕方ない」
冗談まじりの本音を伝え、総士は一騎の手の甲を撫でた。
「総士」
2人の視線が絡み、唇が近付くも、すぐそばで来主が身じろぐ気配に、2人の動きが止まり、詰めた分の距離をはなす。
「……夕食の支度をはじめよう。もう甲洋との話は終わったから、食べ終わったらゆっくりできるし」
空気を変えるためと、総士への報告を兼ねて話す一騎に、総士は複雑な表情をする。
「何の話をしたんだ」
「これからのことを、ちょっとな」
「これからグループのことか」
「ああ。でも、甲洋に聞いたほうがいいかも。俺は、どう伝えたら良いかわからないから」
隠しておかねばならないことを追及され、一騎はとっさに甲洋に説明を投げようとした。それが、総士の不安を煽るとも知らず。
「……わかった、あとで尋ねてみるとしよう」
「ああ、そうしてくれ」
隠し事も嘘も苦手な一騎は、総士の興味がいちど引いたと安堵し、ベッドから腰を上げる。本当なら、どちらもしたくはないのだ。ただ、必要に迫られて総士に言えないことがあるというだけで。一騎はずっと、総士にすべてを話してしまいたいという思いを封じている。
「お話おわった」
そこで頃合いを見計らっていた来主が、ふたりへ声をかける。
「そうだな」
バツが悪そうな顔で、総士が頷くと、来主は無邪気なようすで一騎のほうに寄る。
「今日はカレー」
「よく分かったな」
「だって、材料とか見たらわかるよ。それに、姉ちゃんたちが、一騎の作るカレーはすっごく美味しいって言うから、楽しみだったんだ」
「そうか、2人が」
「カレーそういえば、お前の作ったカレーは、僕も食べたことがないな」
「そういえば実家が和食メインだったから、うちではあまり作らなかったな」
「なるほど」
「持ってきた素材的に、今回はベジタブルカレーにするかツナ缶入れるかどっちがいい」
キャンプの2日目ともなれば、宅配サービスや移動をするなどしなければ生ものは手に入らない。
「どっちも気になるが、どうする来主」
「じゃあ、ツナ缶入りかなぁ。ちょっと肌寒いし」
「そうだな。体温を安定させるのに、脂質もあったほうが良いかもしれない」
「たしかに」
ひとつ頷いて、キッチンへ向かおうとした一騎の手を総士が掴む。
「総士」
「髪、結んでやるからじっとしてろ」
「あ、そういえば伸ばしっぱなしだったな」
「切らないのか」
「うーん、なんとなく伸ばしてたけど……いっそ総士が選んでくれないか」
「僕が」
「自分じゃわからないからさ。昔は短くしてたけど、今はアイドルだから見た目気にしないとだろ」
「それは懸命だが」
「頼むよ」
「……それも、帰ってから考えよう」
「ありがと」
「さて、結ぶから待っていろ。いま、ゴムを取ってくる」
「ああ」
「一騎ってさ、総士を喜ばせるのが上手だよね」
「なんだよ、突然」
ふいに向けられた言葉に、一騎が目を瞠る。
「総士、すごく喜んでるよ」
「心を読んだのか」
「違うよ〜。漏れてるの。嬉しいのが抑えきれないくらい、総士が浮かれてるってコト」
読むまでもないと手を振った来主に、一騎は興味をひかれたらしい。
「俺も、来主くらい相手の心を読んだり察したりできたら良いんだけどな。でも、そっか、あいつ喜んでるのか」
ほわほわと表情を綻ばせた一騎に総士が気付き、2人が何の話をしていたのか尋ねるが、一騎も来主も内緒と濁すだけでろくな返事をもらえず、総士は不機嫌になっていく。しかし、夕食の支度の前に一騎の髪を結うという手順を思い出し、自分より短い髪をまとめ始めた。
「べつに、秘密だろうと構わないが」
「った」
きゅっと、きつく髪を結ばれ、一騎がうめいた。
「僕が想うくらい、お前が僕を想っていてくれたらそれでいい」
「総士」
一騎が顔を仰向けにして、恋人の顔を見上げようとするよりはやく、総士はドアをくぐっていってしまう。しかし、彼の耳もとがうっすらと桃色に染まっていたことに気付いた一騎は、ついぽつりと呟いてしまった。
「かわいいやつ」
すると、来主がすかさずツッコミを入れる。
「総士にあんな顔させられるのなんて、一騎と妹さんだけだと思うけどね」
しかし、その声は総士を追う一騎には届かなかった。
「恋って、そんなにいいものかな」
まだ自分にはわからないとボヤき、来主はベッドに横になった。
「あーあ、まだこのグループで活動したかったなぁ」
一騎がメンバー入りしてから、ぐっと雰囲気が穏やかになった総士。甲洋と自分の間に一騎がいることで、小さな言い合いも減ったこと、それに、来主自身、一騎のことを友人のように思いはじめていた。
しかし、一騎と総士が2人でいることを望むのならば、グループ活動を続けていくにはリスクがある。
来主がアイドルになった目的である翔子の入院費や手術費は、彼女の状態が安定していることと、カノンとともに実家で働きはじめたことで解消されてしまった。
それに加え、設計士の資格をとって論文やコンクールでの入賞も果たしているため、来主が肩代わりしたぶんをそのうち返すとまで意気込みを見せている。だから、来主がアイドルを続けている理由は、もう義姉のためではないのだ。
来主本人がアイドルを続けたいから続けている。という、シンプルな望みのために、彼はステージに留まっている。はじめて出会った頃の皆城総士が、不安定におもえたから、一騎と合流するまで、それが気に掛かっていたから。そして、今は一騎を含めた4人での活動が楽しいと思えるから。
けれど、来主の大好きな友たちが幸せになれるのなら、自分のエゴは我慢しなければならないのだ。それは、きっと寂しくなるけれども、来主の幸せは、彼の好きな人たちが幸せであることだから。
「俺はどうしよっかな」
歌とダンスは好きだけれど、特技もあるけれど、セカンドライフは不安に満ちている。
だが、それも本来ならば誰もが感じるものなのだ。誰かのためではなく、自分のために未来を選択するということは。
「……ああもうっよし、決めた」
もし2人がアイドルを引退してしまったら旅に出よう。それで、出会ったもの、景色、そのすべてを記憶して、この国に帰る頃には自分のための答えを出せたら良い。
そんなふうにキリをつけ、来主は頭の中のモヤを片付けた。経年劣化の影響か、ドアの隙間から入り込んでくる匂いに、強張っていた表情がほのかに緩む。誰かが作ってくれる料理の匂いだ。
来主の腹の虫が鳴いた。
きっと2人はキッチンでなかよく1つの鍋を見ているのだろう。だって、とても美味しそうな匂いがするのだから。
彼は腹を擦りながら、このあいだ全員が揃ったときの練習風景の動画をスマートフォンで再生する。せめて最後は笑って別れられるように。その時まで、アイドルとして、彼らの友人として、グループの一員として、恥じない姿でいられるように。
「練習も、もっとがんばろ」
決意をあらため、彼は気丈に笑った。
来主がそんなことを思っているあいだ、甲洋は自分と一騎が使う予定の部屋で、一騎の作った歌詞に合わせる演出や、メロディの作曲などを考えていた。
「やっぱり、照明の色は青と白かな、メロディはミディアム・バラードで」
誰かと一つの曲を作っていくとしたら、それは今まで総士だった。来主はあまりこだわりがないこともあり、どちらかというと振り付けのほうに興味を持っていたので、甲洋の相方は総士一択だったのだ。しかし、ここで一騎というダークホースが現れたことで、甲洋のなかで燻ぶっていた創作意欲が刺激された。
「絶対に度肝を抜いてやる。プロメテウスも、総士も」
敵を騙すにはまず味方からと、彼は薄く笑い、自分の考えた計画に想いを馳せる。
これが船出となるように。まだ誰も見たことのない、このグループの可能性を示す指針となるように。
そして、そのまま終わりまで駆け抜けて華やかに散ってゆくのだ。誰もが探し求めていたもの、気掛かりだったことのために、ずるずると居続けてしまったこのグループから、総士と来主を解放する。だって、甲洋の探し人も見つかったのだから。
とはいえ、後任といえるほど有名なアイドルが育ってはいないのも事実なので、その時までは事務所への恩義も含めて活動していく所存なのだが。
「もうちょっとだ」
もう少しで新しい曲が生まれる。その時に変わるもの、変わらないものをすべて受入れて進んでゆこう。やがて来る分岐点のために。
甲洋は深く息を吸った。なぜか懐かしいような匂いがする。不思議なデジャヴュを感じながら、頭を使ったことで空腹を訴える胃をなだめるように擦り、彼は部屋を片付けてから出た。
彼は一騎とは違うので、同じ失敗はしないのだ。
「お、ちょっと早かったな」
「とか言って、ほぼ完成してるだろ」
「総士がサラダの盛り付けを微調整してるんだ」
「ああ……」
甲洋が一騎に声をかけてから、視線をキッチンへ向けると、確かに総士があらゆる角度からサラダのバランスを確認している姿が目に入り、甲洋は苦笑する。
「来主を呼んでくるよ。座って待っててくれ」
「わかった」
一騎がリビングを抜け、来主を呼びに行く。手持ち無沙汰な甲洋は、こちらがわに背を向けた総士を眺めた。
はじめて会った頃よりもがっしりとして美丈夫という形容詞が似合うようになった容姿は、まさに月日の流れそのものを示しているようで、彼は目を眇める。
「なんだ」
ゆっくりと振り向いた総士は、怪訝そうな顔をしているが、視線の主が甲洋だと気付くと、完成したサラダから離れ、甲洋のかけた椅子のそばへ近付く。
「いや、べつに」
「そうか。ああ、ちょうど良かった。尋ねたいことがあったんだ」
甲洋の隣の席に座り、総士は注意深く相手を観察しながら口を開いた。
「一騎と何の話をしていたんだ」
甲洋は、瞬時に脳内で総士と一騎のやり取りを推測する。きっと嘘も隠し事も苦手な一騎は、自分との話を総士に曖昧に伝え、こちらへ説明を丸投げしたのだろう。ものの数分もかからずに辿り着いた真相に、甲洋はため息をつく。
「べつに、大したことは話してないさ、今度の新曲を新人のアーティストに外注したんだけど、向こうが一騎をご指名だったから、あいつを説得してただけ」
「なに」
新人のアーティストというのもあながち間違いではないのだが、正体をぼかすことと、総士の『特別』である一騎をご指名ということを伝えれば、普段は理知的な瞳の奥に焔火が揺らいだような印象を受ける。
火が着いた。
甲洋は内心でほくそ笑む。
「そういうわけだから、今度のは心機一転ていうことで、今までとは違うイメージのを作っていくからよろしく」
「曲なら僕とお前が」
「総士。……視野を取り戻そうぜ。今のお前の歌詞は、狭い」
「なに」
苛立ちをあらわにした総士が、一段と声を低める。
「あとで許可が出たら見せるけど、あいつの歌詞には、お前にないものがあるんだ」
「何だと」
「さて、せっかくの休暇だからな。楽しもう」
「そんな話を聞いて、楽しめるとでも」
「それなら、それで構わないさ。ただ、ここに居るあいだは自由だ。普段見ることのない景色とか匂い、感触、そういうのを見て、きいて、触れてさ」
「なるほど、インスピレーションを探すというわけか」
「そういうこと」
「……甲洋、お前は」
総士が何かを言いかけたタイミングで、一騎と来主が戻ってきて、それを期に2人は会話を切り上げた。というより、総士がそれを続けたくなかったのだ。
総士にとっての、幸せな時間を崩したくはなかったから。
「いただきます」
同じセリフが4つ重なり、カトラリーが動き、あるいは水の入ったグラスが動く。
一騎の作ったカレーは美味しかった。そのはずだった。味見の段階までは、総士の舌は正常だったのだから。無味に感じる料理をどうにか咀嚼し、飲み込みながら、総士は周りの話に耳を傾けた。
一見すると和やかな雰囲気なのだが、勘のいい来主は総士の異常をうっすらと察知し、気を利かせて一騎に声をかける。
「片付けやるから、総士とゆっくりしてきなよ」
「え」
「来主」
「そうだな。カレー、うまかったよ。サンキュ」
一騎は、総士の方を見た。どこか覇気がないように感じる。来主が言うように、休憩させたほうが良いのかもしれない。そう考えながら、彼は恋人を労る。
「休むか」
「疲れてはいないが」
「じゃあ、ちょっと歩くか雨もあがったし」
「そういえば、いつの間にか止んでいたな」
一騎がさきに席を立ち、総士がそれに続く。今度は玄関脇にあった置き傘を借りて、ふたりは夕闇と雲で混濁とした紫紺の空を見上げる。
そうして、彼らが出ていくと、来主が甲洋を睨みつけた。
「総士になにか言ったでしょ」
「何を根拠に」
「総士、すごく不安そうだった一騎には心当たりがないみたいだったし、あとはキミしか居ない」
「消去法か」
「ねえどうして仲間を傷つけるようなことをするの僕は、みんなが幸せでいてほしいのに」
「幸せなだけでいたら、誰からも忘れ去られるよ。俺は、総士にも一騎にも、お前にも、本気になってもらいたいんだ。せっかくこの世界にいるんだから、最後まで歓声に包まれていたいじゃないか」
「なにそれ」
可愛らしい顔を歪め、敵を睨むように甲洋を見据える来主。そんな彼に、甲洋は微笑む。
「俺を憎んだって良い。けど、総士を傷つけたことにも意味はあるんだっていうことは本当だ。お前があいつを心配してたように、俺だってあいつのことを考えていたさ。でもな、もうあいつには一騎が居る」
「それ、総士が言ったの」
「そんなわけないだろ。でも、いつ終わっても不思議じゃないよ。だから、俺はお前たちと出会ったこと、眩しいステージからの景色、苦楽を共にしてきたことを刻みたいんだ。俺たちは、ここに居たって」
「甲洋は、オレとは違うね」
「当たり前だろ。俺は俺で、お前はお前だ。わかり合えないことだってあるさ」
来主が肩の力を抜いて、自分の使った皿と総士の皿を流しへ運ぶ。
「総士を傷つけたのは許さないけど、オレたちが存在したっていう痕を残したいのはわかる。はじめて君たちと出会った日に、思ったんだ。君と総士がいたら、もっと広い場所へ行けるって、そんな気がした。すぐそばにいるのに、遠い星みたいにキラキラしてるふたりに憧れてた時期もあったし、悔しいって思ってた時期もあるけど、やっぱり君たちは僕のアイドルなんだよ」
蛇口をひねり、流れる水の音で、すすりあげるような泣き声を誤魔化し、来主はスポンジに洗剤をつけた。
「俺たちは、もっと高いトコへ行けるんだね」
「ああ、きっと」
「わかったよ。しょうがないから、付き合ってあげる。だって俺たちはグループだから」
「……ありがとう」
「ほんと、君のそういうトコ嫌い。そんなさ、嫌いになりきれないじゃん」
「そうか」
「ばか」
「ばか、なんてはじめて言われたよ」
「ばか、ばか、ばか。きっと、全部知ったら、総士だって同じこと言うよ」
「いいさ。それは覚悟してる」
甲洋も、自分が使った皿と一騎の皿を掴み、流しへ運んだ。互いの表情を見ることなく、来主が洗った皿を甲洋が受け取り、水ですすぐ。
2人は長い時間をかけて皿を洗った。外に出ているふたりのことを、内心で案じながら。
「すまない。背中を貸してくれないか」
「え」
別荘の裏手、家庭菜園の名残りが残る小さな畑に、総士と一騎は居た。雨でぬかるんだ土が、ふたりの靴にへばりついている。木々に残った雫が、ときおり彼らのシャツを濡らしたけれど、一騎は総士が口を開いてくれるまでは耐えていた。
しかし、予想外の言葉に、彼は眼を円くする。
「すまない」
返事を待たずに、総士が一騎の背中にしがみついた。薄い生地越しに、爪がたつ。それから、雨とは違う温度が、一騎の背中を濡らした。
「総士」
「黙って聞いていてくれ」
「……」
「僕は、僕の作る歌詞がこのグループのシンボルの1つだと思っていた。けれど、そう思っていたのは、僕だけだったみたいだ」
背中にくい込む痛みが、ぬくもりが、総士の気持ちを一騎へ伝える。
「くやしい。どこの誰か知らないやつが、お前の声を要求したことも、甲洋の信用をたやすく手に入れたことも。お前のことなのに、僕がそれを知ったのはあとだった事も」
一騎の手が、宙をさまよう。
抱き締めたいと思った存在は、背中側にいて、それはきっと泣き顔を見られたくないという精一杯の強がりなのだろう。皆城総士とは、そういう男だ
「僕は、お前が憧れる存在なんかじゃない。お前が見ていたのは、表面上の僕で、本当の僕はすごく醜い心の主なんだ。……自分の居場所が脅かされる不安。あいつが色眼鏡なしに評価した才能に嫉妬して、お前が僕の歌以外を歌うことを拒みたいと考えている」
「大丈夫だ、お前の作った歌じゃなくても、俺の歌う歌は、お前に届くように願っているから。居場所だって変わらない。ちょっと役割が変わるだけで」
「ちがう僕は、僕の歌以外をお前が歌うのが嫌なんだ。そして、歌もダンスもいまいちな僕から作詞を抜いたら何が残るアイドルとして、グループに残る意義はあるのか」
「あるよ」
総士の心の奥深くに抑え込まれていた不安を緩和させるように、言い聞かせるように、優しい声で一騎が言う。
「お前はここに、グループに居ていいんだ。だって、お前がいなくなったら、俺はなんのためにここまで来たんだよ」
苦笑し、空の濁りのなかでも輝きを失わない一等星を指差し、一騎は言う。
「あれがお前だよ」
「え」
総士が顔をあげた。一騎の人差し指の示す、はるか遠い空の一点を見る。
「俺が1番苦しかったとき、液晶画面の向こうで同い年のお前が活躍してた。大人にまざって小難しいことを言ったり、歌とかダンスとかあの2人に遅れないようにっていっぱい努力して、雑誌の表紙とかもお前が飾ってたしさ。近そうに見えて遠くて、キラキラしてて、お前はあの星みたいだったんだ。だから、俺は頑張って来られたんだよ。自分と同じくらいの歳のお前が泣き言一つ言わないで、頑張ってた姿を知ってたから」
「じゃあ、今の僕には失望したろう」
「まさか。お前はクールに見えて意外と熱くて、仲間想いで、嫉妬深くて、不器用で、実はすごく涙もろいって情報が増えただけだよ」
「涙もろいわけではないただ、ちょっと……スランプ気味だったところに、トドメがきて憂鬱になっただけだ」
「そっか、じゃあ、泣き虫なお前を知っているのは俺だけなんだな。すごく嬉しい」
「変なやつだな。お前は」
「総士ほどじゃない。さて、時間はまだありそうだからな。まだ歩こうか。今は傘も持っているし」
「なん、だとだが、たしかに今もどるのは惜しいからな」
総士は自分の目もとを拭い、一騎の背中から離れた。それから、一騎の隣に移動し、同じ歩幅になるように気を遣いながら夜道を歩き出す。
そんな配慮に気付かないふりをして、一騎は雨の匂いとシャンプーの香りの混ざった夜霧を吸った。
かくして、各々の思惑が交差し、衝突しあいながらも彼らのキャンプは無事に終了し、帰り道。
峠のくだりで煽ってきた車に来主が対抗し、総士よりは安定しているものの、なかなか攻めた運転をしたことで甲洋が体調不良になり、かわるがわる介抱したこと。一騎と来主がナンパに引っかかりそうになり、回復した甲洋と総士が慌てて止めに行ったこと。
そのどれもが、彼らにとって思い出に残るものとなった。