地獄へようこそ「あーぁ……」
バタン。ドアが閉まり、走り去るタクシー。
その後ろ姿を恨めしく見送って、正守は思わず低い声を漏らした。
そして全ての音は夜闇に溶けていく。聞こえるのは、しとしと降る雨音と待合室の蛍光灯の音だけ。
「どうする」
これは問いかけではない。諦めのため息、それを表した言葉。正守は苛立ちを隠さず再びベンチへ腰掛けた。
先程やってきたタクシーを、ぽっと出の他人に譲ったのは良守だ。一時間待ってやっとそれを、見計らったかの如く居合わせた年若い女性。そんな彼女に「先、乗ってください」と良守は躊躇いなく譲った。
いいよな?と言いたげに目配せをされた、あの瞬間を……思い出しただけで本当に胃が痛くなった。
暗転。
タクシーの待合室、苛立ちを隠さない正守。その正面に良守はいた。
時折、点滅する蛍光灯。重苦しい沈黙を幼さの残る甘い声が切り裂く。
「兄貴はどうしたい?」
どうしたい?
その他力本願な問いに辟易して、地の底からため息が零れ落ちそうになる。
「俺に聞くな」
睨む正守。それを見て肩を竦める良守は、この状況を俯瞰してほくそ笑んでいるように見える。それは良守が光を背にしているからに過ぎないとわかっていても。
「…お前がこの状況作ったんだ、責任取れよ」
「でも兄貴も止めなかったじゃん」
ついに舌打ちが漏れた。そんな真っ直ぐな目で俺を見るな。お前のせいだと怒鳴り散らしたくなるのを深呼吸で正守が堪えた瞬間。
「だからこれは共犯、だろ?」
そういって良守は悪戯に正守を見下す。
虚をつかれた。そんな顔をされたら何も言えなくて。
「はぁ……」
あー。今ものすごく煙草が恋しい。
苛つくのはコイツが間違ってないからだ、と正守は思う。こんな時間に女性がひとりでいるのは危ない、男二人の俺たちより彼女が先に乗った方がいいに決まっている。
だが、一時間だぞ。一時間待って一台しか来なかったんだ。雨は止まないし、とっくに日付が変わってしまった。次に来るのは十分後か?二時間待っても来ないかもしれない。だいたいあの女性だって、どんな理由であれこの時間まで出歩いていたのだ。その責任を、俺たちが背負ってやる義理がどこにある。
たが、良守は躊躇いなく彼女に順番を譲った。そうするのが当たり前だって顔して、女性の罪悪感をかき消すように微笑んで、今こうして危機感も悪びれもなく目の前でスマホを弄っている。
こんなの、苛立ちもするだろう。
「…こんなときにゲームなんてするな」
「してない」
「じゃあSNSか」
「やってねえ。知ってんだろ?」
知らねぇよ。
正守は手のひらで目元を覆い、視界から良守を消す。
普段ならこんなに苛立つこともない、自分は何を焦っている?答えは明白。良守と二人きりが気まずいだけ。後ろめたさが怒りに火をくべるのだ。
深い深いため息が零れる。
良守は悪くない、いや良守が悪い。そんな堂々巡り、苛立ちを反復して数分。自身の貧乏揺すりに気がつき、足を組んでそれを誤魔化した。
「兄貴起きろ」
ガサツに右肩を揺すられて、やめろと振り払う。
「見ろよ。こっから走って行ける距離に泊まれるとこある」
そうスマホの画面を見せられて、咄嗟に反応が出来なくなった。固まったのは瞬きほどの間だ。きっと良守はこの動揺は伝わらない。
だが、焦燥した正守はそれに気がつく余裕なんてかった。上手く思考できないから何度も脳にエラーが浮かび上がって消えていく。
「次のタクシーいつ来るか分かんねえし、部屋も空いてるみたいだからさ…」
「まさか、ここに泊まる気?」
「うん。だめかな」
別に、駄目じゃない。昨日までの俺たちなら喜んでその提案を受け入れていた。というか、一時間待つ前にそうしていた。
でも、俺はその選択をあえて避けていた。
どうしてそれが分からない?
なぜそんなにもお前は愚かなんだ。
なあ。
お前、今日なにがあったか覚えてんの?
俺言ったよな。
お前のこと好きだって。
そういう目で見てんだ、って。
わかってんの。
そんなやつの隣に居る、意味を。
「…おい何とか言え。兄貴が言ったんだろ、俺が責任取って決めろって」
言ったが。じゃあお前はどこまでの責任を取るつもりなのか。腹切代わりにその体を俺に差し出す気?
好きだと告げた、うっかり告げてしまった。
零れた言葉は元には戻らない。
有耶無耶にすることはできても、綺麗さっぱり消し去ることはできない。
本当に、最悪だ。
そんなこと言うつもりなかったのに。
人生最大の失態、史上最低の日。
ずっと頭が痛い。
コイツが傍いると俺は平静を保てない。
きっと煙草が吸えないせいだ。
「…もういい。予約した」
「は?勝手に決めるな」
「だったら兄貴だけここで待つ?」
あぁ、その手があったか。
「バカ。ほら行くぞ」
良守が立ち上がって正守の腕を引っ張る。その程度では正守は揺るがない。
しかし腕へと絡みつく温もりに、つい怯えてしまった。心臓が跳ねて心が落ち着かない。触れ合った瞬間そのすべてを無茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られて、その情念を固い意思で押さえ込んで。涼しい顔をしてやり過ごすだけで必死だ。コンマ何秒の地獄。心の底から湧き上がる歓喜を恥じて、堪らなくこの場から逃げ出したくなった。
だが、何も出来ない。情けなく良守の力に従ったフリをして立ち上がるしかなかった。
「兄貴?」
歩み出さない正守を、良守は不思議そうに見つめる。正守の苦しみを知らない、無垢な眼差しは猛毒だ。
「離せ」
「なんで」
良守は手を離さない。
じっと正守を見上げて、拗ねた顔で睨む。
何を考えているんだ。
無駄なことはしないでくれ。
やめろよ。
こんなの、期待するから。
「やめてくれ」
腕を振り払おうとして失敗。良守も男だ、生意気にも多少の抵抗をしてくる。面倒くさいことこの上ない。
「離さない。離したらお前ここに留まるだろ…」
当たり前だ。良守さえ居なくなれば、正守は煙草を吹かして気を紛らわせる。そうなればこのボロ小屋だって天国だ。何時間でも時を過ごせることだろう。
しかし運命は残酷だ。この小競り合いの最中にタクシーの一台でも来てくれたらよかったのに。
どんなに夜闇を見つめても、そんな気配は一向に訪れない。
「どこ見てんだ。ほら行くぞ!」
「知るか。お前だけ勝手に行け」
「もう〜頑固か!諦めろってば…タクシーは来ない、雨も止まない。で、ぜんぶ俺が悪いんだろ」
「そうだな」
「だから、これで許してよ」
良守は笑う。スマホを掲げて、はにかむ。
どうせ罪滅ぼしにホテル代を持つ気なのだ。
ちょこざいな顔。最近はアルバイトをしているから懐が暖かいだとか、たまには俺を頼って?なんて言いたげな眼差しでいる。
「お前、馬鹿?」
「は?」
そう、その間抜け面。コイツは本物の愚か者だ。
この俺が、こんな据え膳を食わないとでも思っているのか?
まさか、そんなことすら考えちゃいないのか?
大変に腹が立つ。
もういい、泣いたって喚いたって好きにしてやる。
ホテルに着いてドアが閉まった瞬間、その空間は俺のものだ。二人以外に誰にも知られない、見られない。
だから、理性を抑え込む必要なんてどこにもない。
良守は怯えるだろうか。
それとも軽蔑する?
『兄貴はそんな酷いことしないよね?』
そう言って可愛く見上げれば全て済むとでも思っているのだ。
あぁ、なんて馬鹿らしい妄想。
良守も男である。力づくで抵抗するかもしれない。
だから?
まさかこの体格差で勝てるとか、本気で思ってんの?
笑ってしまいそうだ。
腕を掴んで自由を奪い、腰に手を回して甘く囁けば待ち望んだ夜が始まる。
そこには意地悪で説教好きな兄なんていなくて、いい歳をして実弟相手に余裕のない男がいるだけ。
いいや、違うか。そんなものは夢、失笑。
良守が本気で抗えば正守なんて一捻りに決まっている。あぁ現実はいつだって辛酸を舐めさせてくる。まったく天才様はなんどきも余裕でいいよな。
なぜ、いつも俺ばかり惨めな目に遭う?
くじを引けば大凶で
恋に落ちたら、すべてを失う。
「兄貴」
声がして、目だけを向ける。
「なに」
光の下、良守は笑った。
「早く行こう?」
腕を引かれて、悪魔が囁いた。
「なぁ、」
煮えたぎる怒りと情念を押し殺して、俺は…